SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 四章 ミシェルの追憶編

39 赤い涙痕

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 ジェイラスの死体は惨たらしかった。何かで打ち付けられたように顔面が陥没し、潰されたことによって口か鼻かも分からない大きな空洞に数本の歯が剥き出しになっている。肉を突破って骨が露出し、そこから這い出る固形の吐瀉物にも似た柔らかな物質が、艶やかな弱い光を放っていた。砕けたそれは、時折木の下で見かける割れた鳥の卵のようだ。
 死体を見つけた時、既に烏の餌食となっていた為、周囲には細かい毛髪や殻の中身が飛び散っていたという。
 葬式は二日後に行われ、激しく損傷した顔面には、生前の父を模した不気味な仮面がつけられた。父の死に未だ脳が追いついていないのか、泣きじゃくるアシュリーの横で一人、ミシェルはただ仮面の父を見つめた。
 複雑な気持ちだ。悲しいはずなのに、心にぽっかりと穴が空いてしまったような虚しさを感じるのに、涙のひとつも流せやしない。本気で悲しむことが出来ないのは父を嫌っていたからなのだろうか。けれどもモヤモヤした気持ちはどれにも当てはまりそうにない。
 父親をただ映し出す事しかできない虚空な目でふと見上げると、見覚えのある人物がそこにいた。この場にいるのが気まづそうにソワソワと、教会の入口付近で佇むソレに、ミシェルはふらりと近づいた。ねえ、と呼び掛けに対して、その人物はビクリと肩を震わせる。
「僕の父さんを殺した感覚はどうだった? 顔を砕いて、内臓を、脳みそを引きずり出して、集まってくる野鳥共につつかれていく姿を見て、どう思った? 気持ちが良かったか?」
 あんたが殺したんだろ、と決めつけるように放たれたミシェルの言葉に「は?」と腕を組んで壁によりかかっていたユージンは驚く。その言葉に、父をとり囲っていた民衆は一斉にユージンの方へと視線を向けた。
「お前まさか……本当に?」
「そういやあの時あいつ、殺すとか言ってなかったか……?」
 その場の空気が急激に変わる。口々に呟かれる言葉の嵐に、ユージンは青ざめ「ち、違う!」と大袈裟までに反論した。
「確かに荒れてあんなこと言ったけどな! 昔から馴染みのあるあいつの事を本気で殺せるわけがないだろ! 第一、俺は……!」
 ユージンがそこまで言った時、背後からやってきた人物とぶつかった。すぐさま「おや、危ないですね」と荘厳な声が聞こえてくる。なんでお前らが、口から零れるように呟いてユージンが睨みつけたのは、黒い祭服を身にまとったヴァーナード司祭ほか二名だ。
「友の最期を見届けにきたのです。それにしてもおかしい。貴方は確か謹慎処分だったはずでは?」
 ギロりと目線だけ向けられた言葉の威圧に、ユージンは体を引くようにして押し黙る。他二人を残し、ヴァーナード司祭がジェイラスの棺桶に近づくと、そこに至るまでの道を作るように民衆が横に避けていった。棺桶前まで歩みを進めると、持っていた一本の青いソルネフィアにキスし、胸元で組まれた手に持たせる。白で統一された棺桶の花で唯一の青は浮いていて、その色を選んだ心理に疑問を持ちながらも、緊迫した様子で周囲は見守った。
「短い付き合いになってしまい、残念ですよ。ジェイラスも愚かな男だ。彼の処分を甘くした結果、自らの命を落とすとは。自業自得だ」
 最後の言葉で声のトーンが一段階下がる。長い祭服を翻してヴァーナード司祭が振り返ると、入口付近に残された二人が顔を見合せ、ユージンを左右から取り押さえた。急な事にユージンは驚き「何すんだよ!」と怒鳴り声をあげる。
「我々は貴方を捕らえに来たんですよ、ユージン。友を殺害した貴方を」
 ゆっくりと近づくヴァーナード司祭の言葉に、ユージンは再度「はあ!?」と怒りの見える粗暴な声で返した。
「だからっ、俺じゃねえって!」
「言い訳は聞きたくありませんね。あの日、ジェイラスと最期に会っていたのは貴方です。彼が貴方を家まで送っていたと。現に彼の遺体も、貴方の家の付近で見つかったと報告を受けています。そしてその日は、貴方がジェイラスを殴るなどの騒動があった。ここにいる方々も、貴方が彼を殺すと嘆いていたのを聞いていたのではありませんか」
 先程のミシェルの一言で既に疑念を抱いていた人々は「確かにそうだ」と肯定する声を見せた。じりじりと一人だけ端に追いやられるような疎外感。けれども、折れることなくユージンは「それは……事実だが」と震えた声で言い返す。
「けど、本当に違うんだ……確かに俺はあの後ジェイラスに家まで送られたけどな! そこからずっと外には出ていなかった! 今回は謹慎処分破っちまったけど、それでもあいつが死んだって聞いて、大人しく家にひきこもっていられなかったんだよ……! あいつの事は嫌いだけど……それでもたった一人の、友達だから……!」
「くだらない。そう思っているのは貴方だけでしょう? 一方的な友情論などではなんの説得にもなりませんよ。連れて行け」
 ユージンはヴァーナード司祭の言葉に酷くショックを受けたようなのである。はっ、と返事をした二人に抵抗することもなく、そのまま三人は教会を出ていった。その背中をミシェルが見送る。そして、同時に理解した。ああ、そうか。この胸のモヤモヤは父が殺されたことに関する悲しさじゃない。単に自分の手で殺せなかったことに対する悔しさから来るものなのだと。
 生暖かな風が頬を撫でる。もう遠くに見えるユージンの背中は小さく、力が抜けてしまったように項垂れていた。ざまあみろ。僕から父さんを奪った罰だと、ミシェルは内心で呟く。けれども、正体が判明したはずのモヤモヤが未だに消えておらず、変な感じがした。まあ、今更どうでもいい。
「君はジェイラスのご子息かな? 彼とよく似ている」
 その声に入口前で見送っていたミシェルが振り返る。はるかに背丈の大きなヴァーナード司祭が歩み寄ると、自分の前で跪き「君に感謝しよう」と微笑んだ。
「君が彼を引き止めていなければ、彼はこの場から逃げていたかもしれない。幼くして父を亡くすとはなんとも哀れだ。今後の君に祝福と神の御加護があらんことを」
 ミシェルの頭に手を置くと、ヴァーナード司祭は優しく髪を乱すように撫で回した。その温度にぞわりと寒気を感じ、ミシェルは手を払うと後退して睨みつける。肩をすぼませ、警戒したようにじっと見つめるミシェルに、司祭はしばらく行き場のない手を伸ばしていたが「やはり、似てますね」と立ち上がった。
「それぐらい元気なら、今後も楽しめそうです」
 すれ違うようにして放たれた言葉に、ミシェルはヴァーナード司祭を追って振り返る。けれども、教会を出ていく彼が振り返ることは一度たりともありはしなかった。
 そこからは忘れもしない、地獄の日々だった。ジェイラスが死んだことで当然ながら士爵位は剥奪。代わりに、教会には新しい騎士が仕えていた。これによって、オルコット家は権力の持たないただの農奴へと戻ったのである。
 元より村長という立場もあっていくつかの農地を所有していた為、勉強の時間だった分も土いじりに変わっただけで、生活するのに困るほどではなかった。ただ、やはり財力に恵まれた生活からの転落はあり、それはミシェル達よりも、母であるフィオナのショックが大きかった。
「私の生活はどうなるの!?」
 ジェイラスの死が告げられた時、真っ先にフィオナはそう口にした。愛する夫の死よりも、彼女は自分の今後の生活に嘆いたのである。その怒りや悲しみは葬式後も引きずり、ついには怪しい売人と関係を持ち始め、当時流行っていた「アルデッドノール」に手を出し始めた。そうなってしまってからはもう遅い。
 真面目に姉妹で働いた金は全てフィオナの麻薬代に注ぎ込まれ、村一番の大きなハリボテ屋敷だけが唯一手元に残った。母はすっかりやせ細り、頬骨が認知できるほど窶れた顔面に目だけが異様に大きくギョロつかせていて、まるで骸骨のようだった。そこにはもう、村一番の美しさを持つ女性の面影はない。
 借金は容赦なく溜まっていき、薬が切れ始めると、フィオナはこれでもかという程身勝手な理由でミシェルとアシュリーを殴った。そしてその日―――
「あんたたちに新しい仕事よ」
 アシュリーとミシェルが変わり果てたフィオナに呼び出され入った部屋には、麻薬を売り捌いている男が立ちはだかっていた。
「良かったわ。女を二人も産んでいて。私の代わりに、たんまりと稼ぎなさいよ」
 何を言っているか、齢十一になるアシュリーとミシェルには理解が出来なかった。その声と共にフィオナの隣にいた男は「本当に好きにしていいのか?」と舌なめずりをする。
「じゃあ、まずは左の髪長い方から貰おうかね?」
 下品な笑い声で男がアシュリーの腕を無理やり鷲掴む。それに対して泣きながら離れようとするアシュリーにミシェルは「これからとても良くないことが起きる」ということを悟った。待てよ、と思わずアシュリーの前に立ち、怯えた瞳で屈強な男を見上げながら、その腕を掴む。
「相手なら僕がする。から、アシュリーには、手を出すな」
 思わず語尾が掠れてしまった。途端に、背後から兄さん、と呼ぶ声がして切り替えるように「大丈夫だ」と振り返る。
「あの時、約束したろ。アシュリーは僕が守るって」
 アシュリーが貴族の子にナイフで刺され、怒りで我を失ってしまった日のことを思い出す。あれから、両親の教育は厳しくなったが、それでも自分の行動に後悔した事は一度もなかった。
 男はミシェルとアシュリーを交互に見て「いい、兄妹愛だねえ」と満面の笑みを浮かべる。そうしてから、気に入った、と一言付け加えた。
「確かに。弱い妹を守る強気なお兄ちゃんがどんな顔するか興味があるなあ」
 男はそう言ってミシェルの顎を掴むと、無理やり自分の方へと向かせた。
「せいぜい、楽しませてくれよ。かっこいいお兄ちゃん」



 意識が朦朧としていた。体の節々が重く、指先ひとつさえ動かすことが出来なかった。目線を下に持っていってみる。丸裸にされ、露出した股は血とベトベトした白濁の混合液によって広範囲に濡れていた。
『驚いたな。まさかお兄ちゃんがお嬢さんだったとは』
 先程の男の声が脳内に木霊する。ミシェルはやっとの思いで横に寝返り、蹲ると、目縁が熱くなると共に鼻をすすった。
『生まれた時から兄として育てられて、今度は女になれだなんて、随分身勝手な母親だなあ。可哀想に。まあ、それでもやめる気はないけどよ』
 ゲラゲラと下劣な男の笑い声が耳に残っている。瞬間的に巡るのは断片的だがあまりにも受け入れ難い現実。内臓を掻き回されるような感覚も、口の中に残る生臭く苦い味も、全部―――
「うっ……うええええ……」
 うつ伏せに少し起き上がって、ミシェルはそのまま込み上げてきたものを全部吐き出した。まだあの味が残っている。吐いて、吐いて、胃液のなんとも言えない酸っぱさが口内を侵しても、焼きついてしまったかのように味が残り続ける。感触が、脳内に焼き付いている。涙と鼻水で、顔全体がぐちゃぐちゃに濡れているような不快さ。それと共に太腿に伝っていく液体。何もかも気持ち悪かった。

 それから毎晩のように男の相手をした。その中には売人だけじゃなく、見知った村の男もいた。真面目に働くよりもお金は稼げたものの、常に気持ち悪さが体から抜けることはなく、口の中に入れる全てのものに拒否反応が出るようになった。顔色も肉付きも徐々に悪化していき、次第に生きていることがしんどくなった。
 でも、だからこそ、アシュリーにこんな思いはさせたくない。ミシェルは唇が噛みちぎれんばかりに食いしばってただひたすらに耐えた。
 だが、季節が二つ移り変わる程の月日が流れたある日、早くもその約束が破られようとしていた。
「おい! アシュリーをどうする気だ!」
 眼前では見知らぬ男がアシュリーを捕え、連れ去ろうとしていた。前に出て怒鳴りつけるミシェルの腕を、無理やり売人の男が引き戻す。
「どうするって奴隷商に売りつけるんだよ。そもそも小娘一人の体で払っていけるような代物じゃないんだ。まあ、そいつを売ればしばらくはなんとかなるだろう」
「ふざけんな! 約束は!」
「んなもん、初めから守る気はねえよ。上が許すわけないだろ。じゃっ、今日も頑張って稼いでくれよ」
 背後から頬に添えられた手にぞわりと身震いしてから、ミシェルはガブリと噛み付いた。指の間に血を流した売人の男は勢いよく手を引っ込めてたじろいでから、そのまま拳を振り下ろし、ミシェルを床に押し倒す。
「痛えな! ここまで約束守ってやったのに! 今日は優しくしてやらねえからな!」
 自分の顔面ほどある大きな手で首を絞めつけられ、ミシェルは苦しさのあまり背中を仰け反った。圧迫された喉から奇妙な息漏れの音がする。苦しみから逃れようと足をばたつかせてみせるが、状況は変わらなかった。遠くで「兄さん!」と叫び声が聞こえてくる。無理やり手を引かれ部屋から出ていくアシュリーの様子に手を伸ばすと、その先で母フィオナと目が合った。
「かっ、かあ、さ……助け……」
 顎下から顔を真っ赤にさせ、自然と目には涙が浮かんだ。首を絞めつけられ、飛び出た言葉はカエルの声のように潰れている。
 自分たちがこうなったのは、全部母が麻薬なんて脆弱なものに溺れたせいだ。それでも、まだ幼い心のどこかで彼女を母親として見ていたのだろう。いや、そうであって欲しいという、ミシェルのささやかな願望でもあった。だが、冷ややかな視線を送った彼女の言葉は、求めていたものとは違っていた。
「ミシェル。まだ、仕事が終わっていないでしょ」
 そう最後に吐き捨ててフィオナは部屋を出ていく。全ての時が一瞬止まったかのような感覚だった。喉を絞めつけられる苦しみも気にならなくなり、見開かれた目からは光が消え、ただ涙を流す。いや知っていたはずだ。この女がこういう奴だということぐらい。知っていたはずなのに。
「はんっ、本当に可哀想な奴だよ。父親も殺され、母親にも見捨てられるなんてな」
 反応が鈍くなったミシェルを同情しつつ、男は鼻で笑った。
「ついでにこの際だから教えてやるよ。お前の父親を殺したのはな―――この俺だ」
 その言葉にミシェルは見開かれた瞳のまま、抵抗もせずに男の言葉を聞いた。
「父親を殺した男に犯されるのって傑作だろ。司祭からの頼みでな。ジェイラスって奴は何でも融通のきかない面があって前から邪魔に思ってたんだと。そこであの事件だ。疑われるのは当然、騒ぎを起こしたユージンって男になる。部外者の俺が疑われることはない。お前らは初めから教会に踊らされてんだよ」
 全てが合致した。あの時消えなかったモヤの正体はユージンの行動にあったのだ。必死に自分は違うと訴える怒鳴り声。そして、殺した人間の葬式に何故わざわざ足を運んだのか。あの騒ぎを起こしたなら、真っ先に疑われるだろうとこの村から逃げてもおかしくないのに。何故この違和感に気がつけなかったのだろう。
「ヴァーナードが言っていたよ。ジェイラスの息子には感謝してるってね。おかげで邪魔なジェイラスは死に、反乱分子になりそうなユージンも先日消すことが出来た。そして、オルコット家に残る財産の奪取も」
 そう言いながら男は片手で腹までそそり立った自身を露わにする。
『それぐらい元気なら、今後も楽しめそうです』
 途端にあの日ヴァーナード司祭が最後に放った一言がミシェルの中で過ぎる。なぜ気が付かなかったのだろう。思えばよそ者を嫌っているこんな田舎村で売人が出入りしていることだっておかしな話だった。父を殺したのも、ユージンに罪を着せたのも、母が麻薬に溺れたのも全部、全部―――教会あいつらが仕組んだものだったのか。
 喉がギリギリと絞めつけられる中、ただ涙だけが溢れた。ぶちり。遠い昔に聞き覚えのある音が、脳内に響く。歯止めの利かないそれは、以前アシュリーが傷つけられた時のものと同じだ。
『兄さんやめて! 死んじゃうよ!』
『うるさい。謝れよ! アシュリーに謝れ!!』
 人は怒りで我を忘れた時にこそ、他者に対して最も残虐になれるのだ。
 瞬時に男の股ぐらに目掛けて蹴りを放つ。唐突の急所攻撃に男は思わず手を離し、苦しそうに悶えた。何度も自分の中に出し入れされたそれの痛みは、女であるミシェルには分からない。
 ミシェルは何度か咳をし、フラフラと部屋のチェストからナイフを取りだした。売人との行為はいつもこの部屋で行われる為、いつか使おうと思って隠していたのだ。
「いきなりなにし……」
 仰向けで股を抑えて悶える男が次にミシェルを目に映すと、今だ幼さが残るその大きなヘーゼルのつり目を光らせて、少女は男の胸にナイフを振り下ろした。馬乗りになり何度も何度も、扉を勢いよくノックするように突き立てる。グリグリとナイフを捩る度に、顔に赤い液体が飛び散った。最後に動かなくなって萎んだ男の性器を切り取る。血液に見知った白濁が混ざって広がっていく様を見下ろし「気持ち悪い」と一言吐き捨てた。

 一方、ハリボテ屋敷の裏口前では、荷馬車に無理やり乗せられるアシュリーの姿があった。最後に目にした兄の姿に抵抗する気を失い、投げ捨てられるように乱暴に荷馬車内に入れられると、膝を抱えて蹲る。その前には連れてきたもう一人の売人とフィオナの姿もあった。
「ちょっと。これだけしか貰えないってどういうことよ!」
 貰った金貨の枚数に腹を立て、荷馬車から降りてきた売人の男に叱責を浴びせる。売人の男は「強情な人だな」と呆れたように言葉を漏らして振り返った。だが、呆れた表情は瞬時に青ざめる。
「なっ、後ろ……!」
 売人が警告を言い終わる前に、背後からフィオナの首に向かって斧が振りかざされた。迷いのないその斧はフィオナの首をとらえると、殴り飛ばすように押し倒す。鼓動と同じタイミングで血が溢れ出るその首に再度振り下ろすと、首は完全に切り離され、目の前には唖然とした売人だけが残った。
「ひぃ……!」
 売人の男は命の危機を感じ、すぐさま銃を取り出すと、震えた手でミシェルに向かって銃弾を放った。だが、狙いは思っていた場所から外れ、左肩を貫通させる。穴を開け、痛みで動きが鈍くなったがそれでもその足が止まることはなく、売人の男に近づいた。売人の男は再度トドメを刺そうと銃を向けるが、カチカチと音が鳴るだけで一向に撃てる気配がしない。
「くそっ……こんな時に……」
 相手が手負いなら逃げれば良かったと後悔したがもう遅い。手前まで迫ってきたミシェルが斧を振り上げ、男の顔面に刃を突き立てた。痛みに卒倒した男の顔面に何度も何度も斧を振り下げる。ただひたすらに無言で、まるで何かに取り憑かれたようでもあった。
 辺りは血の海だ。首なしと顔なしの遺体に囲まれ、ミシェルは崩れるようにその場に倒れた。左腕が痙攣して動かない。出血で目の前が霞む。仰向けで見上げた空は、もうすぐ夜明けを迎えていた。
「兄さん!!」
 馬車の中から駆け寄ってきたのは、自分と似た顔を持つ幼い少女の顔。パクパクと口を開閉して何かを言おうとするが、どれも最後の別れと呼ぶには相応しくないものばかりだった。考えた末にアシュリー、と名前を呼んでみる。自分を見下ろすアシュリーの顔はぐちゃぐちゃに、鼻水を垂らしながら泣いていて汚かった。
「……聞いてくれ。僕の部屋に……子供の時にお世話になった乳母に向けての手紙がある……から、その住所を辿って、そこに置いてくれるように頼め……きっとあの人なら、面倒見てくれる……もうこの村には戻るな……」
 ヴァーナード司祭のことだ。この光景を見てしまえば、アシュリーが大量殺戮の犯人だと疑われて、真っ先に殺そうとするだろう。こんなか弱い少女に何が出来ると普通ならそうなるが、何かしら理由をつけてその場を収めようとするのが奴のやり方だ。ユージンには悪いことしたなと、朦朧とする意識でそう考える。
「やだ! 最後なんて言わないでよ! 兄さんも行くの!」
「そうしたいけど……僕は、無理そうだ」
 アシュリーに答えた語尾が震えた。自分の最後なんて悟りたくないものだ。それでもアシュリーはミシェルの手を抑えてふるふると首を横に振る。それどころか「大人の人呼んでくるよ! 兄さんを助ける!」とこの場から離れようとした。それはまずいと、ミシェルは一度口角を下げてから「アシュリー!」と強い口調で言い放つ。
「行けって言ってるだろ! どうして兄さんの言うことが聞けないんだ!」
 この言い方だけはしたくなかった。あの大嫌いな両親の口調なんて。アシュリーは思わず背筋をピンとして足を止める。
「ずっと一人で何も出来ずにいて……本当に出来損ない妹だ。僕だって本当はアシュリーみたいに逃げたかったのに……! 守ってくれる誰かが欲しかったのに! アシュリーがそんなんだから……!」
 激情に身を任せて放った言葉に、思わず口を閉ざす。さっき母さんに見捨てられた時も本当は、守って欲しかったんだ。男の振りをしろと言われた時も、あの時も、あの時も。本当は誰かにずっと助けて欲しかった。
 しばらくの沈黙が続いた後「早く行け。アシュリーなんて大嫌いだ」と心にも無い言葉を吐いた。よほどショックだったのだろう。アシュリーはこちらを見て泣くのを耐えるように唇を噛み締めながら、足早にこの場を去っていった。これが最後の別れなんて、我ながら最低な兄だったと、左肩を抑えていた手で顔を隠す。
 これでいい。アシュリーが一人で生きていくためにも、こうするしかなかったんだ。だからどうか、僕の分まで―――
「幸せになれよ……」
 見上げた空からチラチラと光を帯びた白い綿が降ってきた。力を失った手が隠していた顔からずれ落ちると、真っ赤な涙痕が這った顔は穏やかに笑みを浮かべている。近づいてくる影を最後に認知した後、ミシェルの意識はそこで途絶えた。



「はあ……嫌なこと思い出した」
 ふぅ、と一つ嘆息を零す。怠そうに向けられたミシェルの足は、既に帰路へつこうとしていた。せっかく休みを貰ったなら、屋敷に帰ってそのまま寝るのもありかもしれない。睡眠はストレスを半減してくれるという。睡眠をとって、また仕事に戻れば自然といつもの調子に戻る、そう思った。
「誰かっ……」
「おっと、騒ぐなよ!」
 路地の突き当たりまで来た時にそんなか細い声が聞こえた。ぼうっとしていた為に気がつくのが遅れて角を曲がると、そこには大柄な男たちに腕を掴まれている女性の姿があった。見ると男の手には麻袋が握られている。疲労し、いつもより判断が遅い頭でもすぐに人攫いだと分かった。
「げっ、なんだよてめえ……俺たちはこいつに話があるんだ! 通るならあっちに行け!」
 女性の口を抑え、自分たちの背後へと隠す。明らかに怪しい行動だが、大抵の人間は人攫いだと分かっていても関わろうとしない。見て見ぬふりをするのが、この世界の常識だ。面倒事には関わりたくないと、ミシェルは申し訳なさそうに目を逸らし、何事も無かったようにその場を去ろうと踵を返す。
「……あっ、やだ。いかないで! 助けて!」
『助けて兄さん!』
 必死に抵抗して叫んだその声にミシェルは背中を向けたまま立ち止まる。別に人攫いなんて、街中ではよく見かける光景だ。
 ヴァルテナ教の支配が終わり、迫害を受けていたセレグレア人は、変わりにヴァルテナ人達を奴隷にするようになった。人攫いもそれの一環。終わることの無い因果応報の円環。アルマテアが未だに奴隷制を許しているのは全て、過去の復讐のため。だから、私たちは見て見ぬふりをしている。自分たちがされてきた屈辱を奴らに与えるために。けど―――
「ちょっと。その手、離しなさいよ」
 カツン。再び向き直った足音が路地に響いた。麻袋に入れられそうになった女性はこちらを涙目で見つめている。
「ああん? なんだよ、女のくせに。俺たちの邪魔をするってのか?」
 近寄ってきた男はガンを飛ばすようにしてミシェルを見下ろしてくる。が、すぐさま余裕そうな笑みは消えた。歩き出すと共にミシェルが男の鳩尾を膝で蹴りつけたのである。片手に紙袋を大事そうに抱えたまま放たれた鉛のような重い一撃に、男は腹を抑えるとその場で蹲った。カツンカツンとヒールを鳴らしながら、ミシェルが残りの男に向かって歩き出す。
「な、なんだよてめえ! こっちにはナイフが!」
 麻布を持っていた男は慌てて懐からナイフを取り出してミシェルに向けた。けれども、自分の顔前にサッと風が過ぎったかと思うと、そのナイフはへし折られ、空中に舞った刃先が視界の隅で落ちる。男はナイフ先がなくなった柄を向けたまま「えっ」と声を漏らしその場に座り込んだ。一体何があったのだろうと青ざめていると、蹴りを放ったミシェルがゆっくりと足を下ろす。
「その人を解放しなさい」
「へ!? ですが、俺たちも仕事で……」
「うるせえ。殺すぞ」
 座り込んだ男を見下ろすように睨みつけ、ミシェルは声色を低くして一言放った。何が起こったか理解もできずにただ目の前の恐怖に臆した男は「ひぃぃ、すみませんでした!」と膝をつきながらその場を去っていく。なんとも間抜けな逃げ方だと、背中を見つめて「情けないやつ」とミシェルが鼻で笑った。
「あの、助けていただきありがとうございます……」
 傍で見ていたヴァルテナ人の女はその場で深々とお辞儀をする。一度は見捨てようとしていたこともあって目を逸らしながら「あんたもこんな人通り少ないところ歩いてんじゃないわよ。これじゃ攫われても自業自得だ」とミシェルは素っ気なく返した。
 放っておけば良かったのに。なんでこんなことをしてしまったのか不思議だった。いちいち首を突っ込むなんて何処ぞの馬鹿じゃないんだからと、白髪の少年を思い出して嘆息する。もしかしたら、奴のお人好しがうつってしまったのかもしれない。
 ごめんなさい、とヴァルテナ人の女は俯き、地面に落ちていた袋を手に取った。
「弟の病気を治すために、薬を買わなくちゃいけなくて」
 そういう事か、とミシェルは袋を横目にした。未だに差別が見られるこの国は「ヴァルテナ人だから」という理由だけで薬を売られないことが多くある。大方、正規ルートではなく、違法の流通で手に入れようと路地に入って攫われそうになったんだろう。
「そう。弟の為にわざわざ危険な道を歩くなんて、馬鹿じゃないの」
 ミシェルの言葉に、女はぐっと唇をかみしめる。が、頭上からすぐに「そういう馬鹿は嫌いじゃないわ」と続けられた。
「いい姉を持ってその弟は幸せね……早く行きなさいよ。弟が待っているんでしょ。これからはなるべく人目につく所を歩くか、一人で歩かないこと。大事に思ってんなら、弟一人残すなんてことするんじゃないわよ」
 そう、あの時の私みたいに。ミシェルは心の中の呟きに閉口した。ヴァルテナ人の女はぱあっと表情を明るくして、顔を上げたが、ミシェルの背後に迫る影に青ざめる。先程鳩尾を殴られた男が復活し、ミシェルに襲いかかろうとしていたのだ。
「あっ、危ない!」
 完全に気を抜いていたミシェルは女の声に振り返る。自分と重なった影に目を見開き拳を構えるが、間に合いそうになかった。
「はい、どーん」
 棒読みの男の声が聞こえたかと思うと、ミシェルに襲いかかろうとした男は太い首の血管が破裂したように血を吹き出してその場に倒れた。数滴の血がミシェルの頬に跳ね、目を見開いたまま眼前に立つ青年の姿を見つめる。見覚えのある緋色の髪に、青い炎のような光を宿す猛々しい垂れ目。恍惚としたその表情は自分の記憶のものと何一つ変わっていない。
「まったく、ガタイのいい男が不意打ちで口説こうとしているから、一体どんな女かと思ったけど」
 ピンッと、ナイフで空を切るようにして血を払い、その人物はのろりくらりと二人に近づく。
「ミシェルじゃないか。まさかこんな所で再会できるなんて。嬉しいよ、
「ラニウス……!」
 ミシェルは険しい表情で、赤髪の男ラニウスを睨みつけた。
「久しぶりだね。てか、何その髪型。女の格好なんてして、ついに女装にでも目覚めたの?」
「んなわけないだろ! ついにって僕にどんなイメージ持ってたんだてめえ!」
 勢いよく前に指を突き出し、怒鳴るように訴える。一方、目の前で血を吹き出した男に悲鳴も上げられず怯えていたヴァルテナ人の女は「あっあっ」と声を漏らしてから「人殺し!!」と叫ぶようにしてその場から逃げ出した。
「あーあ。また振られちゃったよ。ミシェルのせいで」
「自業自得だ。あんた、相変わらずその手癖治ってないのね」
「まあね。でも人殺しなんて酷いなあ。学習したから今回はちゃんと外してんのに」
 まあ、放っておけば死ぬけどさ、とラニウスが付け足して言った。息を吐くように殺そうとしてんじゃないわよと、ミシェルがその場で屈む。
「ん? 何してんの?」
「出血止めてんのよ。このままじゃ、私も疑われる」
 ハンカチを取り出し、男の傷口を見てみる。確かに動脈を僅かに外しているようだった。変なところで器用なやつだと思いつつも、倒れた男の応急手当をする。多分切られたショックで気絶しているんだろうけど、大事にはなっていないようだ。
 ミシェルを見下ろしていたラニウスはふーん、と興味無さそうに伸ばしてから「……甘くなったね」と小声で呟いた。
「なんか言った?」
「別に? というか、気持ち悪いから普通にしてくんない? おネエと話してるみたい」
 イラッ。手当が終わったミシェルの拳が強く握りしめられる。そういえばラニウスにちゃんとまだ女だということを話したことはなかった。どこから話せばいいかと悩み、思わず無言になる。
「にしても、軍を抜けたミシェルがこんな所にいると思わなかったよ。こんなに女らしくなっててさ」
 その言葉と同時に立ち上がり「元から女だったとすれば……あんたは引くか?」とラニウスと向き合う。真剣な眼差しを向けられ、ラニウスはしばらく間を開けてから「いいんじゃない?」と口にする。
「ミシェルがミシェルなら」
 口を開けて楽しそうに笑うラニウスにミシェルは少々困惑した。いや、女だったからと言うだけで差別するようなやつではないかと安心したように肩の力を抜く。
「あっ、久々に会えたんだし。近くの酒場で話さない?」
 最近あそこ可愛い新人が入ってさ、と語るラニウスに鼻だけで嘆息する。こいつは何一つ変わっていない。だからこそ、なんだか少しほっとした。
「あんたが奢ってくれるなら行ってやってもいい」
 路地を歩き出すミシェルに、ラニウスは「よしきた」と嬉しそうに後を追った。
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