城下町にて

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王族の褒賞

第1話 羽虫

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「私ね、貴女さえいれば辛くないの。貴女は辛いだろうけれど、それでも、貴女を望むのは……間違っているのかしら」

苦しそうな寝息を立てる老女の枕元で、ベッドにすがりつきながら囁いた。もちろん老女には聞こえていない。聞かれては困るが聞かれなくても悩む問いかけだ。

瞼を閉じると蘇るかつての記憶。ベッドに伏せる彼女は若かったあの時間から、私を置いて歳をとり、近い日を遠い日と呼ぶ。それはひとえに生きてきた時間の差、そこからくる価値観の差異。それが悲しくてたまらない。

「……また美味しいスープを作ろうかしら。貴女の好きなジャガイモを、貴女の食べやすいように柔らかく煮込んで、貴女のために」

返事はないが、それでも良かった。きっと喜んでくれる。どうにかそう信じて荷物を纏め、深く暗い色のローブを羽織った。尖った耳を隠すようにフードを深く被ると家を出た。腐った木の扉がギィと軋んだ。



外は柔らかい日差しが溢れている。色とりどりの石畳に踵を鳴らして歩けば重苦しいローブが煌めき、影を落とす赤レンガの町並みは窓際に可愛らしい鉢花。どこからか遊ぶ子供の歌声が聞こえてくる。

しかし、その明るさはどこか、私を責めているようにも思えた。日の光で刺し殺されるような、暖かい空気で今に喉を詰めるような、そんな妄想を強いてくる。そうして私は薄暗く湿った部屋に残してきた彼女の事ばかり考えている。

「お姉ちゃん、ちょっと寄ってお行きよ」

突然そう声を掛けられ、振り向くと骨董屋の店主が立っていた。日に焼けた顔は人の良さそうな笑みを浮かべている。

「いえ、急いでいるので」

「そう言わずに。見るだけでもいいじゃないか」

断ろうにも、やけに店主はしつこい。どうにもキッパリと断るのが苦手な性分もあって、私は店の中に押し込まれてしまった。

店の中は薄暗く、魔法の掛かった無数のランプがボンヤリと柘榴色に光っている。その光に照らされる大小様々な品の数々。高等魔術の術具からインチキな魔術書、背の高い柱時計や料理鍋まで、所狭しとひしめき合っていた。その品々を押し退けつつ店主は奥へと入っていき、太い指で煌びやかなネックレスをつまみ上げる。

「ほら、これなんてどうだい。美しいだろう。きっとアンタに似合うと思うんだが」

「そうかしら……。とても残念だけれど私、急いでいるんです。どうか帰して貰えませんか」

「まぁそう言わずに。こっちのブレスレットはどうだい?これもまた価値のあるものでね」

断ってみても店主は引かない。次々と品を取り出しては散らかった机の上に並べていく。そのどれもが私にとってはガラクタだった。あの指輪を見るまでは。

「とっておきを見せてあげよう。これだよ」

そう言って店主がそっと手のひらを開き、そのゴツゴツした指の上にはシルバーの美しい指輪があった。嵌め込まれた小さな宝石は青緑に光る。そして、僅かな魔力を感じた。
 
「これは」

「おや知っているのかい?そうだよ、治癒の輝石さ。絵本なんかで読んだことあるだろう。そこらじゅうにインチキだの偽物だのが出回ってるって言うが、これは本物さ。ここは魔術品の骨董屋だからな」

嬉しそうに店主は語る。随分と小さく魔力も少ないが、一人の人間を生かすには十分だ。店主は最後にその笑顔のままでスッと声を潜め、

「なぁ、妖精族なら分かるだろう?」

私は薄暗く湿った部屋に残してきた彼女のことを考えていた。



重いローブを引き摺るように市場を彷徨う。あっちでもない、こっちでもない。迷いが私を迷わせた。

あの後、骨董屋の店主に考える旨を告げて店を飛び出した。心ではあの指輪が欲しくてたまらず買う事も決めていたが、銅貨すら底がつきそうなほどに貧困であるのも事実だった。私に売れるものがあれば良いが、生憎、すべてを彼女の為に捨てた身である。何一つ残ってはいないというのに、その彼女も先が長くない。彼女を失えば私には何も残らないのだった。思い出を除いては。

「危ない!」

突然に響いた声と、誰かに突き飛ばされる衝撃。地面に勢いよく転がった私のすぐ側を何かが駆けていく。そして、その後を数名の騎士が馬で追う。

「大丈夫?ね、大丈夫なの?」

倒れたままで混乱する私に手を差し出す少女。その容姿にハッと息を飲んだ。美しい黒髪は男のように短く刈り込み、頬には妖しい蜥蜴の刺青。東洋人の端正な顔立ちの中で色素の薄い瞳がオオカミのように光っていた。そんな姿でも少女と分かったのは、掠れ気味の丸い可愛らしい声だったからだ。

少女は心配そうに首を傾げる。なかなか手を取らない私を不思議に思っての事だろう。地味ながらもよく見ると刺繍やレースの施された服から伸びた手を、手袋をしているのを確認してから、ようやく掴んだ。力強く私を引いて起こしてくれる。

「ありがとう。突き飛ばしてくれたのも、あなたなのかしら?」

「そうだよ。お姉さん、ずっとフラフラしてて危ないなって思って見てたの。そしたら、何か市場の向こうが騒がしくなっちゃって。突然の事だし、突き飛ばしちゃっても良かったよね?そうだよね?」

子供のように何度も尋ねる少女に微笑んで肯定してやると、嬉しそうに頬を染めた。そうして大人びて落ち着いた外見からは想像も出来ないような勢いと幼さで、私の手を取って歩きながら話し始めた。

「でもさでもさ、さっきは驚いたよ。まさかこんな街の中でグリフォンが見られるなんて!珍しいよね、ね、そうでしょ?」

「グリフォン?さっき逃げていったのがそうなのかしら?」

「そうだよ、見てなかった?すっごく大きいヤツ」

「んー、転んじゃっててよく見えなかったのかもしれないわ。ところで何処へ行くつもり?」

私が問うと、あっと声を上げて少女は振り返る。そうして前も見ずに歩きながら私に向かって言葉の豪雨を浴びせた。大体要約すると彼女の名前はエナ・エンゲルといい、サーカスの狙撃手だそう。そして、彼女のサーカスはこの街に着いたばかりで、市場で買い物途中に仲間とはぐれ、帰ろうとしていた所で私を見つけたらしい。しかし、

「いや、よく考えたらね、お姉さんの事を見てたからはぐれた気もする。だってフラフラしてたんだもん。心配になるよね、そしたらジッと見るよね。で、気づいたら周りに誰もいなくなっちゃってた」

つまり原因を私にしたいらしい。自分の過失ではない、と。エナは無意識なのだろうが、仲間に怒られるの事への言い訳として私を連れていくつもりなのだ。それは困る。





「あのね、よく聞いて頂戴」

「聞くよ聞くよ。お姉さんの名前は?」

聞いてとは言ったが、そういう事ではない。エナの力は意外に強く、抵抗も出来ないままサーカスへ向かっている。ハッキリとしない私の態度も悪いのだと自覚していた。

「私はエラ。エナとエラで似ているし、ややこしいとは思うけど、まず聞いて欲しいの。尋ねるって意味じゃなく耳で聞いて」

「ややこしくないよ。ナとラだもん。間違えっこない、そうでしょ?」

「そうじゃないの。聞いて、エナ」

「んー……はい」

少し強めに言うとエナは素直に返事をした。サーカスの団員たちは毎日この子に手を焼いているに違いない。鋭い見た目の割に人懐っこく幼い。

「私、買い物をしに来たの。どちらかといえば急いでいるし、だからサーカスには行けないの。おねがい、手を離してくれないかしら」

「いいけど、もう着いちゃった」

周りを見ると確かにそこはサーカスだった。陽気な音楽に原色そのままといった感じの賑やかなテント。普段なら露店の並ぶ
広場なのだが、今日ついたばかりという様にはまるで見えない立派なサーカスの風景だ。頭痛がする。思わず額に手を当てた。

とりあえず来てしまったものは仕方がない。また市場まで歩いて戻ろう。そう思い直したが足は重い。なのに、エナは手をぎゅっと握り直してずんずんとサーカスの中へと進んで行く。どこからがサーカスか分からないのでテントの群れをサーカスと呼んでいるが、射的やくじ引きなど露店のようなテントに、奥にはショーを行う山のように大きなテント、さらにその向こう側には団員が体を休める為のテントがあるようだ。その、最奥の団員テントへエナは向かっていく。抵抗しても彼女は聞く耳を持っていなかった。

やがてエナはピタリと足を止める。その前を見ると、エナとはタイプの違う美少女が2人と太った中年の男、そして騎士が数名立っていた。美少女のうち、特徴的なメイクの方が目を見開いて声を上げる。

「エナ!どこに行ってたの。散々探したんだからね!」

「姫姉さま、誤解だよ」

「聞いてあげる。でも、本物の王女様の前で姫と呼ぶのはやめてよ。恐れ多いわ」

彼女の言葉でもう1人の美少女に目をやった。癖のある美しい金髪に、翡翠のような緑色の瞳。幼さの残る可愛らしい見た目でありながら立ち姿は凛としており、聡明そうな王女様だ。初めてお目にかかるが、少し前までは田舎で暮らしていたと噂で聞いた。何でも赤子の頃に誘拐されたのだそうだ。幸い、誘拐の犯人は王女様を我が子として大切に育てていたそうで、王女様は元気に成長なされた。

ここ十数年、国内は荒れていた。それはここ1年程でいくらか落ち着いたが、後継者争いの起きかねない不安定な状態であった。行方不明であった正当な後継者である彼女の生存が明らかになるという事実は、それだけで国内を落ち着かせるに十分だったようだ。そんな少し特殊な王女様は照れたように言う。

「そう堅いことを言わないでよ。私もそんなに歳は変わらないし、半年前までは農家だったのだから。そんなに変わらないわ」

「大変、変わります。身分が変わります。王女様を同じ姫と呼ぶなんて、とんでもない事でございます」

姫姉さまと呼ばれていた美少女は柔らかな声でハッキリと言い、エナに向かって挨拶を促した。エナはハッとしたように私の手を離し、まるで別人のように優雅な仕草で礼をとる。

「初にお目にかかります。当一座の狙撃手、エナ・エンゲルと申します。先程は失礼を致しました。そのお詫びも兼ねて、今宵は最高のショーをご覧にいれましょう」

エナが唯一、見た目と言動の一致した瞬間だった。私は何故か知り合ったばかりの彼女の姿に感動すら覚える。そんな彼女を横目に、手で姫姉さまを示しながら太った中年の男が王女様の前に1歩出た。

「王女様、私からも謝罪を申し上げます。エナは決して王女様を侮ったのではないのです。先も申し上げましたように、この女優は歌姫と称される声の持ち主なのです」

「ええ、聞いたわ。とても楽しみ。だから団長さんは頭を上げて。……ところで、エナの後ろにいる緑のローブは誰かしら?」

その時初めて、その場の全員が私を見た。中年の男もとい団長や歌姫は、たった今私に気づいたようだ。目を丸くしている。エナが私の横へ並んだ。

「エラって名前らしいです。そうだよね、エラ?」

「はい。エラ・エレルトと申します」

「関係者以外、立ち入り禁止だが?」

中年の男が怪しむように言う。それも当然だ。今の私はフードを深く被り、膝下まであるローブを着ている。顔どころか性別も分からないような格好なのだ。フードを引っ張って浅く被り直す。顔と、長い髪を少しだけ晒した。耳は人間と形が違うので隠しておく。

改めて微笑みを浮かべ、その場の全員に顔を向けた。正直、早く市場に戻って芋を買い、何かしらで稼いで指輪を譲って頂いて、彼女の待つ家に帰りたかった。しかし王女様がいるこの場でそんな無礼は出来ない。ここから追い出される事を期待した。騎士の一人が腰にある剣の柄に手をかける。

「被り物を取れ。無礼者」

「失礼とは存じ上げておりますが、どうしても取る事は敵わないのです。きっと王女様を不快に思わせてしまいます」

魔物や魔獣を人は恐れるが、妖精族も例外ではない。その中でも小柄で無害な野花の妖精であれば可愛がられるだけで済む。むしろ、神樹の妖精であれば歓迎されるほどだ。しかし私は背の高い、羽根もない、どちらかといえば恐れられる方の妖精である。

「どうしても取れないのか。ならばその理由を言ってみろ」

「やめて。私は構わないわ」

「ですが、ビビ王女様」

慈悲深い方だ。胸をなでおろした。

「どう見ても普通の女の人よ。普通と言うと失礼よね。美人だもの」

「勿体ないお言葉です」

私は跪いて礼をとる。その横でエナは歌姫に手を引かれ、隅の方で説教されていた。聞こえてくるやり取りからは、私を連れてきた経緯を話しているところらしい。すべてを聞き終えた歌姫が振り返り、彼女のイヤリングが音を立てた。

「団長。どうもエナが連れてきてしまっただけみたいなの。この子、馬鹿力だから」

「ああ、それで。うちのエナがすみませんね、エレルトさん。これで勘弁してやってください」

団長は跪いたままの私の手を取って何かを渡そうとしたが、その前に私が悲鳴をあげて手を引っ込めた。団長の触れた手の甲が焼けたように痛む。手を抱え込むようにうずくまった私に王女様が駆け寄ろうとして騎士に止められる。

「どうしたの、ね、どうしたの?」

エナが心配そうに私の背へ触れる。薄くも繊細な刺繍の手袋をした手。団長は自身の手と私を見比べて動揺している。彼の手に手袋は無かった。それに気づいたのか、ハッとしたように歌姫はエナを私から引き剥がし、私に向かって敵意を丸出しに言った。

「手を見せて!団長の触った方の手よ!」

大人しく痛む手を見せる。その手は団長の指の形にくっきりと、青くドロドロに腐っていた。それを見て騎士の間にも動揺が走る。比較的、落ち着いているのは歌姫だけだった。

「あなた、妖精族ね。フードが取れないのもそのせいよ。その耳を隠すためでしょ」

「でも、私は何もしないわ」

「嘘。妖精族は人間を下等種族と思っているんでしょ。知ってるんだから。うちの団員が何人も妖精族に食べられたのよ!」

私は地面に目を向けた。歌姫の言う事は正しい。妖精族の多くが人間を見下し、時に襲い、また稀にではあるが食べる事を好む者も存在する。ただ、私は人間を見下したことなどない。むしろ人間の事は好きだった。食べてしまいたいくらい愛している。

「妖精族は人に触れると青く腐る……それを覚悟の上で、腐りながらでも食べたい程に愛していたのではないかしら」

私が呟くと歌姫にも聞こえていたのか、彼女の顔から血の気が引いた。人間には妖精族の愛情表現が理解出来ないらしい。私も生きたまま食べようとしたことは無いが、もし愛する彼女が死んだら食べてしまいたい。腹の内から腐ってでも彼女と死ぬ事が出来たのならきっと幸せだろう。妖精族には、私には、死ぬ事が無いのだから。



歌姫は青白い顔で目をあちこちへ泳がせていた。思い当たる事でもあるのだろう。妖精族は容姿が人間に似ているため、人間と恋に落ちるのも珍しくはない。大抵、その結末は悲惨なものだ。

「本当に妖精なの?」

騎士の背後から声がする。いかつい鎧にすっかり隠れてしまったビビ王女の物だろう。騎士の制止も聞かず、彼女の声は続く。

「私の故郷……って言うと少し変だけれど、幼い頃に1度だけ会ったことがあるのよ。その時は羽根の生えた、とても小さくて可愛い妖精だったわ。初め、小鳥かと思ったくらい。あなたにも羽根はあるのかしら?」

「……ありません。私は飛べない妖精ですから」 

「あら。てっきり、みんな生えているのだと思っていたわ。じゃあ、エラの魂は何?」

「魂……そんな呼び方をする妖精も居ますが、私が同道の運命を背負ったのは痛みです。痛みの妖精でございます」

私の言葉に騎士たちは不思議そうな顔をする。人間の間では妖精は花や木、石や川にこそ宿ると考えられている。正確には宿るのではなく、物の発生とともに誕生し、廃れと共に消えゆく魔物。森羅万象全てのものに対して妖精は存在する。もしこの世から火が消えれば、火の妖精は死に絶えるだろう。また何かが燃えるその時まで。

「そう、それは辛いものを」

王女様が騎士の後ろから姿を見せた。とても賢い王女様だ。一を聞いて十は当然、それ以上を知る方とも言える。

「ならもう痛みは無いの?」

「はい。痛みは私の分身のようなものですから、操ることも出来ます」

私の言葉に、病院で働いてくれればどんなに良い事かと王女様は言ってくれる。それは彼女の夢や希望の類に過ぎないが、怖いもの知らずで奇想天外なことを仰る方だ。しかし決して考えなしではない。ただ、人間は小柄で羽のある、花や小鳥や虫の妖精を愛でる事はあるが、そうでないものに対しては敵意を持っている。その事を知っているんだろうか。

「痛まなくても治るかどうかは別よね。初めて見るけれど、治るかしら?」

「大丈夫です。しばらく痕は残りますが、やがて癒えます。ご心配お掛けして申し訳ありません」

いい王女様だ。彼女と話している間にも、団長は歌姫と一緒に後ずさり、騎士は剣の柄から手を離さず、狙撃手であるエナは無表情に腰のあたりへ手を当てている。銃を持っているのだろう。

骨董屋の主人は指輪を買えばやたらと吹聴する事は無いと踏んでいたが、騎士やサーカスの団員はわけが違う。妖精であると周りに知られれば、今住んでいる家を追われ街を出なければいけなくなる。

「王女様、この者は魔物です。しかも、痛みの妖精。いつ痛い目を見るかわかりません。この場を離れるべきです」

「あなたも人間だから危険だなんて言われたら腹が立つんじゃないかしら。エラに失礼よ。それに、痛いだけでしょう?実際に怪我をするわけではないのよ」

髄分と肝の座ったお方だ。騎士たちが不安そうにしているのは、彼らの任務が王女様を守ることだからだろう。どうしてサーカスに居るのかは分からないが。

私を帰すにあたり、念の為、ローブを脱ぐように命じられた。王女様からというより、騎士たちが騒いだからだ。武器の類がないか調べるらしい。ローブを脱いで質素なワンピース姿になった私、その肌を見て、王女様はまた悲しそうな顔をした。

「傷だらけじゃない。誰にやられたの」

「いいえ、誰にというよりは自分で。痛みの妖精といえど知らない痛みは操れませんから」

怪我など時間が経てば癒えるのだ。厄介なのは病だ。妖精族は人と同じ病には罹らない。故に、どれだけ体を傷つけようとも病に苦しむ愛する彼女の、病の痛みは取り除けない。私はそれがたまらなく辛くて悩んでいた。



私が武器を持っていないことを確認し、騎士がローブを返してくれようとしたその時だった。テントを薙ぎ倒して現れた、馬のように大きな影が歌姫を踏みつけた。咄嗟に飛び退いたエナが腰から2丁の銃を引き抜いて撃つ。それは刹那の事でありながら、的確で狂いのない動作だった。歌姫を踏みつける脚と魔物のクチバシを弾丸が貫く。

慟哭を響かせ、魔物は地に倒れ込んだ。歌姫が下敷きにならなかったのはエナの狙い通りだろう。倒れた魔物を騎士が囲む。その間にエナは歌姫に駆け寄り、彼女を抱き上げた。腰を抜かした団長をちらりと見てから私も歌姫の元へ近づいた。

「姫姉さま、しっかりして。大丈夫、なんて事ないんだから。ね、そうでしょ?」

「あまり動かしてはいけないわ。だから、そのままでいて頂戴」

「エラ……姫姉さまのこと食べない?大丈夫だよね?そうだよね?」

「食べるつもりなら、とっくに食べているんじゃないかしら。信じて」

側に寄るとエナの目が潤んでいる事に気が付いた。私は出来る限り穏やかに笑みを投げかけ、そっと膝をついて両手を組む。神に祈るような姿勢だ。こうして分かるのは歌姫に与えられた痛み。そこから今の状態を推し量る。

「……腕が痛い。首も少し捻ってしまったのかしら。ああ、でも内蔵には何も無くて良かった。骨折くらいなら私でも何とかなる」

独り言のように呟いて痛みを取り除いてやると、歌姫の表情がすっと穏やかになった。それでも傷が癒えたわけではない。腕には添え木をしてやろうと周りを見渡した私の耳に「消えた」だの「どこへ行った」だの、低い男の動揺する声が聞こえる。

「ここっすよ」

嗄れた女の声がして、その場の全員が一斉に振り返った。赤髪の冴えない女が王女様と立っている。女は王女様の腕を拘束し、盾にするように顔だけを覗かせていた。ニヤニヤと質の悪い笑み。

「折角グリフォンになったって、早々にクチバシを撃ち抜かれちゃたまらないっすよ。本当。あれは痛かったっす」

エナを見ながら三日月のように唇を歪ませる。騎士は王女を人質にされて身動きが取れないらしいが、当のビビ様は女を鋭く睨みつけて悔しそうにしていた。

何も見ていなかった私には状況が読めないが、ひとつ、女の言葉に引っ掛かるものを感じた。刺激しないようなるべく穏やかに問う。

「ちょっと、いいかしら。グリフォンになった、というのはまさか、変身したということかしら?」

「そうっすよ。すごいっしょ」

「エラ、どうかしたの?ね、何か気になるの?」

エナが尋ねるも答えて良いのか悩んだ。妖精族の中でも古い者だけが知る、人間の歴史。彼らの禁忌。それに触れてよいものか。

私が黙り込んだので赤髪の女は騎士たちへ向き直り、余裕がある笑みを浮かべたままで脅迫した。王女様の誘拐を見過ごせ、さもなくば殺す、と。そう言ってジリジリと後退する女を騎士は黙ってみていることしか出来ない。そう思われた。

突然、王女様が腕を捻り、あっという間に女の背後を取った。掴んでいた腕を曲げられ、女は苦悶の表情を一瞬浮かべる。そして何処に隠し持っていたのか、王女様はナイフを女に当てた。

「観念なさい。私を攫ってどうするつもりだったか知らないけど、そう弱くはないのよ」

強気な王女様に見惚れた。ただ捕らえられるだけの方ではなく、身を守る術を持っていた。騎士たちもここぞとばかりに駆け寄って女を捕らえ、王女様から離した。首を落とした女の肩が震えている。

「……ああ、弱くは無いっすね。確かにね。王女様にしては強いっす」

「何をボソボソ言っている。不敬罪に誘拐未遂、そして殺人未遂で極刑は免れんぞ」

「そうっすねぇ、このままなら、きっと、そうなんすね」

女から膨大な魔力が湧き上がるのを感じた。何か魔術を発動するつもりなのだ。詠唱も、道具も無しに。

「その人から離れて!」

大きく叫んだ直後だった。再びあのグリフォンが姿を現し、近くにいた騎士は吹っ飛ばされる。無事だった一部の騎士が王女様を庇いながら剣を魔物へと向けていた。

女の召喚術、あるいはそれに準ずる魔術の類だろう。エナが私と歌姫の前に立つ。見上げて見るその横顔は凛々しくて。

「許さないよ。分かってるよね」

グリフォンに低く言うと、さらに低く「ね、そうでしょう?」と口癖を呟く。

銃口を魔物へ向けると同時にグリフォンは煙のように姿を消した。騎士が「変身の次は移動魔術か」とざわめく。しかし私に言わせれば違う。剣術にばかり目を向ける彼らでは気づきもしない。

「ここよ!」

王女様の声。騎士たちの後で勇ましくも短剣を振り、女と応戦している。騎士がそちらへ飛びかかるとまた姿を消す。そしてまた、あちらへこちらへグリフォンや女が現れては消えた。不敵な笑みを浮かべて。

騎士たちも迂闊に剣は振れないのだろう。王女様の周りを囲って警戒するばかりで、かといって女の方にも彼らを倒すほどの力は無いようだった。腰の抜けた団長と手負いの歌姫、そして私を庇うエナも女を倒す決定的な力に欠ける。私はそれを補える力が自分にはあると知っていながらも言い出せなかった。

やがて女が消え、グリフォンも現れない沈黙が訪れた。日が傾き始めたのか、冷えた風がテントの間を縫って吹く。虫も出てきた。私の耳元でブン、と羽音がした。

「"石"の指輪、欲しいっすよね」

嗄れたあの女の声。辺りを見渡すが、騎士も、歌姫も、狙撃手も、誰ひとりとして聞いた者はいなかった。私の耳にまたあの声が囁く。まるで悪魔の囁きのように、甘美でいて苦い。胸がざわついた。

私は黙って頷くと、立ち上がって狙撃手に告げる。わざと彼女を選んだ。

「エナ。もうあの女の気配……いえ、魔力をあまり感じないわ。きっと逃げたんじゃないかしら」

「逃げたぁ?嘘でしょ、ね、そうだよね?」

「ほんとうよ、たぶん。妖精は魔力に敏感だから、ここに居ないのは事実だと思うわ」

エナの大袈裟な表情と大きな声は騎士たちにも伝わった。王女の身の安全を第一とする彼らは互いに顔を見合わせて、ほとんど満場一致で城に帰ることが決まる。反対したのはビビ王女ただ一人だったが、彼女の言い分は優しすぎて現実的ではなかった。とても人道的で聡明で、王座に相応しくないと思えてしまうほどに。

王女一行の去ったあと、歌姫の復讐を果たせず悔しがるエナに一声掛けてから帰路についた。彼女の爪は齧られ、割れて、血が出ていた。その痛みはまだ知らない。赤い空を背景に、薄黒く見える色とりどりのテントを右へ左へと避けて歩く。日の暮れ時のサーカスは不気味でどこか哀しさを孕んでいた。

耳元でブン、と羽音がした。

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