SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 一章 舞踏会編

05 フィアンセ?

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「紳士淑女の皆さん、この度は私の舞踏会にお越しいただき、誠にありがとうございます。今夜は皆さんに一夜限りの甘美な一時をお与えいたしましょう! どうか楽しんでいってください」
 両手を広げたラヴァル卿が開幕の合図を出すと、会場は盛大な拍手に包まれた。その後、ホールは沢山の声で溢れかえる。
「ほら、ツグナ。喉乾いたろ」
 自分も一口飲みながら、シアンは隣のツグナにワイングラスを受け渡した。ワインは練習の時にも数回飲んでいたのだが、舞踏会で渡されるワインは不思議と高級な輝きを放っているように見える。緊張で喉が渇いていたので、ツグナはすぐにワイングラスに口をつけた。飲み込んでいく葡萄の果汁が、ほのかな酸味と共に喉の粘膜から全身の細胞へと行き渡っていく。
「ぷはぁ、生き返る……」
「飲み方が下品だ。音をたてずもっと慎ましく上品に飲め。それから愛嬌が無い。教えた事なのにもう忘れたのか」
「愛嬌って?」
「笑うことだよ。口角を上げてみろ、ほら」
 そういってシアンはツグナの口端を指で抑えてから、無理やりあげてみせる。何をやっているんだという呆れで眉間に皺を寄せていたツグナの顔は頬だけが持ち上がり、とても不細工だ。たまらずシアンが吹き出す。
「君……なんでされるがままなんだよ……顔……ふふっ……」
 顔を逸らしながらふるふると震え、耐えるシアンに「お前が勝手にして、一人で笑っているんだろ」とツグナが不思議がる。
「はあ……君は感情が豊かになっても、笑顔だけはまるでダメだな。嘘でもいいから笑えるようにはなっておけ。便利だ」
「笑うのは面白いとか、楽しいとかなんだろ? それもなしに笑う必要があるのか?」
 色んなことに興味を持って質問が絶えない。案外、舞踏会という環境で興奮しているのかもなとシアンは思った。必要だと返し、ワインを飲む。
「表情は相手に印象や感情与える一つの材料と言っていいだろう。状況によっては表情一つでいいようにも悪いようにも転がるものだ。人は常に相手の顔色を観察し、何度も細やかに表情を変えている。自分の感情から溢れ出すものと、意図的なものを使い分けてな。相手に気持ちよくなって欲しい時はとりあえず笑っていればいい。不都合なこともそれで乗り切れることがある。処世術ってやつだ」
「……ふうん」
「もう一つ。表情は自分の感情をコントロールする作用があると言われている。辛くても笑っていれば、心が落ち着くこともあるのさ。涙ではとても流せない……悲しみに溺れてしまうようなことでも。感情と表情が完全な一致とは言えない。人は自分や他人を守るための嘘をつく」
 何気なく放たれたその言葉にツグナは顔を上げた。細やかな感情や心理は分からないが、機嫌が悪いか悪くないかは判断できる。施設での賜物だ。最も彼らは感情通りの表情で、偽っている様子は全く感じられなかったけれど。
「……なんか、思ったより難しそうだな?」
「まあな。嘘と本音を使い分ける。複雑怪奇で計り知れない……それが人間ってやつだよ。他人の心理を完全に把握することなんてできない。だが、向き合っていくには何が嘘か本当かを見極めることが大切だ。案外それは観察していると単純に現れる。まあ、困ったら人の顔をよく見てみろ」
 顔、か。ワインの水面に映った自分を眺めてから、ツグナは一気に飲み干した。満足そうに息をついてから「ワイン、おかわりは?」とシアンを見上げる。
「君はひとつ知識を入れると前のことをすぐに忘れるな。下品な飲み方はやめろと言ったんだが? あとそれ、ジュースな」
 未成年なのにアルコールを飲ませるわけがないだろと、シアンが告げる。
「まだ飲むなら、貰ってこないと……」
「あらっ、やっぱり! こんなところに居たのね! さっき紹介があったから、まさかとは思ったけど……」
 聞き覚えのない声と共に現れた女性は、シアンが持っているワインの色と同じイブニングドレスを身につけていた。茶髪の下から見える溢れんばかりの笑顔が、先程のシアンのものとよく似ている気がする。その女性を見るなり、シアンはまずいと明らかに動揺した。
「貴方もいらっしゃっていたのですか……マダム」
「ええ。始めの方に入ったから気づかなくて当然ね。久しぶりに会えて嬉しいわ、ルー……」
「のわっ!!」
 急に声を張り上げると、紫のドレスの女性の口を手で塞ぎ「お・ば・さ・まー?」と珍しく焦るようにして言った。おば様と呼ばれた女性は「元気そうで何よりだわ」と小さく笑ってみせる。どうやらシアンの知り合いのようだ。
「それにしても、会わないうちにますますメイナード君に似てきたんじゃない? 小さい頃はアリシアにそっくりだったのに! 背も伸びて随分男前になったわ!」
「身に余る光栄に存じます。マダムも相変わらずお若く美しいままだ。昔と変わらずね」
 軽くお辞儀をしながら、シアンは女性の手の甲にキスをする。それに対して女性は照れたようにシアンの背中を軽く叩いた。
「もう、口が達者なんだから! 私に気を使わなくていいわよ! 貴方は私の妹の子なんだから、私はおば様でいいの! 昔と変わらず、ね?」
「ははっ……お元気そうでなによりです……」
 早速意図的な笑顔が役に立っているようだ。二人は和気藹々と楽しそうに会話を始める。とはいえ、気まずそうに言葉数を減らしているためか、シアンが珍しく会話に押されて困っているようにも思えた。
 邸では見慣れない姿に、ツグナは突然現れた女性が気になって「この人誰だよ」とシアンの服を引っ張り、小声で話しかける。
「この方は母さんの姉様、アデラ・フォーサイス。考古学者でこう見えて勘が鋭い方だ。絶っ対にヘマだけはするな!」 
 絶対を強調し、シアンは小声で耳打ちする。必死な様子になんだかツグナも縮こまった。シアンの身内に会うのはこれが初めてだ。確かにどこか面影があるように思える。
「シアンがいるなら、オズも連れてくるんだったわ」
「まさか、今日はお一人で?」
「いいえ。今、知り合いの研究家と話しているわ。全く、あの人は一度話に火がつくと止められなくて……」
「そうだったんですか。オズワルドさんも相変わらず元気そうで」
「元気なんて迷惑よ。せっかく息抜きで舞踏会に来たのに、仕事のことばかり……それはそうと、シアンは何故舞踏会に?」
「大した用事はありません。おば様と同様にただの息抜きですよ」
「へえ、珍しいのね。昔から人混みが好きじゃないでしょうに……そういえばつい最近そっちで山火事が起きたって聞いたけど……」
 早く話を切り上げようとするシアンだが、アデラは久々に会えたことが嬉しいのか、次々と話題を振ってくる。なかなか途切れない会話にツグナはただ俯いて、ぼうっと突っ立っていた。
 ラヴァル卿にたどり着くまで、誰とも関わらずにいられると思っていたのに。早く終わらないかと思いつつ二人の様子を見学していると、突然アデラがツグナの方を振り向いた。ジロジロと上から下まで値踏みするように見つめられる。その行動に怯え、思わずシアンの後ろに隠れた。
「ああ……すみません。彼女、大の人見知りで……」
「さっきから思っていたんだけど、この子もしかしてシアンの婚約者!?」
 アデラの声と共に三人の間の時間が瞬時に凍りつく。言葉の意が理解出来ず、二人は何度か瞬きを繰り返した。
「シアンが隣に女の子をつけるなんて今までありもしなかったじゃない! ましてやこんな可愛い子と一緒に舞踏会だなんて! 今までお見合いの話を持ちかけても必要ない、の一言で終わらせていたあのシアンが! うう……なんだか泣けてきたわ」
 ねえ、そうなんでしょ? とアデラは輝いた瞳でシアンを見つめる。勘が鋭いというか、感性が鋭い人だ。ツグナは反応することが出来ず、ただフィアンセの言葉に疑問符を浮かべる。確か、シアンの持ってきた本に、そんなことが書いてあったはずだ。どうするんだとシアンの方を見つめる。
 まさかそういった方向になるとは予想していなかったのだろう。しばらくシアンは黙り込んでいたが、急にツグナの腰を掴み引き寄せると、自分の身体に密着させた。焦っているのか、心做しか引き寄せる力が強い。
「そうです。彼女はツグナ。おば様にはまだ言ってませんが、俺のフィアンセでまだ公にはしていません」
 打ち合わせもしていないのに、シアンは勝手な事を饒舌に話し始める。近距離で行われている事実にツグナはついていけず、ただ目をキョロキョロさせた。アデラは「やっぱりそうなのね!?」と見上げ、感動に目を潤ませている。
「どこの家の方なの? 挨拶に行かなくちゃ……ツグナさんのご両親はここへ?」
「彼女の家の事情がありまして。それもまだ公にはできません。ひとまず家族内で式を挙げてから、後に親族の方に報告するつもりです」
 ここでツグナが男だと気づかれてしまえば、計画が台無しになる。その思いもあり、シアンは必死だった。生憎今日は後処理している暇はないし、一層の事勘違いしてもらった方がかえって都合がいいと考えたようだ。
 どうせ頻繁にフォーサイス家とは会わない。後に押しかけてきたら別れたで済ませればいい。家庭の事情というのは便利な言い訳だ。
「なあ、フィアンセって……」
 ようやく状況に追いついたツグナが口を挟もうとしたところで、黙ってろと言わんばかりにコルセットの部分を締めあげる。ぐっ、と息が出来ずに黙り込むツグナに「そういうこと……事情があるなら仕方ないわね」とアデラが遮った。
「初めまして、ツグナさん。私はアデラ・フォーサイス。シアンの母、アリシアの姉です……まさか、あのシアンが誰かを愛するようになるなんて……嬉しいわ。あれ以来、もう叶わないと……」
 近づくアデラにツグナは思わず仰け反った。が、シアンの手で止められる。やっぱりまだ他人は怖い。けれど、語尾につれて放たれたアデラの言葉はどこか悲しげだった。
「すまない、マダム」
 途端にシアンが懐中時計の針を見つめ、呟いた。密着していた体を引き剥がされ、ツグナはキョトンとシアンを見上げる。
「一時俺はこの場を離れる。しばらく、俺のフィアンセとゆっくり雑談していてくれ」
 適当な事を言ってシアンは軽くお辞儀をすると、その場から逃げるようにして去っていった。すれ違いざまに「後は頼んだ」と耳元で囁かれる。ツグナは嘘だろと振り向いたが、シアンは既に人混みの中へと消えていた。
「あっ……」
 わけも分からずに、アデラと並んでその場に取り残される。邸の人間とも未だ会話がままならないツグナにとって、現在置かれた状況は通常の人間よりも遥かに深刻な事だ。シアンもいなくなって、再び大勢の見知らぬ人間に意識が拡散すると、忘れていた恐怖が全身を震えあがらせた。
「ツグナさん、でしたっけ?」
「ひっ!? は、はい……」
 突然名を呼ばれ声が裏返ると、電流が走ったかの如くビクリと全身が震えあがる。目は泳ぎ、慣れない人との会話に鼓動が警鐘のように速さを増した。まともに目が合わせられなくて、アデラを床と交互に見つめる。
「あ、あ……ぼっ……わた……」
 落ち着けと内心で念じても、そんな簡単に克服できるほどツグナの恐怖は容易なものではないのだ。 人との会話の練習は毎日していた。きっと大丈夫だと恐怖からくる微かな震えに手首を掴みながらアデラと向き合う。
「まさかこんな形で紹介があるとは思わなかったけど、あの子の事よろしくね」
 内心冷静さの欠片もないようなツグナを余所に、アデラは力のない笑みで話しかける。先程放たれた言葉と似た雰囲気だ。ツグナはそれを見て思わず肩の力を抜く。
「あの子に両親がいないのは、ご存知よね?」
「は、はい……」
 その話は以前、本人から聞かされた。
 シアンは随分昔に両親を亡くしていて、幼いながらもブラッディ家の当主になったという。当時の幼いシアンが両親の残した莫大な財産を抱えているため、遺産目的のためによく周りの人間に命を狙われていたのだとか。
 だから極力人の集まる場所を避けるように、今まで舞踏会や社交パーティへの出欠はしていなかったという。なるべく避けたかった、と本人が言っていたのはそういうことだ。
 未だ目を合わせられないツグナが思い出しているとアデラは深い溜息をついた。
「私の妹アリシアが亡くなってから、一人残されたあの子が気がかりで……何度か私の所に来ないか持ちかけたことがあるの。だけど、断られちゃってね。それから以前より会うことも減ってしまって……だから、今日久しぶりにあの子の元気そうな顔を見られて良かったわ」
「そう、だったのか……ですか」
 どうりであの挙動不審かと、ツグナは目を細めた。理由がなくてもこの人に会うためだけに行くのはいけないことなのだろうか。よく分からない。もし、こんな計画がなければ、楽しく一緒に舞踏会を回れたかもしれないのに。できる限りならそうでありたかったと、ツグナは恐る恐るアデラの碧眼を見つめた。
「あの子は、強い子だから。何でもかんでも一人で終わらせようとしてしまうの。両親の屋敷を守るだなんて断ったのも、私に迷惑をかけたくなかったんでしょうね。だからこそ、誰かが側にいてあげないとすぐに壊れてしまう」
「両親の屋敷を守る、ため……?」
「ええ。ここには母さんと父さんの思い出があるから……魂が眠っていると……」
 そう呟いたアデラは目を瞑り、ある光景を思い出す。アリシアが亡くなってすぐの事だ。
 幼くして当主になったシアンを引き取ろうと、アデラはブラッディ家に向かった。両親を失った今、シアンには隣で支えてくれる誰かが必要だ。妹が残した子を私が守らなければ。そんな強い責任感がアデラを突き動かしていた。けれど────その時にはもう、シアンは壊れてしまっていたのかもしれない。
『大丈夫。俺はここに残る。父さんたちに寂しい思いをさせたくないからね』
『駄目よ!……とてもじゃないけど、子供の貴方が領主をやるなんて出来ないわ! 貴族だからといって恨みを買う事もある。ましてや子供が統治者だと知って、反乱を起こす輩もいるかもしれないわ! それに……私、アリシアから聞いたのよ。軍の人間が何度も屋敷に来るって……貴方の身に何かあったら私……』
『心配しないでよ、おばさま。俺はブラッディ家当主だ。もう一人の男として、守るべきものはちゃんと自分の手で守れるよ。それにたとえ会えなくても、母さんと父さんの魂はこの邸に残っているから、俺は決して一人にならない。此処は両親と過ごした思い出の邸だから、俺が守らないと』
 そう言った幼いシアンの虚ろな瞳に、背筋を震わせたのをアデラは今も鮮明に覚えていた。
 あの子じゃない、あの子の笑顔。今思えば、その時から泣き虫だったあの子は泣こうとしなくなった。まるで本心なみだを隠すかのように。それが当時、年齢相応の子供らしさからかけ離れていて、とても不気味に思えた。いや、あの頃は恐怖さえ感じたのだ。記憶の中にいる幼いシアンが酷く、悲しいように思えて、アデラは何度も瞬きを繰り返す。
「あの時、引き止められなかったことがずっと心残りだった。けれど、貴方みたいな可愛らしい方がフィアンセだって聞いた時、とても安心したの。あの子はああ見えて臆病だから、他人に深く踏み込まれる事を嫌うのよ。だから、あの子が邸以外の人間と一緒にいるのは、私の知っている限り貴方が初めてなの。心做しか、幼い頃のシアンを見ているようだったわ」
「え、そうなの……ですか?」
「ええ。両親が亡くなってから特に。とてもそんな風には見えないでしょう? 本当の自分を押さえ込んででも、両親の残した物を守りたいのよね、あの子は……」
 顔を俯かせて、アデラは胸元で手を握る。なんだか苦しそうだと感じるが、その表情が何を意図しているのか、ツグナには分からなかった。この人は何に対して苦しそうにしているのだろう。かつて、自分の知っている苦しみや恐怖を思い出して、ツグナは首を傾げる。
「ごめんなさい。つい長々と話してしまったわ。この事はあの子に秘密にしてもらえるかしら。あの子、プライドが高いし見栄を張るから、弱点を突くようなことを言ったら怒られてしまうわ」
「……はい。分かりました」
「ふふっ、ありがとう。あの子は皮肉屋だし横暴で少し性格が悪い所があると思うけれど、本当は真面目で家族思いの、心の優しい子なの。どうかシアンの隣に居てあげてね」
 先程と同じように明るい表情でアデラが微笑んだ。なんというか、最後に言っていたのは、心の優しい全てで解決できない気がするんだが。そう考えながらツグナはシアンの事を思い出す。
 どんな事があったのかは正直分からなかったけれど、結局僕達はまだ互いをよく知らないでいる。いつか、あいつから言ってくれる日がくるといいな、なんてそんなことを密かに願った。
「ところでツグナさんは、シアンのどんな所が好きなの?? プロポーズはシアンからかしら??」
「プロポーズ? え、いや……えっと」
 急に興味本位で聞き出すアデラに思わずたじろいだ。人に対して理解できる感情はせいぜい恐怖ぐらい。眉を下げながら黙秘を突き通そうとしたが、アデラの視線の熱さにこれまでの日々を振り返り始める。
『もう、大丈夫だ』
 ふと錯乱していた自分にかけられたあの優しい声を思い出す。そういえばあの時のあいつの手、温かかったな。実験施設の時は全員冷たくて、温度も感じられなかったのに。思えば温かいと感覚を知ったのはあれが初めてだ。人の温度が心地いいと知ったのも。
「あいつの……手が温かいところ、ですかね」
「手が温かい?」
 ツグナの返しに一度聞き返してから、アデラが小さく笑った。優しく、穏やかなその笑顔は先程転んだ時に浴びせられたような笑いではなさそうだ。とはいえ、何故笑われたのかは分からない。不思議そうにツグナがその笑顔を見つめていると、背後からアデラの名前を呼ぶ低い声が聞こえてきた。その声にアデラは振り返る。
「こんな所におられましたか。探しましたよ」
「あら、オズ。話は終わったの?」
「ええ。ですが、急遽仕事が入ってしまって……」
「まーた仕事?」
「すみません。アデラはゆっくり楽しんでいいから……」
「二人で息抜きなのに、私一人じゃ意味ないじゃない。全く……」
「す、すみません」
「別にいいわよ。今に始まったことじゃないわ」
 溜息をつきながら、目を逸らす。その先で新たな人物の登場に、ツグナが青ざめていた。なんだかそれがおかしくて笑えてしまう。
「シアンもメイナード君の血を引いて仕事熱心だから、ツグナさんも気をつけるのよ?」
「え、あ……はい」
 しどろもどろに返事をすると、ツグナはアデラの背後にいたオズワルドと目が合う。背丈はシアンぐらいだろうか。オールバックにした黒髪に、灰色の瞳をしていて、口角は柔らかな曲線を描いている。申し訳なさそうにアデラに向ける笑顔から見ても、優しそうな人だった。
「ん? 彼女は?」
「シアンの婚約者のツグナさんよ」
「なっ、シアン君の?」
 目を見開いてから、オズワルドは慌てふためき、アデラとツグナを交互に見つめた。ツグナは何も話すことが出来ずにその様子を見て固まる。
「ああ! えっと。初めまして、ツグナさん。私はオズワルド・フォーサイス。主に考古学や歴史研究をしていて、特に失われた土地を……ああ、失われた土地というのは五年前に起きたノルワーナ王国の悲劇の事でしてね……」
「オズ、時間は大丈夫なの?」
「あ、つい悪い癖が。申し訳ありません。今日は時間がないのでこの辺で。今度はシアン君と一緒に話を聞かせてくださいね」
 そう言って慇懃にお辞儀をすると、オズワルドは来た道の方へと踵を返した。余程忙しい人のようだ。でも、助かったと安堵の息を漏らしながら、ツグナがその背中を見送る。
「はあ、私もオズを追うわ。彼がいないと、舞踏会に来た意味がないから。また、今度ゆっくりお話しましょう。あの子によろしくね。それじゃあ、どうか素敵な夜を」
 軽く手を振ると、アデラはそう言葉を残してオズの後を追った。嵐が過ぎた後のようにその場が静かになる。アデラを見送ってから、ツグナは疲労で全身を脱力させた。序盤がこれじゃあ、この先不安しかない。
「やっと、終わったみたいだね」
 ふぅ、と息をついて隣にやってきたのは、一仕事を終えたような顔をしたシアンだった。
「お、前……どこに……」
 涙目になりながらギュッとその燕尾服を掴む。色々言いたかったが、なんだかそんな気分にもならなくて何も言えずに口を閉じた。
「すまない。怖かったか?」
「……言わなくたって分かるだろ……っ! ばか……」
「そうか」
 ポン、と頭に手を乗せられ、かと思えば優しく撫でられる。少しだけ心が落ち着いた。怒りやらアデラの言葉やらが複雑に混ざって悶々としていると、シアンから「そういえば」と切り出される。
「遠くから見ていたが、君一人でも人と話せたじゃないか。偉いぞ」 
 子供を褒めるように穏やかな口調でシアンが言った。シアンの言葉にツグナは自分でも信じられないと目を見開く。未だ人に対する恐怖はあるけれど、確かに回復へと向かっているようだ。驚いているツグナにシアンは「これなら、問題なさそうだな」と小さく呟く。
「……お前は、何してたんだ?」
 自分の成長に浸っていたツグナは思い出したかのように問いかける。先程途中で抜け出されたのがどうしても不満だった。
「ちょっとした野暮用だよ。スムーズに事が進むようにね……さて、準備もできたしそろそろ動くとするか」
 そう言ってシアンがラヴァル卿の方を見つめる。既に何名か挨拶に行っているのか、小さな人だかりができていた。怖気づき、明らかな不安を眉で表す。
「もう行くの? ……少し、様子を見るとか……」
「ここまで来て何を怯えてるんだ。こちらには時間も限られている。君だって、さっさと帰りたいだろ」
 ちゃんとこちらの心境は理解出来ているんだと俯く。怯えるに決まっているだろう。抵抗されずに何もかも上手くいく保証なんてない。本の中で事件に巻き込まれた主人公も、必ず痛い目をみているんだ……そう考えると、シアンはずっと一人で、領地内の問題が起きる度にこんなことを繰り返してきたのか。
「……お前は、怖くないのか?」
 気づけばそんなことを口にしていた。何がだ? とシアンの疑問が返ってくる。
「ひ、一人で守ろうとするのは……」
 アデラが言っていた「屋敷を守る」と伯爵の義務である「領地を守る」いう言葉を重ね合わせる。その言葉にシアンが大きく反応した。こちらをじっと覗き込むように見つめたまま、沈黙が流れる。何を考えているのか、表情からは読み取れなかった。
「一人じゃない。今は君がいる。そうだろ?」
 はにかみ、顔を前に向け「行くぞ」とシアンが背を向ける。珍しく話を逸らされた、と理解した。なんだかいつもの対応より余裕がないような。まるで、何かを隠しているみたいに。
『あの子はああ見えて臆病だから、他人に深く踏み込まれる事を嫌うのよ。だから、あの子が邸以外の人間と一緒にいるのは、私の知ってる限り貴方が初めてなの』
 そう、アデラの言葉が過ぎる。人には誰しも過去がある。それを知る者と知らない者ではその人の見方がだいぶ違って見えてくるものだ。少なくとも、自分には見えないシアンの姿が、あの時アデラには見えていたのだろう。不思議な事だが、それが妙に気になって仕方がない。
 恐怖で目も向けていなかった人への関心が、若者の好奇心で再び芽生え始めていたのだろう。ただ、純粋に知りたい。シアンのことをもっと。自分の手を引く黒い背中を見つめて、ツグナは思った。
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