SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 五章 コロッセオの騎士編

53 罪人(挿絵あり)

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「くっ……あの若造が……」
 中老の男、モーゼスは恨めしそうに窓を見つめて奥歯を噛み締めた。先日のアーサーの発言により、口にはしないがヴェルトラを率いる元老からの視線が妙に痛々しい。きっと内心で疑いを向けられている―――いや、例えそうでなくても、神経が張りつめた今ではそんな気がしてならないのだ。先々のことが重なり、かなり苛立った様子で落ち着きがない。
「どいつもこいつも私をバカにしおって……!」
 これも全て自分を裏切った王のせいだ。長年の間知恵を貸し、真面目に国に尽くしてきたというのに。何故こうなった? 考えれば考えるほど身勝手な他人への怒りが募っていく。
「まあ、いい……時期に奴らが動いてくれるだろう……! あいつらに目にものを見せてやる」



 ディオネールの鐘塔よりも重々しく、地を這うような銅鑼音がコロッセオ内に響き渡った。網目状の格子門が上がっていき、円形のコロッセオに参加者達が出ていく。勿論、中にはツグナやミシェル、レオナルドの姿もあった。
「変わらないな……ここは」
 コロッセオに入ったレオナルドがボソリと呟く。睨みをきかせる先には豪華絢爛な衣装に包まれた鳥顔マスクの貴族席、その一部に作られた特等席にはこちらを見下ろしているリオンがいた。唯一違うことと言えば、お互いの見ている景色だろう。自身の持ってきた剣を強く握りしめる。
「あー……ごほんっ。んじゃあ、始めんぞ!!! お前ら!! せいぜい生き残って自分のクソみたいな人生を変えてみやがれ!!!」
 大きく手を広げ、リオンが高らかに開始の宣言をする。その瞬間を待っていたとばかりにまたも銅鑼が二度、大きく鳴らされた。
「うおおおおお!!」
 ぐるりと木柵に囲まれ、円形状に広がっている客席からは同時に歓声が湧き上がる。老若男女、だがどれも理性を失った獣のような酷く醜い声だった。大きな砂時計がひっくり返され、大量に溜まった砂が下へ下へと落ちていく。どうやら時間制限があるらしい。松明を集めて作った巨大な聖火がメラメラと揺れる。
「いよいよ始まったのね……」
 武器庫から持ってきた、まだ使えそうな古剣をミシェルが構える。同時に、ツグナとミシェルは人相の悪い無頼漢達に囲まれた。こちらを見て、舌なめずりをする様に狂気を感じる。
「ひっひっひっ……折角だから、まずは楽しみたいよなあ」
「右の女はオレにヤラせろ」
「お前はガキの青いケツでも掘ってろよ」
「んだテメェ! 独り占めにする気か!?」
 囲っていた参加者は互いを睨みつけ、持っていた手斧で斬りつけ合う。最早、感情に任せて好き放題だ。視界に飛び散る赤い飛沫は「凄惨な光景」としか言いようがない。恐怖で思わず思考が停止した。
「げっひっひっひっ! いいぞー! もっとやれぇ!!」
はらわたほじくり回せぇ!」
「目だ! 目を潰せ! あー、すぐに死ぬんじゃねえよ!」
 何より不気味なのは、観客の声だ。この光景を見て楽しそうに笑っている様に正気を疑ってしまう。参加者も観客も、ここにまともな人間はいないようだった。
 これが、コロッセオの闘技大会―――覚悟はしていたが、それでも尻込みしてしまう。内側も外側も狂気と暴力に包まれて、ここにいるだけで飲み込まれそうだ。
「ちょっと。あんたたち、勝手に潰し合いしないでもらえる?」
 怯えたツグナをみて、ミシェルはすかさず声を張った。互いに掴みあって武器を構えていた男たちは「あ?」と視線をこちらに向ける。
「さっきはよくも好き放題言ってくれたわね……本当不快だから、まとめて相手してやるわ。さっさとかかってこい」
「ああん!?!?」
 敵意を向けるように指先でクイクイと相手を挑発する。急に何を、とツグナは思ったが、ミシェルは尻目のまま「さっさと終わらせるわよ」と言葉を発した。
「覚悟を決めなさい。時には、力を振るうことが人を守ることもあるのよ……こいつらに守る価値なんてないけど」
 そうしている間にも、激昂した男たちが四方八方から襲いかかってくる。
「調子に乗るんじゃねえぞアマ! ズタボロにして、二度と人前に立てなくしてやるよ!」
 ミシェルは流れるように目線を前方に移すと、容赦なく向かってくる奴らに剣を振るった。が、斬られたはずの男は血を流すことも無く後退し、そのまま持ち替えられた柄の部分で鳩尾を刺され、崩れ落ちる。
「やっぱ、切れ味相当悪いわねこれ。とても人なんか斬れやしないわ。でも……」
 殴るには丁度いい鈍器ね、と百八十度剣を振り回し、時折体術も挟みながら次々となぎ倒していく。高速で放たれる突きは銃弾をも凌駕した。
「なんだこの女……! めちゃめちゃに強ぇぞ」
 剣術と体術の見事な合わせ技だ。金的だろうが容赦なく使い、ミシェルが通った後は崩れた男たちで道ができていた。
「ミシェ……っ」
 ゾッとするような気配に気づき、ツグナは振り向いた。横切る刃を仰向けで避け、体を捻ると、斬りかかった男の腕を掴む。先程自分たちに絡んできたキルア・スネイクの一員、グレゴリーだ。
「なっ……! このガキ……!」
「一つ、教えて欲しいことがあるんだ」
 不意打ちの攻撃をいとも簡単に止められ、グレゴリーは激しく動揺してみせた。ツグナは逃れようとする手を引き止め、じっとグレゴリーを見上げる。
「なんで、こんな大会に参加しているんだ? こんな、しなくてもいい殺し合いを自ら望んでするなんて、変だ」
 この場において不適当と言える問いかけに、グレゴリーが「はあ?」と呆れた声で返した。聞いても無駄なことは知っているが、それでも満足できる答えを欲しがってしまう。
「そんなの、楽しいからに決まっているだろ」
 ニヤリと笑い、グレゴリーが反対の手に小型ナイフを持つと、ツグナの肩に勢いよく突き刺した。痛みで力が抜け、怯んでいる隙に斬りあげられる。
「ぐっ……」
 肩を抑え、飛ぶように後退した。何度肉体が傷ついても、痛みへの耐性は変わらない。震えながらナイフを抜き、浅く呼吸する。
「全部そう、楽しいからだ! 人を傷つけ、乏しめ、蹴落とし、支配するのは気分がいい! 意味なんてそれだけだ!」
 グレゴリーの言葉に目を見張る。以前、何かの本で読んだ。他の動物は生存・子孫繁栄の為に、同族を殺すことがあるという。弱者を排他し、共食いをし―――でも唯一、人間だけがそれらを目的とせずに同族を殺す事ができる。これまで、幾度となく見てきた光景だ。
 なら、自分があんな目にあってきたのも、今まで目の前で死んでいった人たちも、相手の欲を満たすためだけだったというのだろうか。
(……ああ、また。今日は、嫌な事ばかり考える)
 瞬間、強く腹部を蹴りつけられ、ツグナは背中を打って倒れた。「ツグナ!」ミシェルが名を叫び、相手にしていた男を弾き飛ばす。
「俺らは自然や生き物を支配し、蹂躙できる力を持って生まれてきた。その中にも、弱いやつと強い奴がいる。結局世の中弱肉強食なんだよ―――ルミ、何とかも言ってたろ? 我々は生まれながらの罪人だってなあ! 皮を剥げば中身は皆こんなもんだ! その結果がこのコロッセオだよ! 贖罪なんかしなくても、本能は許される罪なんだ!」
 身勝手な言葉にカッと熱くなるような感覚を覚えた。またも振りかざされる剣撃を横に避け、体勢を整える。
「……違う。ルミネア様が言ったのは、きっとそういう意味じゃない。贖罪は本当に後悔して許されたいと願っている人だけのものだ……生まれながらの罪人だからってなんでも許されるわけじゃない。こんなところ、間違っている」
 ルミネア様を信じているレイが馬鹿にされているようで腹立たしかった。なんだ、お前信徒か? とグレゴリーが鼻で笑う。
「お前みたいな信心深いやつは皆そうだよな。実際、コロッセオがある時点で察しろ。刺激は欲しいがリスクは侵したくない。幸福でいたいが、不幸を求める。卑怯で醜い。世界なんて、こういうものだってな」
「あら、そう」
 背後から女声が聞こえたと同時に激痛が走り、グレゴリーが思わずかがみ込む。そこには、既に何人かを地に伏せたミシェルが肩に剣を乗せて見下ろしていた。
「卑怯で醜い世界なら、これも仕方がないわね」
「ミシェル……」
 傷口を抑えるツグナに「何怪我してんのよ」とミシェルが眉間に皺を寄せる。十分な力があるくせに抵抗せず、ただ怪我ばかりが増えているツグナに怒りを隠しきれない様子だ。その足元で「て、てめぇ……わざわざ撃たれた足を狙うなんて……」とグレゴリーが震えながら動き出そうとした。が、叶うはずもなく、ミシェルに思いっきり蹴り倒される。
「弱点を狙うのは当然でしょ。その程度で倒れるなんて案外ひ弱ね。不意打ちで刺さなかっただけありがたいと思いなさいよ」
 ここに来る途中散々言われていたせいで、かなり鬱憤が溜まっているようだ。彼女のキツい目線に、こちらまでビクビクしてしまう。「ツグナ、あんたもあんたよ」気を抜いていたところに話を振られ、背筋をピンと伸ばす。
「こんな奴に理解を求めたところで無駄なんだから。世の中にはね、話の通じない根っからの悪もいるの。楽しんで悪さをする奴がいる……あのバカと一緒」
「だって……あっ」
 僅かな風を感じ、ミシェルが素早く屈んだ。柔軟な動きで地面に手を着き、後ろから斬りかかってくる男を蹴りつける。
「本当、卑怯もクソもない」
 こっちは遠慮してあげたのに、相手は当然のように不意打ちで斬りかかってくる。いつの間にかまた囲まれていて、ミシェルはツグナを庇うように前に出て様子を伺った。よろよろと、グレゴリーが立ち上がる。
「ちっ……女子供だからって容赦はしねぇぞ。むしろここの人間はそういう画が欲しくてたまらねえんだ。そっち二人にこっち六人。しかも、他のタマナシ共とは違って実戦経験のある野郎ばかりだ」
「つまり全員、クズってわけね。第一、女子供相手に六人がかりなんて、随分自信がないこと……そういや、あんたさっきもこいつを不意打ちで襲っていたわよねえ。体格の割に、子供相手にもビクビクしている臆病者なのかしら」
 はっ、と嘲笑するミシェルに青筋を立て「お前らやっちまえ!!」とグレゴリーが声を張る。襲ってきた男たちに怯まず、ミシェルは剣を振るうが、先程見られていたのか、斬れないことをいいことに腕で受け止められた。ニヤリと笑う男の動きを敏感に察し、素早く後退して腹部の剣撃をギリギリ避ける。
「あっぶね……」
 が、後退の機会を狙って背後から組みつかれてしまう。「ミシェル!」武器を落とす姿を見てツグナが助けに行こうとするが「お前はこっち」と剣を振るわれ、すかさず両手で受け止めた。特訓を活かして戦おうにも、先程の凄惨な光景が過ぎってしまい、逃げ腰になっているようだ。もしも、自分の力加減が誤ってしまったらと想像して、避けることばかりに集中する。なかなか思うように動けない。
「さて、どう遊んでやろうか……客は何を望んでいると思う?」
 組み付かれ、身動きのできないミシェルに近づき、男がシャツをグッと掴む。ブチブチと音を立ててシャツのボタンが外れると、ミシェルの胸元が顕になった。
「はっ、見た目以上にちい……がっ!」
「触んじゃねぇ!!」
 組みつかれた状態で、足を蹴りあげ、そのまま一回転するように組み付いていた男の肩に乗り上げる。そうして体を勢いよく捻り、男を地面に叩きつけた。
「なっ……!」
 なんという柔軟性だろう。男ではありえない体の柔らかさに体術が重なって、更に可動域や攻撃性を増しているようだ。そんな誰もが驚いている隙に、ツグナは刃を持ったまま右へ体を捻る。バキン、と折れると同時に先程から足止めしていた男の足を払った。力を入れていたこともあって、男は行き場のない重力と共に地面に倒れる。
「ミシェル、大丈夫か!」
「動くのが遅いのよ、あんたは……」
 シャツの裾を結んで胸元を隠し、再び剣を手にしながらミシェルが立ち上がる。確かに他の連中とは違って、連携もある分、一筋縄じゃいかなさそうだ。
「……ツグナ、あんたはなにがそんなに怖いの? 人を傷つけることが? 自分の力が人を殺してしまうから?」
「えっ……」
 突然の投げかけにツグナは困惑する。剣を地面に向け、男たちを凝視しながら「ここに来て甘えたこと言ってんじゃないわよ」とミシェルがキツい口調で言い放った。
「何も殺せなんて言ってない。他に選択肢があるって言ったのはあんたの方。それなら、今自分にできる最善を尽くしなさい。その為にジェフリーさんに特訓をつけてもらってたんでしょ? 何もしないで乗り越えられるような場所じゃないのは、あんたも分かっているはずよ」
「それは……」
 口篭るツグナに「自信を持ちなさい」とミシェルは前から来る男たちをなぎ払い、笑う。
「あんたの強くなりたいって気持ちも努力も、きっと無駄じゃないわ。前にも言ったでしょう? あんたはツグナ・クライシス。あんたが望む限り、あんたはあんたのままでいいのよ」

 自分の前で戦い続けるミシェルにツグナは目を見開く。まるであの時のシアンとの会話を聞いていたみたいな言い方だ。背中を押すような言葉に、ゆっくりと瞬きを繰り返す。正直、久々に血を見ることになって、ごちゃごちゃした考えが頭を巡っていた。その事に、ミシェルはちゃんと気づいていたのだろう。
(……そうだよな。僕は周りを、ミシェルを守りたい……そう、あの時誓った)
 ふう、と大きく息を吸ってから、二度自身の頬を両手で叩いた。目を瞑り、意志を固めるツグナに容赦なく凶器が振りかざされる。その軌道が、直接目にしなくてもわかる気がした。開いた赤の双眸が鋭く男を捉える。
「ぐっあ!?」
 男の視点がぐるりと回った。剣撃が流され、鳩尾の衝撃と共に体を投げつけられたのだ。それも、自分より遥かに小さい少年によって。一瞬の出来事で、周囲も攻撃してきた男も何があったのか分からず、唖然とする。
「護身術か……あんたらしいわね。やればできるじゃない」
 圧倒的な破壊力ではなく、相手の力を生かし、流すことに特化した技。ジェフリーとの特訓はこれだったのかと、毎日ボロボロになっていたツグナを思いだし、ミシェルが口角を上げる。
「背中は任せてもいいかしら?」
「ああ……!」
 二人は背中合わせに前方をしかと見つめ、それぞれ身構えた。四方八方から仕掛けられる攻撃を交わしていき、上下、または左右に言葉を交わすことなく分かれながら敵を地に伏せていく。
「……ちっ!」
 倒れていた男に足を捕まれ、ツグナの体勢が崩れた。倒れそうになるツグナにミシェルが手を伸ばす。
「ツグナ!」
「ミシェル!」
 ミシェルに強く手を引かれると、入れ替わるようにして二人同時に後ろから迫っていた男達を殴りつける。
「詰めが甘いわね。だから足を取られるのよ」
「ミシェルこそ、僕に気を取られすぎだ。僕はどうせ怪我しても……」
 背中合わせに会話を続けるツグナに「そのどうせってのやめなさいよ」とミシェルが強気に返す。
「怪我したら痛いのは変わらないんでしょ? 前から思っていたけど、自分の体ぐらい大切にしなさい。なんのために訓練積んだのよ」
「いちいち言わなくても分かってる……癖なんだ」
「はあ……あんたの悪癖を直してこそでしょうに。執事さんも大した事ないわね」
 はあ、と呆れる様子にツグナの片目がぴくりと痙攣する。特訓をつけてもらっていた過程もあり、執事には憧憬のようなものが強く芽生えていた。よって、深い意味はなくても、執事の貶しは腹立たしく思う。
「……ジェフリーさんを悪く言うな。第一、お前に関係ないだろ……余計なお世話だ」
「言うようになったわね~シンプルに倒れられたら迷惑だって分からないのかしら?」
「すぐに立てばいいだろ。お前は僕の母親か」
 ふいっ、と不貞腐れたように俯くツグナの言葉を聞いて、ミシェルのこめかみに青筋が立った。
「本っ当、どこでそういう返しを覚えてくるのかしらね~これだからガキは」
「それならお前だって」
「私は違う」
「違くない」
「違う」
 最早周囲の事を気にせず小言大会だ。全く相手にされていないと悟った男達は怒りで拳を痙攣させる。
「こいつら……俺たち抜きで喧嘩しやがって……っ!」
 完全に向き合い、言い合う二人に構わず、残りの男たちが一斉に襲いかかる。が、二人に近づいた瞬間、目も合わせずに殴り飛ばされた。
「第一、ミシェルは僕に対して過保護すぎるんだ。僕だって一人でもできる。もう、前とは違うんだ」
「自立した奴は、目を離した瞬間にいなくなってボロボロに帰ってこないわよ。さっきまで怯えて手も足もでなかったくせに。私がいなかったら早々に死んでいたわよ、あんた」
「これから何とかするつもりだったんだ! お前がいなくたって……!」
「これからするつもりだったってのはガキの常套句だっての。手足は出ないくせに、私の足を引っ張るのは得意なんだから」
 ふと漏れた小言にツグナは思わず「っ、言ったな!」と声を荒らげる。
「さっきは少しいい事言ってたのに、結局そう思っていたんじゃねえか!」
「あーあー、やだやだ。つい本音が出ちゃったわ。あんたって少し気のいい言葉かけるだけです~ぐノッてくれるわよね~単純で助かるわ」
「なにをっ! ミシェルのわからず屋!」
「ああん!? あんたこそ腑抜けで頑固なガキね!」
 口喧嘩をしながらも、お互いがお互いの動きを把握し、全くぶつかりのない、息のあった連携で無頼漢達を圧倒する。その光景に、グレゴリーは思わずたじろいだ。
「おい……っ! 相手はガキと女だぞ……っ! 五人もいて……何をそんなに手間取ってやがるっ!」
「でも……っ、こいつらただの女ガキじゃねえっすよ! 何回か戦闘を経験している……それ以上に……がっ!」
 話している途中に気絶させられ、指示を出すだけのグレゴリーがグッと奥歯を噛み締めた。ただの戦闘経験者じゃない―――確実に何処かで戦闘訓練を受けて鍛えられている者達だ。
(こうなったら……!)
 もう最終手段を使うしかないかと、上着にある膨らみをぎゅっと掴んだ。
「はあっ、はあ……っ」
 気づけば、ツグナとミシェルの周囲に立つ者はいなくなっていた。辺りから聞こえる野太い呻き声。初めの方の乱闘で傷つく者はあれど、みんな生きているようだ。
「コロッセオって言うぐらいだから苦戦するかと思っていたけど……案外大したことないのね」
 もう終わりかとミシェルは肩に剣を置いて、ふぅ、と息をついた。これでしばらく動けなくなるだろうし、優勝は決まったようなものだ。あとは残った自分たちが適当に倒れて一人を優勝させればいい。そう考えてからミシェルとツグナは同時に「あっ」と声を上げる。
「そういえばあいつ……」
 周囲に意識を散らせる。レオナルドはすぐに見つかった。コロッセオの中央で赤く染まり、倒れた群衆の中に一人立っていたからだ。その姿に息を飲む。
「ほう……生き残ったか」
 少しはやるんだな、と相変わらずの上から目線で言葉を放ち、レオナルドが剣についた血を地面に飛ばす。距離が離れる事に大きくなった飛沫は、まるで何かの足跡のようにレオナルドから縦に続いた。
「こっちは一人残らず片付いた。あとは、お前らだけだ」
「お前……本当に、殺したのか」
 その赤い光景に、ツグナの言葉が震えた。レオナルドは遠くを見るような目で「ああ。言ったろ?」とこちらに歩みを進める。
「ここはそういう場所だ。お前らも痛い目みたくなければ、大人しくその場で倒れるか……それとも俺に殺されたいか?」
「……っ!」
 良い奴だと思っていたのに。いや、結局自分がそう思いたかっただけだとツグナは拳を強く握りしめた。眼前のレオナルドの足が早くなる。倒れなくては、自分たちも殺される。彼はきっと、平然とそれができるタイプの人間だ。
 それでもと、顔を上げて向き合おうとするツグナに「ツグナ!」とミシェルの声が飛んだ。ナイフを構えたグレゴリーを瞳に映してすぐ、体が押し倒される。
「えっ……?」
 すぐに上半身を起こし、目を見開く。地面に滴る赤い雫から目線をゆっくり上げてみれば、そこには顔の歪めたミシェルの姿があった。その腹部にはナイフが深く突き刺さっている。
「ミシェル……っ!!」
 声と同時にミシェルの体はぐらりとして倒れた。何が起こったのか、情報の整理がつかない。声が聞こえて、押し倒されて、気がついたらミシェルが……一連の流れを頭に思い浮かべてやっと事態を理解する。自分を庇ってくれたのだと。
(どうしよう……っ!)
 倒れたミシェルの前で目をキョロキョロとさせるツグナの背後に、血の滴ったナイフを持ったグレゴリーが立った。瞳孔の開いた目のまま、ナイフを振り上げる。
「があ……っ!」
 が、振りかざす直前にレオナルドによって、大きく上半身を斬りつけられた。膝から崩れるようにして倒れた瞬間に、小瓶のようなものがグレゴリーから転がり出てくる。
「ミシェル……っ! ミシェル……っ!」
 涙目になりながら揺さぶるツグナに「うっさい……傷に響く。平気だから……」と掠れた声でミシェルが起き上がった。そこから何度かフラフラと傾き、ツグナによって受け止められる。失血による目眩や痛みにしても、どうにも様子がおかしい。その視界の端で、地面に転がった小瓶をレオナルドが拾った。
「泣くんじゃないわよ……こんなの、今までに比べたらかすり傷だっつの……」
「それはどうかな」
 ガタガタと震えの止まらないミシェルの一言をレオナルドが遮った。これを見ろとばかりに先程拾った小瓶を見せつけてくる。
「以前、あまりにも強力だといって国内危険物指定を受けた毒物、テロキルドだ。続く倦怠感に嘔吐感、次第に患部から赤い斑点が広がっていき、燃えるような熱さを皮膚に感じる」
「毒物!? どういう……」
「場所も場所だ。少なくともこの女の命はあと三時間ってところだろう」
 ひゅっ、と喉の奥がしまった。「嘘だ」ツグナが青ざめたまま首を振る。項垂れたミシェルはその事実を聞いて、声を失っている様子だった。
「良かったな。この女が代わりに刺されて。お前は苦しまなくて済む……」
 その声に、ツグナが強くレオナルドの服を鷲掴んだ。何しやがる、とその緑目がツグナを睨みつける。
「いくらなんでも言っていいことと悪いことがある! ミシェルが代わりに刺されて良かったなんて思うわけないだろ……!」
「はっ、どうだか。所詮は人は他人のことなんてどうでもいい。友情? 愛情? くだらないな。どんなに仲が良くても、それは一過性のものだ。互いにとって都合がいい、利害の一致が偶然重なって初めて生まれる。それさえ過ぎれば、それまでの期間の思い出も感情もたかが過去の記憶の一部だ」
「じゃあ、お前はあいつに対して本気でそんなこと思っていたのかよ!!」
 コロッセオ地下での会話を思い出しながらツグナが口にする。「そう言っているだろ」とレオナルドがズレた眼鏡を中指で戻した。目を合わせようとない彼に「嘘つき!」と破裂するかのような声が飛ぶ。
「なんでお前はそんなに自分を悪者にしたいんだ! そんな事をして、何の意味があるんだ!」
 その言葉にレオナルドは目を逸らしたまま動きを止めた。もういい、捨て台詞のようにツグナがベストを脱ぎ、ミシェルの傷口に縛りつける。教会の時にミシェルが自分にしてくれた知識だ。毒も毒だが、何より出血が酷い。このままでは失血死の恐れだってある。一人で黙々と行動し、ミシェルを背負った。
「……何をする気だ?」
「毒なら解毒剤があるはずだ。ミシェルが以前、ネズミ罠の仕掛け方と一緒に教えてくれた。なら、その薬を飲めばミシェルは助かる」
「そんな薬が地下にあったら困りはしない」
「それなら地上に戻って探す」
 何度か跳ねながらミシェルの位置を上にあげ、背負い直す。グレゴリーも倒れ、残るは自分たち三人のみ。優勝はレオナルドに託そうと、進み出すツグナに「確かに地上にいけば……だが」とレオナルドが言葉を濁らせる。それと同時だった。

ゴォン……! ゴォン……!

「な、なんだ……?」
 再び鳴らされる銅鑼の音に、背筋がビクビクと引き締まる。見上げた先にいるリオンは愉快そうに薄ら笑みを浮かべながら、手を大きく叩いていた。気づけば、傍にある巨大な砂時計の砂が全て下に落ちきっている。
「やっぱ残ったのはあいつらか。流石レオナルドの現仲間だ。そうでなくちゃな」
 余興は終わりだ、冷たく言い放ったリオンと目を合わせた瞬間、反対側の網目状格子門がゆっくりと上がっていく。
「ちっ、おかしいと思っていたんだ……闘技大会にメインであるアイツらが出ていないなんて」
「メイン……? あいつらって……もう終わりじゃないのか!?」
「言ったろ。俺は過去にここで闘士をしていた。闘士とは、コロッセオに囚われた、戦いのために生かされている奴隷―――言わばこの道のプロだ」
 格子門が上がりきり、裸足の人間たちが何人か出てくる。遠目から見て分かる傷だらけの体は、これまで死闘を物語っており、グレゴリーの見せかけの筋肉とは明らかに何かが違っているようだった。
「奴隷の癖にいい体つきだな……乱戦に参加しなかったといい、俺がいた頃のコロッセオとは明らかに違っている……これも、リオンが変えたのか……?」
 困惑するレオナルドを見下ろしていたリオンは「驚いたかよ」と一人、高みの見物に笑みを浮かべる。
「オレたちがいた時のコロッセオは最悪だった。死にかけの奴隷と戦いの素人が醜く欲望のままにぶつかるだけ。オーナーがクソだっただけに、全くセンスの欠片もねえ舞台だった。だから、もっと面白くなるようにオレが変えてやったんだ。ここまで登りつめてな」
 はるか遠くにいるレオナルドに話しかけるかのように、リオンは呟いた。真正面から吹き抜けていく地下の風は生温く、どこか血腥い―――ここが、あの日から憎しみだけで上りつめた自分の居場所なのだ。全てはレオナルドを見下ろす「今日」のために。
「オレは今最高に気分がいいぜ、レオ」
「リオン……!」
 直接言葉は交わらなくても、自分に対して何か言っていることに気づき、レオナルドが睨みつける。二人が見つめ合う中で「冗談じゃないぞ!」とツグナは出口に向かって駆け出した。
「おい! どこに行く気だ」
「こいつらと戦ってる暇なんてない! 今はミシェルを助けることが先だ!」
 門は完全に降りきっているが、自分の力なら無理にでも壊せるはずだ。足早に駆けていくツグナを見て、正面から出てきた闘士が何かを投げつけた。両端に重りのついた縄が高速で回転しながらツグナの足に巻き付く。
「……っ!」
 受身を取ったらミシェルが、そう考え勢いのままうつ伏せに倒れた。ミシェルと地面に挟まれ、苦しそうに悶える。
「暗器の類か……っ」
 狩りにも使われる民族武器だと、レオナルドはリオンから目線を闘士に移す。自分の記憶では、こんな武器を使っていた奴なんていなかった。ましてや、闘士に武器庫以外の武器の使用は認められなかったはずだ。
「おーおー、白兎が一匹かかったぞ」
 目元に影を作るよう手を置き、げらげらと大柄な男の闘士が笑う。引き締まった筋骨隆々の体は傷だらけの半裸で、頭に兜、右腕にだけ腕鎧をつけていた。彼を中心に他にも何名かいる。
「待たせたな。折角のコロッセオだ。楽しんで行ってくれよ。兄ちゃん達」
 彼等、闘士の登場にコロッセオは熱気と歓声に包まれる。全てはここからが本番―――新たな登場に、ツグナとレオナルドは声を失い、息を飲み込んだ。
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