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009 おじゃまします
しおりを挟む大阪メトロ御堂筋線の東三国駅を降りてしばらく歩くと、川が見えてきた。
淀川の支流、神崎川。
その堤防沿いにある、築40年の2階建て文化住宅。
そこが信也の家だった。
「なかなかに趣のある……建物ですね」
流石の早希も、これは想定外だった。
「で、ほんとにこれでいいの?」
「あ、はい。信也くんの家、一度見てみたかったので」
「物好きだな。中に入っても何もないよ。ただただボロっちいだけだし」
「でも、信也くんにとって、この家は特別なんだよね。さっきの話からすると」
「何か言ったっけ」
「買い物が終わったらまっすぐ帰るって。信也くん、休みも家にいることが多いんでしょ? この家が一番落ち着くんだろうなって思ったの」
「みんなそうじゃない? 落ち着く場所って言ったら、普通家だろ」
「信也くんは多分、普通ってカテゴリーには入らないと思うよ」
「そうなのか……俺、ずっと普通と思ってたんだけど」
「あーごめんごめん。駄目って意味じゃないから。でもね……部屋を見たら私、信也くんのことを今よりもっと好きになると思うの」
少し真面目な顔をして、早希は家を眺めた。
「分かった。でもいいの? 年頃の女子が男の部屋に」
「何かしてくれるんですか?」
「しないよ」
「残念」
少し口をとがらせて、早希が笑った。
錆び付いた金属製の階段で2階に上がる。
安っぽい合板の玄関に鍵を差し、促されて玄関に入る。台所と、ガラス戸で仕切られた六畳間が見渡せた。
「えっ……えっ? 信也くんこれって……えっ? 家具は?」
台所には備え付けの流し台があるだけで、冷蔵庫もなかった。
食器棚もなく、流し台の上にコップと皿、茶碗が置いてある。
奥の六畳間に入ると、布団が今朝の惨状のまま放置されていた。あとは小さなラックの上に置かれたモニター、壁にかかっている作業着、服の収納ケースがあるだけだった。
「家具と言えるものはないかな。狭い家だし」
早希の反応にもお構いなしの様子で布団をたたむと、昔ながらのネジ締り錠を回し、木製の窓をゆっくりと開けた。
「懐かしい……その鍵、まだ現役だったんだ」
「あ、早希は知ってた? この、くるくると鍵をまわすタイプ。この感触を楽しめるだけで俺、ここに住んでよかったと思ってるんだ」
「なんでいきなりテンション上がってるんですか。確かにその鍵、ノスタルジックな感じで好きなんだけど……そうじゃなくて信也くん、なんでこの家、こんなに物がないの? ひょっとして、流行りの断捨離?」
「そんな大層な物じゃないよ。と言うか、別に困らないだろ。必要なものは揃ってるし」
「信也くん信也くん、困るし揃ってないってば。まず冷蔵庫、なんでないの?」
「飯なんて滅多に作らないし、食材も食べる時に買ったら済むだろ」
「お茶とかお酒とか。冷蔵庫がなかったら冷やせないじゃない」
「冷たい飲み物って、あんまり好きじゃないんだ。どっちかって言えば、常温の方が好き」
「ビールとかも?」
「うん、常温で全然オッケー」
「なんか……すごい物を見てるって感じ……信也くん、さっき私が言ったこと覚えてる? 信也くんは家が一番落ち着く、一番大切にしてる場所だと思うって言ったの。
家って、その人の個性を一番出せる場所なんだよ。だから私、すっごく楽しみだったのに……これは想定外だよ」
「だから言ったろ、面白くないって」
とりあえず早希を座らせ、折り畳み式のテーブルを出すと、途中で買っておいた缶コーヒーを並べた。
「信也くんって、ここでいつも何をしてるの?」
「そうだな……窓を開けたら川が見えるし、夜になったら星も見える。あとは本を読んだり、たまにビデオを借りて観たり。そんな感じかな」
早希がモニターの置かれたラックに目をやる。確かにその中には、文庫本がぎっしりと詰まっていた。
しかし早希が興味を惹いたのは、それではなかった。
ラックの上に並べられている、いくつもの石だった。
「これって石……だよね」
「うん、石」
「なんでこんなに石が?」
「好きだから」
「……」
「石が好きだから。ちなみに、そこにいるやつらは一軍。二軍たちは箱に入れて押し入れの中」
「う~ん……」
「どうした? 何か引っかかった?」
「引っかかったって言えば引っかかったかな。この家で唯一信也くんの個性が出てるのが、石だったってことに」
「遠慮しないで、はっきり言っていいよ。変だって思ったんだろ」
「そうじゃなくて。この石で信也くんが少し見えたかも、って思ったの」
「どういうこと?」
「この家に家具がないことも、ある意味信也くんの個性だって思った。ちょっとびっくりしたけど、でもそれで信也くんが落ち着けるのなら、それもありなんだろうなって」
「そう?」
「うん。でも信也くん、もしもだよ、もしも誰かと一緒に住むことになって、部屋が家具でいっぱいになったとしたら、どう思う?」
「他人と一緒ってのは考えにくいけど、でもまあ、そういう状況なら受け入れるかな」
「だよね。信也くんならそうだと思う。だけどもし、同居人が石は嫌だから飾らないでくれって言ったら?」
「それはちょっと困るかな。数は減らしても、いくつかは並べたい。それも駄目なら、同居を解消すると思う」
「よかった」
「どうして?」
「なんだろう。この家に入って私、信也くんは何に対しても執着してないのかなって思ったんだ。周囲のことはあんなに気にしてるのに、自分のこととなると無頓着。今日服を見ていた時も、自分の服となると途端に興味をなくしてたし。
本もあるしテレビもあるけど、それもなんて言うのかな、時間を潰すための手段って感じがする。
信也くんって、楽しむことを怖がってるのかなって思ったんだ。
でも信也くん、石にだけは譲れない気持ちを持ってた。だからほっとしたの」
「よく分からないけど」
「だから信也くんも、信也くんなりに人生を楽しんでるってこと」
「そうなのか?」
「なんでそこで、信也くんが驚くのよ」
早希が小さく笑った。
その早希の笑顔に、信也は思わず見惚れてしまった。
流石にこんな部屋を見れば、自分への好意も冷めるだろう、そう思っていたはずなのに。今の早希の言葉に、不覚にも安堵している自分がいた。
「だけど本当に、何もない部屋ですね」
早希がそう言って立ち上がり、窓から顔を出した。
「でも、この景色は私も好きかも。風も気持ちいいし」
そんな早希に信也もまた、
「だろ? お気に入りなんだ。何時間でも見てられる」
そう言って笑った。
「何時間もは無理かな」
「そう?」
「そうだよ、ふふっ」
初めて他人を、女性を家に入れた緊張感は消えていた。
ぶっきら棒に振る舞ってはいたが、かなり無理をしていた。
信也も窓の外を眺め、早希と一緒に笑った。
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