5 / 67
第一部 一章 舞踏会編
04 潜入(挿絵あり)
しおりを挟む
我々は生きる限り、本能の忠実なる奴隷だ。我々の奥底に眠る生の遺伝子は、更なる順応性を高める為に他者を求め続ける。本能からなる人と人とを繋ぐその引力こそ「運命」と呼べるものなのかもしれない。(「永遠の命を捨てた末裔たちへ」より)
「はあ……」
窓から入ってきた風に少年の短くなった白髪が揺れる。その鬢は左側だけやや長めとなんだか少し不格好だ。眼帯が外れ、しっかりと赤い双眸で文章を見つめてから、少年は本を閉じ、自身のすぐ隣に積み重ねた。だが、ベッドの上ということもあり、その本はぐらついて雪崩を起こす。
「ああーーー!」
「失礼するよ」
途端に聞き慣れた声が耳に入り込んでくる。声につられて扉の方に目線を移すと、そこにはこの邸の当主である金髪碧眼の男、シアン・ブラッディが立っていた。
「ツグナ……また随分散らかしたね」
構って欲しい犬なのか? と呆れながら付け足される言葉に、白髪の少年ツグナは「ち、違う!」と勢いよく首を振った。
「ちゃんと片付けを教えたろ? 本を積み重ねて……」
「し、してた! さっきまで……でも崩れたんだ!」
「はあ……そんなに薬の世話になりたいのか……」
腕を組んで呆れるシアンに「本当だ!」とツグナの怒鳴りが飛んだ。
「ははっ、悪かったって」
事情を話され数分後。理解したシアンをよそにツグナは完全に拗ねた様子だった。不機嫌そうに眉を顰め、一向に目を合わせようとしない。この状況で、実は全部知っていたなんて言えないなと、シアンが嘆息した。
「……もういいだろ。早く出ていけよ」
「そんな悲しいこと言うなよ。せっかく君の様子を見に来てやったのに」
「そんなこと一度も頼んでない」
うじうじする背中に面倒だとシアンは頭をかいた。とはいえ、以前より感情が豊かになったのは明らかな進歩と言えるだろう。少しずつではあるが言い返すようにもなってきた。
「あー……本当に悪いと思ってる。けれど、ベッドの上に本を重ねたら崩れるのも当然だ。これからはサイドテーブルなり、床なり、安定したところに置くんだ。分かったな?」
沈黙で返される。目線を逸らし、少し考えてから話を切り替えるように「お詫びと言ってはなんだが」と口火を切った。
「先程荘園の農家から林檎を山ほど貰ってな。君が良ければ持ってくるが……」
流石にこれでは無理かと思いつつも、彼の好物をチラつかせる。それを聞いてツグナは背筋をピンと伸ばした。
「……食べる……!」
ゆっくり振り返ったその赤い目はキラキラと輝いている。なるほど、単純なヤツだ。助かるとシアンは内心で思いつつ「ああ、もちろん」と鼻で笑った。
◆
屋敷に来てからもうすぐ三ヶ月だ。使用人と言うていで屋敷に置かせてもらっているものの、シアンからは本を読めと言われたぐらい。基本はこの部屋に籠って一日を過ごしている。
ここでの生活はまさに天国だ。施設とは違ってご飯は温かくて美味しいし、お腹いっぱいに食べられる。ベッドのおかげで寝る時にいちいち背中を痛めることもない。そんな心地いい生活に依存して、現在では抜け出すことをすっかり忘れてしまっていた。
「そういえば体調はどうだい?」
「いい」
持ってきた林檎に齧り付くツグナの様子に「それは良かった」とシアンが返す。
「薬物療法をやめてからひと月経つけれど、だいぶ落ち着いてきたみたいだね。吐き気は?」
「朝にちょっと」
「そうか。頭痛は?」
「寝る前に少し」
「継続的ではないんだな。寝たのは?」
「暗かったけど日が出てた」
会話を重ねながらシアンが傍でメモをとる。日常風景となってしまったその行動をツグナはじっと見つめた。
「……なあ、なんで毎回記録するんだ?」
あいつらみたいだと呟くツグナに「知り合いに頼まれているんでな」とシアンが返す。
「で、今日はなんの本を読んでいたんだ?」
「赤いやつ……それ」
これか? と手に取るシアンにツグナはこくこくと頷いた。題名には「永遠の命を捨てた末裔たちへ」と書かれている。
「哲学書ね……君、ちゃんと理解できたか?」
「うん?」
「……出来てないな。文字の目流しは誰にでもできるんだよ。理解することが大事なんだ」
「お前は分かるのか?」
まあな、とシアンがぱらりとページをめくる。慣れた手つきだ。
「……ツグナ。俺が何故君に本を読ませるか、分かるか?」
「文字が読めるようになるためだろ?」
「それ以外に」
思わず首を傾げた。ひとまず頭を回してみるが、結局何も浮かばずに口を閉じたまま更に捻る。
「単純な話、知識だよ。世界を知ることで自分がいかに無知であるかを知ることが出来るし、記憶力や情報処理力などの様々な能力を高められることも出来る。特に登場人物の気持ちを考えることで他者への理解、多様な価値観を享受し、多角的な視点で物事を考えられるようにもなるんだ」
言葉の羅列にツグナは困惑した。ぱちぱちと瞬きしてから、なんだろうと言いたげにシアンを真っ直ぐ見つめる。
「……つまり、本から学べることは後の自分の経験になるって事さ。経験を積み重ねていくことで、君の人生をいい方向に変えるきっかけに繋がると思ってね」
「いい方向に? そんな本を読んで何が変わるんだ?」
純粋な疑問ゆえの答えだった。ページを捲っていたシアンは手を止め、ツグナを見つめ返す。
「なぜ君は今そう思った?」
「えっ? だ、だって……えっと……それは僕じゃない? から?」
「自分じゃないとなぜそう思うんだ?」
「……それは、その本を書いた人の考え、なんだろ? その人と僕は違うから……考えとか……分からないし……」
モゴモゴと自信なさそうに返すツグナに「そうだ」とシアンが更に続けた。
「本なんて所詮著作者の価値観にすぎない。本を読んだだけで君の考えが変わるとは思っていないよ」
「どういうことだ……?」
「さっき言ったろ。理解することが大事だと。今、君は自分の考えを言うまでに疑問に対して向き合い、思考した。大事なのはその行動なんだよ。その力は知識や経験に比例する」
「うん……? でもなんのためにその力が必要なんだ?」
「一人の人間になるため、かな」
ますます分からないと言った様子だった。シアンはしばらく考えてから「君はまだ、受動的すぎるんだ」と告げる。
「じゅ……なんだそれ?」
「言われたままに受け止め、行動することだよ。よく言えば素直だが、人間としては脳死しているな。前より感情は豊かになったけれど。自分がこうしたいという気持ちを表に出す行動そのものが、君に足りていないことなんだ。それじゃあまだ一人の人間としては心許ない。これからは自分の考えで行動できる力を身につけないと、俺が困る」
その言葉を受け止めるが、ツグナは結局何も言えずに目をキョロキョロさせる。そういう所だよ、とシアンが目を細めた。
「自発的な行動が増えれば、自分の中で何が大切なのかも分かってくるさ」
「何が大切って?」
「最後の瞬間に欲しいと思える何かさ。それらはいずれ自分の幸福へと繋がるだろう。人は幸福になるために生きようとする。それが人生の目的だったり生きる意味になったりするんだ。または自己肯定をし、自分の存在を証明し続ける事で生きているという精神的な快感を得ていくもの、とも言える。何の意味もなく人生を歩めるほど、人間は強くないからね」
話の終わりと同時に片手で本を閉じると、シアンがツグナの頭に本を乗せた。ずり落ちそうになったそれを慌てて抑える。
ツグナにはその言葉が理解出来なかった。何もない自分に大切なものなんてない。本の中に書かれている大切なものと言えば────お金だとか、権力、名声。それを持っている人間が幸福になれるのだろうか。じゃあ、シアンは幸福なのか? と考えた時に、噛み合わない点があって上手く言葉を飲み込むことが出来ない。
でも。もし、それが本当なら。あの日、生き残ってしまった自分の生きる意味がいつか見つかるのだろうか。
「まあ、時間は山ほどあるんだ。答えはゆっくり探していけばいい」
言い放ったシアンの笑顔に眉を下げていると、部屋の扉から軽快なノックが聞こえてきた。
「入れ」
扉の方を振り返りながらシアンが答える。隣にいたツグナは肩を大きく震わせながら、背筋を伸ばして固まった。
「失礼致します。ああ、シアン様。やはりこちらにいらっしゃいましたか」
入ってきたのはシアンの執事だ。キッチリと着こなした黒の燕尾服に、整えられた白髪がトレードマークで、いかにも執事らしい。ツグナも身の回りの事で何度か世話になったことがある。とはいえ、まともに話せるようになったのは本当に最近の話だ。安全だというのは分かっていても、未だ警戒するように体は反応する。
「なにかあったのか?」
執事の声音から状況を判断したシアンは、顔を強ばらせて問いかける。
「例の女性行方不明事件の話なんですが、どうやらひと月前に発覚した女性以外にもおられたようで……その……」
「そうか。貸せ」
執事の持っていた新聞を取り上げる。そこには「増え続ける行方不明」と題材が挙げられ、行方不明者の顔写真が紙面に載っていた。僅かにシアンの目が見開かれる。その隣で、ツグナは不思議そうにシアンを見つめた。
思えば、その新聞が波乱の幕開けだったのかもしれない。光が照らし始めた新しい生活には、それを覆い隠すように怪しい影が確かに忍び寄っていた。
◆
「続きまして、ブラッディ伯爵のシアン様とご令嬢のツグナ様です」
音を立てて、重厚な扉が開かれる。真っ先に目に映った大理石のメインホールは、すでに洒落た男女によって埋めつくされていた。天井には綺麗な装飾の、立派なシャンデリアが輝いている。どれも、初めて見る光景だった。
「俺に合わせろ」
自身の手をとってエスコートする金髪が小声の後にお辞儀し、慌てて同じように頭を下げた。そうしてからざわつくホールへと足を進める。
「うそ! あの方は確か……隣町の伯爵様よね?」
「何故ここへ……?……こういった夜会にはあまり顔を出さないと聞いたけれど」
「隣はどこのご令嬢かしら。ブラッディ伯爵は確か、結婚に前向きでないと噂を耳にしたことがあるわ」
燕尾服を着たシアンの隣には、見知らぬ令嬢の姿がある。ミッドナイトブルーを基調としたイブニングドレスに身を包んだその人物は周囲の婦人たちよりも華奢で、まだ完熟しきっていない少女のような体つきだった。
白皙の皮膚の内側を流れる若い血液がふっくらとした唇を自然に赤く染め、三つ編みを一つにまとめた白髪の間からは大きな赤い瞳が恐怖と動揺に揺らいでいる。その首には後ろでリボン状に結ばれた黒いチョーカーがつけられていた。
何故こうなってしまったのだろう。多くの人間に囲まれ、半ばパニック状態になりながら、ツグナは三日前のことを思い出していた。
「舞踏会? ってなんだ?」
聞きなれない単語への疑問をシアンにぶつける。「貴族が集まって踊ったり飲み食いしたりする場だ」ツグナにも分かりやすいように腕を組んで、シアンがそう返した。
「楽しそうだな」
「いや全然」
なんだそれはとツグナは無言で眉を顰めてから「なんでそんなところに行くんだ?」と改めて聞き返す。
「人が集まるところは嫌いだってお前言ってたろ?」
「まあね。でも仕事なら仕方あるまい」
「仕事……いつもとはちがうのか? なんでお前がやらなくちゃいけないんだ?」
「君は聞きたがりだね」
呆れたような物言いだった。少し間を開けてから「避けられるならそうした」と呟き、シアンが続ける。
「俺たち貴族の中にも階級があってさ。それらを公伯男。世間では三爵位って呼ばれているんだ。俺はその中の伯爵。まあ、俗に言う辺境伯ってやつだよ」
貴族の元は地方領主が好き勝手しないように、その監視として王族から派遣されたのが始まりだ。それが現在では辺境伯という形で残っている。役割は爵位によって異なるが、伯爵は国から与えられた自分の領地の分を、自分達の力で護らないといけないのがルールである。治安の為だと言って、ある所では戦争も起きているぐらいだ。
「確かに平民に比べれば裕福な暮らしだが、贅の限りを尽くしたドレスや装飾品で自身を飾り立て、毎日夜会を開いたりするなんて事ができるのはほんのひと握りだ。実際は軍事的役割やら治安保持やらでそんな暇はないし、余裕があるわけじゃない」
「……えっと」
「つまり、豪遊して貴族内で交流することだけが仕事じゃないってことさ。自分の守るべき領地内の問題事は一番上の辺境伯……伯爵である俺が解決しないといけない」
言い直され、ツグナは「ふうん」と関心なさそうに返した。本当に理解出来ているのか? 心配になったシアンが目を細める。
「だから、その女性が消える事件ってのがお前の守る領地内で起きたから、お前が何とかしなくちゃいけない? んだろ?」
「……まあ、理解出来ているならいい。話を戻すが、実は今回の事件の犯人は既に目星をつけている。それが、三日後に舞踏会を開くラヴァル卿だ」
「ラヴァル、卿?」
ああ、とシアンは暫く考え込むように沈黙してから口を開いた。
「ラヴァル家は救国の英雄として名高かった上流貴族だ。階級は俺と同じ伯爵位。芸術性に長けており、何冊か本を出している。資産家で、最近は街にある聖歌隊の制服をデザインしていると耳にした……まあ、ボランティアだな。貴族の中でも献身的で珍しいと言われている」
「……? その人がなんで犯人なんだ?」
聞いた感じどこかに問題があるようには思えない気がするけれどと、ツグナは首を傾げる。「そこが、今回の事件の盲点といえるだろうな」シアンは持っていた新聞を強く握りしめ、記事をくしゃくしゃにした。
「実は、この女性の行方不明事件は今に始まったことじゃない。初めの行方不明者が発覚してから、少なくとも三年は続いている」
「さ、三年!?」
「行方不明者は決まって女性だ。そして、全員がとある屋敷の舞踏会に行って消息を絶っている。その舞踏会がラヴァル卿ってわけさ」
「はあ……それなら、なんで誰も捕まえようとしないんだ」
その舞踏会に行ったら最後、行方不明になるなんて誰が聞いてもすぐにたどり着く答えだ。なのに、この事件は三年も続いている。寧ろおかしいと思わない人間の方がおかしいのではないのだろうかと、ツグナは思った。
「誰も奴が犯人でないと信じて疑わないからだ」
「なんでだ?」
「さっきも言ったろ。奴の血筋は誇り高き救国の英雄。教養に溢れ、芸術センスに恵まれた超人。そして、様々な階級の人間を差別することもなく、舞踏会へと招待する献身さ。それだけで理由は十分だ。奴の黒い噂もご領主を妬んだ者の中傷だと、おめでたい事に周囲はそう認知している。
それに、奴は国家にも投資している資産家だ。捕まえてしまえば、国にも悪影響になる。完璧な人間だからこそ、奴は他の殺人鬼よりもたちが悪いのさ。 何故か分かるか、ツグナ?」
突然話を振られ、背中をぴんとさせた。「えっと……」と呟くだけでいつまでも言葉の先が続かない。頭は回しているが思考できていないようだ。
「行動範囲が広く、動きやすいことと、証拠隠滅が可能なこと。自分の土俵なら人目に届かないところも熟知しているし、なにより徹底的な証拠を突きつけない限り、上級貴族であれば邸内で証拠はもみ消すことが出来る。三年も続いているのはそういった絶対に捕まらないという自信からだろうな」
「……それならなんで今更……今までだって捕まえるチャンスはあったんだろ……?」
こいつは、知っておきながら三年もこの行方不明を見逃していた事になる。それを今更捕まえようなんて、おかしな話だとツグナは考えたのだ。
「この新聞を見てみろ」
差し出されたのは、下の方が少しくしゃくしゃになっている新聞だ。眼前に突き出されたそれを渋々受け取ってみる。見開きに折られた紙面には「増え続ける行方不明」と題を飾った記事があった。覚えたばかりの字をゆっくりと指でなぞって読んでみるが、特に気になるものはない。
「何が……」
「彼女の名前はジェンナ・ミール、三十三歳。この山の麓の町、ロザンド街出身。過去に二度男を誑かして結婚するも、離婚を繰り返した……ただの娼婦だ」
またも聞き覚えのない言葉の羅列に首を傾げながら紙面を確認する。
「しょ……そんなことどこにも書いていないぞ?」
「俺の領地の住民だからな。中でも彼女は悪名高く、街の有名人だ。知っていて当然だろう。先程も言ったように、貴族社会では自分の領土は自分たちで守らなくてはならない。それがルールだ。他の土地の人間がどうなろうと俺には関係のないことだが、奴が俺の領地に踏み込んできたということなら、見逃すことはできない」
そう言ったシアンの瞳は鋭く、どこか心臓を冷たくする冷徹さがある。しかし、その瞳の奥に隠された轟々と燃え上がる熱に、ツグナは違和感があった。
「……理由は分かったよ。知ってて何もしなかったのはなんか……それで、どう捕まえるんだ?」
舞踏会に行ってすぐに捕らえられる程、簡単な話ではない筈。それがここら辺で一番偉い人なら尚更だろう。シアンは「いい質問だ」とツグナが持っていた新聞を取り上げながら言った。
「流石にそいつが犯人でも、徹底的な証拠を突きつけない限り捕まえることはできない。だが、奴は異常な程、女性に執着している部分がある。自身の小説でも愛をテーマにマニアックな変態話を書いているぐらいにな。まあ、肥大する愛の成れの果て.......ある種人間の病だ」
「愛? 愛って病気のこと?」
「……あながち、間違いではないな。異常者の思考は俺にも理解できない。それに、愛という概念を定義化するのは非論理的だ」
「ひろんりてき……」
「ああ。つまり、人それぞれ思考や価値観が違うから、これが愛だと確証を持たせた言葉はないって事だ。人によって愛し方というものは違うからな……概念が曖昧なんだ、神と同じように」
「ふうん……なんか、難しいんだな」
よく分からないけれどと、ツグナは俯く。長年人間の狂気に当てられていたツグナにとって、それは難解のように思えた。何を言っているのかは分からないが、嫌な言い方であることは確かだ。
「さて、また話が逸れたな。ここからが今回の作戦の話になる。とは言っても至って単純な囮作戦だ」
まず一人を囮にしてラヴァル卿の部屋に侵入し、徹底的な証拠を掴めるように奴を誘導する。そして、証拠を掴んだと同時に隠れていた人間が奴の体を縛り上げて憲兵へと引き渡す。シアンはこの上ないシンプルな囮作戦を軽く説明した。
「その場で目撃されたら流石に誤魔化しきれないだろうからね。仮に国がそれを意図的に見逃していたとしても、第三者から突きつけられた真実を揉み消す事は出来ない。要は、囮がラヴァル卿の本性を引き出したところで隠れていた一人がその証拠と共にラヴァル卿を捕まえる。囮が殺されそうになったら助ければいいというわけだ」
作戦とやらをそのまま受け取り、否定せずにツグナは「いいんじゃないか。分からないけど」と答えた。
「そうか。話が早くて助かる。なら、君には女装してラヴァル卿の邸に侵入してもらう」
意味が理解できず、思わず「えっ」と頭上に疑問符を浮べた。自分には関係ないと思っていたのだ。
「じょそう……って?」
「女の格好をすることだ。できるな?」
言葉を理解してますます困惑する。何度か瞬きをして「でも、髪切る時に女は舐められるからって言ってた」とツグナが返した。
「舐められるって、良くないことなんだろ?」
「ああ、そんなことを言ったな。でもこれと今回のはまた話が別だよ」
「でも……」
女装が嫌、というより人が集まる会場に行かなくてはならないことが不安だった。眉を下げるツグナに「嫌なのか?」とシアンが眉を顰める。これまで特に嫌がられたことがなかったので、驚いている様子だ。
「だって、お前が……」
「それは関係ない。君の気持ちを聞いているんだ」
思わず無言になる。ほら、と言った様子で嘆息され「こういう時は、はいやります、でいいんだよ」と面倒そうにシアンが返した。
「というか俺が言ってるんだからやれ。君に拒否権なんてない」
ピン、と額を指先で弾かれ、赤くなったそこを涙目で抑える。わけも分からずツグナは「……痛い」と少しだけ不満を顕にした。
「やれるよな?」
「……うん」
初めからこうなるつもりでシアンは話していたのだろう。これまでは屋敷の人にも極力会わせないようにしてくれたのに。なんで今回は厳しいんだと肩を落とした。
「まあ、安心しろ。君の命の保証はする。約束だ」
ご立腹状態のツグナの頭にシアンが手を置いて笑ってみせた。その笑みには嫌とは言わせない圧力がある。優しいのに、たまにその面が計り知れなくてツグナは怖くなった。
「……さて、それなら時間はないな。君には三日後迄に女性の心得とマナーを知ってもらわないと」
「マナー?」
「君みたいな世間知らずをそのまま舞踏会に出すわけがないだろ? 他の貴族の前でドジを踏むようなことは決して許されない。見下されたら終わりなのがこの世界だ……まあ、安心しろ。俺が直々に指導してやるからさ。三日後迄に君を完璧な女性にしてあげる」
人差し指を口元に当てながら微笑まれる。その笑みはここ三ヶ月で一番生き生きとしていて、まるで新しい玩具を見つけた時のような子供の無邪気さがあった。
それから舞踏会までの三日間、ツグナはシアンに女性のマナーを叩きつけられ、現在に至る。初めて身につけるイブニングドレスは思いのほか重く、ヒールのせいもあってか歩きにくい。また、三日間の指導のせいで女装というハードルがいかに高いのかを身に染みて理解した。
もう二度と女装はしたくない。早く帰りたい。そんな言葉が既にツグナの脳内を覆っていた。
「……いっ……」
考え事ばかりをしていたせいでイブニングドレスの端をヒールで踏み、盛大に倒れた。鈍い音がメインホールに響き、人々の視線を集める。
「大丈夫かしら。あの子」
「きっと初めての舞踏会で張り切っていたんでしょう。お若いですこと」
「あの子がブラッディ伯爵の……血走った目なんて、昨夜はよく眠れなかったのかしら」
クスクス、と笑い声が聞こえてきた。気にかけるような言葉は不思議と冷徹で、嘲笑じみている。遠回しのそれが何だか怖くて顔を上げられずにいると、前方から「立てるか」と声が聞こえてきた。
「シアン……?」
初めて会った時と同じようにシアンが手を差し伸べてくれている。ツグナは「ありがとう」と自らその手を取って立ち上がった。冷えきった空気の中で、その体温はとても温かい。
「……あの、やっぱり僕……」
語尾にかけて声が震えた。人の視線が重々しくて痛い。俯き、放たれた言葉に最後まで言わせないと、シアンはツグナの腰を抱いて、手の甲にキスを落とした。
「人と違うからなんだ。厚化粧で取り繕うよりも、ありのままの君が美しいよ」
周囲に聞こえるような声ではっきり言った。その喧嘩を売るような言葉にツグナは目を見開く。女性たちは驚いたように凝視してから、そそくさと人集りの奥へと消えていった。
「どうしたんだ……?」
起き上がって見上げるツグナに「先程から言葉が崩れてるぞ」とシアンが小声で指摘した。ハッとし、口元を手で覆う。
「……君が調子を悪くしてしまうと、今回の計画に悪影響を及ぼすからな……ここにいる者達は、さぞかし優秀な親に教育されたんだろう。でなければ、伯爵が連れてきた令嬢にあんな態度はできない」
ぽつりと皮肉を呟き、シアンは目を逸らしてから「じゃあ、そろそろ行くぞ」とツグナの手を引いた。先程までの不安はその力強い手によってかき消される。どんな事があってもこの手があれば大丈夫だとツグナは確信し、強く握り返した。
奥へ進んでいくと、階段のついた高所から見下ろしてくる人物と目が合う。早くも両側に女性を連れているその人物は、アッシュグレーの髪をひとつに束ね、感情のない垂れた青眼のまま口角を釣りあげた。
ああ、ここからが本番か。ツグナは眼前のラヴァル卿を見据えて、一人思った。
「はあ……」
窓から入ってきた風に少年の短くなった白髪が揺れる。その鬢は左側だけやや長めとなんだか少し不格好だ。眼帯が外れ、しっかりと赤い双眸で文章を見つめてから、少年は本を閉じ、自身のすぐ隣に積み重ねた。だが、ベッドの上ということもあり、その本はぐらついて雪崩を起こす。
「ああーーー!」
「失礼するよ」
途端に聞き慣れた声が耳に入り込んでくる。声につられて扉の方に目線を移すと、そこにはこの邸の当主である金髪碧眼の男、シアン・ブラッディが立っていた。
「ツグナ……また随分散らかしたね」
構って欲しい犬なのか? と呆れながら付け足される言葉に、白髪の少年ツグナは「ち、違う!」と勢いよく首を振った。
「ちゃんと片付けを教えたろ? 本を積み重ねて……」
「し、してた! さっきまで……でも崩れたんだ!」
「はあ……そんなに薬の世話になりたいのか……」
腕を組んで呆れるシアンに「本当だ!」とツグナの怒鳴りが飛んだ。
「ははっ、悪かったって」
事情を話され数分後。理解したシアンをよそにツグナは完全に拗ねた様子だった。不機嫌そうに眉を顰め、一向に目を合わせようとしない。この状況で、実は全部知っていたなんて言えないなと、シアンが嘆息した。
「……もういいだろ。早く出ていけよ」
「そんな悲しいこと言うなよ。せっかく君の様子を見に来てやったのに」
「そんなこと一度も頼んでない」
うじうじする背中に面倒だとシアンは頭をかいた。とはいえ、以前より感情が豊かになったのは明らかな進歩と言えるだろう。少しずつではあるが言い返すようにもなってきた。
「あー……本当に悪いと思ってる。けれど、ベッドの上に本を重ねたら崩れるのも当然だ。これからはサイドテーブルなり、床なり、安定したところに置くんだ。分かったな?」
沈黙で返される。目線を逸らし、少し考えてから話を切り替えるように「お詫びと言ってはなんだが」と口火を切った。
「先程荘園の農家から林檎を山ほど貰ってな。君が良ければ持ってくるが……」
流石にこれでは無理かと思いつつも、彼の好物をチラつかせる。それを聞いてツグナは背筋をピンと伸ばした。
「……食べる……!」
ゆっくり振り返ったその赤い目はキラキラと輝いている。なるほど、単純なヤツだ。助かるとシアンは内心で思いつつ「ああ、もちろん」と鼻で笑った。
◆
屋敷に来てからもうすぐ三ヶ月だ。使用人と言うていで屋敷に置かせてもらっているものの、シアンからは本を読めと言われたぐらい。基本はこの部屋に籠って一日を過ごしている。
ここでの生活はまさに天国だ。施設とは違ってご飯は温かくて美味しいし、お腹いっぱいに食べられる。ベッドのおかげで寝る時にいちいち背中を痛めることもない。そんな心地いい生活に依存して、現在では抜け出すことをすっかり忘れてしまっていた。
「そういえば体調はどうだい?」
「いい」
持ってきた林檎に齧り付くツグナの様子に「それは良かった」とシアンが返す。
「薬物療法をやめてからひと月経つけれど、だいぶ落ち着いてきたみたいだね。吐き気は?」
「朝にちょっと」
「そうか。頭痛は?」
「寝る前に少し」
「継続的ではないんだな。寝たのは?」
「暗かったけど日が出てた」
会話を重ねながらシアンが傍でメモをとる。日常風景となってしまったその行動をツグナはじっと見つめた。
「……なあ、なんで毎回記録するんだ?」
あいつらみたいだと呟くツグナに「知り合いに頼まれているんでな」とシアンが返す。
「で、今日はなんの本を読んでいたんだ?」
「赤いやつ……それ」
これか? と手に取るシアンにツグナはこくこくと頷いた。題名には「永遠の命を捨てた末裔たちへ」と書かれている。
「哲学書ね……君、ちゃんと理解できたか?」
「うん?」
「……出来てないな。文字の目流しは誰にでもできるんだよ。理解することが大事なんだ」
「お前は分かるのか?」
まあな、とシアンがぱらりとページをめくる。慣れた手つきだ。
「……ツグナ。俺が何故君に本を読ませるか、分かるか?」
「文字が読めるようになるためだろ?」
「それ以外に」
思わず首を傾げた。ひとまず頭を回してみるが、結局何も浮かばずに口を閉じたまま更に捻る。
「単純な話、知識だよ。世界を知ることで自分がいかに無知であるかを知ることが出来るし、記憶力や情報処理力などの様々な能力を高められることも出来る。特に登場人物の気持ちを考えることで他者への理解、多様な価値観を享受し、多角的な視点で物事を考えられるようにもなるんだ」
言葉の羅列にツグナは困惑した。ぱちぱちと瞬きしてから、なんだろうと言いたげにシアンを真っ直ぐ見つめる。
「……つまり、本から学べることは後の自分の経験になるって事さ。経験を積み重ねていくことで、君の人生をいい方向に変えるきっかけに繋がると思ってね」
「いい方向に? そんな本を読んで何が変わるんだ?」
純粋な疑問ゆえの答えだった。ページを捲っていたシアンは手を止め、ツグナを見つめ返す。
「なぜ君は今そう思った?」
「えっ? だ、だって……えっと……それは僕じゃない? から?」
「自分じゃないとなぜそう思うんだ?」
「……それは、その本を書いた人の考え、なんだろ? その人と僕は違うから……考えとか……分からないし……」
モゴモゴと自信なさそうに返すツグナに「そうだ」とシアンが更に続けた。
「本なんて所詮著作者の価値観にすぎない。本を読んだだけで君の考えが変わるとは思っていないよ」
「どういうことだ……?」
「さっき言ったろ。理解することが大事だと。今、君は自分の考えを言うまでに疑問に対して向き合い、思考した。大事なのはその行動なんだよ。その力は知識や経験に比例する」
「うん……? でもなんのためにその力が必要なんだ?」
「一人の人間になるため、かな」
ますます分からないと言った様子だった。シアンはしばらく考えてから「君はまだ、受動的すぎるんだ」と告げる。
「じゅ……なんだそれ?」
「言われたままに受け止め、行動することだよ。よく言えば素直だが、人間としては脳死しているな。前より感情は豊かになったけれど。自分がこうしたいという気持ちを表に出す行動そのものが、君に足りていないことなんだ。それじゃあまだ一人の人間としては心許ない。これからは自分の考えで行動できる力を身につけないと、俺が困る」
その言葉を受け止めるが、ツグナは結局何も言えずに目をキョロキョロさせる。そういう所だよ、とシアンが目を細めた。
「自発的な行動が増えれば、自分の中で何が大切なのかも分かってくるさ」
「何が大切って?」
「最後の瞬間に欲しいと思える何かさ。それらはいずれ自分の幸福へと繋がるだろう。人は幸福になるために生きようとする。それが人生の目的だったり生きる意味になったりするんだ。または自己肯定をし、自分の存在を証明し続ける事で生きているという精神的な快感を得ていくもの、とも言える。何の意味もなく人生を歩めるほど、人間は強くないからね」
話の終わりと同時に片手で本を閉じると、シアンがツグナの頭に本を乗せた。ずり落ちそうになったそれを慌てて抑える。
ツグナにはその言葉が理解出来なかった。何もない自分に大切なものなんてない。本の中に書かれている大切なものと言えば────お金だとか、権力、名声。それを持っている人間が幸福になれるのだろうか。じゃあ、シアンは幸福なのか? と考えた時に、噛み合わない点があって上手く言葉を飲み込むことが出来ない。
でも。もし、それが本当なら。あの日、生き残ってしまった自分の生きる意味がいつか見つかるのだろうか。
「まあ、時間は山ほどあるんだ。答えはゆっくり探していけばいい」
言い放ったシアンの笑顔に眉を下げていると、部屋の扉から軽快なノックが聞こえてきた。
「入れ」
扉の方を振り返りながらシアンが答える。隣にいたツグナは肩を大きく震わせながら、背筋を伸ばして固まった。
「失礼致します。ああ、シアン様。やはりこちらにいらっしゃいましたか」
入ってきたのはシアンの執事だ。キッチリと着こなした黒の燕尾服に、整えられた白髪がトレードマークで、いかにも執事らしい。ツグナも身の回りの事で何度か世話になったことがある。とはいえ、まともに話せるようになったのは本当に最近の話だ。安全だというのは分かっていても、未だ警戒するように体は反応する。
「なにかあったのか?」
執事の声音から状況を判断したシアンは、顔を強ばらせて問いかける。
「例の女性行方不明事件の話なんですが、どうやらひと月前に発覚した女性以外にもおられたようで……その……」
「そうか。貸せ」
執事の持っていた新聞を取り上げる。そこには「増え続ける行方不明」と題材が挙げられ、行方不明者の顔写真が紙面に載っていた。僅かにシアンの目が見開かれる。その隣で、ツグナは不思議そうにシアンを見つめた。
思えば、その新聞が波乱の幕開けだったのかもしれない。光が照らし始めた新しい生活には、それを覆い隠すように怪しい影が確かに忍び寄っていた。
◆
「続きまして、ブラッディ伯爵のシアン様とご令嬢のツグナ様です」
音を立てて、重厚な扉が開かれる。真っ先に目に映った大理石のメインホールは、すでに洒落た男女によって埋めつくされていた。天井には綺麗な装飾の、立派なシャンデリアが輝いている。どれも、初めて見る光景だった。
「俺に合わせろ」
自身の手をとってエスコートする金髪が小声の後にお辞儀し、慌てて同じように頭を下げた。そうしてからざわつくホールへと足を進める。
「うそ! あの方は確か……隣町の伯爵様よね?」
「何故ここへ……?……こういった夜会にはあまり顔を出さないと聞いたけれど」
「隣はどこのご令嬢かしら。ブラッディ伯爵は確か、結婚に前向きでないと噂を耳にしたことがあるわ」
燕尾服を着たシアンの隣には、見知らぬ令嬢の姿がある。ミッドナイトブルーを基調としたイブニングドレスに身を包んだその人物は周囲の婦人たちよりも華奢で、まだ完熟しきっていない少女のような体つきだった。
白皙の皮膚の内側を流れる若い血液がふっくらとした唇を自然に赤く染め、三つ編みを一つにまとめた白髪の間からは大きな赤い瞳が恐怖と動揺に揺らいでいる。その首には後ろでリボン状に結ばれた黒いチョーカーがつけられていた。
何故こうなってしまったのだろう。多くの人間に囲まれ、半ばパニック状態になりながら、ツグナは三日前のことを思い出していた。
「舞踏会? ってなんだ?」
聞きなれない単語への疑問をシアンにぶつける。「貴族が集まって踊ったり飲み食いしたりする場だ」ツグナにも分かりやすいように腕を組んで、シアンがそう返した。
「楽しそうだな」
「いや全然」
なんだそれはとツグナは無言で眉を顰めてから「なんでそんなところに行くんだ?」と改めて聞き返す。
「人が集まるところは嫌いだってお前言ってたろ?」
「まあね。でも仕事なら仕方あるまい」
「仕事……いつもとはちがうのか? なんでお前がやらなくちゃいけないんだ?」
「君は聞きたがりだね」
呆れたような物言いだった。少し間を開けてから「避けられるならそうした」と呟き、シアンが続ける。
「俺たち貴族の中にも階級があってさ。それらを公伯男。世間では三爵位って呼ばれているんだ。俺はその中の伯爵。まあ、俗に言う辺境伯ってやつだよ」
貴族の元は地方領主が好き勝手しないように、その監視として王族から派遣されたのが始まりだ。それが現在では辺境伯という形で残っている。役割は爵位によって異なるが、伯爵は国から与えられた自分の領地の分を、自分達の力で護らないといけないのがルールである。治安の為だと言って、ある所では戦争も起きているぐらいだ。
「確かに平民に比べれば裕福な暮らしだが、贅の限りを尽くしたドレスや装飾品で自身を飾り立て、毎日夜会を開いたりするなんて事ができるのはほんのひと握りだ。実際は軍事的役割やら治安保持やらでそんな暇はないし、余裕があるわけじゃない」
「……えっと」
「つまり、豪遊して貴族内で交流することだけが仕事じゃないってことさ。自分の守るべき領地内の問題事は一番上の辺境伯……伯爵である俺が解決しないといけない」
言い直され、ツグナは「ふうん」と関心なさそうに返した。本当に理解出来ているのか? 心配になったシアンが目を細める。
「だから、その女性が消える事件ってのがお前の守る領地内で起きたから、お前が何とかしなくちゃいけない? んだろ?」
「……まあ、理解出来ているならいい。話を戻すが、実は今回の事件の犯人は既に目星をつけている。それが、三日後に舞踏会を開くラヴァル卿だ」
「ラヴァル、卿?」
ああ、とシアンは暫く考え込むように沈黙してから口を開いた。
「ラヴァル家は救国の英雄として名高かった上流貴族だ。階級は俺と同じ伯爵位。芸術性に長けており、何冊か本を出している。資産家で、最近は街にある聖歌隊の制服をデザインしていると耳にした……まあ、ボランティアだな。貴族の中でも献身的で珍しいと言われている」
「……? その人がなんで犯人なんだ?」
聞いた感じどこかに問題があるようには思えない気がするけれどと、ツグナは首を傾げる。「そこが、今回の事件の盲点といえるだろうな」シアンは持っていた新聞を強く握りしめ、記事をくしゃくしゃにした。
「実は、この女性の行方不明事件は今に始まったことじゃない。初めの行方不明者が発覚してから、少なくとも三年は続いている」
「さ、三年!?」
「行方不明者は決まって女性だ。そして、全員がとある屋敷の舞踏会に行って消息を絶っている。その舞踏会がラヴァル卿ってわけさ」
「はあ……それなら、なんで誰も捕まえようとしないんだ」
その舞踏会に行ったら最後、行方不明になるなんて誰が聞いてもすぐにたどり着く答えだ。なのに、この事件は三年も続いている。寧ろおかしいと思わない人間の方がおかしいのではないのだろうかと、ツグナは思った。
「誰も奴が犯人でないと信じて疑わないからだ」
「なんでだ?」
「さっきも言ったろ。奴の血筋は誇り高き救国の英雄。教養に溢れ、芸術センスに恵まれた超人。そして、様々な階級の人間を差別することもなく、舞踏会へと招待する献身さ。それだけで理由は十分だ。奴の黒い噂もご領主を妬んだ者の中傷だと、おめでたい事に周囲はそう認知している。
それに、奴は国家にも投資している資産家だ。捕まえてしまえば、国にも悪影響になる。完璧な人間だからこそ、奴は他の殺人鬼よりもたちが悪いのさ。 何故か分かるか、ツグナ?」
突然話を振られ、背中をぴんとさせた。「えっと……」と呟くだけでいつまでも言葉の先が続かない。頭は回しているが思考できていないようだ。
「行動範囲が広く、動きやすいことと、証拠隠滅が可能なこと。自分の土俵なら人目に届かないところも熟知しているし、なにより徹底的な証拠を突きつけない限り、上級貴族であれば邸内で証拠はもみ消すことが出来る。三年も続いているのはそういった絶対に捕まらないという自信からだろうな」
「……それならなんで今更……今までだって捕まえるチャンスはあったんだろ……?」
こいつは、知っておきながら三年もこの行方不明を見逃していた事になる。それを今更捕まえようなんて、おかしな話だとツグナは考えたのだ。
「この新聞を見てみろ」
差し出されたのは、下の方が少しくしゃくしゃになっている新聞だ。眼前に突き出されたそれを渋々受け取ってみる。見開きに折られた紙面には「増え続ける行方不明」と題を飾った記事があった。覚えたばかりの字をゆっくりと指でなぞって読んでみるが、特に気になるものはない。
「何が……」
「彼女の名前はジェンナ・ミール、三十三歳。この山の麓の町、ロザンド街出身。過去に二度男を誑かして結婚するも、離婚を繰り返した……ただの娼婦だ」
またも聞き覚えのない言葉の羅列に首を傾げながら紙面を確認する。
「しょ……そんなことどこにも書いていないぞ?」
「俺の領地の住民だからな。中でも彼女は悪名高く、街の有名人だ。知っていて当然だろう。先程も言ったように、貴族社会では自分の領土は自分たちで守らなくてはならない。それがルールだ。他の土地の人間がどうなろうと俺には関係のないことだが、奴が俺の領地に踏み込んできたということなら、見逃すことはできない」
そう言ったシアンの瞳は鋭く、どこか心臓を冷たくする冷徹さがある。しかし、その瞳の奥に隠された轟々と燃え上がる熱に、ツグナは違和感があった。
「……理由は分かったよ。知ってて何もしなかったのはなんか……それで、どう捕まえるんだ?」
舞踏会に行ってすぐに捕らえられる程、簡単な話ではない筈。それがここら辺で一番偉い人なら尚更だろう。シアンは「いい質問だ」とツグナが持っていた新聞を取り上げながら言った。
「流石にそいつが犯人でも、徹底的な証拠を突きつけない限り捕まえることはできない。だが、奴は異常な程、女性に執着している部分がある。自身の小説でも愛をテーマにマニアックな変態話を書いているぐらいにな。まあ、肥大する愛の成れの果て.......ある種人間の病だ」
「愛? 愛って病気のこと?」
「……あながち、間違いではないな。異常者の思考は俺にも理解できない。それに、愛という概念を定義化するのは非論理的だ」
「ひろんりてき……」
「ああ。つまり、人それぞれ思考や価値観が違うから、これが愛だと確証を持たせた言葉はないって事だ。人によって愛し方というものは違うからな……概念が曖昧なんだ、神と同じように」
「ふうん……なんか、難しいんだな」
よく分からないけれどと、ツグナは俯く。長年人間の狂気に当てられていたツグナにとって、それは難解のように思えた。何を言っているのかは分からないが、嫌な言い方であることは確かだ。
「さて、また話が逸れたな。ここからが今回の作戦の話になる。とは言っても至って単純な囮作戦だ」
まず一人を囮にしてラヴァル卿の部屋に侵入し、徹底的な証拠を掴めるように奴を誘導する。そして、証拠を掴んだと同時に隠れていた人間が奴の体を縛り上げて憲兵へと引き渡す。シアンはこの上ないシンプルな囮作戦を軽く説明した。
「その場で目撃されたら流石に誤魔化しきれないだろうからね。仮に国がそれを意図的に見逃していたとしても、第三者から突きつけられた真実を揉み消す事は出来ない。要は、囮がラヴァル卿の本性を引き出したところで隠れていた一人がその証拠と共にラヴァル卿を捕まえる。囮が殺されそうになったら助ければいいというわけだ」
作戦とやらをそのまま受け取り、否定せずにツグナは「いいんじゃないか。分からないけど」と答えた。
「そうか。話が早くて助かる。なら、君には女装してラヴァル卿の邸に侵入してもらう」
意味が理解できず、思わず「えっ」と頭上に疑問符を浮べた。自分には関係ないと思っていたのだ。
「じょそう……って?」
「女の格好をすることだ。できるな?」
言葉を理解してますます困惑する。何度か瞬きをして「でも、髪切る時に女は舐められるからって言ってた」とツグナが返した。
「舐められるって、良くないことなんだろ?」
「ああ、そんなことを言ったな。でもこれと今回のはまた話が別だよ」
「でも……」
女装が嫌、というより人が集まる会場に行かなくてはならないことが不安だった。眉を下げるツグナに「嫌なのか?」とシアンが眉を顰める。これまで特に嫌がられたことがなかったので、驚いている様子だ。
「だって、お前が……」
「それは関係ない。君の気持ちを聞いているんだ」
思わず無言になる。ほら、と言った様子で嘆息され「こういう時は、はいやります、でいいんだよ」と面倒そうにシアンが返した。
「というか俺が言ってるんだからやれ。君に拒否権なんてない」
ピン、と額を指先で弾かれ、赤くなったそこを涙目で抑える。わけも分からずツグナは「……痛い」と少しだけ不満を顕にした。
「やれるよな?」
「……うん」
初めからこうなるつもりでシアンは話していたのだろう。これまでは屋敷の人にも極力会わせないようにしてくれたのに。なんで今回は厳しいんだと肩を落とした。
「まあ、安心しろ。君の命の保証はする。約束だ」
ご立腹状態のツグナの頭にシアンが手を置いて笑ってみせた。その笑みには嫌とは言わせない圧力がある。優しいのに、たまにその面が計り知れなくてツグナは怖くなった。
「……さて、それなら時間はないな。君には三日後迄に女性の心得とマナーを知ってもらわないと」
「マナー?」
「君みたいな世間知らずをそのまま舞踏会に出すわけがないだろ? 他の貴族の前でドジを踏むようなことは決して許されない。見下されたら終わりなのがこの世界だ……まあ、安心しろ。俺が直々に指導してやるからさ。三日後迄に君を完璧な女性にしてあげる」
人差し指を口元に当てながら微笑まれる。その笑みはここ三ヶ月で一番生き生きとしていて、まるで新しい玩具を見つけた時のような子供の無邪気さがあった。
それから舞踏会までの三日間、ツグナはシアンに女性のマナーを叩きつけられ、現在に至る。初めて身につけるイブニングドレスは思いのほか重く、ヒールのせいもあってか歩きにくい。また、三日間の指導のせいで女装というハードルがいかに高いのかを身に染みて理解した。
もう二度と女装はしたくない。早く帰りたい。そんな言葉が既にツグナの脳内を覆っていた。
「……いっ……」
考え事ばかりをしていたせいでイブニングドレスの端をヒールで踏み、盛大に倒れた。鈍い音がメインホールに響き、人々の視線を集める。
「大丈夫かしら。あの子」
「きっと初めての舞踏会で張り切っていたんでしょう。お若いですこと」
「あの子がブラッディ伯爵の……血走った目なんて、昨夜はよく眠れなかったのかしら」
クスクス、と笑い声が聞こえてきた。気にかけるような言葉は不思議と冷徹で、嘲笑じみている。遠回しのそれが何だか怖くて顔を上げられずにいると、前方から「立てるか」と声が聞こえてきた。
「シアン……?」
初めて会った時と同じようにシアンが手を差し伸べてくれている。ツグナは「ありがとう」と自らその手を取って立ち上がった。冷えきった空気の中で、その体温はとても温かい。
「……あの、やっぱり僕……」
語尾にかけて声が震えた。人の視線が重々しくて痛い。俯き、放たれた言葉に最後まで言わせないと、シアンはツグナの腰を抱いて、手の甲にキスを落とした。
「人と違うからなんだ。厚化粧で取り繕うよりも、ありのままの君が美しいよ」
周囲に聞こえるような声ではっきり言った。その喧嘩を売るような言葉にツグナは目を見開く。女性たちは驚いたように凝視してから、そそくさと人集りの奥へと消えていった。
「どうしたんだ……?」
起き上がって見上げるツグナに「先程から言葉が崩れてるぞ」とシアンが小声で指摘した。ハッとし、口元を手で覆う。
「……君が調子を悪くしてしまうと、今回の計画に悪影響を及ぼすからな……ここにいる者達は、さぞかし優秀な親に教育されたんだろう。でなければ、伯爵が連れてきた令嬢にあんな態度はできない」
ぽつりと皮肉を呟き、シアンは目を逸らしてから「じゃあ、そろそろ行くぞ」とツグナの手を引いた。先程までの不安はその力強い手によってかき消される。どんな事があってもこの手があれば大丈夫だとツグナは確信し、強く握り返した。
奥へ進んでいくと、階段のついた高所から見下ろしてくる人物と目が合う。早くも両側に女性を連れているその人物は、アッシュグレーの髪をひとつに束ね、感情のない垂れた青眼のまま口角を釣りあげた。
ああ、ここからが本番か。ツグナは眼前のラヴァル卿を見据えて、一人思った。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる