SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

31 命ある限り

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 手に持った銃で押し出すように扉を開けた。両手でしっかりと構え、周囲を警戒深く見回す。静まり返った部屋はほとんど使われていないようで、埃の匂いが充満していた。なんて地味な作業だろうと、ミシェルは嘆息し、構えていた腕を下ろす。
 シアンが開けた入口から入り、城を捜索することかれこれ三十分が経過した。未だにツグナの手がかりどころか、なんの情報も得られずにいる。
「本当に不気味だわ……これだけ広いのに、人が一人もいないなんて」
 どこもかしこもしんとしていて、本当に廃城みたいだ。護衛兵が動き回っていたら、そいつを捕まえて聞き出そうとしていたのに。人の目がない不気味さと、どこかに隠れているのではないのかという恐怖が重なって、必要以上に警戒心が高まった。本当にあの女が一人で住んでいるのかしらと、ミシェルは隣の部屋に移る。
 入った瞬間に、他の部屋とは明らかに違った臭いがした。イカ臭さがさらに発酵したような強烈で独特な臭い。ミシェルは銃を構え、鼓動が早くなりながらも周囲をぐるりと見回した。なにこれ、と目を見開き、銃を下ろす。
 絶句するミシェルの前には、沢山の人間がいた。だが、どれも茫洋とした目で遠くを見つめ、その場から動こうとしない。陶器のように真っ白な肌に化粧を施され、フリルの多くついた衣装を着せられ、まるで等身大の人形のようだ。けれども、温度を感じてしまいそうなほど精巧な作りに、ミシェルはこれが例の「死体で作る人形」なのだと理解した。
「……悪趣味」
 小さく吐き捨ててから、並んだ人形の一つ一つに目を向ける。長時間見ていて、気分がいいものではなかった。これを観賞用に買う人間がいることにも驚きである。できれば早くここを立ち去りたいと、赤目の少年を探すが、どこにも見当たらなかった。ホッと安堵の息をつく。もしここにツグナがいたら、全てを諦めなくてはならなかった。
 そうだ、あいつがそんな簡単にくたばるはずがない。きっとどこかで生きている。立ち直るようにそう信じて、ミシェルは部屋を移ろうと振り返った。
 薄暗い影が自分に差し掛かり、上からぼたぼたと粘ついた液が落ちてくる。ゆっくりと見上げ、息を飲み込むミシェルの視線の先には、入口前で佇む熊人間の姿があった。人の顔に大きな獣の口が縫い付けられ、身体も同様に獣の四肢が繋ぎ合わされているその存在に、ミシェルは怯えて一歩後退する。
「なに……こいつ。化け物……」
 掠れた声で後退するミシェルに合わせて、熊人間も部屋に一歩踏み出した。まさか、襲ってくる? そんな気持ちが先走り、ミシェルは持っていた拳銃で熊人間の額に銃弾を撃ち込んだ。なるべく銃を発砲するなとシアンに言われていたが、命の危険を感じたミシェルの反射的な行動だった。
 しかし、正確に額を貫いたにも関わらず熊人間が倒れることはない。それどころか、銃弾が当たったことにすら気がついていないようだった。再度睨みつけて、体に数発撃ち込むが、熊人間はビクともしない。二歩目を踏み出した時、熊人間はなにか不快なものを感じたのか、その場で足を止めた。鼻がムズムズとひくついている。
「ガゥルルル……」
 熊人間は悔しそうに後退し部屋を出ると、遠くで何かを感じとったのか、足早にこの場を去って行った。気が抜けて、ミシェルはその場に座り込む。あんな化け物がこの城にいたなんて。見た目を思い出しただけでもおぞましい。じんわりと汗の冷たさを感じながら、大きく息を吐いた。あいつがどこかにいかなければ私は……そこまで考えてから「まさか、シアン様のところへ」と顔を上げる。
 居場所は分かっていないが、奴がシアンの元へ向かったとミシェルには謎に確信があった。拳銃をレッグホルスターに戻し、熊人間の後を追って走り出す。
 あの主は冷徹で、決していいとは言えない奴だけど、見捨てる程の人間じゃない。ツグナがこの場にいたら、きっとそうするように言うはずだ。握りしめた拳の熱を感じながら、ミシェルはツグナの探索を中断し、シアンの元へ急いだ。



「儀式のやり方は理解できたかしら?」
「ああ、お陰様でな」
 地上に出るなりイザベルに問いかけられ、シアンはどこかスッキリしたような、落ち着いた様子で答えた。地下での出来事を目にし、デイヴィッドは死者が復活したという事実を受け止めきれず、未だに青ざめている。全身から伝わる疲労感で、腕はだらんと伸びていた。そう、良かったわとイザベルは前を歩き出す。
「お疲れでしょう。紅茶でもご馳走するわ」
「そうか……なら、いただこう」
 少しでもミシェルの時間を稼がなければと、シアンは潔く受け入れた。自分の頭で整理がつき、早くこの情報を持って逃げ出したい気持ちはあるが、ここでまた彼女に警戒されても困る。何事もないようにここから出るためには、焦らず落ち着く事が重要だ。だが、隣にいたデイヴィッドはガクガクと震え「冗談じゃない!」と声を張り上げる。
「もう、こんなところにいるのはごめんだ! 死体に人形の真似事をさせているだけでもイカれているというのに、今度は死者を復活させた! こんなの……悪魔の所業としか思えない!」
 首を振り、溢れ出る感情を表すように手を動かすデイヴィッドに、シアンは「おい」と肥太った手首を掴んで引き止めた。
「落ち着け。今ここで彼女の機嫌を損ねたら、貴方の商売に影響を与えるぞ。上客なんだろう?」
 小声で耳打ちするシアンに「そんなのはどうだっていい!」とデイヴィッドがシアンの手を強く振りほどいた。
「貴殿の調査に付き合うのはもうこりごりだ! あんな光景を見て落ち着いていられるわけがなかろう!? もう限界だ! 私は帰らせていただく!」
 激情するデイヴィッドに、シアンは眉間に怒りを這わせながらイザベルを見つめた。その背中はふるふると震え「イカレている……? 私が……」と呟いている。なぜ震えているのかは分かった。振り返った彼女の形相に、二人は思わず息を飲む。
「なんで、そんなことを言うの……? あんなに優しくしてやったのに! やっぱり貴方達も他の連中と同じじゃない! 裏切り者!」
 興奮したようにふうふうと息を荒らげ、紫の怪しい光を帯びた瞳でイザベルは睨みつける。美しい彼女の表情に皺を浮き上がらせ、こめかみには青筋が張っていた。
『お前らノルワーナから来たんだろ。あそこの連中は全員野蛮でイカれていると聞くぜ?』
『見てよ。ヘルキャットさんの娘さん。顔に痣がついている』
『親にも愛されていないなんて可哀想な奴だな』
『お前らは生まれてこない方が良かったんだ。さっさとこの世から消えっちまった方が世のためだぜ』
『出来の悪い失敗作め。顔も見たくない』
 ふと、おびただしい声が自分の背後から襲ってくる。耳を塞ぐように頭を抱えて、上半身を捩らせるように呻きをあげた。消えろ、消えろと多くの人間が自分に向かって投げかけ、その光景が周囲をぐるぐると回っている。
 取り乱すイザベルにシアンは顔を強ばらせると、背後から銃声が聞こえてきた。銃声? ここに来るまで人は見かけなかった。まさか、ベイカーに何かあったのか。よからぬ事が頭を過り、イザベルの錯乱もあってシアンは後退する。こいつ、余計なことをしやがって。デイヴィッドを横目に睨みつけると、奴は「ほれみろ、異常だ」と引き気味に言い放った。
 精神的に追い込められると、人は自分を守るために正当化し、他人を攻撃するようになる。自分を肯定するために、他人を使って安心させようとするのだ。その弱さは人間の性質なのかもしれない。
「違う……私は異常じゃない! 失敗作でもない! 何も知らないくせに、勝手に決めつけるな!」
 劈くような悲鳴に似た声に、地面が振動する。足元にあった石床の欠片が跳ね上がるようにして移動し、まるで地震でも起きているみたいだ。ドシドシと質量のある音がこちらに向かってきている。まさか地震というのは―――
「伏せろ!!」
 振り返ったシアンはいい終わりと同時に、反射的に伏せる。が、デイヴィッドは言葉の意味が分からずすぐに実行することは出来なかった。地震を引き連れてきた巨大な熊人間の爪が振りかぶり、自身の頭上を掠め、隣にいたデイヴィッドを壁になぎ飛ばす。一瞬の出来事だった。
 ドゴン! 壁に叩きつけられたデイヴィッドは後頭部を強打し、破裂したような赤い飛沫を散乱させた。衝撃で二つのめだまは僅かに飛び出し、鼻から血を垂れ流す。首が折れたのか、俯いた首が膨れ上がった胸板について、そのままずり落ちるように地面に尻をついた。
「なっ……」
 思わずシアンは声を失う。巨大な爪を掠めた自分のシルクハットが見開いた視界の端で落ちた。シアンが動かなくなったデイヴィッドを見ると、熊人間は再度攻撃するために大きく腕を振り上げる。顔を歪めながらシアンは前に転がるようにして熊人間の足の間を通り抜けると、レッグホルスターから拳銃を取り出し、距離をとって素手で構えた。
「なんなんだっ、この化け物!」
 焦りによってあげた声は若干震えていた。人間をいとも簡単に投げ飛ばすその巨大な手からは血がぽたぽたと流れ落ちている。腕や足、顎の部分は熊の身体のようだが、残りは人間のものだ。無理やり繋ぎ合わせたように、所々が継ぎ接ぎになっている。
「化け物? ヴェンは私の夫よ」
「ヴェン? そんなはずがないだろう! こんな化け物が……」
 シアンの言葉にイザベルはギリギリと奥歯をかみ締めた。俯き「また言ったわね」と爪を噛みながら、鋭い瞳でシアンを睨みつける。
「もう許さない……やっぱり、貴方たちはみんな! みんなクズばかりだわ!」
 キン、と空間に響く甲高い声と共に熊人間は真上に大きく振り上げる。逃げてばかりじゃ埒が明かないと、シアンは拳銃を熊人間の額に向けた。危ない、と背後から叫ぶような声が聞こえてくる。
 次の瞬間、背後から腕を回され、押し倒されるように飛びつかれた。交互に互いの身体を地面につけ、回転しながら横に逃れる。大きな爆発にも似た破壊音が響き渡り、飛んできた石床の欠片がパラパラと二人に降りかかった。
「間に合っ、た」
 息を切らし、自分に覆い被さっていたのは別々で行動していたミシェルの姿だ。エリナの最後を思い出し、ぞわりと背筋をなぞる寒気を感じながら、咳き込むミシェルに「すまない」とシアンが起き上がる。
「助かった。大丈夫か?」
「はい。ご無事で良かったです」
 弱々しく笑うミシェルにシアンはホッと安堵の息をついた。シアンとミシェルは振り返り、熊人間の姿を見上げる。先程までシアンがいた場所は陥没しており、二人は避けられなかったことを想像して身震いした。
「あの化け物。どうやら、銃弾が効かないみたいなんです……私もさっき奴に会って額に撃ち込んだんですが……」
「……そうか」
 つまり、あそこで撃っても意味がなかったというわけか。ベイカーがいなかったら、危うく叩き潰されていたと、シアンは立ち上がった。二人の無事を確認したイザベルは「次から次へと……」と親指の爪を噛みちぎっている。初めて会った時の姿とはまるで別人だ。
「ははっ、参ったな。こうした化け物に出会うのは二度目だ」
「……私もです」
 三メートル近くある巨体を見上げ、シアンは右腕を抑える。脱力したように伸びきったその腕にミシェルは目を見開き「シアン様、その腕……」と言葉を漏らした。
「ああ、少し。当たりどころが悪かったみたいだな。別に君のせいじゃない。あそこで押し切ろうとした自分の判断ミスだ」
 力が入らないのか、指先が震え、シアンが拳銃を何度も持ち直す。そりゃあそうだ。庇うためとはいえ、人間一人の体重が乗った状態で急に押し倒された。叩きつけられた衝撃と重量で、腕を痛めてしまったのだろう。咄嗟な自分の行動に罪悪感が芽生え、ミシェルは言葉を失った。
 熊人間は次の攻撃に向けての予備動作を始め、それを見たシアンは「とにかく、逃げるぞ」とミシェルの肩を押す。ハッとなってミシェルが駆け出すと、二人のすぐ背後で石が破砕される音が鳴り響いた。
「当然、逃がしてはくれないよな」
 背後を確かめると、イザベルを乗せた熊人間が四つん這いで走りながらこちらに向かってくる。顔上半分が人間なだけあって、怪奇小説に出てきそうな奇妙な光景だった。
「ベイカー……頼む。この袋を撃ち抜いてくれ」
 息を切らしながらシアンは袋を見せつけ、後ろに投げつける。わけも分からずミシェルは持っていた拳銃で正確にそれを撃ち抜いた。貫いた瞬間、袋は発火し、空間を震わせるほどの轟音で爆発する。
「グオオオオ!」
 いつの間にか立ち上がっていた熊人間は、上半身を捩るように雄叫びをあげた。黒いコートを脱いだシアンはミシェルに覆いかぶさり、爆風を受けないように庇う。煙を含んだ風が二人を通り過ぎていき、横に転がるようにしてシアンがミシェルから退いた。
「流石だな。あの状態で狙い撃ちできるなんて」
「いえ……あの、今のって」
「ああ。軍の手榴弾を参考に作った。中身は火薬と油を混ぜたものだ。念の為に持ってきていたんだが……」
 そこまで話してから、煙の中で蠢く影に口を閉ざす。ゆらゆらと煙が揺らめく中で、胴体にえぐれるような火傷痕を負った熊人間の姿が見えた。ズタズタに裂け、酷い火傷だが、熊人間を殺せるほどの深刻な傷をつけられてはいないようだと、シアンは睨みつける。やはりこの爆発力じゃ、大した傷は与えられないか。
「ベイカー、今のうちに逃げるぞ」
 あの様子じゃすぐにでも追ってきそうだと、シアンはミシェルの手を引いて立ち上がる。咄嗟な判断だったようだが、熊人間が立ち上がったせいでイザベルに爆発の影響はなかったようだ。
 いや、そもそも、あの女を殺したところで熊人間が止まる可能性は低い。術者殺しは黒魔術の唯一の弱点だと思っていたが、そんなものも初めからないと先程気がついた。また、違う方法を考えないと。二人は顔を見合せ、頷き合うと、また廊下を駆け出した。
「くっ……ヴェンを傷つけるなんて、絶対許さない。腸引きずり出して、食い殺してやるわ」
 熊人間の背後で血を流すほど親指をかみ締め、イザベルは熊人間の背中越しに睨みつけた。



 幾つも角を曲がり、二人は開けた場所に出る。中央には髪を三つ編みにした女性が、天高く槍を突き上げている銅像があった。そこから左右に分かれて階段が延びている。どうやらここが、城のエントランスホールのようだった。巨大な城の支柱の影に身を隠し、シアンとミシェルは寄りかかって座りながら嘆息をついた。
「鉄扉じゃなければ、破壊できたんだけどな」
 柱の影から巨大な鉄扉を見つめる。城の入口なだけあってかなり厳重な造りになっていた。これじゃ、あれを破壊できるほどの威力はないからなと、シアンが先程の袋を上に投げて掴むを繰り返す。
「それはあと……」
「一つだ。大切に使わないと」
 ふう、とまたも息をつき、落ちてきた袋を掴む。走り続けたせいで体力も限界だ。開けた場所に出たんじゃもう逃げ場もない。力の失った右手を握りしめ、シアンは素手の熱を感じながら、ここで決着をつけるしかないなと、密かに覚悟を決めた。
「シアン・ブラッディ!!」
 怒号のように名を呼ばれ、ビクリと体を震わせる。もう来たか。柱の影からエントランスホールを覗くと、熊人間の背に乗ったイザベルが怒りの形相で見回していた。
「隠れていても、貴方の居場所は分かっているわよ! 彼は嗅覚が鋭いの! ここにいることも分かっている! 大人しく投降しなさい!」
 誰が出ていくかと、シアンは心の中でイザベルに答えた。とはいえ、嗅覚がいいというのはあながちデタラメでもなさそうだ。熊人間はひくひくと鼻をひくつかせながら、エントランスホールから動こうとしない。そこまで熊人間を見て、シアンは目を見開いた。
「嘘でしょ……なんで傷がっ」
「ないんだ……?」
 柱の影から熊人間を見ていたミシェルとシアンは、呆然として呟いた。先程の爆発で熊人間の胴体には確かに爆傷を負わせたはずだ。だが、熊人間の体は何事もなかったかのように元に戻っている。
「彼の体が戻っていて驚いたかしら? 良心的な科学者がやせ細って死んだ彼を見かねて、強靭な体に作りかえてくれたのよ。魔術と科学の融合。素晴らしいと思わない?」
 二人の心境を見越して、イザベルが言い放った。魔術と科学の融合……やはりあの化け物はアンデッドで間違いないようだ。科学者と言う言葉にシアンが表情を強ばらせる一方で「何が素晴らしい、よ。気持ち悪い」とミシェルは小声で毒づく。
 あの化け物に回復能力の高さがついたら卑怯じゃないか。傷の治りが早いなんて、まるでツグナみたいだと、ミシェルは奥歯を噛み締めた。ベイカー、聞いてくれ、と隣からシアンの声が聞こえてくる。
「俺に提案がある。最も失敗したら、死ぬかもしれない……お互いに。けど、あいつにやられたまま死ぬんだったら、この際やってみようと思う。こんなことを言うのはなんだが」
 俺と一緒に死んでくれ、とシアンは真剣な瞳で見つめた。余程追い込まれているのだろう。すぐに諦めるなんて彼らしくないと、ミシェルは口角を下げた。いつもなら、あらゆる手を尽くしてでもやり遂げようとするのに。今回に限っては自信がないようだった。
 いや、彼は現状を正しく理解できる力があるから、そんなことが言えるのかもしれない。少し間を開けてから「嫌ですよ」とミシェルが前を向く。
「こんなところで死ぬつもりなんて毛頭もありません。あの人が救ってくれた命を、こんなところで終わらせるわけにはいかないから」
 拳銃を顔前で構え、まだ戦う意思があることを示した。現状を理解出来ない馬鹿でもいい。ただ、諦めるわけにはいかないのだ。あの人よりも長く生きると、そう誓ったから。でも、と切り替えるように声を明るくしてミシェルがシアンを見つめた。
「奴に一発いれられるというなら、喜んで協力します……一緒に死んでくれなんて、諦めないでください。生きて、帰りましょう。三人で」
 その言葉に何かを言い返そうとして、シアンはそのまま口を閉じた。ミシェルがハッキリと自分に物申したのは、初めてかもしれない。自分の力量では奴を倒せないことぐらい、彼女も理解出来ているはずなのに。そういうところ、あいつと同じで本当に尊敬するよと、シアンは口角を上げた。
「……出てこないなら。そろそろこちらから行くわよ」
 ズシズシと、重量のある足音を響かせながら、イザベルを乗せた熊人間は柱の方へと歩き出す。その地鳴りに「分かった。降参だ」と手を挙げたシアンが柱の影から出てきた。
 イザベルは勝ち誇った笑みを浮かべて「あら、そんな所にいたのね。ブラッディ卿」と見下ろす。口を閉じ、溢れ出る生唾を飲み込みながらじっとこちらを見つめるシアンに「もう一人はどこにいるの?」と冷笑を浮かべた。こっちよ、と柱の反対側から素早く出てきたミシェルが銃弾を二発放つ。
 銃弾の速さ、地面からの高さ、奴の首周りから想定する振り返った時の顔の位置。外しはしないだろう。声に反応して、ミシェルの方を振り返った熊人間は二発の銃弾によって眼球を貫かれた。雄叫びのような苦痛の声をあげ、熊人間は目を抑えるように立ち上がると、背中に乗っていたイザベルを地面に振り落とす。きゃあ、と小さく悲鳴をあげて、イザベルは地面に尻をついた。
 続けて容赦なく、シアンが熊人間の足の付け根にある熊の皮膚と人間の皮膚の繋ぎ目に銃弾を放つ。近距離で放たれた銃弾は繋ぎ目に穴を開け、熊人間は後ろに倒れるようにして体勢を崩した。やはりそうかと、シアンは熊人間に向かって駆け出す。
 熊の皮膚と人間の皮膚の繋ぎ目がよく縫われているのは、細胞同士が拒絶し合い、ちゃんと繋ぎ合わされていない証拠だ。傷の治りが早いのは人間の体だけ。なら、全身を支える足の繋ぎ目に痛手を負わせれば、いくら奴の巨大な体でも体勢を崩すことが出来る。ここまでは想定通りだ。
「そんなに俺が食いたいなら、これでも食ってろ」
 後ろに倒れかかる熊人間の体を踏みつけ、その巨大な口に最後の爆薬を入れる。そうしてから「ミシェル!」とシアンが素早く後ろに向かって飛び退けた。ミシェルは、両腕でしっかりと拳銃を構え「さっさとくたばりやがれ! 化け物!」と銃弾を放つ。
 銃弾は熊人間の八重歯を折り、口の中にあった袋を貫くと、雷のような音と光のズレを生み出しながら、重々しい響きと共に爆発した。空気が爆薬に向かって引き寄せられるのを感じ、シアンは目と耳をしっかり塞いで、地面に落ちる。鉄扉を破壊できるほどの威力はないとはいえ、ゼロ距離で、しかも体内で爆発したとなればかなりの深手を負ったはずだ。頭が吹き飛んでもおかしくない。
 腕をつきながら、シアンはうつ伏せになった上半身を起こし、熊人間を見上げた。焼け焦げた臭いを放つ黒い煙が熊人間の頭を覆い被さるようにしてもくもくと立ち込める。背後でそれを見ていたイザベルは「ヴェン!」と頬を抑えるようにして、悲痛な声をあげた。
 拳銃を構えたまま、震えているミシェルは「……やった?」と速くなる鼓動を落ち着かせるように息を吐いた。でもなんで倒れかかっていたのに、まだ立っているんだ? その疑問はすぐに解決した。熊人間の足元を見てみると、後退した体が倒れないように一歩片足を引いて耐えている。
 まさか、と熊人間の顔を見上げると、瞬きする間もなく熱を孕んだ痛みがミシェルを襲った。煙に紛れて振りかざした腕がミシェルの腹を裂くように殴り飛ばしたのだ。黒いワンピースは大きな爪あとを残し、切り裂かれ、ミシェルは宙に浮いてから地面に叩きつけられた。
「っうぐ……ああああっ」
 腹部から溢れ出る微温湯を抑えながら、痛みにもがき苦しむ。熊人間の攻撃に素早く気づき、持ち前の反射神経で避けようとしたが、完全には避けきれなかったようだ。
 立ち込める煙が晴れ、熊人間の爆破された顔面が姿を現す。口が裂け、片面が焼けただれているが、先程貫いたはずの片目は元に戻り、シアンをギロりと睨みつけている。
「なっ……」
 言葉にならない声を漏らした瞬間、熊人間はその鋭い爪を持った巨腕を鞭のようにしならせ、シアンを殴り飛ばした。一瞬の事だ。肉を裂く衝撃を受けたシアンの体はいとも簡単に宙を舞う。持っていた拳銃は手から離れ、がはっ、と咳き込むようにシアンは宙で赤を吐き出した。
 朦朧とした意識の中で本能的に壁にぶつかることを避けようと痛んでいた右腕を床につけ、勢いを抑える。がちゃんと、離れたところで拳銃が虚しい音を立てて落ちた。じわじわと熱を持った爪痕の痛みが全身を駆け巡り、顔を上げることも出来なくなる。自分から漏れ出す温度が、外から自分を侵食し始めて、気持ち悪かった。
「シア゛ン様……っ!」
 喉を絞めつけられたような潰れた声でミシェルは叫んだ。けれども、彼は立ち上がることなく、その場からピクリとも動こうとしない。信じたくないと言わんばかりに首を横に振り「そんな……」と咳き込みながら地面に顔をつけた。あはははっ!と悪魔のような笑い声が聞こえてくる。
「馬鹿ねえ。そんなもので、ヴェンが殺せるわけがないでしょう?」
 イザベルの嘲る声にすら、反応する気も起きなくなった。地面に力なく伸ばされた腕をたぐりよせるようにして、ミシェルは震えながら拳を作る。化け物と対峙した時に、結果は分かっていたはずだ。
「あら、まだ生きてたの。でも、貴方の主は死んだみたいよ。貴方はどう殺してあげましょう。若い女なら、人形にしたら高く売れそうだけれど……ヴェンを傷つけたんですもの。楽に死ねると思わないで」
 言葉の終わりが急激に低くなるイザベルに「っ、馬鹿か」とミシェルが返した。声色を低くさせ、ふらふらと立ち上がる。
「まだ手足が動く。命もある。不足のない体で、諦めて死ねるわけないだろ! 今僕にできるのは、仲間の死を嘆くことじゃない。命ある限り、僕は倒れた仲間の分も戦い続けなきゃいけねえんだよ!」
 あんたみたいな命を冒涜するイカれた奴には分からないだろうけどなと、ミシェルは弱々しく笑った。未だ心が折れていないミシェルに、イザベルは青筋を立てる。
「嫌だわ、そういう可愛くない子。二度と立ち上がれないようにズタズタに引き裂きさいて、心を折りたくなる」
「言ってろよクソ女……返り討ちにしてやる!」
 腹部を抑え、ミシェルは拳銃を構えようとするが、痛みで腕が震えているせいで、狙い目がブレる。額を切ったのか、瞼を経由して頬に血が垂れていくので、片目もろくに見えやしない。
「っ、畜生……」
 ぼやけた視界の先で、こちらに向かって振り下ろされる巨腕が見える。ガクガクと足を震わせ、崩れ落ちるようにミシェルは再度膝をついた。先程よりも重力を感じるそれに、体は言う事を聞かない。
『ふざけやがって! そうやってあんたは死ぬことに正当な理由をつけたかっただけだ! なら、あんたが投げ出した人生を僕は絶対に生きてやる! 死んだことを後悔させてやる! クソッタレ!』
 冷たい雨が打ち付ける中、返事の返って来ない墓場の前で怒号をあげる自分の姿が過ぎる。
 アシュリーが死んだ時からずっと、生きろと言ってくれたのはあんただったのに。あんたは人に言ったことを自分で守ろうとしなかった。だからあの時、自分勝手に誓ったんだ。あんたより一秒でも長く生きて、この地上で死んだあんたを笑ってやるって―――けど、それももう果たせそうにない。
 どうせ死んで思い出せなくなるぐらいなら、最後にもう一度あんたの顔が見たかった―――ブライアン。ミシェルは苦痛に歪めた顔で目を閉じた。
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