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057 あやめとの約束
しおりを挟む暗闇が広がっていた。
ここはどこだ?
そう思い手を伸ばす。しかしその手すら見えない。
漆黒の闇。
何が起こっているのか、理解出来なかった。
「早希! 早希!」
愛する妻の名を叫ぶ。
しかし返事はなく、自分の声だけが虚しく響いた。
「どこにいるんだ、早希……」
子供の様に膝を抱え、その場にうずくまる。
「早希……」
涙が止まらなかった。
「……お前、言ったじゃないか、傍にいるって……ずっと一緒だって、約束したじゃないか……」
地に額を擦り付ける。
「お前がいないと俺、駄目なんだ……俺にはもう、お前しかいないんだ……」
孤独、絶望が全身を支配する。
「うわああああああああああっ!」
「早希っ!」
そう叫んだ瞬間、頭に激痛が走った。
「つっ……」
辺りを見回し、ここが自分の部屋だと理解した。
「夢かよ……」
無造作に頭をかき、大きなため息をつく。
そうだ。俺と早希は昨日入籍した。
家に戻るとナベさんたちが待っていて、そのまま宴会に突入して……そして死ぬほど飲まされたんだった。
いつ寝たのかも思い出せない。こんなに飲んだのは久しぶりだ。
「……」
いつも早希と同じ布団で寝ているが、早希は必ず自分の布団も並べていた。
それなのに今、隣に早希の布団はなかった。
二日酔いの頭に、先ほどの夢が思い起こされる。
ーー早希のいない世界。
「早希、早希! いるか、早希!」
痛む頭に手をやり、大声で早希を呼ぶ。
「早希っ! 早希っ!」
「はーい」
リビングから早希の声がした。
「はいはい、どうしたの信也くん」
襖が開けた早希が枕元に跪き、信也の頭を撫でた。
「やっと起きたのね、おはよう。あ、違うか。おそよう」
そう言って意地悪そうに笑う。
その早希を、信也が力任せに抱き締めた。
「え? なになに?」
「早希、早希っ!」
「はいはい早希ですよ。信也くんの可愛いお嫁さんですよ」
「俺、早希がいなくなったと思って……」
「今の信也くん、なんか可愛い。写真撮っていい?」
「あ、いやそれは……それよりもう少し、このままでいさせてくれ」
「ふふっ、いいよ」
そう言ってもう一度、信也の頭を優しく撫でた。
「怖い夢でも見た?」
「うん……怖い夢だった」
「どんな夢?」
「あ、いや……」
「教えてよ。隠し事はなし、でしょ?」
「……そうだな、そうだった。実は……巨人になったナベさんたちに追いかけられて」
「ふふっ、何それ。そんなに怖かったの?」
「怖かった。山さんなんか、俺をつかんで握り潰そうとして」
「あははははっ。よっぽど昨日の宴会が怖かったんだね」
「かもな」
「落ち着いた?」
「ああ……だいぶ落ち着いてきた」
「頭はどう? 痛くない?」
「無茶苦茶痛い」
「完全な二日酔いだね。昨日、これでもかってぐらい飲まされてたから」
「多分、人生で一番飲んだ」
「篠崎さんが一番に潰されてたけど」
「あいつは俺より弱いからな」
「でも信也くんも、次に潰されてた」
「まあ、あのメンバーならそうなるよな」
「その後もみんなで大宴会だったんだよ。それにさくらさんが大変で」
「そうなのか?」
「うん。さくらさん、多分あの中で一番強かったと思う。何度も何度もみんなと乾杯して、ナベさんたちより飲んでたから」
「ははっ、流石さくらさん」
「あと、意外だったのが五百旗頭さん。あの人もかなり強かったよ」
「キベさん……本当、謎の人だな」
「で、終電前にやっとお開き。篠崎さんはさくらさんが家に連れていった」
「今何時?」
「15時」
「え?」
「15時。昼の15時だよ」
「マジか……」
「篠崎さんももう帰ったみたい。私はそんなに飲まなかったから、午前中に起きて片付けしてたんだ」
「悪いな、全部やらせちまって」
「別にいいよ。それに信也くん、昨日まで色々大変だったでしょ? ちょっと休ませてあげたいって思ってたから」
「ありがとう、早希」
「それだけ?」
「え?」
「もー、信也くん、早速忘れたの?」
「あ、そうだった。危うく一日目から忘れるところだった」
そう言って早希の頬に手をやると、優しくキスをした。
「おはよう、早希」
「おはよう、信也くん。ちゃんと覚えてたね」
「流石にな。朝起きたらキスで挨拶、だろ?」
「うん。そして今のが、夫婦になって初めてのキス」
「そうか……なんだかんだで、昨日は出来なかったもんな」
「一日一回は必ずキスするって決めてたのに、初日からいきなりアウトだよ」
「ごめんな」
「ううん。その代わりに今日、いっぱいして」
「分かったよ、お姫様」
「それでどうする? シャワー浴びる?」
「そうだな。まだ頭痛いし、すっきりさせるよ」
「その間にご飯用意しとくから。少しは食べられるかな。二日酔いに効きそうなの、用意してるんだけど」
「どこまでも気の利く奥様だ」
「じゃあ、水をしっかり飲んでからシャワー、浴びてきて」
シャワーを浴びると、少し頭がすっきりした。
動悸も収まってきた。
つい咄嗟に、夢の内容を誤魔化してしまった。
でもなぜか、そのことを早希に言いたくなかった。
まだ胸に、不安な気持ちが残っている。
その不安を、早希に気付かれたくなかった。
二人の新しい生活が始まった。
毎日が新鮮で充実している。
早希と付き合うようになってからも、そう感じていた。
しかし今感じているそれは、以前とは比べ物にならないほどに大きかった。
――満ち足りた安息感。
これが幸せというものなのか。改めてそう思い、早希に感謝した。
ただ、気になることがひとつあった。
あやめのことだ。
籍を入れてからも勉強会は続けられ、あやめは毎晩家に来ていた。
しかし入籍のあの日から、あやめの様子が明らかに変わっていた。
いつも早希にべったりで、勉強にも以前ほど集中出来ていなかった。
「あやめちゃん、どう? どこか分からないところある?」
「え……あ、えーっと……大丈夫」
そう言いながら早希の隣に侍り、早希の顔を何度も見ていた。
入籍の翌日。あやめは信也と早希にこう言った。
「これからはその……お兄さんは早希さんの旦那さんになった訳だから、守っていかないといけない。だからお兄さん、早希さんが外に出る時は、必ず一緒に行ってほしい。
この辺りはいい所。だけど早希さんみたいな綺麗な人が一人で出るのは、やっぱり危険」
「まーたまたまた。あやめちゃんてば、いくらほんとのことでも照れちゃうじゃない。でもそうだよね。私ってば可憐な乙女なんだから、旦那様に守ってもらわないとね」
「早希、調子乗りすぎ」
「えへへへ」
「でもあやめちゃん、どうして急にそんなこと」
「お嫁さんは旦那さんが守る。当然」
「買い物も?」
「荷物、持ってあげて」
「でも、どうしてもって時もあると思うんだけど。その時はいいかな」
「その時は私を呼んで。私がついていく」
「……そうなのか?」
「出来ればしばらく、そうしてほしい。これは夫の義務。お兄さんお願い、約束して」
「……分かった」
あやめの要求に無理があるのは承知していた。
しかし滅多に自分の意見を言わない彼女の言葉だ。聞いてあげよう、そう思った。
ただ最後の「しばらく」と言う言葉が引っかかっていた。
しばらくとはいつまでなんだろうか。そしてそれに、どういう意味があるのだろうか。
そう思いを巡らせた時、以前彼女が言った、「人は自分にない物を持ってる人のことを怖がる」との言葉が思い起こされた。
あやめちゃんは何かを隠している、そんな気がした。
そう思い出すと、信也も不安になってきた。
信也はあやめの言う通り、早希と行動を共にすることを心掛けた。
とは言え、それはいつもとあまり変わらないことだった。
あやめに言われなくても、信也と早希はいつも一緒にいる。
会社に行くのも帰るのも、実家に行くのも買い物に行くのも。いつも二人は一緒だった。
そうしているうちに、信也の不安も少しずつ薄れていった。
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