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028 少女二人 その3
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キッチンで早苗は、晴美から言い渡される試練に立ち向かっていた。
包丁さばき一つを取ってみても、自分ではそれなりの物だと自負していた。
しかし晴美の華麗なる包丁さばきは、早苗の自信を根底から揺るがしていた。
味付けもそうだった。
試しにソースを作る様言われ、全く同じ素材で作ったにも関わらず、晴美のそれは別次元の物だった。
「自信喪失……」
そう言いながらうなだれる早苗に、晴美が笑いながら言った。
「いえいえ、早苗さんも高校生とは思えない実力をお持ちですよ」
「はあ~、その慰めが更に私を追い込んでいきます……」
「むふふっ、でもそんなことぐらいで落ち込んでたら、柚希さんの胃袋を満足させられませんよ」
「なっ……ちょ、ちょっと晴美さん、それってどう言う」
「言葉通りでございますよ。早苗さんの柚希さんを見られているあの熱い視線、まさか気付かれていないとでも?」
「ええええっ!わたっ、私ってそんなに態度に出てます?」
「ええ、それはもう……ただ、柚希さんには全く届いてないご様子ですが」
「はあ~、なんか私ってば、最近空回りと自爆ばっかりって感じだなぁ」
「よきかなよきかな、いい青春をお過ごしのようですね。はい、ではこれをそちらの皿に盛り付けて頂けますか」
「はい……」
早苗が小さく溜息をつく。
その様子に笑みを漏らしながら、晴美が言った。
「早苗さん、あなたはとても純粋なお心を持たれてます。それは料理にも現れてました。先ほど早苗さんが私に『完敗です』と言われたソース。
確かにまだ早苗さんの技術は荒削りで未熟な所もあります。ですが私はあの時、驚きました。この素材から、こんな温かい味覚を生み出せるのかと。それは早苗さん、あなたが料理を作る時、ご自身の腕試しだけではなく、その先にこれを食べてくれる方々の笑顔が見えているからだと思いました」
「食べる人の、笑顔……」
「はい。それはあなたの純粋な気持ちなんです。料理を通して、みんなに笑顔になってもらいたいと言う」
「読まれてる……」
早苗が赤面してうなだれた。
「まあでも……それを食べてくれる殿方が、あのような朴念仁ですからね。早苗さんの胸中、お察ししますよ」
「晴美さーん」
「まあそれも、後で振り返った時にちょっぴり恥ずかしくなる、そんな青春の一ページですよ」
「……」
「早苗さんは柚希さんに胸の内、告げられないのですか」
「なっ……」
「あらあら、これはまだまだ先になりそうですね。料理も純粋ですが、こちらの方も純なようで」
「……晴美さん、ひょっとして、すっごい意地悪な人ですか」
「むふふふっ、どうでしょう」
「……でも柚希ってば、私のこと女として全然見てないんです」
「はい、それも見ていて分かりました」
「ううっ……やっぱりそうなんだ」
「それに今、柚希さんはお嬢様ラブですから」
「……ですよね……」
「でも、まだ早苗さんにもチャンスはありますよ。早苗さんには何と言っても、地の利があります。そう、柚希さんのお隣に住んでいるというのは、お嬢様に比べてかなり優位だと思いますが」
「……でしょうか」
「それにその胸!」
「ええっ!」
「身長はお嬢様の方がおありですが、胸はお嬢様よりもワンサイズ、少し盛ればツーサイズぐらい上になるかと。いいですか早苗さん、消極的な殿方には積極的なアプローチが最善、それも胸を使っての攻撃はかなり有効です。私が早苗さんの立場なら、今夜辺り夜這いをかけるかと」
「ちょ、ちょっとストップ、ストップ!」
早苗が顔を真っ赤にして両手を振った。
「……まあ、純な早苗さんには、少し高すぎるハードルかもしれませんね」
そう言って晴美がまた笑った。
「もおおっ……大体晴美さんは、紅音さんの味方じゃないんですか」
「勿論、私は桐島家の給仕として、何時いかなる時でもお嬢様の味方です……が、私は早苗さんにも頑張って欲しいと思ってますから」
「え……」
「早苗さん、恋愛は戦いですよ。お嬢様に気遣う余り、ご自分のお気持ちを押し殺してはいけません。それは後に悔いしか残りません。例えどんな結果になろうとも、今のご自分のお気持ちには、正直に向き合ってくださいませ」
「晴美さん……」
「それともう一つ、お嬢様のこと、よろしくお願い致します。確かにお二人は共に柚希さんを取り合うライバルになるのかもしれませんが、私は早苗さん、あなたならお嬢様の良きご友人になってもらえる、そう思っております」
「はい、勿論です。まだ会ったばかりだけど、私も、紅音さんのことをもっと知りたい。友達になりたいです」
「ありがとうございます、早苗さん……後、これは私からの提案なんですが、よければ私ともお友達になりませんか?」
「え?晴美さんと、ですか」
「はい、私、直感的に感じたんです。私と早苗さん、かなり似たもの同士のような気が」
「あ、それ、柚希にも言われました。私、晴美さんと感じが似てるって」
「さすがです柚希さん。女の気持ちには鈍感ですが、そう言った所はちゃんと見えてるんですね……では」
「はい、キッチン同盟って所で」
「いいですね」
そう言って二人は笑いあった。
こんなに賑やかな夕食は初めてだ、そう明雄は思っていた。
いつもは紅音と晴美三人の食卓で、晴美が一人で場を明るくしてくれている。
しかし今夜、その紅音に二人も友人が来てくれた。
紅音が嬉しそうに笑い、そして自分からも話題を投げかけている。
こんなに喜ばしいことはなかった。
こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。
「そうだ紅音さん、これ」
食後の紅茶を注がれた後で、早苗が鞄からある物を取り出した。
それは早苗が昔、紅音からもらった鯨のぬいぐるみだった。
紅音の話を聞いたあの日、早苗は押入れからダンボールを引っ張り出し、このぬいぐるみを見つけたのだった。
「これは……ルーシーです。懐かしい……ルーシーですよ、お父様」
紅音がぬいぐるみを手に、嬉しそうに明雄に言った。
「でも、どうして早苗さんがルーシーを……これは昔、お父様の病院で遊んでいた時、注射が嫌で泣いている女の子がいて……私、その子にこれを……」
「その節はお世話になりました」
早苗はそう言って笑った。
紅音は早苗の顔をまじまじと見つめ、そして両手を口元に当てて言った。
「あの時の女の子……早苗さんだったんですか」
「うん。私たち、随分昔に会ってたんだよ」
紅音は瞳を潤ませ、そして早苗に抱きついた。
「早苗さん……そんな昔に私、早苗さんに会ってたなんて……ルーシーのこと、大切にしてくれていただなんて……」
「あ、いや……ぬいぐるみはいつの間にか、押入れで眠ってたけど」
「早苗ちゃん、そこは『はい』って言っておけばいいんだよ」
「あ、そうか、あははははっ」
「早苗さん、私……今日はなんていい日なんでしょう……」
食事が済むと、紅音は早苗の手をひいて部屋に招いた。
柚希はそのまま、居間で明雄と話しこんでいた。
「先日お話を伺ってから、僕も色々と調べています。紅音さんの症状のこと、それからその……メデューサ伝説について……」
「そうか……やはり君は真面目だね、柚希くん」
高価そうな葉巻に火をつけ、白い息を吐きながら明雄がうなずく。
「晴美さんも、この前はありがとうございました。それから、取り乱してしまってその……すいませんでした」
「いえいえ柚希さん、あの状況に出くわして、あの程度の混乱なら取り乱したうちには入りませんよ」
「でも……晴美さんのあの素早くて適切な処置、僕に出来るかどうか……晴美さん、あの時僕に言ってくれましたよね。『常に何が最優先なのか考えて行動しろ』って。でも次に僕があの状況に出くわした時、果たしてその言葉を覚えているかどうか」
「柚希さんならきっと大丈夫です。何より柚希さんは、お嬢様のことを大切に思ってくださっています。そのお気持ちがあれば、私がいずともきっとお嬢様のこと、守ってくださると信じております」
「私も……晴美くんにはいつも助けられているんだよ」
「旦那様、そんなこと言ったら私、ますます増長してしまいますよ」
「はっはっは。私もね柚希くん、今でこそこうして紅音の症状と向き合っているんだが、最初の内は中々そうはいかなかったんだ」
「そうなんですか」
「ああ。妻が死んだあの日、私は紅音をベッドに運び、そして晴美くんに連絡を取った。
しかしその後、紅音のベッドの側で動けなくなってしまったんだ。震えが止まらず、頭を抱えたまま泣いていた。自分の目の前で起きた出来事が余りにも現実離れしていて、頭がそれを理解するのを拒んでいた。妻の死を悲しみ、娘の豹変振りに怯えた。ひょっとしたら私は、あのまま壊れていたかもしれなかった。
そんな時、晴美くんが到着した。あの頃の晴美くんはまだうちに来たばかりで、いつも失敗ばかりしていた。正直大丈夫だろうかと思ったりもしたが、それでも元気で真面目で、失敗にもへこたれない子だった。その晴美くんが部屋に入ってきて、私に何があったのか聞いてきた。しかし私は満足に答えることができず、ただ泣きながら震えていた。
その時晴美くんが、私の頬を張ったんだ」
「え……」
「今思い出しても痛くなるぐらい、思い切りね」
「嫌です旦那様、そんな昔のことを。まだ根に持ってらっしゃるんですか」
「いやいや、はっはっは……そして私にこう言ったんだ」
「……今何が最優先なのか、考え行動してください」
「そう……考えてみたらあの時には、晴美くんの中に人生の指標が出来ていたんだね」
「あの時の旦那様の状態は、尋常ではありませんでしたから。それにお嬢様のことが気がかりで」
「私はその言葉に我に帰った。そして紅音の様態を調べ、手当てした。
そうして体を動かしていくうちに、不思議と気持が落ち着いていくのが分かった。私は処置をしながら、晴美くんに事の顛末を聞かせた。晴美くんは私の話を肯定も否定もせず、ただ聞いてくれた。
そして一通りの処置が済むと、晴美くんはすぐに現場にかけつけ、砂になってしまった妻の遺体を片付けだした。今思い出しても、あの時の晴美くんの動きは見事だった」
「旦那様、鼻が伸びすぎて私、倒れそうになってるんですが」
「はっはっは。いいよ晴美くん、鼻ぐらいいくら伸ばしてくれても構わんさ。あの時の私を救ってくれたのは、誰が何と言おうと晴美くんなんだからね」
柚希は、そう言って笑い合っている明雄と晴美に、強い絆を感じた。
そしてこの絆があったからこそ、これまで紅音さんを守ってこられたんだ、そう思った。
「私はね、柚希くん……紅音のあの一件以来、ずっと苦しみながら生きてきたと思ってる。紅音に対する思い故に、私は紅音に対して酷いことをしている。紅音の人生から、人としての幸せを奪ってきた、そう思ってる。
だがしかし……今日は本当に嬉しかった。あんな幸せそうな紅音の顔が見れるとはね……こんな日は、もう二度と訪れないと思っていた。君には本当に、本当に心から感謝している。勿論晴美くん、君にもね……」
「先生……」
「旦那様……」
「柚希くん、よければこれからも、ちょくちょく遊びに来てはくれないかね。紅音の親として、お願いするよ」
「ありがとうございます、僕なんか……僕をそこまで買ってくださって。紅音さんがずっと笑顔でいられる様、僕も頑張ります。こちらこそ、よろしくお願いします」
「……ありがとう、柚希くん」
「柚希さん、むふふっ」
「え?え?な、なんですか晴美さ……いててててっ」
晴美が背後から柚希に近付き、柚希の耳を掴むとそのまま笑顔で引っ張った。
「早苗さんから頼まれております。『もし柚希がまた、自分のことを僕なんか、なんて言ったら耳を引っ張ってやってください』と」
「あ、いや……だから僕、今言い直したでしょ」
「何ですか男らしくない、言い訳なんて見苦しいですよ」
「はっはっは、そう言えば柚希くん、さっき同じことを言って紅音の耳を引っ張ってたね」
「あ、いやそれは……」
「なら問答無用ですね、むふふふっ」
「いてててててっ、晴美さん力、力入れすぎですって」
「はっはっは」
包丁さばき一つを取ってみても、自分ではそれなりの物だと自負していた。
しかし晴美の華麗なる包丁さばきは、早苗の自信を根底から揺るがしていた。
味付けもそうだった。
試しにソースを作る様言われ、全く同じ素材で作ったにも関わらず、晴美のそれは別次元の物だった。
「自信喪失……」
そう言いながらうなだれる早苗に、晴美が笑いながら言った。
「いえいえ、早苗さんも高校生とは思えない実力をお持ちですよ」
「はあ~、その慰めが更に私を追い込んでいきます……」
「むふふっ、でもそんなことぐらいで落ち込んでたら、柚希さんの胃袋を満足させられませんよ」
「なっ……ちょ、ちょっと晴美さん、それってどう言う」
「言葉通りでございますよ。早苗さんの柚希さんを見られているあの熱い視線、まさか気付かれていないとでも?」
「ええええっ!わたっ、私ってそんなに態度に出てます?」
「ええ、それはもう……ただ、柚希さんには全く届いてないご様子ですが」
「はあ~、なんか私ってば、最近空回りと自爆ばっかりって感じだなぁ」
「よきかなよきかな、いい青春をお過ごしのようですね。はい、ではこれをそちらの皿に盛り付けて頂けますか」
「はい……」
早苗が小さく溜息をつく。
その様子に笑みを漏らしながら、晴美が言った。
「早苗さん、あなたはとても純粋なお心を持たれてます。それは料理にも現れてました。先ほど早苗さんが私に『完敗です』と言われたソース。
確かにまだ早苗さんの技術は荒削りで未熟な所もあります。ですが私はあの時、驚きました。この素材から、こんな温かい味覚を生み出せるのかと。それは早苗さん、あなたが料理を作る時、ご自身の腕試しだけではなく、その先にこれを食べてくれる方々の笑顔が見えているからだと思いました」
「食べる人の、笑顔……」
「はい。それはあなたの純粋な気持ちなんです。料理を通して、みんなに笑顔になってもらいたいと言う」
「読まれてる……」
早苗が赤面してうなだれた。
「まあでも……それを食べてくれる殿方が、あのような朴念仁ですからね。早苗さんの胸中、お察ししますよ」
「晴美さーん」
「まあそれも、後で振り返った時にちょっぴり恥ずかしくなる、そんな青春の一ページですよ」
「……」
「早苗さんは柚希さんに胸の内、告げられないのですか」
「なっ……」
「あらあら、これはまだまだ先になりそうですね。料理も純粋ですが、こちらの方も純なようで」
「……晴美さん、ひょっとして、すっごい意地悪な人ですか」
「むふふふっ、どうでしょう」
「……でも柚希ってば、私のこと女として全然見てないんです」
「はい、それも見ていて分かりました」
「ううっ……やっぱりそうなんだ」
「それに今、柚希さんはお嬢様ラブですから」
「……ですよね……」
「でも、まだ早苗さんにもチャンスはありますよ。早苗さんには何と言っても、地の利があります。そう、柚希さんのお隣に住んでいるというのは、お嬢様に比べてかなり優位だと思いますが」
「……でしょうか」
「それにその胸!」
「ええっ!」
「身長はお嬢様の方がおありですが、胸はお嬢様よりもワンサイズ、少し盛ればツーサイズぐらい上になるかと。いいですか早苗さん、消極的な殿方には積極的なアプローチが最善、それも胸を使っての攻撃はかなり有効です。私が早苗さんの立場なら、今夜辺り夜這いをかけるかと」
「ちょ、ちょっとストップ、ストップ!」
早苗が顔を真っ赤にして両手を振った。
「……まあ、純な早苗さんには、少し高すぎるハードルかもしれませんね」
そう言って晴美がまた笑った。
「もおおっ……大体晴美さんは、紅音さんの味方じゃないんですか」
「勿論、私は桐島家の給仕として、何時いかなる時でもお嬢様の味方です……が、私は早苗さんにも頑張って欲しいと思ってますから」
「え……」
「早苗さん、恋愛は戦いですよ。お嬢様に気遣う余り、ご自分のお気持ちを押し殺してはいけません。それは後に悔いしか残りません。例えどんな結果になろうとも、今のご自分のお気持ちには、正直に向き合ってくださいませ」
「晴美さん……」
「それともう一つ、お嬢様のこと、よろしくお願い致します。確かにお二人は共に柚希さんを取り合うライバルになるのかもしれませんが、私は早苗さん、あなたならお嬢様の良きご友人になってもらえる、そう思っております」
「はい、勿論です。まだ会ったばかりだけど、私も、紅音さんのことをもっと知りたい。友達になりたいです」
「ありがとうございます、早苗さん……後、これは私からの提案なんですが、よければ私ともお友達になりませんか?」
「え?晴美さんと、ですか」
「はい、私、直感的に感じたんです。私と早苗さん、かなり似たもの同士のような気が」
「あ、それ、柚希にも言われました。私、晴美さんと感じが似てるって」
「さすがです柚希さん。女の気持ちには鈍感ですが、そう言った所はちゃんと見えてるんですね……では」
「はい、キッチン同盟って所で」
「いいですね」
そう言って二人は笑いあった。
こんなに賑やかな夕食は初めてだ、そう明雄は思っていた。
いつもは紅音と晴美三人の食卓で、晴美が一人で場を明るくしてくれている。
しかし今夜、その紅音に二人も友人が来てくれた。
紅音が嬉しそうに笑い、そして自分からも話題を投げかけている。
こんなに喜ばしいことはなかった。
こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。
「そうだ紅音さん、これ」
食後の紅茶を注がれた後で、早苗が鞄からある物を取り出した。
それは早苗が昔、紅音からもらった鯨のぬいぐるみだった。
紅音の話を聞いたあの日、早苗は押入れからダンボールを引っ張り出し、このぬいぐるみを見つけたのだった。
「これは……ルーシーです。懐かしい……ルーシーですよ、お父様」
紅音がぬいぐるみを手に、嬉しそうに明雄に言った。
「でも、どうして早苗さんがルーシーを……これは昔、お父様の病院で遊んでいた時、注射が嫌で泣いている女の子がいて……私、その子にこれを……」
「その節はお世話になりました」
早苗はそう言って笑った。
紅音は早苗の顔をまじまじと見つめ、そして両手を口元に当てて言った。
「あの時の女の子……早苗さんだったんですか」
「うん。私たち、随分昔に会ってたんだよ」
紅音は瞳を潤ませ、そして早苗に抱きついた。
「早苗さん……そんな昔に私、早苗さんに会ってたなんて……ルーシーのこと、大切にしてくれていただなんて……」
「あ、いや……ぬいぐるみはいつの間にか、押入れで眠ってたけど」
「早苗ちゃん、そこは『はい』って言っておけばいいんだよ」
「あ、そうか、あははははっ」
「早苗さん、私……今日はなんていい日なんでしょう……」
食事が済むと、紅音は早苗の手をひいて部屋に招いた。
柚希はそのまま、居間で明雄と話しこんでいた。
「先日お話を伺ってから、僕も色々と調べています。紅音さんの症状のこと、それからその……メデューサ伝説について……」
「そうか……やはり君は真面目だね、柚希くん」
高価そうな葉巻に火をつけ、白い息を吐きながら明雄がうなずく。
「晴美さんも、この前はありがとうございました。それから、取り乱してしまってその……すいませんでした」
「いえいえ柚希さん、あの状況に出くわして、あの程度の混乱なら取り乱したうちには入りませんよ」
「でも……晴美さんのあの素早くて適切な処置、僕に出来るかどうか……晴美さん、あの時僕に言ってくれましたよね。『常に何が最優先なのか考えて行動しろ』って。でも次に僕があの状況に出くわした時、果たしてその言葉を覚えているかどうか」
「柚希さんならきっと大丈夫です。何より柚希さんは、お嬢様のことを大切に思ってくださっています。そのお気持ちがあれば、私がいずともきっとお嬢様のこと、守ってくださると信じております」
「私も……晴美くんにはいつも助けられているんだよ」
「旦那様、そんなこと言ったら私、ますます増長してしまいますよ」
「はっはっは。私もね柚希くん、今でこそこうして紅音の症状と向き合っているんだが、最初の内は中々そうはいかなかったんだ」
「そうなんですか」
「ああ。妻が死んだあの日、私は紅音をベッドに運び、そして晴美くんに連絡を取った。
しかしその後、紅音のベッドの側で動けなくなってしまったんだ。震えが止まらず、頭を抱えたまま泣いていた。自分の目の前で起きた出来事が余りにも現実離れしていて、頭がそれを理解するのを拒んでいた。妻の死を悲しみ、娘の豹変振りに怯えた。ひょっとしたら私は、あのまま壊れていたかもしれなかった。
そんな時、晴美くんが到着した。あの頃の晴美くんはまだうちに来たばかりで、いつも失敗ばかりしていた。正直大丈夫だろうかと思ったりもしたが、それでも元気で真面目で、失敗にもへこたれない子だった。その晴美くんが部屋に入ってきて、私に何があったのか聞いてきた。しかし私は満足に答えることができず、ただ泣きながら震えていた。
その時晴美くんが、私の頬を張ったんだ」
「え……」
「今思い出しても痛くなるぐらい、思い切りね」
「嫌です旦那様、そんな昔のことを。まだ根に持ってらっしゃるんですか」
「いやいや、はっはっは……そして私にこう言ったんだ」
「……今何が最優先なのか、考え行動してください」
「そう……考えてみたらあの時には、晴美くんの中に人生の指標が出来ていたんだね」
「あの時の旦那様の状態は、尋常ではありませんでしたから。それにお嬢様のことが気がかりで」
「私はその言葉に我に帰った。そして紅音の様態を調べ、手当てした。
そうして体を動かしていくうちに、不思議と気持が落ち着いていくのが分かった。私は処置をしながら、晴美くんに事の顛末を聞かせた。晴美くんは私の話を肯定も否定もせず、ただ聞いてくれた。
そして一通りの処置が済むと、晴美くんはすぐに現場にかけつけ、砂になってしまった妻の遺体を片付けだした。今思い出しても、あの時の晴美くんの動きは見事だった」
「旦那様、鼻が伸びすぎて私、倒れそうになってるんですが」
「はっはっは。いいよ晴美くん、鼻ぐらいいくら伸ばしてくれても構わんさ。あの時の私を救ってくれたのは、誰が何と言おうと晴美くんなんだからね」
柚希は、そう言って笑い合っている明雄と晴美に、強い絆を感じた。
そしてこの絆があったからこそ、これまで紅音さんを守ってこられたんだ、そう思った。
「私はね、柚希くん……紅音のあの一件以来、ずっと苦しみながら生きてきたと思ってる。紅音に対する思い故に、私は紅音に対して酷いことをしている。紅音の人生から、人としての幸せを奪ってきた、そう思ってる。
だがしかし……今日は本当に嬉しかった。あんな幸せそうな紅音の顔が見れるとはね……こんな日は、もう二度と訪れないと思っていた。君には本当に、本当に心から感謝している。勿論晴美くん、君にもね……」
「先生……」
「旦那様……」
「柚希くん、よければこれからも、ちょくちょく遊びに来てはくれないかね。紅音の親として、お願いするよ」
「ありがとうございます、僕なんか……僕をそこまで買ってくださって。紅音さんがずっと笑顔でいられる様、僕も頑張ります。こちらこそ、よろしくお願いします」
「……ありがとう、柚希くん」
「柚希さん、むふふっ」
「え?え?な、なんですか晴美さ……いててててっ」
晴美が背後から柚希に近付き、柚希の耳を掴むとそのまま笑顔で引っ張った。
「早苗さんから頼まれております。『もし柚希がまた、自分のことを僕なんか、なんて言ったら耳を引っ張ってやってください』と」
「あ、いや……だから僕、今言い直したでしょ」
「何ですか男らしくない、言い訳なんて見苦しいですよ」
「はっはっは、そう言えば柚希くん、さっき同じことを言って紅音の耳を引っ張ってたね」
「あ、いやそれは……」
「なら問答無用ですね、むふふふっ」
「いてててててっ、晴美さん力、力入れすぎですって」
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