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010 やっぱり私、信也くんが好き
しおりを挟む「嘘―っ !」
風呂場を探索していた早希が、叫びながら戻ってきた。
「だから早希……早希さん? いくら何もないからって、そこまで物色する? てか、フリーダムすぎない?」
「そんなことより信也くん、何あのお風呂」
「ばっちいだろ」
「そうじゃなくて」
「何かあった?」
「何もないから言ってるの! 流石にお風呂はって思ってたのに」
「何?」
「信也くん、シャンプーは?」
「ないけど」
さも当然という顔で、信也が答える。
「まさかと思うけど信也くん、髪は何で洗ってるの」
「だから石鹸。頭も顔も体も、全部石鹸」
「これはちょっと……びっくりだわ」
「そう? 男なんてこんなもんだろ」
「そんなことないって。信也くん、髪はシャンプー使おうよ」
「ん~」
「それにリンスも。それだけで全然違うから」
「そうなのかな。分かった、今度買っとくよ」
「やっぱりそこは、こだわりって訳じゃないんだ」
「まあね。でもまあ、早希がそこまで言うんだから、一度試してみるよ」
探索を終えた早希がテーブルの前に座り、信也の顔を覗き込む。
信也はテーブルに灰皿を置くと、早希に断り煙草に火をつけた。
「信也くんが一番こだわってるのって、煙草なのかもしれないね」
「ああごめん、やっぱ煙きつい?」
「そういう意味じゃないよ。自分の部屋なんだし、堂々と吸ってください」
「恐縮です」
そう言って二人、顔を見合わせ笑った。
会話が途切れ、二人の間に沈黙が続く。
耳に入るのは、堤防沿いを走る車と風の音だけ。
しかしその沈黙は、二人にとって居心地の悪いものではなかった。
穏やかで、心地良いひと時。
互いの顔を見つめあい、視線は動かなかった。
「信也くん……」
早希の口元がわずかに動いた。
「やっぱり私、信也くんが好き」
憂いに満ちた大きな瞳に、胸が締め付けられる。
こんな感覚、遠い昔に捨てたはずなのに。そう思った。
「信也くんは、どうして付き合うのが嫌なの?」
「……」
「今日は私の、23回目の誕生日。プレゼントだと思って、教えてくれませんか。
私、ずっと信也くんを見てました。会社での信也くんは本当に優しくて、頼りがいがあって格好よくて。寝ぐせが立ってるのも好き。気を抜くと死んだ魚の目みたいになるけど、他人に対してはいつも真剣で」
「褒められるのに慣れてないから、その辺にしてくれるとありがたい。あと、さらりと嫌味を挟むのもやめてもらえると」
「魚の目の信也くんも好き。でも、どこか遠くに行ってしまいそうで少し怖い時もあって……今度から、そう感じたら手、握ってもいいですか」
「いやいや、勘弁してくれ」
「私は信也くんのこと、そういう風に思ってました。この気持ち、ずっと胸の中で育ててきました。
なのに信也くん、女と付き合うつもりはないって。タイプじゃないって言うならまだしも、そんな理由じゃ私、引き下がれません。生まれて初めての告白、そんな簡単に諦められません」
「俺は」
熱い視線に耐えられなくなり、信也が再び煙草に火をつける。
「俺は本当、早希が思ってるような男じゃない。そんな風に見てくれるのは、素直に嬉しいけど。
でも俺は、誰とも付き合う気はないんだ」
「理由、聞かせてくれませんか」
「……」
「信也くん」
「……分かった、正直に言おう。俺は人を信じてないんだ」
「人を?」
「うん。俺は誰も信じていない」
「……どうして?」
「裏切られるのが怖いから。だから信用しない。シンプルだろ?」
「全然シンプルじゃない。と言うか、極端すぎるよ。人間って、そんな0か100かで割り切れるものじゃないでしょ」
「そう思える人はそれでいいと思う。でも、俺には無理なんだ」
「だから信也くん、生きることに喜びを求めてないんだ。そういうことか」
「どういうこと?」
「この家を見て、信也くんが楽しみから目を背けてることは分かった。便利なものがいっぱいあるのに、使おうともしない。楽しいものがたくさんあるのに、知ろうともしない。
料理だって、工夫すればおいしく食べられるのに、この家には調味料もない。着る服で気持ちも変わるのに、興味を持とうともしない。
信也くん。気付いたことがあるから聞きたいんだけど、信也くんはどうして石を集めてるの?」
「好きだから」
「じゃあどうして、石が好きなの?」
「それは……変化しないからだよ」
「やっぱり」
「何だよ、やっぱりって」
「思った通り。信也くん、人と深く付き合うことで、関係が変化するのを恐れてる。人の気持ちが変わることを恐れてる。
確かに石は、よほどのことがない限り変わらない。まるで時間が止まってるみたいにね。でも人は違う。石じゃない。私も信也くんも、生きてるんだよ。今を」
「……」
信也が難しい顔で煙草を揉み消す。
「……今日は楽しかったよ。名前で呼び合うことで、早希の新しい一面も見れたし」
「あー。信也くん、話をまとめようとしてるー」
「俺の話を聞いて、だいぶ幻滅したろ? 今まで通り仕事して、たまに軽口叩き合って。それでいいじゃないか。
俺は早希の思うような男じゃないし、懐も深くない。情も薄い。早希の言う通り、人生に楽しみも求めていない。
こんな俺で妥協なんかせず、もっといい男と付き合うべきだ。職場にもいるだろ?若いやつ。何なら紹介するよ」
「だからまとめないでくださいって」
「何日か経って冷静になったら、俺への気持ちなんてすぐ冷めるよ」
「信也くん……」
早希が、信也の手に自分の手を重ねた。
驚いて手を引っ込めようとしたが、早希は離さなかった。
「信也くん……多分私、信也くんが思ってる以上に信也くんのことが好き。今の信也くんの話を聞いても、全然想いが変わらない。それより今日一日、信也くんと過ごしたことで私、昨日よりもっと信也くんが好きになった」
「あ、あの……早希……」
早希の温もりが伝わってくる。
「信也くん……」
早希の顔が近付いてくる。ゆっくりまぶたが閉じられる。
「ひゃっ」
信也が空いてる方の手で、早希の頭を軽く小突いた。
「この肉食女子め。一人暮らしの男の部屋、襲うのは俺の方だろ」
「もぉー」
早希が頬を膨らませた。
「分かりました。じゃあ今日はこれで帰りますね。信也くんが手を出してくれたら、お泊まりもありって思ってたんだけど……今日は戦略的撤退とします」
「お泊まりって……お父さんとお母さん、泣くぞ……」
「……ははっ、そうですね」
早希が軽く笑い、立ち上がった。
「じゃあ信也くん、今日は一日ありがとうございました。とっても楽しかったです」
「いや、結局何もしてあげられなくて悪かった。せっかくの誕生日だったのに」
「いえ、最高の誕生日でした。今までで二番目に」
「ならよかった。明日はゆっくり休んで、また月曜からよろしくな」
「信也くんは明日、どうしてるんですか」
「出かけるつもりだけど」
「お出かけ……どこにですか?」
「摂津峡」
「摂津峡って、高槻の?」
「うん。先週も行ったんだけど、雨が降ってきたんですぐ帰ったんだ。明日は天気もいいみたいだし、リベンジにね」
「そうですか……分かりました。じゃあ信也くん、おじゃましました」
「ああ。誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
そう言って笑顔を見せた早希が、信也の頬にキスをした。
一瞬の出来事で、よける暇もなかった。
しばらくして離れた早希は、うつむいたまま囁くように言った。
「信也くんの……こういう隙が多い所も好きなんです」
そう言うと、早希は走っていった。
呆然としていた信也だったが、ふと我に返ると、
「駅まで送ろうと思ってたけど……追っかけるのも悪いよな、多分……」
そうつぶやき鍵をかけた。
再び煙草に火をつけると、大きく煙を吸い込んだ。
「三島早希さん、か……」
頬に手をやると、また胸が締め付けられた。
だが信也にとってそれは、決して嫌な感覚ではなかった。
そしてそう感じた時、彼の脳裏に秋葉の顔が浮かんだ。
「いや、駄目だ……駄目なんだ……」
そうつぶやき、荒々しく煙草を揉み消した。
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