SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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三・五章 クロウタドリの子守唄

プロローグ

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※SOLNEFIA Ⅰの別主人公物語

 どれくらい歩いてきたのだろう。太ももの裏側から爪先にかけて流れる疲労が重りとなって、僅かでも足を浮かせることさえ苦痛だった。足裏を地面に擦り付けるようにして歩くその姿は、まるでゾンビのようにのろく、おぼつかない。それでも足を止めることがなかったのは、背後に迫り来る足音に捕まりたくないという、女の強い気持ちがあったためだ。
 その女―――メルーラは闇に紛れる癖のない黒髪をしていた。一見すると成長しきれていない少女の顔つきのように思えるが、その表情は大人びていて、憂いを帯びたグレーの瞳はどことなく色気を感じさせられる。けれども、陶器のような白い肌に張り付いた赤黒い汚れは、人を寄せつけない明らかな狂気を物語っていた。錆びたナイフを持った腕がフラフラと力なく揺れている。
 しばらく、整備されていない生乾きの土道を歩いていくと、メルーラの目の前には古びた小さな教会が現れた。教会にもかかわらず崇める神を象徴させる十字架は欠けており、栄えていた当時を匂わせる綺麗な外壁ははがれ落ち、壁を覆うようにして蔦が蔓延っている。極限まで追い込まれた人間の行動は時として不可解なものだが、その思考は単純明快だ。頼りなくても、たとえ神がいないということを知っていても、教会という神聖さに助けを求めてしまったのだろう。メルーラは導かれるようにして教会の前へと歩みを進めた。けれど、その足が中まで踏み入れることはなかった。木造りの扉越しに誰かの声が聞こえてくる。
「ねえ、神の前でするのって背徳的でいいよね。いつもより気持ちよくいけそう」
 何を言っているんだ? 言葉が理解出来ず、メルーラはその声に教会の扉を少し開け、中を覗き込む。声の元は探すまでもなく、すぐに見つかった。その声の主と思われる男は教会の古びた祭壇に女を押し倒し、長い髪を指先で弄びながら激しく突いていたのだ。教会内ということもあってか、耳に後を引く水音と、女の喘ぎ声が響き渡るようにして聞こえてくる。それがなんなのかを理解した瞬間にメルーラの思考は止まった。目を見開き、ガクガクと背中を痙攣させると、目まぐるしく映し出される不快な記憶に、内臓を押し上げられるような感覚に陥る。うえっ、うえっとえずきながらも、不本意ながら熱を持ち始める下腹部に目の縁が熱くなり、項垂れたまま口を抑えた。手足の震えが止まらない。なんでこんな所で? そんな疑問を浮かべる余裕もなく、脳内はその行為に対する気持ち悪さに支配されていく。
 もう限界だ。悪寒に耐えきれず、メルーラがこの場から離れようとすると、女の嬌声が急に行為によるものではない切迫した声に変わる。はっとなってメルーラが思わず顔を上げると、男は口角を釣りあげたまま女の喉にナイフを突き刺していた。容赦なくナイフを下に動かしていくと、女は痙攣しながら産声のような断末魔をあげる。手足を祭壇に叩きつけるようにして抵抗するが、手を絡めてしっかりと抑えつけた男に為す術もなく、ナイフが腹上までたどり着いた時には、完全に息絶えていた。
「はあ、最高」
 鉄錆の臭いを撒き散らした男の赤髪からは、恍惚と快楽に細める青の瞳が見える。メルーラはその光景に逃げることも忘れ、息を飲み込んだ。
「教会って雰囲気が禁欲的でそそるよね。いけないことしているみたいでさ。そう思わない? 覗き魔ちゃん」
 明らかに自分に語りかけているその声に、メルーラは「ひっ」と小さく悲鳴をあげて扉から後退した。男は顔に浴びた女の血を袖で拭い「諦めて出てきなよ。いるのは分かっているんだから」と人を殺したにしては不気味な程穏やかな声で続ける。今出ていったら私も彼女のように? そんな恐怖があって、メルーラは扉の前で沈黙を押し通そうとしたが、疲れ果てた自分に逃げる手立てはないと、ナイフを持った手を後ろに隠し、諦観したように教会の中に踏み入れた。
「人のセックスを覗く変態がどんな奴かと思っていたけど」
 男は祭壇を降りて、身廊をゆっくりと歩く。近づいてくる足音が背後から迫り来る足音の幻聴と重なって、思わずメルーラはたじろいだ。
「こんな可愛らしいお嬢さんだったとはね。綺麗な赤だ。もしかして君も同士かい?」
 からかうように笑みを浮かべた男の言葉に、怯えていたメルーラの目つきが変わる。眉間に皺を寄せ、苛立った足は前へと強気に踏み出した。
「同じにするな……!!お前らみたいなクズはさっさと地獄に落ちろ!」
 腹底から轟かせるような怒号を上げ、メルーラは背中に隠していたナイフを近づいてきた男に突き出した。
「だめだよ」
 確実に男を捉えたと思った矢先、男は想定していたのか、少し体を傾けるようにして避けてから、先程女を殺したナイフでメルーラの腹部を突き刺す。下腹部に走った強烈な痛みに全身の血が冷たくなっていくのを感じた。
「女の子がそんな乱暴な言葉を使っちゃ。君みたいに可愛い子は犯しながら殺したかったのに。残念だなあ」
 男は嘲笑いながら、左右に回して腹部の更に奥までナイフを刺しこむ。喉に張り付いた異物感にメルーラが咳き込むと、口の中には血独特の鉄の味が広がった。有酸素運動をして、喉が空気で乾燥した時と同じような感覚だ。奥へ入り込んでくる度に瞼が痙攣し、股の間からは生暖かい赤が太ももを伝って垂れていく。懐かしく、身に覚えのある感覚だ。
 トドメをさすかのように男はナイフを横にスライドさせ、メルーラの腹を切った。ボタボタと質の大きい何かが爛れて、急激に寒くなっていく感覚がする。まるで暗く、底の見えない水に沈んでいくかのよう。
 呆気ないなあと、男が後退しようとした時だ。メルーラは寄りかかっていた事をいいことに、男の背中に持っていたナイフを思いっきり突き刺した。男は痛みで体勢を崩しながら、見開いた目でメルーラを見つめる。
「ざまあみろ」
 口角を釣りあげたまま吐き捨てると、メルーラは顔から地面へと倒れていった。たとえこれが最期になっても、自分の恐怖へ立ち向かった事に後悔はない。決して。
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