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088 沙月の涙

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「いたいた、沙月さんだよ」

 9月21日土曜の夕方。
 阪急箕面駅。
 信也たちは沙月の後を追っていた。

 涼音からの情報で、沙月がかつて箕面市に住んでいたことが分かった。
 電車でも30分ほどかかるこんな場所に、沙月が来る理由はひとつ。
 想い人に会う為だった。
 涼音はそんな沙月のことを、ストーカー乙女と名付けていた。
 そのネーミングもどうかと思ったが、物陰に隠れて想い人を見つめる沙月は、確かに乙女だった。




 沙月の想い人、遠藤和弘は誰かを待っているようだった。

「信也くん信也くん信也くん」

「はいはい、あなたの信也はここですよ」

「あれってやっぱり、誰かと待ち合わせだよね」

「そうだな。やけにそわそわしてるし、携帯ばっか見てるし」

「多分彼女だよね」

「だな……」

 遠藤は見るからに気弱で、人のよさそうな感じの男だった。
 駅の隅で小さくなっているその様は、捕食されないよう隠れている小動物のようでもあった。

「なんか……思ってた感じと違うね」

「だよな。沙月さんの雰囲気からして、もう少し男男してる人だと思ってたよ」

「でも……あの人のおかげで、沙月ちゃんはあんな姿に……」

「沙月さんが現れた時に、怖がって逃げたとか」

 沙月はじっと遠藤の様子をうかがっている。

「沙月さん、可愛い」

「あんな姿見てしまったら、何とかしないとって思うよな」

「何とかって、どうするつもり?」

「どうって……それは話してみないと何とも」

「あ、連絡来たみたい」

 携帯で話す遠藤。
 最初のうちは笑顔で話していたが、途中で「そう……」「分かった……」と声のトーンを落としていき、そしてうなだれた様子で携帯を切った。

「相手の人、来ないみたいね」

「そうみたいだな。てか、あそこまで落ち込むか?」

「信也くんは落ち込まないの?」

「そりゃ待ち合わせしてたんだし、来ないってなったらへこむかもしれないけど……にしてもあそこまで露骨に落ち込まないよ。あれじゃ相手も、罪悪感いっぱいになっちまう」

「ふーん。信也くんてば、私とのデートがドタキャンになっても平気なんだー」

「いやいや、俺が言いたいのは程度の話で」

「あ……信也さん早希さん、遠藤さんが行きますよ」

 遠藤が、ここまで聞こえるほどの大きなため息をつき、とぼとぼと駅から歩き出した。

「行くよ、信也くん」

「ああ。くれぐれも沙月さんに見つからないようにな」

 早希と涼音は浮かび上がり、上空から遠藤を追った。
 信也は4つ折りにした新聞で顔を隠し、沙月と遠藤の後に続いた。




 駅から外れてしばらくすると、周囲が一気に静かになった。
 ここは高級住宅街。辺りには大きな一軒家がいくつも立ち並んでいた。

「いい所だな」

 信也がそうつぶやいた。その時だった。

「ひいいいっ!」

 遠藤の情けない悲鳴が聞こえた。
 信也が小走りで向かう。
 そして遠藤の姿を認めると、物陰に隠れて様子をうかがった。

「沙月さん……」

「ま、また来たのか……お前、いつまで迷ってるんだよ……」

 沙月の姿を前に、遠藤が腰砕けになっていた。
 声を震わせ、沙月を見ないように後ずさる。
 後から早希に聞いた話だと、沙月は姿を見せるつもりがなかったらしい。遠藤が気配を感じて振り返り、運悪く目が合ってしまったそうだ。

「和くん……」

「ひいいいいっ!」

 沙月が声をかけると、遠藤は両手を前に突き出し、怯え震えた。

「え……」

 沙月の言葉に、信也が声を漏らす。

 和くん?

 男前の沙月。格好いい沙月、硬派な沙月。
 信也の中にあった沙月のイメージが、音を立てて崩れていった。

「久しぶり、和くん……」

「ひゃああああっ! 来るな! 来るなゾンビ!」

「……」

 怯える遠藤は、沙月の姿を見ようともしない。

「ははっ……和くん、やっぱり私のこと、見てくれないんだね」

「近付かないで近付かないで! ゾンビ怖いゾンビ怖いゾンビ怖い!」

 遠藤が呪文のように、沙月を否定する言葉を連呼する。

「ねえ和くん……結婚、決まったんだよね。おめでとう……彼女ってどんな人なのかな……私の知ってる人、なのかな……」

「食べないで食べないで」

 耳をふさぎ、声をあげて沙月の言葉を遮る。
 何を言っても、遠藤は沙月を見ようとしない。ただただ沙月に恐怖し、立ち去ってくれと哀願するだけだった。
 その姿はあまりにも無様だった。
 仮に、本当にゾンビが現れたのだとしても。ここまで怯え、立ち去ってもらうよう哀願するだけだなんて、情けないにもほどがある。

 やがて沙月は、小さく笑うと一歩前に進んだ。

「ひいいいいっ!」

「和くん……もういいよ、そんなに怖がらなくても……私、もう二度と現れたりしないから……私はただ、和くんにおめでとうって言いたかっただけ……和くん、幸せになってね。私は和くんのこと、幸せに出来なかった……だから……新しい彼女さんにまかせる……
 ごめんね、こんなに怖がらせて……ごめん……ごめんね……」

 沙月の涙がアスファルトに落ちる。

「たくさんの思い出をありがとう……幸せをありがとう……さよなら……」

 そう言うと遠藤に背を向け、走り去っていった。




「……」

 信也の中に、言いようのない感情が渦巻いていた。
 その正体を考え、一つの言葉が頭に浮かんだ。

 不快感。

 遠藤の気持ちは分かる。
 いくら愛する者とはいえ、死んだ人間が目の前に現れたのだ。自分の名を呼んで。
 彼の行動も、理解出来ない訳ではなかった。
 しかし自分にとって、沙月は大切な友人だ。
 沙月の行動から、遠藤に対する想いがどれだけ強いか分かる。
 愛する男が、自分以外の女性と結ばれようとしている。
 なのに沙月は、祝福のためにここに来たのだ。
 拒絶されると分かっているのに。
 そう思うと、やはり不快だった。
 同じ男として。
 同じ、愛する者を失った者として。

 信也は無意識のうちに、遠藤の元へと向かっていた。


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