SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

23 女騎士

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 シアンの一日は一杯の紅茶から始まる。その日のモーニングティーは、彼の好きなリトグリーネのミルクティーにフロッテオの付け合せだった。注がれる音と共に紅茶の芳醇な香りが辺りを漂う。それは寝起きで視界の端に光が飛んでいるシアンの元にも届き、眠気を振り払うように何度か瞬きさせた。
「今日はまともな執事らしいな」
 今朝の配達分を執事から受け取りながら、シアンは大きな欠伸を一つする。書斎のデスクには大量の書類が重ねてあり、そろそろ整理しなくてはと考えながら、散らかった机上に無理やりスペースを作った。
「俺の好物を持ってくるなんて、詫びのつもりか?」
「……ツグナ様に執事を一任させた事については後悔しておりませんよ? 彼なら私のあとを継いでも問題ないかと」
 一番上に重ねてあった手紙の差出人を見つめ、シアンは「冗談にしては笑えないな」と紅茶を口にした。
 最近はデスクワークばかりしている。最後に外に出たのは、確か月一で行われる敷地内の代表者と会合した時以来だろう。この時期は蓄えが不足しがちになるから、領土内の作物の供給についてのいざこざが多くあった。いつもなら街や村を回っていくのだが、直接屋敷にもってこられる事が多くなり、この場で処理する毎日を重ねている。
 税金を虚偽申請した者の報告書、他にも結婚の承認、赤子の出産報告ならまだ分かるが(村人の数を確認するために、毎月生まれてくる人間の調査を行っている)殺人にも満たない喧嘩ほどの問題事は町村の中で解決して欲しいものだ。昔じゃないんだから、何でもかんでも自分に判断を求めてくるのはやめてほしいと長く深い嘆息をついた。
 神経を使う午前中の仕事が午後にも引き続き行われ、疲労による倦怠感がずっとつきまとっている。後で息抜きがてら整理するかと、シアンは肩の力を抜いた。執事は思わずシアンの顔を覗き込むようにして「お味の程はよろしいですか?」と問いかける。
「ああ。ご機嫌取りにしては上出来だ」
 飲み干したティーカップを机に置き、シアンは口角を上げた。またそんな皮肉をと、執事は微笑みながら「彼はそんなに酷かったのです?」とティーカップに紅茶を入れ直す。
「ああ、酷いなんてものじゃない。最悪だ。第一、紅茶もまともに入れられないやつに執事は任せられない。ティータイムは俺の唯一の楽しみだ」
「そんなに厳しくなさらなくても。彼の腕が完全に戻ってからまだ一週間ですよ? 最近は屋敷の仕事も積極的に手伝っていただけるようになりましたし……少しぐらいは褒めてさしあげたらどうです?」
 あの歳頃は褒められたいものじゃありませんか、と執事が付け足した。
 教会から帰ってきてそろそろひと月が経過する。あれだけ痛々しかったツグナの腕は完璧に生え変わり、少しリハビリを終えた後、いつも通りの日常に戻っていった。最近は教会での経験から、使用人の仕事を手伝っていると聞く。あれだけ堕落した生活を送っていたのに、人は変わるものだ。やはり、教会に送り付けたのは正解だったな。
 シアンは自分の判断に自賛しながら、ティーカップに紅茶を注ぐ執事を横目にし「今後またあいつが執事に変わるようなら、考えてやらんこともない」と手紙の束に目を落とした。
 ふと、机に並べられた手紙の中で、見覚えのある文字列を目にする。いや、そんなはずはないと、手にした手紙には「ブレンダ・アーノルド」と差出人名が記されていた。
 その名前を認識した時、シアンは脳天から足元にかけての血が急速に冷えていく感覚に陥った。ペーパーナイフでシーリングスタンプを切り、手紙の内容をまじまじと見つめる。内容の殆どが、その人物から手紙を送り付けられたという驚きで頭に入ってこないが、うち一文だけは認識することが出来た。
「仕事でロザンド街に向かうことになった」
 この一文が意味するものがなんなのか、すぐさまシアンには想定がついた。その場から勢いよく立ち上がるとシアンは「ジェフリー、緊急だ」と焦り気味に口を開く。
「今すぐエントランスと客間を掃除しろ。アーノルド卿のご来宅だ」



 手紙を見つけてから三十分もしないうちに、ブラッディ家の扉を叩く者がいた。扉の前で待つ間もなく、ブラッディ家の両開き扉は全開で来訪者を屋敷の中に迎え入れる。伯爵貴族の敷地だと言うのにも関わらず堂々とした態度で来訪者は屋敷の中へと入ると、目の前の金髪碧眼の当主に向かって「久しいな」と一言言い放った。
「この度は急に出向いてしまい、大変申し訳ない」
 突然の来訪者は赤毛の入り交じったショートボブの茶髪を片耳にかけていた。前髪を流しており、長いまつ毛に縁取られた碧眼が、目の前のシアンをしかと捉えている。しっかりと背筋を伸ばし見上げてくるその立ち振る舞いは、自分より遥かに大きな存在のように思えた。
「いえ、こちらこそ。こんな山の中までご足労いただき感謝致します。アーノルド卿。本日は、ようこそおいで下さいました」
 明瞭な彼女の声に思わず尻込みしてしまいそうな圧力を感じながら、シアンは笑顔で返した。
 この国は二つの防衛隊が存在する。国防に務める軍隊と、王族の防衛に務める騎士隊だ。騎士は代々伯爵位にしか与えられない称号であり、彼女ブレンダ・アーノルドは王族側近の近衛騎士副隊長である。アーノルド家は代々近衛騎士家系であり、シアンの祖父に当たる兄妹がアーノルド家に嫁いだことで関係があった。つまり、ブレンダはシアンの叔母である。
「君と最後に会ったのは、確か五年前だったか? 随分と顔立ちがメイナードさんに近づいてきたな」
 客間に案内されたブレンダは、シアンと向き合いながらリトグリーネを口にする。
「よく言われます。アーノルド卿はお変わりなく若々しいですね」
「ブレンダさんでいいと言っているだろ? 私も君の叔母に当たるんだからな。もう少し肩の力を抜いてくれ。私の前で見栄を張る必要なんてない」
 ブレンダの言葉にシアンの笑顔が引き攣る。
 祖父の妹はアーノルド家に嫁いだものの子宝に恵まれず、やっと授かった赤子がブレンダだった。その為、ブレンダは当時男しか入隊できないと言われていた騎士になるために幼い頃から鍛えられ、女性初にして騎士副隊長の座についた。男勝りな性格も、それによるものだと言う。女性初の快挙を成し遂げたとはいえ、アーノルド家の中では跡継ぎの男児を得られなかったのはブラッディ家の血筋が混ざった為だと憎んでいる者もいた。
 もちろんその意識はシアンにもある。アーノルド家に関わることを避けているうちに、次第に自らもその家系内が苦手になっていったのだ。身内だとはいえ、妙に緊迫した空気になるのも、ブレンダを叔母と呼ぶことが出来ないのもそのためである。
「準備万端で出迎えてくれるのは嬉しいんだがな。それが少々堅苦しくてね。私はただ、身内の一人として君が心配なんだ」
 一つ嘆息し、ブレンダはティーカップを机の上に置いた。返答が思いつかず、はあ、とシアンが眉を下げる。
 彼女の言葉に嘘偽りはない、とは思う。手紙到着と共に屋敷に訪れ、こちらを困惑させようとするぐらいだ。はっきり言って迷惑、ではあるが、彼女なりに自分と近い距離で接したい気持ちがあるからなのだろう。それに答えてやりたい気持ちもあるが、そうする訳にはいかない人物がいるのだ。
「……そういえば、今日は彼とご一緒じゃないんですね」
 シアンはブレンダの後方を見つめてふと口にする。後方に立ってこちらを見つめているのは見知らぬ顔触れの騎士だ。茶髪の前髪を横に分け、襟足を短く一つに結んでいる。これといって見た目に特徴があるわけではないが、やはり騎士ということもあってどこか高潔さを感じられた。ブレンダと同じように白を基調とした服だが、装飾は少し違っている。だが、騎士にふさわしい気高く品のある装いだ。
「レオがいると、君と険悪な空気になるからな。私の後ろにいる彼はリアム・エンフィールド。士爵位の者だ」
「士爵位……彼と同じですか」
 士爵位は伯爵位とは別に様々な功績を挙げ、国王から個人に与えられる称号のことだ。だが、準貴族のため世襲することが出来ず、三爵位からは除外されることが多い。そのため地位は男爵位より下位だが、稀に功績を挙げたことで正式な貴族になる士爵もいる。
「ああ。隣にこいと言ってもこの通りの様子でな。寡黙で真面目なやつだが、嫁の話になった途端、口が止まらなくなる」
 コホンと、わざとらしく咳払いをする声がリアムから聞こえてくる。腕を組んでいたブレンダは「全く、以前のレオを思い出すよ」と悪戯好きの子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「その彼は?」
「今はロザンド街でジェンナ・ミールの痕跡を追っているだろう」
 聞き覚えのある人名に「何故彼女を?」とシアンはブレンダを見つめる。ブレンダはああ、と腕を組んでゆっくりと口を開いた。
「我々は今、とある事件について調べている。君も知っているだろう? ミレスティア街の伯爵貴族、アルフォンス・ド・ラヴァルが起こした連続女性殺人事件だ」
 その言葉にシアンは二か月前に起こったラヴァル卿の事件について思い出す。ツグナと共に舞踏会に侵入し、女性殺害の手がかりを掴んだが、黒魔術とやらの力に邪魔されてしまい、思うような結果に至らず事件は憲兵によって収束された。それで事件は解決したはずなのに、何故騎士隊が動いているのだろう。
「ただの殺人事件なら、我々が動くまでもないんだが、少し妙なことを耳にしてね。憲兵を説得するのに少々手間取ってしまったんだが」
 ブレンダが「例のものを」と後方に手を向ける。それを見たリアムは表情を変えることなく、何処からか黒い本を取り出してブレンダに手渡した。それは? とシアンが本を見つめる。
「ラヴァル卿の遺品の一つだ。事件後、彼の遺品整理は全て憲兵に任せられた。ご存知の通り、我々と軍隊の仲は良好とは言い難い。そのため、なかなか現場に踏み込むことが出来なくてな。少々手荒だったが、二か月掛けて現場を捜査する一日の猶予を手に入れた。これはその戦利品だ」
 ブレンダは、そのまま無言でシアンに本を差し出した。苦労して手に入れたものを渡していいのかとシアンは思ったが、真っ直ぐこちらを見つめてくるブレンダに断ることも出来ず、顔色を伺いながら本を受け取る。
 本は神書のようにずっしりとした重さがあった。表紙となる素材は革だろうか? ラヴァル卿の手持ちなだけあってかなり高価なもののように思えた。適当に本を開いてみるが、そこに書かれている言語は古く、シアンでさえも全てを理解して読むことはできそうになかった。とはいえ。
「……単語表記に乱れがありますが、古典ヴァルテナ語で書かれているものですね」
 古書は専門外だが、父の本でいくつか目にしたことがあった。こんな古書をわざわざ自分に見せてくるなんて試されているのだろうか。シアンは自分が持てる全ての知識を照らし合わせながら、その場で本の解読に務めた。
「ルヴァンノエンセーリエス……永遠の幸せ……?」
 何度も繰り返し書き綴られている単語をシアンが読み上げると「それは黒魔術が記された禁書だ」とブレンダが口を開いた。数ヶ月の間で聞き慣れたその言葉に「黒魔術?」とシアンは顔を上げて反応を示す。
「噂によると悪魔を呼び出すための魔術、らしいが詳しいことはほとんど分かっていない。ましてや書かれている文字がこれではな」
「何故これに黒魔術が記されていると確信を持てたのです?」
「この本は国内で既に一冊発見されている。所持者は過激なカルト教団の司教で、十数年前に教団内で大量虐殺を図った。生き残った人間に話を聞くも、全員発狂してしまって口が聞けない状態だ。現場では儀式の形跡が見られ、その過激さから禁書指定したのだが、未だに出回っているようでな。文字も一体どう習得したのか……謎ばかりが深まる」
 ブレンダは一度嘆息してから、切り替えるように「今回の事件もまさかとは思ったんだ」と続ける。
「ラヴァル卿が黒魔術に関与しているという噂は以前から耳にしていたんだが、確信に迫るまでの情報が足りなくてね。世間的には隠されたようだが、今回の事件でようやく証拠を掴むことが出来た」
「では、この本を回収するために今回騎士隊が?」
「まあな。英雄と呼ばれた祖父を持ち、ラヴァル家は陛下からの信頼も厚かった。士爵から伯爵位にのし上がった実力もある。そんな奴が黒魔術に溺れていたなど、陛下が黙って見過ごすわけがなかろう。今回我々がこうして出向いたのは、奴の痕跡を抹消しろとの陛下の勅令からだ」
 そういえば奴も元は士爵だったなとブレンダの言葉を聞いて思い出しながら「しかし、王の勅令とはいえ、死人の痕跡を抹消なんて、憲兵が黙っていないのでは?」とシアンが問いかける。
「今朝の新聞を見ていないのか? 昨夜、ラヴァル卿の邸で火災が発生した。奴が生きていた痕跡も全て、綺麗さっぱり、跡形もなく燃やされた。世間的には殺された女性の親族がラヴァル卿を憎んで放火したことになっているようだが……まあ、つまりはそういう事だ」
 なるほどな、とシアンはブレンダから目線を本に移した。国王を裏切った罪はそれだけ重いものなのだろう。ラヴァル卿がもし生きたまま拘束されていたら、死よりももっと苦痛だったはずだ。そう考えると、奴にとってはあの場で死んでしまった方が幸運だったかもしれないな、とシアンは思った。
「ほっとしたか?」
 その声にシアンは再度顔を上げて眉を顰める。一体何を? と口に出す前にブレンダは足を組み直し「ラヴァル卿は」と口火を切った。
「黒魔術によって発狂し、自殺した。奴の手元には発泡したと思われる銃が発見されている。弾丸の大きさも一致した。壁の破壊も見られたが、老廃によるものだろうと憲兵は片付けていた」
 ピクリとシアンの指先が微かに動いた。現場に行ったとなれば、地下の状況も必ず目にしているはず。シアンは「そのようですね。翌日の新聞にも書かれていました」と本を閉じながら顔を上げて、ブレンダを見つめた。
「ラヴァル卿の事件だけではなく、舞踏会に参加していた女性の一人が錯乱し、銃を乱射したなどの騒ぎもあったそうだ。後に女性からはアルデットノールと思われる向精神薬の反応があったらしい」
「へえ。アルデットノールといえば、麻薬として出回っていた時期がありましたが、現在は入手困難だと聞きます。ラヴァル卿の事件の裏にそんなことが」
 そこまで言ってから「おや、おかしいな」とブレンダが笑みを浮かべる。
「舞踏会の参加者の中には君もいたはずなんだが。見ていなかったのか?」
 その一言にシアンの頬が硬直した。依然、ブレンダから目線を逸らさずにいるが、口角は下がっている。
「念の為、舞踏会の参加者名簿に目を通しておいたんだ。そしたら珍しく君の名前があったんでね。驚いたよ、君が彼の舞踏会に参加しているなんて。それも女性と一緒に」
 体温が急激に冷めていく感覚に鳥肌が立つ。それはそうだ。調べに行ったとなれば当然、舞踏会の参加者を把握しているに決まっている。始めに憲兵と険悪な仲をわざわざ伝えてきたのは、一切の情報を与えられていないと思わせるためか。なにか返事をするにしても言い訳のようにしか聞こえず、シアンはただブレンダを見つめた。
「君が参加しているにしても、今回は妙なことが多く重なった。ラヴァル卿の遺体があった地下を見たんだが、口径と弾丸の流れからみてもおかしな血飛沫が見つかっていてね。脳天を貫かれているところを見ると、暴れたことによる散乱だとは考えにくい。だが、面白いことに、その飛沫はあたかも自殺にみせかけるように死体の周囲で見つかった。当時見つかった死体で新しいものは二つ。女性の遺体は綺麗に内臓を取られていて、喉を刺された事によるだろう血が周囲に散乱していた。憲兵の目を欺くには十分条件が揃っていたと言えるな」
 核心をつかない言い方を見ると、探りを入れているのか。だとしても、自分がラヴァル卿を殺害したと疑われているのは間違いないだろう。
「……ジェンナ・ミールを捜査して、なにか分かったことはありましたか?」
 一見話を逸らしたかのように思えるシアンの言葉には、諦観に近いものが感じられる。ブレンダはしばらく間をあけてから再度足を組み直すと「彼女は」と話を続けた。
「十六の時に父親との子供を授かった。その子供は今も近くの教会にいるらしい。その後年齢を偽り、娼婦で得た金を酒や薬につぎ込んで、酒場に入り浸っていたところ、君と会った。大層、仲が良かったそうだな」
 脳裏に過った記憶にシアンは目を閉じて「貴方も人が悪い」と呟く。ジェンナの話を振られて、どうもおかしいと思っていた。初めからこの人は答えを導き出した上で、自分にとある事実を突きつけにきたのだろう。ブレンダの意図を理解してからは、弁解する気にもなれなかった。
「そこまで調べられたのなら、もう何も言うことはありません。まさか彼女を辿って、ここにたどり着くなんて、想定外でした」
「……少し違うな。舞踏会に参加していると知って、真っ先に君のことを疑った。ロザンド街の住人で舞踏会に参加していたのは君達二人だけ。ジェンナ・ミールと君の関係はただの副産物だったが、そのおかげで君の参加した理由が大体掴めた。君の事だから、自分の領地の人間が行方不明になった事で、今後自分にも被害がくる可能性があると判断したのだろう? 君は、自分の領地にある面倒事はさっさと片付けたい性分だからな。もしくは、関係があった彼女を気にかけたのか。どちらにせよ、なんの目的もなく君が舞踏会に訪れるはずがないと思った」
 流石は叔母なだけあって、自分より一枚うわてだとシアンはため息をついた。憲兵の捜索なら十分誤魔化せると油断していたが、騎士隊が関わってくると話が別になってくる。今回は運が悪かったなと、目を閉じた。
「憲兵の迎えはいつになります? 今日なら、少し時間を……」
 立ち上がろうとするシアンに対して「何を勘違いしている?」とブレンダが引き止める。
「我々は別に君を捕らえにきたわけじゃない。憲兵がラヴァル卿の自殺と判断したのなら、事件はそれで終わりだ。第一、伯爵位の人間を独断で捕まえる権限は私にはない」
「知った上で放置するんですか? それでは身内ということで処分を避けられたと思われかねません。そうなれば貴方の立場も危ういのでは?」
 てっきり捕らえられると思っていたので、拍子抜けな答えにシアンは嘲笑し、眉を顰めた。腕を組み「まあ、聞け」とブレンダが遮る。
「今回の事件は、ラヴァル卿が引き起こした連続女性殺人事件という認知が世間的に強いんだ。今更、ラヴァル卿が殺害されたなど、特に問題でもない。寧ろラヴァル卿の事を憎んでいる人間の方が多いからな。君が彼を殺したと世間に公表したところで、君は殺人事件を解決した街のヒーローという立ち位置になるだけだ。そうなれば、憲兵も君を捕えることは出来ないだろう。私はそれらを含めた上で、君のことを見逃すと判断しているだけだ」
 決して身内だからというわけではないぞと、ブレンダが付け足す。
「では、今回は何が目的で?」
 牢獄入りを免れ安堵したものの、未だにシアンの肩は力が入ったままだった。他に理由があるとするなら、なにかよからぬ事に違いない。面倒事はお断りだ。  
 そんな心境の中、ブレンダは冷めかけている紅茶を飲み干してから「君に頼みたいことがあった」と口を開く。
「単刀直入に言うと、君には黒魔術について調べて欲しいんだ」
 飲み干したティーカップを机に戻すブレンダに、シアンはしばらく間をあけてから「私が? ですか?」と怪訝に首を傾げる。
「先程、話した際知っていただけたかと思うが、黒魔術についての情報が一切掴めず手を焼いている。本来なら国家の平穏のために黒魔術の根絶やしを優先させたいのだが、騎士の務めがある以上、そうするわけにもいかなくてな。そこで、自由に身動きができる人間に調査を依頼しようと考えた」
「だとしても、そういう調査は専門の人間に頼むべきではありませんか?」
「先程、渡した本を君はその場で解読することが出来た。君にはメイナードさんのような柔軟な思考と、判断できるだけの知識があると信頼している」
「はあ、それは光栄な事ですが……」
 父と比べられ、シアンは自信がなさそうに目線を逸らし、言葉を濁らせる。
「まあ。別に無理強いしているわけじゃない。君には君でやるべきことがあるだろう。だから私は、君の判断に任せようと思う」
 その言い方は意地悪だと、シアンは目を伏せた。こんな面倒な話、すぐに断ってやってもいい。だが、彼女はこの話を振る前に、ラヴァル卿殺害を認知しているということをわざわざ伝えにきた。自分の弱みとなる部分を掌握されていると知って断ることは、今後の影響を考えても賢い行いとは言えない。なによりも、彼女の後ろには国王という最大の権力がいる。
「……分かりました。できる限り最善を尽くします」
 諦観したように肩を落とすシアンの言葉に「そうか! 君ならそう言ってくれると思っていたよ」とブレンダが微笑む。
 初めからこうなるよう彼女に誘導されていたようなものだ。正直、もうこれ以上あの変な化け物に関わるのはごめんだが、いずれ向かい合わなくてはいけないような気がして、逃げられない事だと無理やり自分を納得させる。
「なら、その本は君に預けることにしよう。君に限ってないとは思うが、くれぐれも悪用しないように」
「心配されなくても大丈夫ですよ。生憎、悪魔の力を借りてまで得たいものなんて、私にはありませんから」
 薄ら笑みを浮かべるシアンに「そうか。なら、安心した」とブレンダが口角を上げる。
「実は少し心配していたんだ。ラヴァル卿の事件、教会での男児性的虐待事件、ミレスティア街とロザンド街山間で起こった大火災……最近ロザンド街付近を中心に物騒なことばかりを耳にする。それに、以前会った君は少し荒れていたからな」
 ブレンダはその場から立ち上がり「そろそろ行くことにするよ。レオが待っている」とシアンを見つめた。連れてシアンも立ち上がる。
「シアン、何かあったらいつでも私を頼ってくれ。君は私が守る」
 凛とした眼差しでしかとシアンを捉えながら、ブレンダは言い放った。その堂々とした態度に、この人は本物の騎士なのだとシアンは改めて感じさせられる。
 彼女は昔からそうだ。どこか距離があるものの、陰ながら自分を守ろうとしてくれる。現に幼くして伯爵位の当主になった自分を、社会的な外圧から守ってくれていたのは彼女だ。彼女の存在があったから、齢十歳にして当主になった自分は今までこの屋敷にあり続けることが出来た。だからこそ、ここで示さなくてはならない。
「ありがとうございます。でも、私も一人の大人ですから。自分の身ぐらい自分で守ります。もう、誰かに守られているだけのあの頃とは違いますので」
 負けじとブレンダを見つめるシアンの瞳には確固たる意思が映し出されている。ブレンダはそれを見て僅かに目を見開いた。
「そうか。強くなったな」
 優しく目を細めたブレンダの姿は、どこか寂しそうに見えた。



「貴方も意地悪な方ですね。あんな言い方されたら、断ることなんて出来るはずないでしょう」
 ブラッディ家を出て、ロザンド街へと向かっている途中でのこと。馬車を操るリアムは背中合わせで座っているであろう、中の人物に向かって問いかけた。ん、なんの事だ? と背後から明瞭な声が聞こえてくる。
「黒魔術の調査ですよ。あんな脅迫してからだなんて」
 先程のブラッディ卿との会話を思い出す。この近くに甥がいると聞いて無理やり連れてこられたが、まさか今回調べたラヴァル卿事件に大きく関わってくる人物だったなんて。ブレンダの言うように捕えられるほどの権力はこちらに存在しないが、場合によってはいくらでも悪人に仕立て上げることが出来てしまう。ラヴァル卿の痕跡の抹消のように世間を操って。
 それらも全て知らされた直後に依頼だと言うものだから、彼はかなり脅迫された気分だったろうとリアムは考えた。
「別に脅迫したつもりはないんだがな」
 少し間をあけてブレンダの声が返ってくる。あれで? とリアムは思わず言ってしまいそうになったが、変わらず真剣なその声に飲み込み「てっきり無理やり了承させる為に誘導していたのかと……」と言葉を変えた。
「そう、聞こえていたのか?」
 遮るように返ってきた言葉は、珍しく焦りのようなものを感じられた。声の調子こそは同じだが、どこか不安がある間の置き方に、リアムは数秒押し黙った後「ええ、まあ」と曖昧に返答する。馬車の中でリアムと背中合わせに座っていたブレンダは目を伏せながら「そうか」と腕を組んだ。
「そのつもりはなかったんだが。だから、毎回あの子もあんなに緊張してしまうのかもしれないな。どうも距離感が上手く掴めない」
 沈痛の表情を浮かべるが、その声は変わらず真剣なままだ。言い過ぎたかと車内を尻目に考えるリアムに「君には確か子供がいたよな」とブレンダが投げかける。突然のことに戸惑いながらも視線を前に戻し「ええ。三歳の男の子と……去年、女の子を」とリアムが答えた。そうか、おめでたいなとブレンダが微笑む。
「君は、その子らにとっていい父親になれていると思うか?」
 ガタガタと馬車が大きく揺れる。危ないと改めて手綱を握り直し、リアムは一度安堵の息を漏らしてから「いや、どうでしょうね」と返すように呟く。
「最近は特に仕事が忙しくて、家に戻らない状態が続きましたから。ここ数日で一番下が立つようになったと聞きますが、その瞬間を見逃してしまいましたし。子供と一緒になって喜びあえる時間を共有できないのは、父親としてとても残念に思います」
 仕事だから仕方がないと思っていたことが、口に出したことで重い事のように感じる。自分の知らないところで成長する我が子。元気に成長してくれていることを喜ぶ反面、それを見届けられない自分は、果たして父親としての役目を果たしているのかと不安になった。辛い時もだ、と背後からブレンダの声が聞こえてくる。
「私は、あの子が一番辛いときに傍に居てやれなかった。君の言うように一緒になって喜びあえる事も出来なかった。仕事、という理由もあるが、私の場合は家系の問題でな」
 ぽつりぽつりと話される言葉は、普段には見られない感情の表れを感じ取ることが出来た。リアムは反応を示すことなく、ただ前を向いてその話を聞き続ける。
「今回あの話を持ち出したのは、彼の能力を認めているからこそだが、本音を言うと、少しでも何か接する機会を作りたかった……私情が混ざっても、今度こそは守ってやりたい。けど、私が思うよりあの子は強くなっていたみたいだ。少しだけ、複雑な気持ちではある」
 騎士ではなく、叔母としての側面がブレンダの最後の一言に集約されていたように思えた。
「はあ……貴方という方は。案外、不器用なんですね」
 呆れ混じりにため息をつき、リアムは遠くに見える街の姿を見て呟いた。
「もうすぐロザンド街につきますよ。ブラッディ卿にお会いした事を、レオさんにちゃんと説明してくださいね」
 不器用という言葉にブレンダは少々疑問を感じていたが、切り替えるように言い放たれたリアムの言葉に「ああ、分かっているよ」と顔を上げた。
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