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第一部 二章 教会編
番外 後悔先に立たず
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※シアンとの会話を終え、部屋を出たミシェルの話
跳ね上がる鼓動を感じながら、ミシェルは逃げ出すようにして書斎を出た。扉を閉め、冷たいドアノブに手を添えたまま立ち竦む。その間、じっとりとした汗が背筋のなだらかな曲線を伝って垂れていくのを感じていた。変な緊迫感から解放され、俯きながらため息をつくと、背にした扉に脱力してもたれかかる。
普段、顔色を変えずに仕事をこなす彼女が眉を下げる理由―――それは、主であるシアン・ブラッディにあった。
彼は人が言う理想的な人間なんだろう。伯爵位の人間として生まれ、ましてやあの顔立ちとなると、さぞかし色んな人からチヤホヤされてきたに違いない。育ちの良さを感じさせられる堂々とした立ち振る舞いからみても、彼は人から愛される方法を熟知しているようだった。
また、彼は聡明で理性的な人間でもあった。時には冷酷な判断を下し、目的達成の為なら手段を選ばない。
今回の教会の件もそうだ。何かあるにしろ、何もないにしろ、虐待事件がある前提でツグナを教会に送り付けた。もし、ツグナがレイと同じめにあったとしても、彼は変わらず幸運なことだと言うのだろう。心的ストレスの治療だと言っておきながら、話が矛盾していることに当の本人は気がついているのだろうか。
いや、そもそも、彼は何を考えているか分からないような人間だ。最終的な目的はまた別にあったのかもしれない。「育ちのいい坊っちゃん」がなんの問題もなく生きてこれたのは、人としての情を捨てられる強さがあったからなのだろうとミシェルは顔を上げた。
「んなっ!?」
すぐさま目に入ったのは、肉の形をなさない袖を揺らしながら階段を降りてくる白髪頭の少年だ。その足取りは一歩一歩慎重だが、今にも落ちてしまいそうなほどに不安定で、ふらついている。
目線に気がついたのか、ツグナはこちらを見つめ返し、その瞬間に踏み出した足が踏面を捉えることなく前に傾いた。ミシェルはいち早く危機を察知し全力で走っていくと、滑り込むようにして階段から落ちたツグナを両腕で受け止める。
(あっっっぶねえ……)
先程とは違った冷や汗が大量に吹き出す。鼓動の速さを感じながら肩を大きく使って呼吸していると、両腕で受け止められたツグナから「あ、ありがとう」と小さな声が聞こえてきた。
「あんたっ、その腕で、なに、降りてきてんの」
「いや。喉乾いたから……調理場に」
「んなの後で私が持っていくわよ! 怪我人は部屋で大人しくしてなさい!」
「怒鳴るなよ……第一、いつまでも引きこもってるなって言ったのはお前だろ」
その言葉に、ミシェルは冷めた目付きで凝視してから横抱きにしていたツグナを放した。支えのなくなったツグナは尻から地面に落ち、頭を垂れるようにしてもがいてから「何するんだよ!」と涙目で睨みつける。
「いや。つい、手が滑った」
素っ気ない態度でミシェルはツグナを見下ろす。引きこもりについては教会に送り付けられる以前に、ミシェルが口酸っぱく言っていた事だ。引きこもっていないで少しは手伝ったらどうなの? 居候は楽でいいわね、なんて意地悪な言葉だ。
だが、現在の不自由な体になった原因が自分にある以上、それは皮肉や扇情の言葉として自分に返ってくる。悪気のなさそうなツグナの顔から見るに無意識だったのだろうけれどと、ミシェルは嘆息をついた。
「……そういえば。あんた、どうやって部屋を出たの?」
ふらつきながら立ち上がろうとするツグナを見て、ミシェルはゆっくりと問いかける。改めて見ると、酷いありさまだ。華奢な身体の側面にぶら下がっているはずのものが切断され、肉の形をなさない布がだらんと伸びている。あって当然のものが欠けている光景は見ていて心にくるものがあった。
「ああ。顎を使ったんだ。あとは押すだけだしな」
ツグナは上半身を大きく揺らしながら立ち上がる。確かに、屋敷内のほとんどがレバー式のドアノブだから、開けるのは簡単な方だけれどと、ミシェルは開けようとするツグナの姿を思い浮かべた。
「それは不便……」
そこまで口に出してから、しまった、とミシェルは目を見開く。不自由そうだと再認識してしまった時、居た堪れない気持ちが溢れ出し、下を向くようにツグナから目を逸らした。普段見慣れないミシェルの表情に「なんだ?」とツグナが首を傾げる。
いつもと変わらぬツグナの態度を見ていると、たまにその痛みを軽視してしまう。切断された経験もない自分にツグナの痛みが分かるはずもないが、平気でない事ぐらい理解しているつもりだった。もしかしたら、平然としているツグナを見て「大したことがない」と安心している自分がいるからなのかもしれない。そう考えてからは、いよいよ口が止まらなくなった。
「……なんであの時、助けてくれたの」
一週間、口にすることがなかった疑問が溢れ出る。自分を庇ってくれたことに対して聞こうとしなかったのは、ミシェルの逃げでもあった。いつも通り過ごすことが出来たのも、ツグナが変わらず接してくれたおかげである。そのままずっと目を逸らし続けることも、選択肢にはあった。
けれど、心の奥底に溜め込んだ自責の念はいずれ自分の目の前に現れるだろう。なら、さっさと楽になってしまった方がいいと、ミシェルは思った。
ツグナはその問いに何度か瞬きをしてから「人を助けるのに理由が必要なのか?」と返す。質問を質問で返すなと一言いってやりたい気持ちもあって、ミシェルは少しだけ腹を立てたように口を開いた。
「だって、あんた。私の事嫌いでしょ」
言い放ったミシェルの自嘲は語尾につれて弱々しくなる。気まずそうなミシェルの表情を気にせずにツグナは「うん、そうだな」と返した。
「でも、それならお前だって。僕のことを助けてくれただろ?」
その言葉にミシェルは聖水のことを思い出す。確かに、聖水のおかげでヴェリトリアを弱体化することはできた。けれど、それがきっかけでツグナは腕をなくしたようなものなのだ。ミシェルはあの時のことを思い出し「それはそうだけど……あんたは、腕を……」と言葉を濁らせる。
「腕を失ってお前が無事なら別にいい。それに僕は、すぐ元に戻るし……」
元に戻る、そんな言葉に先程シアンと交わした会話がミシェルの脳内を過ぎった。人を博打に賭け、物のように扱うあの言葉を聞いた時、本当は殴り飛ばしてやりたかった。なのに、当の本人でさえその考えなのか。ふつふつと足元から込み上げてきた怒りは、ミシェルの体温を上昇させ、拳に力を入れると共に体全体を震わせた。
「それで、私を庇ったわけ? 下手したら死んでいたかもしれないのよ!」
眉間に皺を寄せ、激昂したようにミシェルは口を開く。いつもとは違った気迫に押されながらも「何、怒っているんだよ」とツグナは困惑したように首を縮めた。何一つ理解出来ていないその鈍感さに、ミシェルは「あんたが自分を粗末にしているからだろ!」と怒鳴りつける。
「人を救えれば自分はどうなってもいいのか!? もっと自分を大切にしろ! 庇われたこっちの気持ちも少しは考えろよ! バカ!」
次から次へと怒りの言葉が溢れ出てくる。それはいつもの口調よりも粗暴だ。自分のために腕をなくした命の恩人が、当主から非人間的な扱いを受けたのが気に食わない。それ以上に、その命の恩人が自分の体を大切にしないのが一番、許せなかったのだ。
ツグナは負けじと「ば、バカって言った方が馬鹿……」と声に出すが、すぐさま「あんたのそういうところが嫌いだ!」と怒鳴りつけるミシェルの声に掻き消される。
「自己犠牲なんてただの自己満足だろ! 自分のために死んで悲しまないやつなんていない! あんたは残された人間の気持ちを分かっていないんだ! そうやって、自分が死ぬ口実の為に、他人を道具にしているだけ……」
「なんだよそれ? 僕は死んでなんかいないだろ? お前、さっきから誰のことを言っているんだ?」
今度はツグナがミシェルの言葉を遮る。その言葉に、ミシェルは怒りの言葉を飲み込んだ。直後脳裏に、ある男の背中が思い浮かぶ。ああ、そうかと、脱力しながらふらついたように後退して額を抑えた。
これはツグナに向けての言葉ではなく、あいつに向けての言葉だ。これじゃあまるで、あの時言えなかった後悔を、こいつに当てているようなものじゃないか。いくら悲しみや後悔を言ったところで、人の死が変わるわけないのに。
「……ごめん。今のは、忘れて。あんたを責めるつもりはなかった」
我に返ったミシェルは目の前でただ眉を下げているツグナに向かって言った。
「助けてくれたことも。その、感謝している……あんたに助けられなかったら、私。きっと死んでたから……それだけ」
照れくさいのか、声が先程よりも小さく、早口になっている。一向に目を合わせようとしないとはいえ、彼女なりに誠意を示そうとしているようだ。ツグナは驚いたように一度ミシェルを凝視してから「うん」と少しだけ口角を上げた。
「……引き止めて悪かったわね。調理場に行くんでしょ? 早く行ったら?」
ミシェルに促され、自分の目的を思い出したツグナは「あっ、そうだな」とミシェルの横を通り過ぎる。その白髪頭を横目に、きっとこいつは人が言う優しいやつなんだろうとミシェルは思った。お人好しで、人の痛みまで自分の事のように背負う、馬鹿なヤツ。悪意のない鈍感さも、厄介事に巻き込まれやすいのも、人からすると利用しやすい人間だ。それも含めて、あいつとよく似ているんだと思う。だからこそ、憎たらしくて、放っておけなかった。
「ツグナ」
その声と共に通り過ぎようとした白髪頭は振り返る。長い前髪の間から覗いた真っ赤な双眸が不思議そうにミシェルを捉えていた。
きっとこの先近いうちに、ツグナは心的ストレスを克服するだろう。けれど、シアン様はそんなツグナを死ぬまで利用しようとするに違いない。裏からあらゆる手を回し、なんでも自分の計算通りにしようする。命の恩人が傷ついていくのをただ黙って見ているのは、なんだか後味が悪かった。
「そう言えばさっき、目を覚ましたら書斎にくるようにとシアン様が言ってたわよ」
もちろんシアン様はそんなことを言っていない。けれど、彼の計算が少しでも狂えばいいとそんな意地悪からデマを口にした。 きっとシアン様は多少の計算違いで終わらせてしまうのだろうけれど。分からせてやりたかった。
彼もいつか思い知ればいい。何もかも計算づくではいかない人間もいるということを。
跳ね上がる鼓動を感じながら、ミシェルは逃げ出すようにして書斎を出た。扉を閉め、冷たいドアノブに手を添えたまま立ち竦む。その間、じっとりとした汗が背筋のなだらかな曲線を伝って垂れていくのを感じていた。変な緊迫感から解放され、俯きながらため息をつくと、背にした扉に脱力してもたれかかる。
普段、顔色を変えずに仕事をこなす彼女が眉を下げる理由―――それは、主であるシアン・ブラッディにあった。
彼は人が言う理想的な人間なんだろう。伯爵位の人間として生まれ、ましてやあの顔立ちとなると、さぞかし色んな人からチヤホヤされてきたに違いない。育ちの良さを感じさせられる堂々とした立ち振る舞いからみても、彼は人から愛される方法を熟知しているようだった。
また、彼は聡明で理性的な人間でもあった。時には冷酷な判断を下し、目的達成の為なら手段を選ばない。
今回の教会の件もそうだ。何かあるにしろ、何もないにしろ、虐待事件がある前提でツグナを教会に送り付けた。もし、ツグナがレイと同じめにあったとしても、彼は変わらず幸運なことだと言うのだろう。心的ストレスの治療だと言っておきながら、話が矛盾していることに当の本人は気がついているのだろうか。
いや、そもそも、彼は何を考えているか分からないような人間だ。最終的な目的はまた別にあったのかもしれない。「育ちのいい坊っちゃん」がなんの問題もなく生きてこれたのは、人としての情を捨てられる強さがあったからなのだろうとミシェルは顔を上げた。
「んなっ!?」
すぐさま目に入ったのは、肉の形をなさない袖を揺らしながら階段を降りてくる白髪頭の少年だ。その足取りは一歩一歩慎重だが、今にも落ちてしまいそうなほどに不安定で、ふらついている。
目線に気がついたのか、ツグナはこちらを見つめ返し、その瞬間に踏み出した足が踏面を捉えることなく前に傾いた。ミシェルはいち早く危機を察知し全力で走っていくと、滑り込むようにして階段から落ちたツグナを両腕で受け止める。
(あっっっぶねえ……)
先程とは違った冷や汗が大量に吹き出す。鼓動の速さを感じながら肩を大きく使って呼吸していると、両腕で受け止められたツグナから「あ、ありがとう」と小さな声が聞こえてきた。
「あんたっ、その腕で、なに、降りてきてんの」
「いや。喉乾いたから……調理場に」
「んなの後で私が持っていくわよ! 怪我人は部屋で大人しくしてなさい!」
「怒鳴るなよ……第一、いつまでも引きこもってるなって言ったのはお前だろ」
その言葉に、ミシェルは冷めた目付きで凝視してから横抱きにしていたツグナを放した。支えのなくなったツグナは尻から地面に落ち、頭を垂れるようにしてもがいてから「何するんだよ!」と涙目で睨みつける。
「いや。つい、手が滑った」
素っ気ない態度でミシェルはツグナを見下ろす。引きこもりについては教会に送り付けられる以前に、ミシェルが口酸っぱく言っていた事だ。引きこもっていないで少しは手伝ったらどうなの? 居候は楽でいいわね、なんて意地悪な言葉だ。
だが、現在の不自由な体になった原因が自分にある以上、それは皮肉や扇情の言葉として自分に返ってくる。悪気のなさそうなツグナの顔から見るに無意識だったのだろうけれどと、ミシェルは嘆息をついた。
「……そういえば。あんた、どうやって部屋を出たの?」
ふらつきながら立ち上がろうとするツグナを見て、ミシェルはゆっくりと問いかける。改めて見ると、酷いありさまだ。華奢な身体の側面にぶら下がっているはずのものが切断され、肉の形をなさない布がだらんと伸びている。あって当然のものが欠けている光景は見ていて心にくるものがあった。
「ああ。顎を使ったんだ。あとは押すだけだしな」
ツグナは上半身を大きく揺らしながら立ち上がる。確かに、屋敷内のほとんどがレバー式のドアノブだから、開けるのは簡単な方だけれどと、ミシェルは開けようとするツグナの姿を思い浮かべた。
「それは不便……」
そこまで口に出してから、しまった、とミシェルは目を見開く。不自由そうだと再認識してしまった時、居た堪れない気持ちが溢れ出し、下を向くようにツグナから目を逸らした。普段見慣れないミシェルの表情に「なんだ?」とツグナが首を傾げる。
いつもと変わらぬツグナの態度を見ていると、たまにその痛みを軽視してしまう。切断された経験もない自分にツグナの痛みが分かるはずもないが、平気でない事ぐらい理解しているつもりだった。もしかしたら、平然としているツグナを見て「大したことがない」と安心している自分がいるからなのかもしれない。そう考えてからは、いよいよ口が止まらなくなった。
「……なんであの時、助けてくれたの」
一週間、口にすることがなかった疑問が溢れ出る。自分を庇ってくれたことに対して聞こうとしなかったのは、ミシェルの逃げでもあった。いつも通り過ごすことが出来たのも、ツグナが変わらず接してくれたおかげである。そのままずっと目を逸らし続けることも、選択肢にはあった。
けれど、心の奥底に溜め込んだ自責の念はいずれ自分の目の前に現れるだろう。なら、さっさと楽になってしまった方がいいと、ミシェルは思った。
ツグナはその問いに何度か瞬きをしてから「人を助けるのに理由が必要なのか?」と返す。質問を質問で返すなと一言いってやりたい気持ちもあって、ミシェルは少しだけ腹を立てたように口を開いた。
「だって、あんた。私の事嫌いでしょ」
言い放ったミシェルの自嘲は語尾につれて弱々しくなる。気まずそうなミシェルの表情を気にせずにツグナは「うん、そうだな」と返した。
「でも、それならお前だって。僕のことを助けてくれただろ?」
その言葉にミシェルは聖水のことを思い出す。確かに、聖水のおかげでヴェリトリアを弱体化することはできた。けれど、それがきっかけでツグナは腕をなくしたようなものなのだ。ミシェルはあの時のことを思い出し「それはそうだけど……あんたは、腕を……」と言葉を濁らせる。
「腕を失ってお前が無事なら別にいい。それに僕は、すぐ元に戻るし……」
元に戻る、そんな言葉に先程シアンと交わした会話がミシェルの脳内を過ぎった。人を博打に賭け、物のように扱うあの言葉を聞いた時、本当は殴り飛ばしてやりたかった。なのに、当の本人でさえその考えなのか。ふつふつと足元から込み上げてきた怒りは、ミシェルの体温を上昇させ、拳に力を入れると共に体全体を震わせた。
「それで、私を庇ったわけ? 下手したら死んでいたかもしれないのよ!」
眉間に皺を寄せ、激昂したようにミシェルは口を開く。いつもとは違った気迫に押されながらも「何、怒っているんだよ」とツグナは困惑したように首を縮めた。何一つ理解出来ていないその鈍感さに、ミシェルは「あんたが自分を粗末にしているからだろ!」と怒鳴りつける。
「人を救えれば自分はどうなってもいいのか!? もっと自分を大切にしろ! 庇われたこっちの気持ちも少しは考えろよ! バカ!」
次から次へと怒りの言葉が溢れ出てくる。それはいつもの口調よりも粗暴だ。自分のために腕をなくした命の恩人が、当主から非人間的な扱いを受けたのが気に食わない。それ以上に、その命の恩人が自分の体を大切にしないのが一番、許せなかったのだ。
ツグナは負けじと「ば、バカって言った方が馬鹿……」と声に出すが、すぐさま「あんたのそういうところが嫌いだ!」と怒鳴りつけるミシェルの声に掻き消される。
「自己犠牲なんてただの自己満足だろ! 自分のために死んで悲しまないやつなんていない! あんたは残された人間の気持ちを分かっていないんだ! そうやって、自分が死ぬ口実の為に、他人を道具にしているだけ……」
「なんだよそれ? 僕は死んでなんかいないだろ? お前、さっきから誰のことを言っているんだ?」
今度はツグナがミシェルの言葉を遮る。その言葉に、ミシェルは怒りの言葉を飲み込んだ。直後脳裏に、ある男の背中が思い浮かぶ。ああ、そうかと、脱力しながらふらついたように後退して額を抑えた。
これはツグナに向けての言葉ではなく、あいつに向けての言葉だ。これじゃあまるで、あの時言えなかった後悔を、こいつに当てているようなものじゃないか。いくら悲しみや後悔を言ったところで、人の死が変わるわけないのに。
「……ごめん。今のは、忘れて。あんたを責めるつもりはなかった」
我に返ったミシェルは目の前でただ眉を下げているツグナに向かって言った。
「助けてくれたことも。その、感謝している……あんたに助けられなかったら、私。きっと死んでたから……それだけ」
照れくさいのか、声が先程よりも小さく、早口になっている。一向に目を合わせようとしないとはいえ、彼女なりに誠意を示そうとしているようだ。ツグナは驚いたように一度ミシェルを凝視してから「うん」と少しだけ口角を上げた。
「……引き止めて悪かったわね。調理場に行くんでしょ? 早く行ったら?」
ミシェルに促され、自分の目的を思い出したツグナは「あっ、そうだな」とミシェルの横を通り過ぎる。その白髪頭を横目に、きっとこいつは人が言う優しいやつなんだろうとミシェルは思った。お人好しで、人の痛みまで自分の事のように背負う、馬鹿なヤツ。悪意のない鈍感さも、厄介事に巻き込まれやすいのも、人からすると利用しやすい人間だ。それも含めて、あいつとよく似ているんだと思う。だからこそ、憎たらしくて、放っておけなかった。
「ツグナ」
その声と共に通り過ぎようとした白髪頭は振り返る。長い前髪の間から覗いた真っ赤な双眸が不思議そうにミシェルを捉えていた。
きっとこの先近いうちに、ツグナは心的ストレスを克服するだろう。けれど、シアン様はそんなツグナを死ぬまで利用しようとするに違いない。裏からあらゆる手を回し、なんでも自分の計算通りにしようする。命の恩人が傷ついていくのをただ黙って見ているのは、なんだか後味が悪かった。
「そう言えばさっき、目を覚ましたら書斎にくるようにとシアン様が言ってたわよ」
もちろんシアン様はそんなことを言っていない。けれど、彼の計算が少しでも狂えばいいとそんな意地悪からデマを口にした。 きっとシアン様は多少の計算違いで終わらせてしまうのだろうけれど。分からせてやりたかった。
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