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第4章 泡沫の愉悦

022 愛の意味

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 ノゾミたちが来てから、2か月が過ぎた。




 この間、職場に久しぶりの新人が配属されていた。
 今回のスタッフは50代の女性で、長く業界にいる大先輩だった。特養(特別養護老人ホーム)やグループホームは勿論、ケアハウス、病院と経験も豊富だ。そう言う意味で、会社の方針に不満を持つのではと心配したが、「まあ施設なんて、どこもこんな物ですよ」と笑って受け止めていた。
 この人は、これまでもっと過酷な現場を見てきたに違いない。そんな面構えだった。
 利用者への対応も手馴れた物で、学ぶことが多かった。この人なら、余程のことがない限り辞めないだろう、そう思った。

 おかげでシフトにも多少の余裕が生まれ、ノゾミとメイの相手をする時間が増えていた。
 そんな雅司は今、自身の変化に戸惑っていた。

 仕事帰りに笑顔。
 あり得ないことだった。

 利用者から負の感情をぶつけられ、絶望に飲み込まれていく職場。
 これまでは、そこから解放されたという安堵しかなかった。
 それなのに今の俺には、無事やり遂げたという達成感がある。
 そして早く家に帰りたいと、心が高揚している。

 ただ休養を取るだけだった我が家。
 しかし今、そこでノゾミとメイ、二人が待っている。

 疲労で体は重い。しかし心は軽かった。
 何故なのか。
 利用者が落ち着いた深夜、よく考えていた。
 そして辿り着いたのは、かつて自分がノゾミに言った言葉だった。

 ーー体が疲れていても、無理にでも何かした方がいい。心の疲れが取れるから。

 介護のように、人相手の仕事で最も大切なこと。それはリフレッシュだ。
 今の生活にはそれがある。
 家に帰ってから、仕事のことを考えることがほとんどなくなっていた。

 新鮮で、賑やかな毎日。

 それを与えてくれるのは、ノゾミとメイ、悪魔と死神だ。
 禍々まがまがしい存在である筈の二人。しかし今、俺はその存在に救われている。
 考えるとやはり笑ってしまう。何ておかしな状況なんだ。

 メイは死神として、自分の魂を刈ろうとしている。
 ノゾミも契約を達成し、魂を手に入れようとしている。



 逃れられない運命。近い将来、俺は死ぬのだ。



 契約が果たされた時。それは人生の終わりを意味する。
 果たしてその時、俺は何を思うのだろう。
 達成感だろうか、高揚感だろうか。それともやはり、後悔や絶望なんだろうか。

 死への憧れは変わっていない。契約したことに後悔もない。
 でも契約が成された時、同じように思っているのだろうか。
 自分を心から愛してくれる。そんな女を前にして、もっと生きていたいと後悔しないのだろうか。

 俺は多分、ノゾミのことが好きだ。
 プライドが高く、それでいて不器用な可愛いやつ。
 初めて出会った時から、俺は彼女に惹かれていた。
 理由は分からない。
 多分これは本能、心が感じたことなんだ。
 こんな日が来るだなんて、思ってもみなかった。




 雅司のことを、私はどう思っているんだろう。
 夕食の準備を済ませたノゾミが、クッションを抱き締めてため息をついた。

 この1か月、本当に楽しかった。
 毎日が輝いていて、新しい発見があるたびに興奮している。

 これまでも契約の性質上、人間と生活を共にすることはあった。
 でもその時、自分の頭にあったのは、一日も早く契約を成すということだけだった。
 おかげで悪魔として、それなりの実績を積むことも出来た。

 自分の起源に不満を持つ者は多い。しかし彼らも、成果の前では何も言えなかった。
 悪魔は完全なる実力主義。
 そう。自分は全てを、結果で黙らせてきた。

 私にとって、この世界はモノクロだった。
 心が躍るなんてこと、一度もなかった。
 人間という存在も、私にとってはただの手段でしかない。
 自分の居場所を守る為の手段。
 これからもそうなんだと思っていた。

 雅司の魂を感じた時、これ以上にない興奮を覚えた。これを手に入れることが出来たなら、私は不動の地位を得ることが出来るだろう。
 もう二度と、後ろ指を差されることもない。
 そう思い、この任務に全てを捧げると誓った。
 その筈なのに……

 これまでの契約は、復讐の手助けや、満足感を与えるものばかりだった。
 しかし今回は違う。私に全てがかかっている。
 初めは簡単だと思っていた。
 契約者。すなわち相手の心を導く方が、ずっと大変だったから。
 それに比べれば、自分の心など造作もない、そう思っていた。
 自分の心は、自分が支配してるのだから。

 でも間違っていた。
 自分の心には嘘をつけない。その事実に困惑した。
 あなたを愛している、そう伝えるのは簡単だ。
 彼を抱き締めて「愛してる」と囁き、それが受け入れられれば、契約は完了するのかもしれない。
 でも……私はその結末に、納得出来るのだろうか。

 自分を誤魔化すことは出来ない。それは契約に対する侮辱であり、悪魔としての尊厳に関わることだ。
 成果を焦るあまり、自分の心に抜けない棘を差す訳にはいかない。
 何より雅司は言った。「心から」だと。
 自分の心と向き合い、雅司の魂に向き合い。心から彼を愛する。
 でないと私は、きっと後悔する。




 私は今、雅司のことをどう思っているのだろう。
 彼のことは好きだ。自虐的な言動はともかく、何事にも誠実で、いつも真正面からぶつかっていく。
 その不器用な生き方、私は好きだ。
 少し私と似てるかも。そう思った。
 自分が大変な時でも相手のことを考える、そんなところも好きだった。
 何より彼は、私とメイを受け入れ、家族のように接してくれている。

 この時間、もっと続けていたい。その思い、何度打ち消したことか。
 もしそれをしてしまったら、自身の出自を認めることになってしまう。
 やはり異端だと、周囲からさげすまされるだろう。
 長い年月をかけて、ようやく築き上げた今の地位。
 それを、ひと時の感傷で失う訳にはいかない。

 メイは雅司を愛してると言った。
 私には愛がどういうものなのか、まだ分かっていない。
 何度もメイに聞いた。でも答えてくれなかった。

「それはお前が見つけることだ。私を頼ってどうする」

 愛するって、どういうことなんだろう。
 好きと、何が違うんだろう。
 自分にとって、愛する存在と聞かれて浮かぶのはただ一人、お母さんだ。
 でもそれは、そう言い聞かせてきたことであり、愛そのものを理解してた訳じゃない、そう気付かされた。雅司との契約で。
 私はただ、自分の心を安定させる為、お母さんを利用していたに過ぎないのだ。

 お母さんのことは大好きだ。私にとって、何よりも大切な存在だ。
 この想いと雅司を愛すること、違うものなのだろうか。
 そしてそれが分かった時、私はどうなるのだろう。
 今よりもっと強く、高潔な悪魔になるのだろうか。
 それとも……

 それを見届けたい、そう思った。
 だから私にとってこの契約は、何が何でも成し遂げなくてはいけないものなんだ。




 ああ。もうすぐ雅司が帰ってくる。
 早く会いたい。
 疲れ切った心を癒してあげたい。

 胸のペンダントを握り締める。
 遊園地に行ったあの日、雅司からもらったペンダント。
 ノゾミは微笑み、あの日のことを思い返した。


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