上 下
19 / 69

019 小太郎

しおりを挟む
「今日は疲れたな」

 バスを降りた奈津子が、夕陽に彩られた日本海を見つめてつぶやいた。



 学年一位の成績を修めた奈津子に、クラスメイトたちから羨望の眼差しが向けられた。それは彼女にとって、これまでにない経験だった。

 これまでは、憎悪や嫉妬の感情が向けられていた。
 負の感情に対しては、無視という壁を作ることで対応出来た。そしてそれは簡単なことでもあった。
 しかし好意的な感情に対しては免疫がなく、愛想笑いを向けることしか出来なかった。

「おかしいよね。敵意の方が楽だなんて」

 そう言って笑った。




 その時。
 奈津子はまた視線を感じた。

「……」

 溜め息をつく。
 宗一が告げた「宮崎家のごう」が、脳裏に再び蘇る。

 今日、玲子に相談しようと思っていた。
 亜希は今、家のことで大変だ。その彼女に、これ以上の負担はかけられない。
 家の問題が落ち着き、彼女の中で整理がつくまで待つつもりだった。
 しかし玲子には話したかった。

 いつも冷静で、周囲のトラブルを迅速に解決している彼女。
 そんな玲子の中に、奈津子は洗練された合理性を見出していた。
 彼女は誰に対しても公平で、冷静に物事の本質を見極めようとする。しかしそれでいて、情にも熱い。
 感情と合理性。ある意味交わらないとも言える対極のものを両立させて、最善の解決策を考える。
 そんな彼女なら、また違った側面から、解決の手段を導き出してくれるかもしれない。
 しかし今日はそれどころではなかった。
 周囲に圧倒され続け、ゆっくり話すことが出来なかった。

 そして今。またその視線にさらされている。
 うまくいかないものだなと、奈津子は自嘲気味に笑った。
 そして気付いた。

 笑ってる?

 行動を起こしてきた「それ」に対して、今の時点で打てる手は何もない。
 そんな状況なのに、どうして笑っているんだろう。

 そして気付いた。
 自分に向けられた視線が、いつものそれとは違うからだと。
 そしてその視線は、間違いなく近付いてきている。
 少しずつ、少しずつ。

「……」

 意を決し、忍び寄る視線に顔を向ける。

「え……」

 奈津子が思わず声を漏らした。
 そこにいた視線の正体。
 それは小さな子犬だった。
 あまり詳しくなかったが、その犬がヨークシャテリアだということは分かった。ペットとしては結構メジャーだ。

「どうしたの? 迷子かな?」

 奈津子が微笑み手を向けると、犬がその手を嗅ぎ、舐めてきた。

「ふふっ……かわいい」

 見るとかなり薄汚れていた。奈津子が優しく抱き上げる。

「ご主人様は? 独りぼっちなのかな」

 奈津子がそう言うと、犬は興奮気味に息を荒げ、頬を舐めてきた。

「こらこら、舐めてもいいけど加減しなさい。ふふっ」

 こんな場所で一人、心細かったに違いない。
 そしてやっと出会えた自分に、救いを求めてきたのだ。
 自分と少し似てるかも。
 奈津子は犬を抱き締め、愛おしそうに頭を撫でた。




 宗一も多恵子も、飼うことを許してくれた。
 そのまま風呂に入り丁寧に洗うと、美しい毛並みが姿を現した。
 奈津子は満足そうに笑い、その犬を「小太郎」と名付けた。




「なんでじゃ。犬と言えばタロウじゃろうて」

 晩酌が進み、いい具合に酔いがまわってきた宗一が、ご機嫌な様子で小太郎の頭を撫でる。

「おじいちゃんに言われたから、そうしようかとも思ったんだけど。小太郎を見てたらね、タロウにしてはちょっと小さいかなって思って」

「おじいさん。今の若い子は、タロウなんて名前つけませんよ」

「そうなのか? まあ、奈津子が決めたんならそれでいいさ。なあ小太郎」

 宗一の声掛けに、小太郎が嬉しそうに尻尾を振った。

「でも、どうしてあんなところにいたんだろう」

「面倒みきれなくなった飼い主が、山に捨てたんじゃろう」

「そうなの?」

「ああ。自然に返す、とか訳の分からん理屈でな。自然にとうても、生まれてからずっと人間の世話になってきた犬が、こんな場所で生きていける訳がない。餓死するか、他の動物の餌になるのがオチじゃからな」

「……ひどいね」

「じゃが、こいつはついとった。奈津子の様な娘っ子に拾われたんじゃからな」

「私、ペットを飼うのが夢だったの。でも、お父さんが許してくれなくて」

「そんな暇があったら勉強しろってか? うはははははははっ」

「おじいちゃん、なんでそこで笑うかな」

「笑う門には福来る。どんなことでも笑っておれば、何とかなるもんじゃて」

「全然答えになってないよ。それに意味不明だし」

「まああれだ。奈津子が試験でいい結果を出した。その褒美に、天が奈津子に出会わせてくれたんじゃろうて」

「本当、なっちゃん頑張ったわね。大変な時期だったのに」

「ありがとう、おばあちゃん。これからも頑張るよ」




 これまでは試験の結果がよくても、特に何も感じなかった。父の明弘にしても、「次回も頑張るように」と言うだけだった。
 いつもと変わらず一人、冷たい食事に手をつけていた。
 しかし今。この食卓には温かい料理が並んでいる。
 宗一も多恵子も笑っている。そして、新しい家族が増えた。

 こんなに幸せでいいんだろうか。そう思い涙ぐむ。
 そんな奈津子を温かく見つめ、宗一も多恵子も笑っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夜通しアンアン

戸影絵麻
ホラー
ある日、僕の前に忽然と姿を現した謎の美少女、アンアン。魔界から家出してきた王女と名乗るその少女は、強引に僕の家に住みついてしまう。アンアンを我が物にせんと、次から次へと現れる悪魔たちに、町は大混乱。僕は、ご先祖様から授かったなけなしの”超能力”で、アンアンとともに魔界の貴族たちからの侵略に立ち向かうのだったが…。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

FLY ME TO THE MOON

如月 睦月
ホラー
いつもの日常は突然のゾンビ大量発生で壊された!ゾンビオタクの格闘系自称最強女子高生が、生き残りをかけて全力疾走!おかしくも壮絶なサバイバル物語!

灰色の迷宮

鳥栖圭吾
ホラー
金に困っていた大学生の北橋和樹は怪しげだが、高給のバイトをすることにした。 そして連れてこられたのはとてつもなく巨大な地下迷宮で、そこは同じように集められた12人のプレイヤーと殺し合うバトルロワイアルの舞台だった。

【R18】十六歳の誕生日、許嫁のハイスペお兄さんを私から解放します。

どん丸
恋愛
菖蒲(あやめ)にはイケメンで優しくて、将来を確約されている年上のかっこいい許嫁がいる。一方菖蒲は特別なことは何もないごく普通の高校生。許嫁に恋をしてしまった菖蒲は、許嫁の為に、十六歳の誕生日に彼を自分から解放することを決める。 婚約破棄ならぬ許嫁解消。 外面爽やか内面激重お兄さんのヤンデレっぷりを知らないヒロインが地雷原の上をタップダンスする話です。 ※成人男性が未成年女性を無理矢理手込めにします。 R18はマーク付きのみ。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

処理中です...