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002 哀愁
しおりを挟む早希の死を聞かされたのは5日前。
現実を受け入れる時間も与えてもらえず、霊安室で対面。
頭だけで彼女の死を認識させられた。心は置き去りのままだった。
警察での手続き。何枚もの書類にサインし、関係者に連絡。
通夜に葬儀、遺骨を自宅に安置するまで。信也は機械的に、黙々と目の前の項目をこなし続けた。
部屋の一角に小さな仏壇を設置してもまだ、実感がわかなかった。
今日は葬儀にも来なかった、早希の唯一の身内である叔父宅を訪ねていた。しかしそこで早希への侮辱を浴びせられ、打ちひしがれた気持ちで戻って来たのだった。
マンションに着いた頃には、空が茜色に染まっていた。
いつも早希と歩いた、神崎川の遊歩道。
信也は無意識のうちに、そこを歩いていた。
そこで何度も、早希の幻を見た。
「信也くん。私ね、この川が大好きなの。この川って、穏やかでゆっくり流れてて……まるで信也くんみたい。
だから私、ここに住みたかったの。ここで信也くんと一緒に、ずっとずっとこの川を眺めていたいんだ」
「見て見て、鳥が泳いでる。あれ、何て鳥かな。写真撮って後で調べようよ」
「花、咲いてきたね。なんかこう、春って感じだね」
「ははっ……」
遊歩道から堤防を上がり、マンションに向かう。
その時背後から、男が声をかけてきた。
「副長」
工場の後輩、篠崎だった。
「篠崎……」
信也が力なく答え、微笑む。
大股で歩み寄ってきた篠崎は、無言で信也の胸倉をつかんだ。
「副長……約束してくれたっすよね。三島さんの事、守るって。幸せにするって」
「……」
「なのになんでっ! なんでこんなことになってるんすか! なんで、なんで守ってくれなかったんすか!」
「……すまん」
信也がうつむいたまま、小さくそうつぶやく。
その言葉に篠崎が肩を震わせ、信也の胸に顔をうずめた。
「……三島さん……なんで……なんでこんなことに……」
言葉は嗚咽へと変わっていった。
やがて顔を上げた篠崎は涙を拭い、信也と目を合わすことなく背を向けた。
「すいませんした。八つ当たりっすよね、こんなの……副長が一番苦しんで、一番哀しいのに……
帰って頭冷やすっす。副長も疲れてるっすよね、ゆっくり休んでほしいっす」
「ああ」
「……すいませんした」
そう言うと篠崎は、振り返ることなくその場から走り去っていった。
その背中に、信也はもう一度「すまん」と小さくつぶやいた。
信也と早希が二人だけの時間を紡いできた、川沿いのマンションの503号室。
ポケットから出した鍵を差し込んだ時、こうして鍵を差すのはもう自分だけなんだ、そんな思いが脳裏をよぎった。
その時、隣の部屋のドアが静かに開いた。
「お兄……さん……」
ドアから顔を出したのは、隣の住人、林田姉妹の妹、あやめだった。
「ただいま。やっと終わったよ」
力なく笑う信也の顔に、あやめが膝から崩れ落ちた。
「わたっ……私、私が……ごめんなさい、ごめんなさい……」
あやめがそう言って、何度も何度も謝る。そんなあやめの頭を、信也が優しく撫でる。
「なんであやめちゃんが謝るんだよ。言っただろ、あやめちゃんのせいじゃないって」
「違う、違うの……私がちゃんと……勇気を出してたら……」
「大丈夫。あやめちゃんは何も悪くないよ。だから……ね」
「お兄さん……お兄さん……」
あやめは信也の胸に顔をうずめ、声をあげて泣いた。
「落ち着いた?」
「はい……ごめんなさい、お兄さんの方が辛いのに、私が泣いちゃって」
「いいよ。あやめちゃんが泣いてくれて、変な言い方だけど嬉しかった」
「お兄さん……」
「さくらさん、まだ仕事だよね」
「はい。姉さんもお兄さんのこと、心配してました。帰ってきたらお兄さんが戻ったこと、伝えておきます。
今日はお兄さんも疲れてるはずだから、日を改めて顔を出すように言っておきますね」
「ありがとう、あやめちゃん」
信也が笑みを浮かべ、もう一度あやめの頭を撫でた。
「じゃあ、今日はこれで。まだ夜は冷えるから、寝るときはあったかくするんだよ。病み上がりなんだし」
「ありがとうございます。それで、その……」
「何かな」
「あ、いえ……やっぱりいいです。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ドアの鍵をかけて靴を脱ぐと、信也の脳裏にまた「この家に、もう早希はいない」という現実が蘇ってきた。
二人の為に手に入れた家だったのに、もうこの家には俺しかいない。
もう二度と、早希が自分を迎えてくれることはない。
二度と灯りの灯った家に帰ってくることはないんだ。
玄関の隣の部屋を開けると、まだあの日のままになっていた。
早希が慌てて出て行ったんだろう。クローゼットが半開きになっていた。
鏡の前にはスウェットが脱ぎ散らかされている。
でもまだ、それを片付ける気にはならなかった。
そっと扉を閉め、リビングに向かう。
そして小さく息を吐き、リビングのドアを開けた。
「……」
リビングの灯りが煌々と灯っていた。
「消し忘れた、のか……朝、バタバタしてたしな」
だが、不思議と気持ちが落ち着いた。
今日はこれでよかったのかもしれない。
今日だけは、真っ暗な家に帰りたくなかった、そう思えた。
電気を消し忘れた、朝の自分を褒めてやりたい。
和室の仏壇には、早希の遺骨と遺影が祀られている。
信也は微笑み、遺影に語り掛けた。
「ただいま、早希」
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