SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 四章 ミシェルの追憶編

38 兄と妹

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 生まれながらにして割り振られる環境、性別、容姿、はたまた才知などの能力だったりと、自分の人生を左右する全ては神によってデタラメに設計されている。平等だと主張する偉い人間が努力すれば報われるなどと言っていたが、現世は大抵生まれた時に生きていく道筋が決まっていて、それに従っていくのが一般的だ。その多くが自分の意思では決められないという意味でも、この世で最も幸福なのは選択肢を多く持てる「運がいい」人間に違いない。
 幸福を手にすることが許される、そんな選ばれた人間―――多くはそれを、青の血筋(貴族)に生まれてきた者だと言った。生まれながらにして高貴の血を引き、その人生は順風満帆なものだと約束されている。けれど稀にそうではない人間でも、爵位を与えられ、生産階級から官僚にのし上がれる場合があった。ジェイラス・オルコットはまさに、小さな可能性を手にすることができた「幸福」な人物と言えるだろう。
 生まれつき体格と頭脳に恵まれていたジェイラスは小さな田舎村でも評判が良い、仕事熱心な男だった。また、正義感もあり、弱いものいじめをする人間には容赦なく拳を振るうなど、優しい性格ながら喧嘩も強かった。そのいじめられた子が村一番の美しさを持つ村長の娘だったというのもきっと、ジェイラスが引き寄せた運なのだろう。
 それをきっかけに村長のお気に入りとなったジェイラスは、付き添いで王都に足を運んだ際、偶然にも当時の騎士隊長の娘を人攫いから救った。田舎男の勇気と正義、そして強さを気に入った騎士隊長の推薦もあり、農奴から一気に騎士の称号を得ることになったのだ。
 初にして騎士となる人物を生んだ小さな田舎村は彼を誇りに思い、そうして村長の娘であるフィオナと結婚した。まるで物語に出てくる主人公のような、誰もが憧れるそんな人生だ。
 だが、幸福な人間の元に生まれてきた子が幸せになるとは決して限らない。ましてや、その幸福が永続するなんてことは決して、ありはしないのだ。
 二人が結婚して数年後。準貴族の仲間入りとなったオルコット家は双子の女児を授かった。初出産に加え双生児ということもあり、分娩所要時間は一日という長丁場だったが、母体胎児共に何事もなく乗り切ることが出来た。初の子供にジェイラスとフィオナは喜び、それぞれ姉をミシェル、妹をアシュリーと名付けた。
 だが、双子出産による母体の負担は大きく、結果的にこれがフィオナの最後の出産となった。これにはジェイラスも焦りを見せる。
 士爵とは世襲を継ぐことができない準貴族のこと。そして士爵であるジェイラスの役割はヴァルテナ人が支配する教会側の護衛だった。ノルワーナが壊滅する前まで、アルマテアの全地域にヴァルテナ教を信仰する教会が建てられ、それを中心とした支配が長きに渡って続いていた。教会は地方領主のように徴税を認められており、同時にその場で罪あるものを裁く権利が与えられていたのだ。
 勿論それを不満に思った農奴も少なからずいる為、ヴァルテナ人の護衛を第一に、憲兵だけでなく士爵も駆り出されることが多くあった。ジェイラスが士爵にされたのも、力を持っている人間がヴァルテナ人の敵に回らないよう、国家権力に吸収するためのものである。
 教会の護衛である士爵は徴税のひと握りが分け与えられ、その財産の保有が認められる為、結果他の農奴より幾分か余裕のある生活ができる。だが、ヴァルテナ人に買収されていると言えるその制度も、自分がこうして騎士として活躍出来ているだけの時に限られるのだ。騎士の寿命は四十五歳。続けて自分が死ぬまでこの生活を続けるには、自分の子も同様に士爵になってもらう必要がある。そのためにもジェイラスは男児を望んでいた。
 だが、現状愛する人はもう子供を産むことが出来ない。その怒りとも悲しみとも言えないドロドロとした感情の矛先は、生まれた子供達に向けられた。
「いいか。お前は将来騎士になるんだ。騎士になって、産んでくれた両親を幸せにしなさい」
 特に姉のミシェルは父親の「理想」に当てられる一番の犠牲者となった。周囲や両親の期待通り、ミシェルは確かに物覚えがよく、妹のアシュリーよりもはるかに優秀ではあった。だが、一つ問題点をあげるとして、感情の制御がきかない子でもあったのだ。特に怒りの沸点が低く、ちょっとした事にも我慢ができない体質で、例え相手が年上の貴族だろうと関係なしに手をあげたことがあった。相手が鼻血を出して泣きながら許しを請おうとも、自分の怒りが消えるまで何度も、何度でも。
 当時、騎士になるための条件として第一に男であることが求められていたのだが、それよりもその性格難に将来の不安が一気に高まった両親は以来「お前のためだ」と少しの駄々も厳しくして、ミシェルの感情矯正を徹底した。初めは我儘を言っていたミシェルも、間違う度に与えられる痛みに恐怖し、いずれ自分の思いを表に出そうとしなくなった。この人たちには逆らえないということを体で知ったためである。
 こうして、物心ついた時から呪いのように同じ言葉を繰り返し投げかけられ、髪を短くし、立ち振る舞いや口調も男であることを強制させるという両親の目論見は成功した。
「騎士になれば、オルコット家は安泰。他の貴族と接する機会も増える。お前が功績をあげ、認められるようになれば、アシュリーは貴族と結婚して今よりずっと幸福になれるだろう。勿論母さんも父さんも、そしてお前もだ」
 きっとヴァルテナ人を護衛し、財産を得る暮らし以上の幸福があると言いたかったのだろう。両親の幸せは子供たちの幸せに直結する。ジェイラスが描いた理想は「騎士になったミシェルが貴族と関わりを持ち、妹のアシュリーが貴族関係者と結婚する」こと。そういった無茶ぶりとも言える理想を掲げるようになったのは、過去に英雄と呼ばれるようになったとある士爵が褒美として王族の分家である娘と結婚し、伯爵位の称号を得るという事例があったからだ。
 騎士になるための訓練や、貴族と立ち会う時のマナーを叩きつけられながら、理想の傀儡を演じる一方で、ミシェルは自分の身に起こっている事が異様で不条理だということを理解していた。
 本当は自分も村の子と同様に人形遊びがしたかった。街で見かけた綺麗なフリルのワンピースを着たい。一度はそんなことを父親に言ってはみたが「男児はそんなものを着てはいけない」と厳しく怒鳴られてからは言うのをやめた。正しくなければ殴られる。駄目な人間だと言われてしまう。なら、父親の理想になりきるしかない。自分を守る為、そしてアシュリーが自分と同じ目に合わないためにも。
 幼くしてすぐに状況を受け入れることができたのは、ミシェルがとても利口だったからだ。今でこそ、自分の権力と財産を守るのに必死などうしようもない父親の、確かに優秀な血を引いて。

『貴方は優秀よ』
『きっとお父さんにも負けない、立派な騎士になれるわ』
『死にたくなければ正しくいなさい』
 うんざりだ。うんざりだうんざりだうんざりだ! 廊下を歩きながらそんな誰に吐くでもない鬱憤を内心で叫んだ。口に出すことも許されない感情なんて、いっその事なくなってしまえばいい。そうすれば自分の心はもっと平穏で、健康的だったはずだ。
 正しくなければ受け入れて貰えない。自分が少し規則に反した言葉を言うと、異常だと言われてしまう。考え直すまで、何度も何度も叩きつけられる。
 何が家族だ。あなたのためだ。馬鹿馬鹿しい。大切にしているようで、考えているのは子供よりも自分達の将来のことばかり。両親にとって、子供なんてただ「自分たちが心地よくなるため」の道具に過ぎないのだ。私はあなたの家族として、母親として。そんな言葉を聞かされ続けた結果、ミシェルは両親を家族と認めようとはしなかった。
 あの人たちが大切にしたいのは、自分たちの将来と、築き上げた地位、財産。子供のことなんて初めから見てやしない。家族なんて所詮、血の繋がりがあるだけの、ただの他人だ。そうやって家族ごっこをしながら感情も自分の生き方さえも矯正されていく事が「当然」だというなら、ソルネフィアのように、口も聞けずに誰にでも愛想を振りまくような花になってしまいたい。そう、切に願った。
 その足でアシュリーが勉強しているであろう部屋の近くまで行くと、すすり泣くような声が聞こえてくる。必然と悲しみを目元に齎すような、横隔膜を痙攣させるひくついた声だ。青ざめたミシェルはその扉を勢いよく開けて中へと入った。
 部屋の中央には、自分と似た栗毛を長く生え伸ばし二つにまとめている少女が蹲っている。アシュリー、と呼びながら慌てて駆け寄り、背中に手を添えてやると、振り向かれたヘーゼルの瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「ひうっ、兄さん……」
 涙でぐちゃぐちゃになった頬は赤く腫れ上がり、血が薄らと滲んでいる。それを見て殺気のような衝動に駆られながらも「また、あのクソ教師に叩かれたのか!?」と肩を掴んだ。
「うん……でも私が悪いの……兄さんみたいに優秀じゃないから……叩かないで……」
 手で顔を隠すアシュリーに眉を下げながら「なんで謝るんだよ……僕がアシュリーを叩くわけないだろ?」と取り出したハンカチを目元に当てる。一度の鞭でここまで血は出ない。きっと、何度も叩かれたんだろう。鞭を入れる時は手のひらだという規則だが、ミシェルとは違って、物覚えが悪いアシュリーに腹の立った教師が頬を叩くというケースはこれまでにも何度かあった。
 規則を守れと言ってくるくせに、自分たちだって守っていないじゃないかとミシェルは奥歯を噛み締める。自分の都合で変えていい規則なんて、守れという方が馬鹿馬鹿しい話だ。
「とりあえず、僕の部屋に来い。治療してやるから」
 アシュリーの手を引いて立ち上がり、ミシェルは優しく微笑んだ。



「兄さんは凄いなあ」
 自室で治療を施している際に、アシュリーがぽつりと呟いた。急にどうした? と綿に消毒をつけながらミシェルが返す。
「だって、兄さんは私と違って色んなことが器用にできるでしょう? 私はずっと怒られてばかりで……何も出来ないし……」
「そんなことないだろ。アシュリーは僕にはない良さがあるし、それに僕も怒られてばかりだ」
 昨晩、父に稽古をつけられて散々言われたことを思い出す。その程度で泣くなと言われても、殴られるのは痛いし、服の上から見えないだけで体は痣だらけだ。今だって正直痛い。
「違うよ……だって私、本当に何も……それで兄さんにはいつも迷惑ばかりかけて……」
 うじうじと下を向き、泣きそうになりながら呟くその姿に、ミシェルはムッと口角を下げ「つまらないこと言うな」と消毒のついた綿をアシュリーの頬に押し付けた。自分と瓜二つの少女は痛そうに涙目になって肩を飛びあがらせる。
「いっ! 痛いよ、兄さん……それ急にしないで」
「ああ、ごめんごめん。少し我慢しろよ。消毒つけないと、傷口からバイ菌が入って顔がぶくぶくに腫れあがるんだ」
「ひっ、怖い……ちゃんとする」
「ん。アシュリーは偉いな。こんなに傷を作っても怒らずに我慢して頑張っているんだから。僕だったら、多分耐えられないし、殴りかかってる」
 ずっと前に起きた事件と重ねて憂鬱になっていると「それじゃあ、痛いし可哀想だよ」とアシュリーが眉を下げた。自分は傷まで作っているのに、よくもまあ、奴に慈悲をかけられる。そういう所だよ、とミシェルは小声で言ってから微笑して血液の滲んだ消毒綿を離した。
「何が?」
「なんでもない。にしてもあのクソ教師は……顔に痕でも残ったら賠償ものだぞ。嫁に行けなくなったらどうしてくれるんだ」
 話を逸らすように話題を戻すミシェルに「私は兄さんと結婚するから。別にいいよ? 顔腫れるのは嫌だけど」とアシュリーが微笑んだ。その言葉に少しだけ照れくさい気持ちになりながらも「できないって言ってるだろ」ともう一度傷口に消毒綿をつける。アシュリーは「ひっ!」と再度肩を震わせると、眉間に皺を寄せて目を瞑った。
「……うう。でも、他の人はみんな怖いんだもん。兄さんがいいよぉ」
「家族とは結婚出来ない。知ってるだろ?」
 そんな決まりなんて知らないよ、と怒りながら返すアシュリーに笑いながらも、ミシェルは沈痛したように眉を下げる。
 生き方も考えも、女の子らしいその容姿も自分とは違っているはずなのに、なんだかもう一人の自分と対話しているようで、アシュリーといると心が落ち着いた。だからこそ、ふと思ってしまう。もし違った道があるなら、自分もアシュリーのように「女性として」生きられたのだろうか、と。
「……兄さん。もしかして今傷ついた?」
 唐突に聞こえたアシュリーの声に目を見開き、えっ、と一声あげてから「なんでだ?」とミシェルが聞き返す。今の流れを振り返ってみても、そんな雰囲気は出ていなかったはずだ。何度か瞬きをしてアシュリーは「何となく?」と首を傾げる。
「いや、でもそんな流れじゃ……」
「よく分からないけど。そうなんじゃないかなあって思ったの。私たち、二人で一つでしょ?」
 兄さんが辛いのは、私も辛いよと、アシュリーがミシェルの頭を撫でる。自分が何故そう思ったのか明確に分かっていないようだった。顔色を読めるような子ではないが、アシュリーはたまに核心を突くようなことを言う。まるで、切り分けられた、元は一つの存在だったかのように感覚を共有している。そんな自分の気持ちに気づいてくれるアシュリーにミシェルは一人、心のどこかで助けられていた。紛れもない「自分」を見てくれる彼女に。
「……ああ。そうだな。僕もだよ」
 撫でられた頭に触れながら、ミシェルは頬を緩ませ、額を重ねる。
 きっと自分は、アシュリーの中にもう一人の「違う自分」を見ていたのかもしれない。けれども女性としての道をただ一人歩む彼女のことを決して恨んだりはしなかった。たった一人の家族である以前に、僕の大切な片割れだ。
 自分の憎むべき運命を受け入れる心構えはできている。だからせめて、自分では手にすることが出来ない一人の女性としての道を、彼女には歩んで欲しい。
 どうか自分の分まで。



 とある伯爵の荘園内にあるアレイス村は、もうすぐ収穫祭を迎える。村を中心に広がる穂の垂れた麦畑にはいくつもの風車が回っており、もうそんな季節かとミシェルは高くなった空を見上げた。
「ふんっ、ふふーん」
 軽い足取りで前をいくアシュリーの鼻歌に「ご機嫌だな」と見守る保護者のようにしてミシェルが呟く。動き回る度にぴょんぴょんと揺れるアシュリーの二つ結が、なんだか野ウサギのようでとても可愛らしく思えた。
「だって、兄さんと外に出るの久しぶりなんだもん。最近はずっと剣術の稽古で忙しかったし……! 兄さんは楽しくない?」
 急に振り返り、こちらに向かって満面の笑みを浮かべるアシュリーに「楽しいに決まってるだろ」とミシェルが嘆息した。そういえば最近は特に稽古が忙しくて、アシュリーとの時間も減ってしまったように思う。
 どこか素っ気なくも優しい声色のミシェルに「良かった……たまにはこうして気分転換しないとね」とアシュリーがまた前を向いて歩き出した。もしかしたら、ずっと稽古続きだった自分を気遣って、街に連れ出してくれたのかもしれない。いや、アシュリーに限ってそんな考え深いことはしないか。計算上で動けない子だからこそ、何気ない行動一つひとつが愛おしい。
「折角だしおばさんの所で何か買ってやろうか?」
「もう~兄さんったら、私の事肥えさせないでよ! そんなに食いしん坊じゃないもん!」
 切り替えるようにして放ったミシェルの言葉に、アシュリーは小さな頬を膨らませる。 屋敷では食事の度にテーブルマナーのダメ出しを受けているため、あまり食べ物を口にしないアシュリーだが、その分、幼い頃から村に来る度にこっそりフロッテオなどを食べて腹を満たしていたのだ。はいはい、とミシェルは鼻で笑い流しながら、この幸せなひと時に目を瞑る。
「ん? なんだろう? 人だかりができてる」
 不思議そうなアシュリーの声にミシェルは思わず顔を上げ、その人だかりを目にする。人の間から見えたのは祭服に身を包んだ数名の男と、木造の大掛かりなセットに吊るされた麻縄を首にかける老若男女。その表情は青ざめており、遠くから見てもガクガクと震えているのが分かる。それを認識した瞬間、ミシェルはこれから何が始まるのか想定がついた。
「よく聞くがいい、皆の者。彼らは教会に税を収めず、ノアグランテ様に刃向かった不届き者である。彼らの穢れた魂は、今生で浄化することは不可だ。よって、この場で転生の儀式を行う」
 淡々と放たれた言葉に右端にいた女が「い、いやあ! ま、待って」と涙目になって祭服の男を見下ろした。この儀式を取り仕切るのは短く刈り上げられた坊主頭の、眼力の強い男性。顎髭を貯えたその姿は、聖職者よりも軍人に居そうな見た目だ。彼こそが、この村の教会の司祭、ヴァーナードである。
「私の罪は認めます……! けど、どうかこの子だけは……! この子だけは殺さないでぇ……! 私は死んでも構いませんから……! お願い……!」
 鼻水を垂れ流し、首を振る女性の隣では、自分たちよりも幼い女児が涙を流して震えている。恐らく周囲の異様な光景と母親の様子に臆して幼く無知な心に恐怖が芽生えているのだろう。
 ヴァーナード司祭は女の声に重い足を動かすと、女児の前で止まり「可哀想に」と片手で収まる小さな頭を優しく撫でた。
「母親がだらしのないクズだったために、こんな幼子の魂が穢れてしまうなんて」
 ならば早く解放してやらねばと、ヴァーナードは女児の足元に置かれた小高い木台を勢いよく蹴り倒した。途端に断末魔のような甲高い悲鳴が横にいた母親から聞こえてくる。女児は自分に何が起こっているか分かっておらず、釣り上げられた魚のようにただ苦しさにもがいていると、数秒してから異様な音と共にがくんと下にズレ落ちた。
 首が異様に長く伸び、支えを失い重くなった頭がぐったりと麻縄にもたれかかっている。目は浮き上がり、鼻からはつぅと血が伝っていた。ぽたぽたと股下から滴り落ちる何かに、ミシェルはただ目を見開いて震えた息を漏らす。
「例え幼子であっても、我々と同じ魂を持つ人間だ。輪廻の試練を乗り越え、来世では報われることを祈ろう。さて、次は……」
 ヴァーナードが次に母親の方を振り返ると、隣で我が子の最期を見届けた女は既になんの反応も示さなくなっていた。涙を流すその瞳には、もはや虚空だけを映し、宙でぶらぶらと足を揺らしている。我が子の死を見届けるぐらいならせめて一緒に死んでやろうと、自ら足元を離れたに違いない。
「ほほう、自主的に転生を望むとは立派だな。彼女はきっと来世で幸福になれる事だろう」
 両手を広げ、母親を褒め称えるヴァーナードの背後で、それら親子のやり取りを見ていた同じく死刑者達は、涙を流しながらひくつかせるように呻き声をあげる。あと数分もせずに自分たちもこうなると考えて、世界を憎み、絶望しているのだろう。
 何かしら文句を言って死を早めないようにと必死に口を閉じ、引きつったえずきのような声がうーうーと鳴り響く。それはまるで夕刻の時に聞こえてくる野鳥の鳴き声のようだった。
 何故あんな幼い子供が殺されているのだろう。周囲は何故それを平然と受け入れているのだろう。初めて見る光景に疑問と理解し難い恐怖が入り交じり、遠くで一連の様子を見ていたアシュリーは口元に手を当てながら蹲った。ミシェルは思わず駆け寄り「アシュリー!」と名前を呼びながら小さく震えた背中を擦る。
 迂闊だった。いつもならこれを避けて通るのに。疲労のせいで何も考えず、アシュリーに先導させてしまった。自分のした過ちに対する後悔と、先程の光景で表情が歪み、下唇を噛み締めて吐き気を抑える。
 早くここから離れた方がいい。アシュリーの様子を見てミシェルが口を開こうとすると、それを遮るようにして「おい! 待ってくれ!」と駆けてきた男が迷いのない堂々とした足取りで群衆の中へと入っていった。絞首台の女がその声に反応して顔を上げる。
「左端の彼女は……リースはちゃんと納税していた! 足りていないなら俺が出す! だから解放してくれ! 頼む!」
「ユージン……!」
 その名前にミシェルは聞き覚えがあった。確か、父親の幼馴染で屋敷に何度か来た男だったはずだ。アシュリーを抱きしめながら、改めて確認するように、現れた男の広い背中を見つめる。
「この女は税が問題ではない。最も罪深いとされるルミネア教を密かに信仰していた魔女だ」
 ヴァーナードの言葉にユージンは言葉を失う。絞首台に立たされたリースは反論することもなく、俯いたまま何も答えようとはしなかった。本当なのか、と目を見開かせたままゆっくりと言葉を紡ぐユージンに「ごめんなさい、ユージン」とリースが掠れた声で答える。
 アルマテア内にはヴァルテナ教を強制された現在でも、変わらずルミネア教を信仰している者が多くいた。その為、ヴァルテナ教は彼らを「ルミネアに魂を売った魔女」だと言って、見つけ次第処刑する事を国政として活発に行っていたのである。これが後に「魔女狩り」と呼ばれるものだ。
「確かあの子はルーデラの村から来た子じゃなかったか?」
「怖いわ……これだからよそ者は……」
「悪霊を移されたらたまったもんじゃないよ」
「穢れた魂は早く浄化するべきだわ」
 処刑される恐怖から、観衆は他人事のようにリースを責め始める。その中には毎朝井戸前で挨拶している者やリースが親切に食料を分け与えた者もいた。まるで私たちは一切関係ないと言い張るような言葉に、ユージンは憎悪の目で「お前らっ……リースに恩があるくせに……」と周囲を睨みつける。
 人々の心ない言葉はリースの耳にも届いていた。けれども、彼女はぐっと下唇を噛み締めてから「でも、私は後悔していない……!」と声を大にして答える。
「あの方はこの狂った世界を変えようとしていた……! ユージンも……みんなも知っているでしょう!? 人を殺していい規則なんてあっていいはずがない!! ヴァルテナ教は間違っているわ!」
 涙目になったリースの訴えに観衆は目を逸らす。みんな知っているのだ。この教会の横暴が理不尽で間違っていることぐらい。けれども、リースの訴えに同調する者は誰一人としていなかった。
 いつの間にかリースの背後に立っていたヴァーナードは「もういい、耳障りだ」とリースの立っていた小高い木台を蹴り倒した。続いて隣にいた処刑者達のものも次々倒されていく。吊るされた人々は水から引き出された魚のように足をばたつかせて抵抗し、やがて動かなくなっていった。リースの演説に少し遅れてしまったユージンが思わず「やめろ!」と雄叫びをあげ処刑台に向かおうとする。だが少しだけ、判断するのが遅かった。
「わた……まちがっ……ない」
 リースは首を絞めつける麻縄を首から外そうとしていたが、大木が折れた時のような重厚な音とともに他の処刑者同様、完全に動かなくなった。首関節が脱臼した事で長く伸び、その身長は吊られた高所からざっと見て二メートルほどにもなった。
 股下から溢れ出るアンモニア液が処刑台に広がっていき、最後まで訴えようと開かれた口からは舌が垂れ、唾液を流している。ユージンはその光景を理解するのに数秒の間を置いてから力なく地面に膝をつくと、産声のように慟哭した。
「ちっ、汚ねえしくせえ。生きてても面倒なのに、死んだ後も迷惑なんてつくづく人間ってのは手間がかかる」
「いやあ。でも最後のは傑作だったな。納税がままならないガキを庇って捕まるなんて愚かな女だよ。せいぜい来世では真っ当に生きれたらいいな」
「真っ当にって、来世では小便漏らさないようにってか?」
「そりゃあ、男のブツで栓でもしないとダメだな」
「尚更緩くなるだろそれ」
 確かに言えてるなと、祭服の男は動かなくなったリースに向かって唾を吐きかけた。下品なことを言うな、近くにいるとその女の穢れがうつってしまうと、ヴァーナード司祭が呟く。
 絞首台の前からは少しづつ人が離れていった。地面に這いつくばったまま動こうとしなかったユージンは、それを聞くなり鋭い瞳で教会の人間達を睨みつけた。起き上がったその手にはナイフが握られている。人がまばらになり、遠くからでも様子がハッキリと見えるようになったミシェルは本能的にまずいことを悟った。
「まっ……!」
「馬鹿野郎!」
 近づいてきた見覚えのある人物によってユージンは地面に顔を叩きつけられた。勢いによって思わず手からナイフを離す。そうしてから、地に顔を抑えるガタイのいい大男を見上げた。
「ジェイラス……!」
 その騒ぎを聞きつけて、離れかけていた人達は一斉にこちらの方を振り返った。周囲からはジェイラスの名前を呼ぶ人々のざわめきが聞こえる。やっと落ち着いたアシュリーも顔を上げ「お父様?」とハンカチを口元に抑えたまま呟いた。村で仕事中の父に会うのはこれが初めてだ。
「ジェイラスか。その男は?」
「怪しい動きをしていたので。しかし、もう問題はありません」
 突然現れたジェイラスの腕を振りほどこうと身を捩り「離せ! 離せっつってんだろジェイ!!」とユージンが怒号をあげる。しかし、ジェイラスが更に腕に力を入れたことで、より強く地面に押さえつけられ、その怒りの訴えは黙らせられてしまう。
「ほう、こんなもので神の代理人である私を殺そうとしたのか」
 絞首台から降りてきたヴァーナード司祭は、ナイフを拾い上げ、裏側を見つめてから、ユージンの肩に突き刺した。先程のショックで既に声を枯らしていたユージンは喉からくる言葉にならない悲鳴を上げる。
「歯向かうなんて馬鹿な事を。絞首台に空きはあるか?」
 その言葉を聞いたジェイラスは「いえ、彼の始末は私に任せてください」と冷たい声色で言った。てめぇ、と言いかけたユージンを再び強く押さえつける。
「ジェイラス、君は彼を庇っているのかね」
「いいえ。これ以上は恐らく吊るすための木材が重量でもたないでしょう。このまま処刑人を見せしめとして吊るしておくなら、これが限界と判断したまでです」
 風に揺れる度にギシギシときしめく絞首台に「それもそうか」とヴァーナードが振り返って言った。
「では彼の始末はそちらに任せることにしよう。頼りにしているぞ、円卓の騎士」
 ジェイラスの肩に一度手を置き、ヴァーナードは他数名を連れてこの場を去っていった。円卓の騎士、の呼び名にジェイラスは暗然とした表情でその背中を見送る。教会の人間と上下関係なく円卓を囲み、聖杯を交わした、所謂「対等な立場である」ことを示した騎士達の呼び名。
 とはいえ、現実を言うと教会側の本心では、騎士なんて使い捨ての道具に過ぎない。わざわざ民衆が居る中で言ったのはあくまで「教会側」だと言うことを示すためのもの。決して民衆側に靡かせないための、教会側が釘を刺すときに使う決まり文句だ。おかげで、ジェイラスは教会の人間と同様、村人から一線を置かれていた。
 しばらくして、頭を押さえつけられていたユージンから「ふざけんなよ!」と弾けた声が聞こえる。
「事が終わった途端に平然と出てきやがって! 何が騎士だっ、クソッタレ! 目の前で守るべきものも守れねえくせに……!なんで……なんでっ、リースを見捨てた!! あいつは子供の時からずっと! お前に惚れてたんだぞ……!!それなのに……!」
 地についた手で拳を作り、感極まったユージンが顔を上げるようにして怒鳴りつけた。その涙を目に映してもなお、ジェイラスは冷徹に見下ろしながら、しばらく間を開けて「それがどうした」と平坦に言い放つ。ぶちっ、ユージンの中の何かが切れた。
 次の瞬間、ユージンは先程とは比べ物にならない力で大男を押し倒すように起き上がると、勢いよく振り上げた拳でジェイラスを殴りつけた。その鈍い音に、周囲にいた人間は慌てて「ユージン! やめろっ、殺されっちまう!」と止めにかかる。
「俺はなあ! お前のことがずっと嫌いだったんだ! リースのことも……無駄に正義感が強いことも……! ずっと、憎らしかった……! でも、お前は尊敬する人間でもあった! なのにっ……騎士になって、何もかも手に入れたお前は変わっちまったんだな……!」
 押し倒され、口端を切ったジェイラスはユージンにただ罵倒を浴びせられるだけでなんの抵抗もしようとはしなかった。自分とは違い、人をいじめることでしか気を引くことが出来なかった不器用な彼の本音に、ここに来て初めて心が揺らぐ。
 一方、それら二人のやり取りを遠くで見ていたミシェルは「兄さん」の呼びかけにハッとした。お父様が、と膠着した二人を見つめるアシュリーに「心配いらないよ」と手を引いて立ち上がる。
「そろそろ戻ろう」
 無理やり騒動の反対側へ歩き出そうと踏み出すミシェルに「でも」と再度アシュリーがジェイラスを目に映して足を止めた。
「大丈夫さ。父さんもこんなところ見られたくないだろうし。それに、父さんに見つかったら、また怒られるぞ」
 トドメとばかりに言ってみせると、アシュリーはこの場にある未練を断ち切ったようで「……戻る」と手を引くミシェルの方へと歩き出す。叱られてばかりのアシュリーにとって「怒られる」などといった言葉は、先程見た光景と同じぐらいに恐怖があるのだろう。これ以上は見てられないという気持ちもあったミシェルはその様子にホッとして、屋敷の帰路へと戻っていった。
 酷く混乱している。処刑を目の当たりにした事によるものではない。ユージンに殴られた時の、何かを諦観したような悲しい顔の父に動揺したのだ。冷血漢だと思っていたのに、あの父にも人の心があったのか。いや、それこそユージンの言葉通り、騎士になって変わってしまったのかもしれない。権力を持つと、人は変わってしまうと言うけれど、もしかしたら父もそうだったのだろうか。
「あれが、騎士なんだな……」
 前を向いて屋敷に戻っていくミシェルのふとした呟きの意図をアシュリーは理解することが出来なかった。
 穂の垂れ下がった麦畑の向こうに夕日が沈んでいく。異様なほど赤い空を悠々と飛んでいく野鳥がウーウーと鳴き始めた。自分たちを横切る風がやけに冷たい。
「殺してやる……殺してやるっ……!」
 その風で涙を冷やすユージンが憎しみの籠った声で叫んだ。空を映した褐色の瞳を真っ赤に光らせて、何度もなんども。
 ジェイラスの死亡がオルコット家に伝えられたのは、その翌日の事だった。
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