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016 壊された日常 その1

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「柚希」

「……」

「柚希、ねえ柚希ってば」

「え?な、何?どこか分からない?」

「もぉ柚希ってば、さっきからずっと呼んでるのに。どうかしたの?」

「……ははっ、大丈夫大丈夫、何でもないから。で、どの問題?」

「……これなんだけど」



 その日、柚希はいつもの様に早苗の家で勉強会をしていた。
 早苗が指差した問題に慌てて目を通し、柚希はノートに鉛筆を走らせて計算しだした。
 何度も何度も問題を読み返し、頭の中にある公式を総動員しても出せなかった答えを、目の前で柚希がいとも簡単に導き出していく。
 書き終え、答えまでの過程を説明する柚希の横顔を見ていると、早苗はまた動揺している自分を感じた。

 あの日、柚希の心の闇に触れた時に生まれた感情。
 それが何なのか、まだ早苗は分からずにいた。
 あの日以来、柚希と会うと妙に気持がざわつく。
 柚希の声が、動作が、笑顔が、その一つ一つが早苗の心を大きく乱していた。

 そして柚希の部屋で見た、黒い日傘をさした女性のネガのことを思い出すと、これもまた、これまで経験したことのない何かが沸き上がってくるのを感じた。

 少し疲れてるのかな、私……早苗は初めて感じる自分の心にとまどっていた。

 そんな早苗が見ても、最近の柚希の様子はおかしかった。

 学校では山崎の一件で年齢のことがばれてしまい、柚希とクラスメイトとの間に溝が出来てしまうのではないかと心配していたが、その心配が杞憂であったことを早苗はすぐに感じた。
 山崎が柚希を孤立させる為に取った行為が、逆に柚希とクラスメイトたちとの距離を縮める結果になっていた。
 柚希の笑顔を見ることも多くなり、そのことに早苗も心から喜んでいた。

 しかしそんな日々の中でふと、何かに心を持っていかれたかの様にぼんやりとすることがある。
 元々人と接触しない生活をしてきた柚希は、確かに物静かで、一人考えにふけっていることが多かった。
 しかし最近の様子は、明らかにそれとは違っていた。まるで体だけが抜け殻としてそこにある様な、そんな風に思えていた。

 何かが柚希に起こっている。それが何なのか、早苗は気になって仕方がなかった。



「色ボケだな、あれは」

 ハイライトをもみ消し、白い息を吐きながら孝司がそう言った。

「色ボケ?ちょっとお父さん、色ボケって、つまりそれって」

「誰ぞ好きな娘でも出来たんだろ。あの浮かれっぷりはそうとしか思えん」

「好きな娘って……なんでそう思うの」

「見りゃ分かるさ。普段あれだけ静かで、少々のことには動じない柚希くんが、人が話してても上の空で、醤油とソースを間違えたり、わしと母さんが風呂に入ってるのに入ってきたり、そう思ったらいきなり何かを思い出したように顔を赤くしたりしてる。
 あれはどうみても色ボケだ。誠治の話だと彼はこれまで恋愛をしたこともないみたいだし、まあ初恋によくありがちな話だな」

「恋……柚希が……」

「そこで問題は、柚希くんが誰のことを想ってるのか、なんだが……どう見てもお前じゃないな」

「ちょっ……何でそこで私が出てくるのよ」

「何でってお前、そりゃそうだろ。お前が一番柚希くんの側にいてるし、最近いつも部屋で二人きりだしな」

「私は柚希のこと、そんな風に考えたことなんてないし!大体私は、柚希のお父さんから柚希のこと、よろしく頼まれたんだから、世話を焼くのは当然でしょ」

「ほんとにそれだけか?」

 にやりと笑みを浮かべ、孝司が顔を近づけてきた。

「柚希くんもなんだが、お前も最近、妙に落ち着きがないように見えるぞ」

 意地悪な孝司の問いに、早苗は頬を膨らませて横を向いた。

「うはははははっ。それはともかく、お前のことはさて置き柚希くんだな。彼が誰のことを想ってああなっているのか……
 相手がお前なんだったらわしも万々歳ってところなんだが、どう見てもそんな風には思えん。あれは会いたくて仕方がないって顔に見える。早苗、お前心当たりはないのか」

「心当たり……は……」

 早苗の脳裏にあの、ネガの女性が浮かんだ。

「よく……分からない……」

「おいおい、そんなに落ち込むな。なあに、柚希くんの様子から見るに、まだ片思い中か、よくいって告白前ってとこだろう。まだお前にもチャンスはあるさ。何なら今日辺り、部屋で柚希くんを押し倒したらどうだ」

「だからお父さん、なんで私の方に話を持っていこうとするのよ」

「うははははははっ、まあ悩むがよいさ若人よ」



「……」

 孝司との会話が頭をよぎり、早苗は小さく溜息を漏らした。

(父さんが言うように、やっぱり好きな人が出来たのかな……)



 紅音と交わしたキスは、想像以上に柚希の心を乱していた。

 あの日、家に帰ってからも体中が熱く、胸の高鳴りは一晩中収まらなかった。
 何度も何度も自分の唇に指で触れ、あの時の感触を思い返した。
 そしてそんなことをしている自分が急に恥ずかしくなり、布団の中で頭を抱えて身悶えた。

 翌日、放課後がこんなに待ち遠しいと思ったのは初めてだった。
 授業にも集中できず、休み時間にクラスメイトが話しかけてきても、どうにも上の空になってしまっていた。


 放課後、柚希は一目散に川に向かった。
 一分でも、一秒でも早く紅音さんに会いたい、その思いが走る速度を上げていった。
 おかげで途中、むせかえる様に咳き込んでしまった。
 心臓の鼓動が限界点ぎりぎりになっている。
 それが自身の疾患のせいなのか、紅音を想って高鳴っているのか、最早柚希にも分からなくなっていた。



 息を切らせながら川に近付いた時、コウの鳴き声が聞こえた。

「え?」

 柚希の目に、いつもの木の下で、日傘を差して立っている紅音の姿が映った。

 柚希が慌てて腕時計を見る。いつもより二十分も早い時間だった。

「あ……」

 柚希に気がついた紅音が、そう声を漏らした。

 そして少しうつむき加減で、小さく柚希に向かって頭を下げた。

 その仕草に柚希の目は釘付けになった。



 ゆっくりと歩みを確かめるように土手を降りながら、今更ながらに柚希は、第一声をどうかけたらいいのか考えていた。

 いつものように「こんにちは」から始めればいいのか。
 しかしそれは、昨日のことがあった後にしては随分とあっさりしてないだろうか。女性の扱いに慣れている様に思われても嫌だ。
「昨日はどうも」……何がどうもなんだ?意味が分からない。
「昨夜はよく眠れましたか?」いや、それは大きなお世話だ。

 そんなことを考えているうちに、柚希は紅音の前にたどり着いてしまった。
 まだ何を話せばいいのかも決まっていない。
 何でもいい、何か話さなければ……そう思って言葉を口にしようとしても、口の中が乾ききって、満足に動かすことも出来なかった。
 昨日別れてからずっと、あれほど待ち焦がれていた瞬間が来ているというのに、柚希の頭の中は真っ白になっていた。
 どうすればいいのか分からず、逃げ出したいといった気持ちまでが生まれそうになっていた。



「ふふっ……」

「え……」

 沈黙を破った紅音の声に、柚希がゆっくりと顔を上げた。

 頬をほんのり赤く染めた紅音の笑顔。

 ずっとずっと待ち焦がれていたその笑顔は、柚希が一日中思い描いていたどんな笑顔よりも神々しく、まぶしかった。

「ごめんなさい柚希さん、笑ってしまって……柚希さんがすごく緊張しているのが、なんだかおかしくなってしまって……」

「い、いえ……」

「でも……なんだかほっとしました……実は私も今の今まで、柚希さんにお会いしたら何を言おうか、どうしようかずっと考えてたんです、昨日からずっと……
 ここに来てからも緊張していて、こんな顔を柚希さんに見られたらどうしようかと思っていて……柚希さんもそんなことを考えてくれていたのかな……そう思ったら、なんだか急に気持ちが軽くなって……」

 そう言って紅音がもう一度、小さく笑った。

「は、はい。僕も何を話したらいいのか、どうしたらいいのか全然分からなくて……きっとこんな時は、僕の方が落ち着いて構えていたら格好いいのに……ははっ、やっぱダメダメですね……」

「そんなことないです。柚希さんが私のことを色々と考えてくれていたって、柚希さんを見ていたら分かります。それだけで私、嬉しいです……」

「紅音さん……」

「こんにちは、柚希さん。とってもとっても、お会いしたかったです」

「僕も……です、紅音さん……」



 紅音がいつもの様に柚希を抱擁してきた。
 紅音の温かい体温が、柔らかい感触が、甘い香りが柚希を包み込む。
 紅音を愛おしく思う気持が、柚希の全身を熱くする。
 柚希は目を閉じ、紅音を抱きしめた。
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