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第1章 絶望に飽きた男

001 深夜の邂逅

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 雑居ビルの屋上で。
 地面を見下ろしながら。
 男は人生最後の煙草を味わっていた。




 大地に吸い込まれるような感覚。
 この瞬間を、何度も何度も夢想した。
 どれだけの恐怖に襲われるだろう。
 どれだけ生への執着にさいなまれるのだろう。
 足は動くのか?
 本当に飛べるのか?
 そんなことをずっと考えていた。
 しかし。
 それが全て杞憂だったと悟り、小さく笑った。



 何も感じてなかった。



 未練も後悔も、何もない人生。
 今まで生きてきたことが、心底馬鹿馬鹿しいと思えた。
 最後の煙草を心ゆくまで堪能し、揉み消す。

 後は飛ぶだけ。

 この足を、あと少し進めるだけで。
 俺の人生は完結する。

 空を仰ぐと、巨大な月が自分を照らしていた。
 最後に俺を見届けてくれるのは、あんたなんだな。
 嫌な役回り、させてすまない。
 そうつぶやき。自虐的な笑みを浮かべ。
 柵から手を離した。



「少しだけお時間、いいですか」



 静寂を破った声に、男が振り返る。
 スーツ姿の女が立っていた。

 年の頃は、20代前半。
 漆黒の髪は長く、風に揺らめいてた。
 暗闇の中でもよく分かる、白い肌。
 切れ長の大きな瞳で、真っ直ぐ自分を見据えている。

 女は桜貝の様な唇に笑みを浮かべ、男に語り掛けた。

「これからあなたは、人生を完結しようとしている。そうですね」

「ああ」

「そこに至るまでに、どれだけの葛藤があったのかは理解出来ます。この世界、幸せより苦痛の方が多いですから」

「それで?」

「あなたが捨てようとしてるその命、私に預からせてもらえませんか」



「……」

 突然現れた女。
 深夜の屋上に、こんな若い女がいる筈がない。
 女は、今から飛び降りようとしている自分に声をかけてきた。
 思いとどまらせる以外の目的で。
 それが何なのか、知りたくなった。

 もう何もない。何もいらない。
 そう思っていた筈なのに。
 自分の中にまだ、好奇心なんてものがあったのか。そう思い、男は三度みたび笑った。




「説明、いいか?」

 男は柵に手をやり、女と向き合った。

「何者だ」

「質問の意図、知りたいです」

「あんたみたいな女がこんな時間、こんな場所にいるのは不自然だ。何よりあんたは、これから死のうとしてる俺を憐れんでいない。同情もしていない。あんたの瞳からは、別の何かを感じる。そしてそれは、ただの人間に宿るものじゃない気がする」

「なるほど。死に近付いた人間には、独特の嗅覚が宿ると聞きますが、あなたも何か感じているのですね」

「人間じゃないな」

「はい。私は悪魔です」

 そう言って、女は妖艶な笑みを浮かべた。


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