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002 幻影と幻想

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 3日後、親父は死んだ。
 宣告された日より、1日長く生きていた。

 あの日から親父は、ずっと眠ったままだった。
 あれだけ苦しんでいたのが嘘の様に、穏やかに眠り続けた。

 そして。

 母さんと僕、弟家族が見守る中。

 親父の人生は完結した。




 葬儀、初七日を終えるまで、バタバタしっぱなしだった。
 と言うか、初七日って、葬儀の日にまとめてするんだ。知らなかった。
 まあ、みんな忙しいし。こうして集まるのだって大変だから、仕方ないんだけど。
 何だかとりあえず「やることやってます」みたいな感じで、ちょっととまどってしまった。

 地域の活動にも参加していた親父の人脈は広く、訪れる人は多かった。
 みんな親父を偲び、悲しんでくれた。
 僕の親父は、こんなにも慕われていたんだ。
 そう思うと嬉しかった。誇らしかった。
 あの親父の息子として、立派に喪主をやり遂げよう。それがせめてもの恩返しになる、そう思った。




 葬儀の翌日、母さんに電話した。
「大丈夫? 疲れてない?」と。
 しかし、母さんは笑いながら言った。

「あんたこそ大丈夫なの? ほとんど寝てなかったでしょ」
「僕は……大丈夫。昨日はちゃんと寝たし」
「仕事は?」
「休み。忌引き休暇、一週間もらってるから」
「じゃあ、意識してしっかり休みなさい。何ならご飯食べに、家に来てもいいから。どうせあんた、まともな物食べてないでしょ」
「ありがとう。また連絡するね」

 励まそうとしたのに、逆に励まされてしまった。
 この歳になっても、僕はまだ親に心配をかけている。そう思うと、少し情けなくなった。
 親父が僕の歳の頃には、もう弟も生まれていた。一家の主だった。
 親に心配をかけるどころか、僕たちのことで頭がいっぱいだった筈だ。
 それなのに僕は今も、こうして心配されている。

 それもそうか。

 仕事はしてるものの、結婚どころか彼女がいたこともない。
 弟は若い内に結婚して、子供もいる。ちゃんと親父と母さんに、孫を抱かせるという親孝行をしている。
 でも僕は、ずっと一人身のままだ。
 そのことでとやかく言われたことはないけど、それでも二人共、心配しているよと弟から聞いたことがあった。
 情けない長男だ。本当に。
 ごめん親父、母さん。




 気が付けば僕は、自分が生まれ育った場所に向かっていた。
 実家から電車で一駅。そこに中学まで住んでいた。

 二階建ての安アパート。

 親父の癌が見つかってからの3か月、何度となく過去の自分を思い返していた。
 そのほとんどが、安アパートでの思い出だ。
 久しぶりにあの場所に行ってみたい。
 親父が死んでから、自分の中で大きくなっている変な感覚。
 このモヤモヤの答えがあるかもしれない。
 僕はそこに何かを求めていた、そんな気がする。





 何十年かぶりに訪れたその場所に、僕は愕然とした。
 アパートはなくなっていた。
 そこには今風の、小綺麗な一戸建てがいくつか並んでいた。
 時間は止まってくれないんだ。自分の中にある記憶に触れることは、もう出来ないんだ。

 その事実に動揺した。

 恨めしそうに、周りを何度となく歩く。
 どこかに記憶の断片が残っていないか。

 アパートの階段があった辺りを見つめる。
 金魚の墓があった場所。
 アイスクリームの棒に名前を書いて、弟と二人で作った墓。
 しかし今、その場所はアスファルトに覆われている。

 何度も何度もため息をつく。久しぶりにあの、ボロかった金属製の階段を上ろうと思っていたのに。
 どれだけあの階段で転んだことか。

 何もかもがなくなっていた。
 過去に突き放されたような気がした。




 辺りを散策する。
 駄菓子屋もなくなっていた。
 辛気臭い帽子屋さんもなくなっている。
 薄汚れたガラスのショーケース。噂では中のマネキンは店の主人の亡くなった息子で、夜になると動き出すと言われていた。いい歳になるまで、本気で信じていたな。
 レコード屋も電器屋もない。
 公園も駐車場に変わっていた。
 子供の頃、当たり前のようにあった光景。それが何一つ残っていなかった。

「……あの広っぱは」

 失意の中、僕の脳裏に蘇った光景。
 それは、野球を2ゲーム同時に出来るほどの、大きな広っぱだった。
 そこが何だったのか、今でもよく分かっていない。
 ただ僕らはその広っぱのことを、近くにあった工場の名前で呼んでいた。
 そこで毎日のように遊んだ。
 缶蹴りをして、鬼ごっこをして、凧揚げをして。
 僕たちにとって、そこは家と同じくらい大切な場所だった。
 あの広っぱなら、まだ残ってるに違いない。
 まるで根拠のない願望にすがる思いで、僕はその場所を目指した。




「……」

 どこにあるんだ、広っぱは。
 そびえ立つ何棟ものマンションを前にして、僕はそうつぶやいた。
 かつての僕たちの王国。流行っていた漫画の影響から、土を掘って秘密基地を作ろうとした大切な場所。
 それはたった今、無残な現実となって僕に突きつけられた。

「……そうだよね」

 あれだけの広大な土地、何十年も放置する訳がない。
 土地を遊ばせている余裕なんて、今の時代ない筈だ。

 そう思い、一人うなずく。

 そう思う。
 思い込ませる。

 でも。
 それでも。

 何だろう。胸に宿った、この虚しい気持ちは。

 思い出は、どこまでいっても思い出に過ぎないのだろうか。
 いつまでもそんな物にしがみついているのは、間違っているのだろうか。

 僕はここに、何かを求めてやってきた。
 親父が死に、心に空いた大きな穴。
 それが何なのか、ここに来れば分かる気がしたのに。

 それは甘えなんだろうか。

 過去を振り返るのは、今が充実している人間だけに許されたことなんだろうか。
 だから僕は、過去からも突き放されたんだろうか。
 そう思うと滑稽で、情けなくて涙が出て来た。

 空を見上げると、夕焼けが広がっていた。
 その色に、余計に心が痛む。

 僕は。
 僕は。
 何をしているんだろう。





 涙を拭い、目を開ける。



 その光景に呆然とした。

 そこには、夕陽に染まった広っぱが広がっていた。
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