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「簡単に消えてもらったら困るんだよ! あんたにはもっと絶望してもらわないと、私の気が治まらないんだよ!」

 初めて見る鏡の奈津子に、玲子も春斗も息を飲んだ。

「この程度で絶望? お前が私に押し付けたものに比べたら、こんなのただのおままごとじゃないかよ!」

「……もう許してよ! もういいから、私が悪かったから! お願い、私をこのまま消えさせてよ!」

「駄目だね! そんな簡単に消えられちゃあ困るんだよ! 私の望み、言ったよな。あんたがどん底を這いずりまわって、もがき苦しむのが見たいんだよ! 私がこれまで背負わされてきた苦しみ、その半分でも味わってもらわないとね!」

「じゃあどうしろって言うのよ! 私にはもう何もないんだよ? 大切な友達も、幼馴染もいなくなったんだよ? これ以上、私にどうしろって言うのよ!」

「もっとだ、もっと苦しめ! 私がどれだけ苦しんだと思ってるんだ! 誰がこんな私を生み出したと思ってるんだ!」

「いい加減にして!」

 言葉と同時に奈津子が立ち上がった。その勢いに押され、玲子も春斗も奈津子を見上げる。

「……たくさんの人を不幸にしてきた。与えられた恩すら感じず、返すこともしてこなかった……こんな私なんて、この世界から消えた方がいいに決まってる。あなただってそう言ってたじゃない!」

「ああ言ったさ! でもね、そんな綺麗に幕を引かせてやるだなんて、言った覚えはないよ! もっともっと苦しんでもらわないと、割が合わないんだよ!」

「うるさい!」

 奈津子が声を上げて机を叩く。
 机から「神代風土記」と、中に挟んでいた短刀が落ちる。

 ――祖父宗一から譲り受けた、魔を滅する短刀。

「私は絶望して、もう消えてもいいと思った。あなたの望みでもあった筈よ? そう願ったからこそ、あなたは彼に協力したんでしょ? 私を壊してこれからの人生、彼とよろしくやっていけばいいじゃない!」

「てめえ、ふざけるんじゃないよ!」

「ふざけてるのはどっちよ!」

 奈津子が肩を震わせ、鏡に向かって怒鳴る。
 その異様な光景に、玲子も春斗も言葉を挟むことが出来なかった。



 憎しみの感情。それが丸裸になってぶつかりあっている。
 奈津子にこんな一面があったのか。いや、これこそが、本来彼女が持っているものなのかもしれない。鏡の奈津子は、それを引き出したに過ぎないのではないか、そう思った。



「私だって……私だって、もっと自由にしたかった! でもそんなこと、お父さんは許してくれなかった! お母さんだって、助けてくれなかった! ええそうよ、二人がいなくなって、私は心から安堵したわ! やっと自由になれたんだから! それの何が悪いって言うのよ!」

「その苦しみを背負ってきたのは私だ! 何勝手に被害者面してるんだよ! お前はその時、全部私に押し付けて眠ってたじゃないか! 逃げてたじゃないか!」

「逃げてない! 私だって、ずっとお父さんの圧に潰されそうになってた! そして戦った! 嫌な目に合わない為に、必死になって勉強した! あなたこそ何もしてないじゃない、努力してないじゃない!」

「私はあのクソ野郎に犯されたんだぞ? 忘れてるんじゃないよ!」

「うるさい!」

 奈津子が鏡の声を切り捨てた。

「……犯された、犯されたって……あなた、それしか言うことないの? 確かに辛かったと思う。でもね、辛いのはそれだけじゃない。クラスメイトからの嫌がらせだってそう、暴言もあった。頑張ってるだけなのに、正しいことをしてるだけなのに、誰も褒めてくれなかった。認めてくれなかった。
 そんな中で、私は一人で戦ってきた。そして勝ち続けた。高校に合格した時には、あのお父さんが泣いて喜んだんだよ? あの父親に私は勝ったんだ! あなたじゃない、私が勝ったんだ!」

 肩を震わせて叫ぶ。

「ここに来てからだって、私は頑張ってきた。新しい人生を始めるんだ、そう決意した。
 怖かった。誰も知らない世界に放り込まれて、どれだけ不安だったかなんて、あなたには分からないでしょう。それでも私は頑張った。亜希ちゃんに出会って、玲子ちゃんに出会って……少しずつ、少しずつ新しい人生を開いていこうと頑張った。
 あなたはどうなの? そんな私を冷ややかに見て、私の邪魔をしてただけじゃない! 大切な友達を殺して、悦に入って喜んでただけなんでしょ? 何よそれ、馬鹿みたいじゃない!」

「お前、言わせておけば!」

「本当のことでしょ? 結局のところ、あなたは私を憎むことしかしてこなかった。前に進むのはいつも私。あなたはあの時から、同じ南條奈津子でありながら、一歩も前に進めてないのよ!」

 そう言って奈津子は、足元に落ちた短刀を手に取った。

「お前……やめろ! 何をするつもりだ!」

「……あなたと喧嘩してたらね、壊れるのが馬鹿らしくなってきたの。このまま壊れてもいい、本当にそう思ってた。玲子ちゃんも、そして春斗くんまでもがぬばたまだった。もう私には何もない。こんな世界、私の方から退場してやる……私という存在も、あなたとぬばたまにあげよう、そう思ってた。でも……やめたわ」

 玲子と春斗が、信じられない表情で奈津子を見る。

 ――奈津子の瞳には、輝きが戻っていた。

「この戦い……私が終わらせる!」

 奈津子は短刀を握り締め、自分の影目掛けて振り下ろした。

「やめろおおおおおおっ!」





「……」

「奈津子、あなた……」

「なっちゃん……」

 唖然とした表情で、玲子と春斗が声をかける。

「見届けてくれたかな、二人共」

 そう言って、奈津子がゆっくりと顔を上げる。

 瞳には涙が。口元には笑みが浮かんでいた。

「……え、ええ……確かに見届けたわ。でも……すごい物を見てしまった……」

「全くだね……こんな結末、僕も想定してなかったよ……」

 そう言って、二人は小さく息を吐いた。

 短刀の刺さった影を見つめ、奈津子がゆっくりと立ち上がる。
 自分が動くと影も動いた。しかしそれとは別に、短刀を突き立てられたもう一つの影が、動かずそこにあった。

「これが……私にいていたぬばたまなのね」

「ええ、そう……いずれ消えてしまう、今となってはただの影よ……」

 そう言って短刀を抜き、玲子が愛おしそうに撫でた。

「……長い間、よく頑張ったわね……ゆっくりお休みなさい……」

 そう言って微笑んだ。
 目には涙が光っていた。

「あ……」

 春斗の声に奈津子が振り返る。
 窓の外が明るくなっていた。
 奈津子が窓を開けると、分厚い雲が割れ、陽の光が差し込んでいた。

「……すごいタイミングね。まるで空も、今の戦いを見守っていたみたい」

 そう言って、玲子が涙をぬぐった。

「なっちゃん、その……もう一人のなっちゃんは、どうなったのかな」

「鏡の私?」

「うん、そう……また、なっちゃんの中で眠ってるのかな」

「いいえ、ここにいるわよ」

 奈津子が自分の胸に手を当てる。

「それって」

「私は彼女を受け入れた。彼女に押し付けていた辛い記憶も、黒い自分も全てね」

「……そうなんだ」

「だからそういう意味では、私もあなたたちと同じになったんじゃないかな。新たな人格を重ね合わせて、私は新しい南條奈津子になった」

 そう言って涙をぬぐい、笑った。

 春斗が久しぶりに見る、本当の笑顔だった。
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