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004 おかえり
しおりを挟む「おはようございます。副長、今日は遅刻しませんでしたね」
「ああ、なんとか……間に……あった……」
息も絶え絶えに返事する信也に、早希は笑いをこらえられなくなった。
「ふっ、ふふっ……もぉ副長、朝から笑わせないでくださいよ」
「わ、笑うなんて……ひ、ひどいんじゃないか?」
「ごめんなさい、でも、ふふっ……副長って本当、可愛いですよね」
「……からかうなよ」
「じゃあ、動かないでくださいね」
ポケットから櫛を取り出し、信也に近付く。
「だから、どうせ帽子かぶるから」
「駄目です。せっかく間に合って朝礼するんですから、身だしなみはきちんとしてください」
そう言って、信也の髪を丁寧にといていく。
「副長の髪って、ほんと猫っ毛ですよね。細くてやわらかくて」
「おかげで昔から、髪型では苦労してるんだ」
「でも私は好きですよ、このやわらかい髪」
「多分禿げると思うけど」
「じゃあワカメ、しっかり食べないと」
「ほっとけ」
「はい、出来ました。それと……副長、眼鏡貸してください」
「眼鏡? どうするんだ?」
「いいから貸してください。ほらもう……副長、レンズちゃんと拭いてます? 汚れひどいですよ」
「そうか? 気にならない程度にはしてると思うけど」
「副長って、自分のことになるとほんと、無頓着ですよね。周囲にはすごく気を使ってるのに」
そう言いながら、拭き終わった眼鏡を信也に渡した。
「おおっ! 確かに視界がクリアになった!」
「早く着替えてくださいね。せっかく間に合ったんですから、朝礼お願いしますよ」
「やばっ、もう時間が!」
壁にかかった時計を見て、信也は慌てて更衣室に向かった。
定時のサイレンがなり、作業員たちがぞろぞろと工場を後にする。
信也もその流れに乗って歩いていた。
「副長、お疲れ様でした」
早希が後から追ってきて、信也の隣に並ぶ。
「三島さんもお疲れ。今週もありがとな」
「今日もまっすぐ帰宅ですか?」
「今から実家。昨日母ちゃんに電話で言われてな」
「そうなんですか。ちなみに実家って、どちらですか」
「隣。高槻の摂津富田」
「じゃあ二駅ですね」
「近くで働いてるのに、全然帰ってこないのってどうなんだ? って、えらく詰められてな」
「お母さんは大事にしないと」
話している内に、送迎バスの停留所に着いた。
これに乗ると、JR茨木駅までノンストップで行ける。
車内で早希を座らせ、その前に立つと早希が申し訳なさそうに言った。
「副長が座ってくださいよ。と言うか、隣空いてますよ」
「俺はいいよ。ここは中高年の人が多いからな、多分俺より疲れてる」
そう言っている内に隣の席も埋まり、しばらくするとバスが動き出した。
「……ほんと、副長は他人に気を使うことで頭がいっぱいなんですね」
「座席ぐらい普通だろ。俺、若いし」
「そういうことじゃなくて……なんて言ったらいいのかな、とにかく副長は、もっと自分のことにも気をまわしてください。と言うか、自分を大切にしてください」
「よく分からんけど……俺のことは三島さんが気を使ってくれてるし、それでチャラでいいんじゃない?」
「……」
「分かった、分かったから怖い顔で睨まないで。了解、気をつけるよ」
「ほんと、お願いしますよ」
「そういえば三島さんって、どこから来てるの? 聞いたことなかったよね」
「私は枚方です」
「枚方か」
「はい。だから結構面倒なんですよ」
「だよな。地理的にはすぐ近くなのに、直通の電車、ないもんな」
「バスしかないですから」
「地理的には遠いけど、俺なんかJRで一本だからな」
「副長は淀川区でしたよね。いいなぁ、あの辺りって便利そうで。梅田も近いし」
「勘違いしてるようだから言っとくけど、俺が住んでるのは昔ながらの下町だから。お洒落でも何でもないよ」
「そうなんですか? あの辺りって、住宅地で都会って感じじゃないんですか?」
「それを言うなら、枚方だって住宅地だろ? 俺の感じだと、あっちの方がお洒落な気がするけど」
「私のマンションはかわいいですよ。まだ出来たばかりみたいだし」
「家賃高そうだな」
「ワンルームで9万です」
「高っ!」
そうこう話している内に、バスがJR茨木駅に着いた。
「じゃあまた来週。ゆっくり休んでね」
京阪バスの停留所まで付き合い、信也が言った。
「お疲れ様でした。それでその……副長、金曜大丈夫ですよね」
早希が不安そうに信也を見つめる。
「ああ、ちゃんと空けてるから大丈夫だよ。一緒に飯でも食べようか」
「あ、はいっ! 楽しみにしてます!」
信也の言葉に、早希の表情が明るくなった。
「じゃあ、お疲れ」
「お疲れ様でした!」
ドアが閉まり、早希を乗せたバスが動き出す。
「お疲れ」
もう一度そうつぶやき、信也は改札口に歩いて行った。
彼女が自分の部署に来て2か月。
比較的よく話すが、業務のことばかりだ。考えてみたら、住んでるところも初めて知ったな。そう信也は思っていた。
でもまあ、同僚との付き合いなんてこんなもんだろう。深く付き合うこともない。
そんなことを考えているうちに家に着いた。
芥川の支流と阪急電車の線路が交差する場所にある、二階建ての一軒家。それが信也の実家だった。
玄関周りに並べられた、色とりどりの花になごみながら、インターホンをならす。
母、幸子の応答に答えると鍵が開き、ドアが開くと同時に小さな男の子が勢いよく信也に飛びついてきた。
「にーに、おかえり!」
「おっ、勇太、今日も元気だなあ。ただいま」
信也が笑い、勇太と呼んだ男の子の頭を大げさに撫でた。
勇太は信也の姉、知美の子で、今年3歳になる。
信也にとって甥にあたり、信也も我が子のように可愛がっていた。
姉の知美は信也の7つ上で、今は母の幸子と同居している。
2年前に夫を病で亡くし、シングルマザーとして勇太を育てていた。
せがむ勇太を抱え上げて肩車すると、勇太が声をあげて喜ぶ。
リビングに入ると、幸子がテーブルに晩御飯を並べていた。
「おかえり。一週間お疲れ様」
「ただいま。姉ちゃんは?」
「部屋にいるよ」
頭の上の勇太をくすぐると、勇太がきゃっきゃと喜ぶ。
「秋葉ちゃんが来てるから」
その言葉に、信也の手が止まった。
そしてゆっくりと勇太を下ろし、
「……そっか」
と、そっけなく答えた。
「またそんな顔して。男のくせに、いつまでもうじうじと」
幸子がそう言い、ため息をつく。
「ほら、姉ちゃんと秋葉ちゃん、呼んできて。ご飯出来たから」
「……分かったよ」
幸子に促され、信也は重い足取りで知美の部屋に向かった。
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