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040 贖罪の十字架 その7

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「……」

 頭が重かった。



 遠くで花火の音が聞こえる。
 そして歓声がする。

 そうか……今日はお父様と花火を見に、夏祭りに来ているんだ……

 紅音がゆっくりと目を開けた。
 少し眠っていたようだ。
 早く起きないと、花火が終わってしまう。

「お父様……どこ?お父様」

 しかし父はどこにもいない。
 迷子になってしまったんだろうか……
 紅音の目から、涙が溢れてきた。



「……」

 紅音の前に、うずくまっている男がいた。

 その男は怪我をしているようだった。

「あの……大丈夫ですか?」

 紅音がそう言って、男の肩をゆすった。

 しかし反応がない。

 紅音は仕方なく、その男を仰向けにした。

 顔も血まみれになっている。

 紅音はハンカチを取り出し、近くにあったコップの水で濡らすと、その男の顔を拭いた。

「大丈夫……ですか……」

 紅音が血を拭いながら、その男に声をかける。

 そしてその男の顔に、何かしら言い知れぬ懐かしさを覚えた。

「……」

 紅音の頭の中で、あらゆる記憶が走り抜けていく。

 仲間外れにされたこと、病院を探検したこと、父の日に晴美と一緒に料理を作ったこと、そして――



「柚希……さん……」

 今目の前で介抱しているその男は、自分にとって何よりも大切な友達、柚希だ。

「……」

 紅音が柚希の体を揺らす。

「柚希さん……ゆ……ずき……さん……」

 涙が溢れてくる。

 その涙を拭いもせず、紅音が何度も何度も柚希の体を揺らす。



「柚希さん……起きてください、柚希さん……私です、紅音です……」

 しかし呼べども呼べども、柚希は言葉一つとして返してこない。

 紅音の脳裏に、静かに、そしてゆっくりと先ほどのことが蘇る。

 そうだ、柚希さんは私を逃がす為に、あの人たちに向かっていって……

「柚希さん……紅音です……柚希さん、私はここにいます……お願い、柚希さん……私を……私を一人にしないで……もう……一人は嫌なんです……寂しいのは嫌なんです……」

 ポタポタと柚希の頬に涙が落ちる。

 しかし柚希の体は、身動き一つしない。

 紅音の目に、柚希の腹に刺さったナイフが映った。

「……」

 それを抜き取ると、血が溢れてきた。

 驚いた紅音は、手で傷口をふさいだ。

 その傷が、柚希がもうこの世の者ではなくなってしまったことを、紅音に教えていた。

 紅音がそっと、柚希の唇に自分の唇を重ねる。

 まだ温かかく、やわらかい。

 しかしそれも、もうすぐ冷たく、そして固くなっていく。

 そう思うと、また涙が流れてきた。



 特大の花火が打ち上げられ、歓声が一際大きくなった。

 紅音は静かに柚希の体を起こし、そして抱きしめた。

「……ゆず……き……さん……」

 柚希の胸に顔を埋め、肩を震わせる。

「どうして……」

 その震えは徐々に大きくなっていった。

 そして紅音の口から、嗚咽が漏れていった。



「あ……あああ……」



 周りに突如、冷気が生まれた。
 その冷気が辺りを覆っていく。

 熱気に包まれている人ごみの中にも、ひんやりとした空気が流れていった。


「なんだ、急に冷えてきたぞ」
 紅音の髪が小刻みに動き出した。

 一本一本が、まるで生きているように波打っていく。

「柚希さん……」

 紅音の中で、何かか音を立てて崩れていった。



「ああああああああああああああああっ!」



 紅音が絶叫した。

 そして右腕で柚希を抱きしめ、左手を地面に荒々しく叩きつけた。

「ああああああああああああああああっ!」



 その瞬間、紅音が左手を叩きつけたその場所から、放射線状に周りにある植物が一気に枯れていった。

 緑生い茂っていた辺りが、次々に灰色に変色していく。

 葉が枯れていき、あっと言う間に一枚残らず落ちていく。

 幹も同じで、まるで石で作られた柱のようになっていった。

 そしてそれらはそのまま、崩れて灰になっていった。


 次々と周囲の木々が枯れ、そして灰になっていく。

 それに気付いた人たちは、何が起きているのか理解できないままに、悲鳴をあげてその場から逃げだした。

 辺りは騒然となった。

 パニックに陥った人々が、我先にと走っていく。

 その背後から、次々と木々を灰に変えていく何かが襲ってくる。

 川の水さえも干上がっていく。

 木に止まっていた鳥や昆虫も、まるで干物の様になってぼたぼたと落ち、灰になっていく。

 辺りは生ある物の存在を許さない、地獄と化した。



「げほっ、げほっ……」

 突然襲ってきた息苦しさに、柚希が咳き込んだ。

 そしてそれが収まると同時に、

「紅音さん!」

 そう叫んで起き上がった。

 そして視界に入ってきたものに、彼は絶句した。



 ――柚希の周囲には何もなく、ただ灰色になった荒地が広がっていた。



「……」

 額からハンカチが落ちた。

 手にとって見ると、それは紅音のハンカチだった。

「紅音さん……」

 ハンカチを握り締め、柚希が再びそう言った。

 しかし彼の周りには、人一人としていない。

 ただただ、色をなくした大地があるだけだった。

 それは正に、死の大地だった。

 柚希が立ち上がり、何が起こったのか考えた。

 自分は山崎たちに殴られていた。
 そのことは覚えている。
 しかしその後のことは……

 そこまで考えが巡った時、柚希は自分の体の異常に気付いた。

 確かに自分は、山崎たちによって半殺しの目に合わされた筈だった。

 首や肩の骨が砕け、そしてかすかな記憶の中に、自分の腹の中に鋭利な物が突き立てられた感覚があった。

 しかしどこを触っても、傷一つなかった。

 辺りには、冷気が立ち込めている。

 それが何を意味するのか……柚希の中で、それらが繋がった。

 柚希がハンカチを握り締め、参道を駆け下りた。



 間違いない……紅音さんが僕の為に……僕の傷を治す為に、これだけの命を使ったんだ……

 でも、これほどまでに失われている命の量と、あの場に残っている冷気は、紅音さんがあの、別の何かに変わってしまったことを意味しているのではないか。
 そう思うと柚希の中に、どうしようもない絶望感が押し寄せてきた。

 しかしそれを柚希は振り払い、灰色の大地を走っていった。

 その時柚希の視界に、一人の女性が走って来るのが見えた。



「柚希っ!」

 早苗だった。

 早苗は下駄も履かず、素足を血で滲ませながら走っていた。

 柚希の姿をみつけると、早苗はそのまま止まることなく、柚希の胸に飛び込んだ。

「よかった……よかったよ柚希……無事だったんだね」

 早苗が柚希を抱きしめて泣いた。

 そして胸に顔を埋めた時、その違和感に気付いて顔を上げた。

「柚希これって……血、血じゃないの!柚希あんた、大丈夫なの!」

「大丈夫。ほら、無理してるように見えないだろ」

 そう言った柚希の服をまくりあげ、早苗が体のあちこちをさすった。

 そして傷がないことを確認すると、気が抜けたのかその場に座り込んで泣き出した。

 柚希が頭を撫でると、更に早苗は泣いた。

 柚希は早苗を抱きしめ、落ち着くのを待った。



「大丈夫?」

「うん……ごめん、取り乱した」

「早苗ちゃん、家に帰れる?」

「それは大丈夫だけど……柚希、あんたはどうするの」

「僕は、紅音さんを見つけないといけないんだ」

「紅音さん……紅音さんがいないの?なら私も一緒に」

「駄目だっ!」

 柚希が大声でそう言った。

 初めて聞く柚希の強い口調に、早苗の体がビクリとした。

 しかしすぐに、柚希はいつもの穏やかな口調に戻った。

「早苗ちゃん、早苗ちゃんが紅音さんを探したいって言ってくれる気持ちは嬉しい。でも……今、紅音さんと会うのは危険かもしれないんだ」

「危険……」

「うん……全て終わったら話すよ、約束する。だから今は、僕のわがまま、聞いて欲しいんだ」

「でも……柚希は大丈夫なの?あんた今、危険って言ったよね。柚希にも言えることじゃないの」

「……かもしれない」

「やだよっ!」

 早苗が柚希にしがみついた。

「あんたがどうかしちゃったら、私、私……」

「ありがと、早苗ちゃん」

 そう言って柚希は、再び早苗を抱きしめた。

「早苗ちゃん……僕は必ず戻るから。信じて欲しいんだ」

「柚希……」

「早苗ちゃんが惚れた男の、一世一代の勝負なんだ。僕、早苗ちゃんが惚れてよかったって、誇れる男になりたいんだ」

「……」

「だから今は僕の我儘、聞いて欲しい」

「馬鹿柚希……」

 早苗が頬を少し膨らませ、うつむいたままそう言った。

「屁たれの癖にずるいよ。こんな時だけ、格好いいなんてさ」

 早苗はそう言って、柚希に口付けした。

「早苗ちゃん……」

「続きがしたかったら、無事に帰って来るんだよ」

 うつむきながらそう言うと、早苗がゆっくり立ち上がり、柚希に手を差し出した。



「立って、柚希。紅音さんのこと、頼んだよ」
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