SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 プロローグ

03 ありふれた時間

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「よし。そうと決まれば早速食事にしよう。何か食べたいものはあるか?」
 その言葉にツグナは首を傾げる。食べたいもの? ただ無言で固まるツグナに「特にないなら、簡単な食事を持ってくる」とシアンが出ていった。また一人になり、静かになる。少しだけ安心した。部屋が明るい。湿っぽくない。目に止まる全てがなんだか珍しくて、改めて辺りをキョロキョロと見回した。
 窓の傍に小鳥が止まる。それを見てゆっくり近づくと、小鳥は何度か首を傾げる動作をしてからそのまま羽ばたいていった。外に広がる上部が青い。ふわふわと白いものが浮いている。乗っかったらさっき寝ていたやつみたいに気持ちいいのかな。窓の外を見ながらそんな事を思う。
「待たせたな。今朝の残り物だが……」
 戻ってきたシアンは、窓の外を見つめるツグナの背中に思わず口を止める。こういった光景を見るのも初めてなのだろうかと、扉を閉め「いい景色だろ?」と背後から声をかけた。
「その椅子に座れ。飯の時間だ」
 その声に対してただ見つめるツグナに、シアンは浮かべていた笑顔が次第にぎこちなくなり「……ここに座るんだ」と椅子を引いた。ツグナの肩を抱き、無理矢理下に押して座らせる。言葉が通じると思っていたのだが、どうにも伝わっている気がしない。いずれどの程度の知識があるか確認する必要がありそうだ。
 反対側の椅子に座り、シアンは持ってきたスープとパンをツグナの前に並べる。嗅いだこともないような食欲のそそるいい匂いに再び腹がなったが、いつまで経っても手につけようとしない。
「……食べろと言ってるんだが」
 シアンにそう言われ、ツグナは左右に頭を揺らしながら皿を確認し、そのまま何も使わずにスープに口をつけようとした。思わずシアンが皿を自分に引き寄せ、阻止する。
「おい。なんて下品な食べ方をするつもりだ。そこにスプーンがあるだろ? これを使ってだな……」
「ご、ごめんなさい」
「はいはい。またごめんなさい、ね」
 あまりの連呼具合にイライラしてきたが、シアンは振り払うように笑みを浮かべ「口を開けろ」とスプーンを持った。取り敢えずといった様子でツグナが口を開ける。舌の奥と前の色が若干違っていて、中央に境界線ができている。気になりはしたが特に何も聞かず、スープを掬った。
「そして、見て覚えるんだ。これで掬って、口に運ぶ。食べる時は道具を使え」
 ゆっくりとスプーンに乗せたスープを口の中に流し込む。口端から垂らしながら、ツグナはゆっくりとそれを飲みこんだ。温かい。どうだ? と聞いてくるシアンにまたも首を傾げる。
「あったかい」
「……そうだな」
 待っていた答えが来ず、シアンは嘆息したが、まあ気長に覚えさせていくかと、その後も繰り返しスープをツグナの口の中に流し込んだ。
「そのパンも食べろ。その代わり、ちゃんと手を使えよ?」
 シアンと一緒になって茶色の長細い物体を見下ろす。見たことがある。固くて口の中がカサカサするやつだ。ツグナは少し指先で触ったが、柔らかく沈んだそれに首を傾げながら手に持つと、口に含んだ。どうだ? と懲りずにシアンが聞くが、ツグナはただ「あれみたい」とベッドを指さして答えるだけだった。
 その後、少し気になってデザートに酸味の強いリモネを持ってきたところ、何も反応を示さず、シアンは少年の味覚が機能していないのだと悟る。食べ方や、食べ物に対して不思議がっていることを見ても、あまり人間らしい食事をさせて貰えなかったのだろう。なんでも口にできるよう、身体が劣悪な環境に適応して味覚を失くした可能性もあった。
 体の怪我は殆ど治ったとはいえ、その他人間的生活は以前と変わらぬまま。少しずつ問題を知って解決していく必要がありそうだと、シアンは嘆息した。

 屋敷で目覚めてから初めての夜を迎えた。固い地面から肌を優しく包み込むふわふわのベッドになっても、ツグナの眠りが浅いのに変わりはない。瞼の裏に薄らと周囲の景色が映り込み、雨が降れば雨粒が屋根を打ち付ける音や、風がびゅうびゅうと木々を揺らす音までしっかりと聞こえてくる。それらに睡眠時間のほとんどが費やされ、気がつけば眠りに落ちているというのが、少年の眠りにつくまでの経緯だ。そこまではいい。問題は眠りについた後である。
 睡眠において最も脅威なのは、心に焼きついた実験施設での記憶を夢に見ることだった。通常、人間の睡眠には眼球運動が行われるレム睡眠と脳が休息をとるノンレム睡眠という二つの睡眠状態に分けられる。この二つが一晩中交互に繰り返されるものが正常な睡眠と呼ばれるものだが、睡眠障害であるツグナにはレム睡眠の時間の方が圧倒的に多かった。かつての潜在的な記憶を継ぎ接ぎに統合し、扁桃体と海馬に焼きつけるように記憶の定着が起こなわれる。あまりにも生々しく、リアルでおぞましい夢を作り出していく────その日も同様だった。
 仄暗い広場のような開けた場所に、数名の老若男女が集められている。見覚えがあった。確か実験施設の地下にある、実践場のような場所だったはず。手には外されたはずの桎梏がつけられていた。それだけでも逃げ出したくなったが、眼前には白衣を来た研究員が立っている。向き合っているのに顔が見れなかった。ぼやけて、渦をまいているのが気色悪い。怖気たように後退すると、研究員は僕達を目に捉え「君たちは兵器だ」と平坦な声で告げた。
「我々が君たちを生み出した主人だ。この中で最後に生き残った一人は、特別にいいものを食べさせてやろう」
 何を言っているかは分からない。少なからず、まともではない言葉だというのは分かった。
   ピチャリ。後退した足が生暖かい水溜まりに浸かる。思わず振り返るとそこは地獄だった────足に浸かった水溜まりは真っ赤に染め上げられ、そこに転がるようにして横たわっていたのは目を見開かせた人の頭部だ。首からしたが切断され、血の池にプカプカと髪の毛が浮いている。見たくもないのに、こちらを見つめる白濁の瞳と目が合う。気持ちが悪いと顔を引き攣らせ、血の池から離れると、次に目に映ったのはガタイのいい男に頭を鷲掴みにされる少女の姿だった。
 男は奇妙な笑い声をあげながら少女の顔面を地面へと叩きつける。一回目で痛みに泣きじゃくり、三回目で声は失われ、五回目で少女は地面に顔をつけたまま動かなくなった。まだ足りないと言わんばかりに男はぎょろついた瞳で周囲を見回す。狙いを定めたその瞳の向こうに映ったのは、少女が殺された光景を見て動けなくなっているツグナだった。少女の次にか弱いことを踏んだのだろう。
 男はへっへっ、と犬のように笑ってからこちらに向かって走り出した。けれどもツグナの足は動かない。死ぬのか? 殺されるのか? さっきの子のように────背筋を恐怖が逆撫で、全身が粟立った。恐怖で足が竦み上がり動けない。自分に伸ばされた男の針金のような剛毛な腕に、ツグナは目を逸らすようにして顔の前で腕を構えた。途端に破裂したように男の体が弾け飛んで、生暖かい赤を全身に浴びる。何が起きたんだ? 
 手についた男の体液にツグナが戸惑っていると、それを合図に残っている人間達が一斉にツグナの方を向いた。どいつもツグナを見つめて、じわりじわりと歩みを進める。ツグナは蒼白した顔面で周囲を見回しながら、近づいてくる人間達から後退した。けれども囲まれて、ついには逃げ場がなくなってしまう。足がよろけてその場で尻をつくと同時に、囲んだ人間達は一斉にツグナに飛びかかってきた。
 けれど身構えるより早く、眼前の人間は男同様に赤を噴き出して倒れる。何が起こっているかは分からない。目の前に転がっている人間の亡骸に見覚えがあった気がしたが、思い出せない。その場で固まっていると、背後から拍手喝采が湧き上がる。
「君は生かされているんだよ」
 振り返った目先の研究員はすぐ後ろに立っていて、甲高い笑い声をあげながら頭から溶けだし、ツグナを飲み込んでいった。
「う゛ああああああ!!」
 耳が張り裂けそうな絶叫が響いている。甲高い声が苦痛と恐怖にガサガサになって掠れていた。うるさい。一体誰がこんな声を出しているんだ。
「おい、しっかりしろ!」
 劈く悲鳴を遮るように切迫した声が聞こえた。肩を前後に揺さぶらせ、眼前に広がった青い瞳に悲鳴は止まる。その瞬間、その悲鳴の発生源が自分である事を理解した。意志に反して溢れ出す悲鳴を抑えようと意識を集中させる。声が弱くなっていき、次第に悲鳴は啜り泣く声に変わっていった。どのくらい泣いていたのかは分からない。喉が熱を孕んで、息を吸う度にヒリヒリする。
「落ち着いたかい? とりあえず、これを飲め」
 差し出された水の入ったコップに、ツグナはゆっくりと手を伸ばす。伸ばした腕からは引っかき傷のような血が滲み出していて、ツグナは思わず手を引いた。体の震えが止まらない。
「何か悪い夢でも見たのか?」
 それを聞いてツグナは肩を上下に大きく震わせた。そうだ、さっきのは夢だったのか。確かにいつもに比べれば、少し現実味がなかったかもしれない。シアンの落ち着いた声に胸を鷲掴みにしながらホッと安堵の息を漏らすと、ツグナは小さく首肯した。
「そうか。あまり夢見はいい方ではないんだな」
 散乱している部屋を見てシアンが呟いた。ツグナは腕にできた傷を抑えながら、一向にこちらを見ようとしない。物の多い場所で寝かせるのは色んな意味で危険だな。明日にでも少しずつ物を別の部屋に移していくかとシアンは考えた。
「そうだ。今みたいに恐怖に駆られたらこれを飲むといい。ゆっくり休める」
 そう言ってシアンは胸ポケットから小瓶を取り出すと、ツグナに差し出した。ツグナは反射的に差し出された手を払ってしまい、小瓶は床の上に転がる。しまった。ついと、ツグナは青ざめた。
「俺が怖いか?」
「ご、ごめ、ごめんなさ……違う……ごめん、ごめんなさい」
「だから謝るな。別に怒っているわけじゃない」
 怯えるツグナにシアンは地面に落ちた小瓶を拾い上げると、ベッドサイドチェストの上に置きながら「この薬は精神を落ち着かせる効果がある。過剰摂取にだけ気をつければ、苦痛を和らげるのに最適だ」と付け加えた。薬の小瓶を見て、ツグナは眉を下げる。自分をこんな体にしたのは、あのわけのわからない薬と注射のせいなのだ。そう考えると、よくわかりもしない薬を体内に入れるのは怖かった。
「それ、きら、嫌い……」
「なに子供のようなことを言っているんだ。いいか、これでは他の人間にも迷惑がかかる。ここで生きていきたいなら……」
「いき、生きるってなんだ? だ、誰に生かされている? に、人間なのか?」
「……ツグナ?」
「ぼ、ぼ僕は生かされていた? し、死んだ人……ぼく、僕一人だけが生きていて良かったのか? みら、見られてる、ずっと―――ひ、ひ人が、もえ、燃えて……でも僕はにげ、逃げて……い、生きて」
「ツグナ」
 穏やかだが、何処か威圧の感じられる低い声音にツグナはハッと意識を引き戻される。
「君がここに来て涙を流したのは何故だ? 生きているのに安心したからだろう? それは君が生きたいと思えている何よりの証拠だ。くだらないことを考えている暇があるなら、生きて抗え。それが残された者が唯一出来ることだ」
 目の前でビクビクと怯える少年をシアンは一度無言で見つめてから「ほら、ベッドに戻れ」と頭を撫でた。なかなか起き上がろうとしない。世話のかかるガキだと、その場から少年を抱き抱え、ベッドの方に歩き出した。突然の事に少年は驚いて暴れたが「大人しくしろ」と強めの口調で言われ、体を硬直し、ベッドに下ろされるまで大人しくする。言葉は理解しているようだなと、シアンは挙動不審の少年を見下ろした。
 味覚障害、睡眠障害、錯乱、自傷行為、吃音症などなど。探せばまだ出てきそうだ。典型的なまでに心的ストレスの症状。治療までの道のりは長いなと、シアンは「さっさと寝ろ」とツグナを無理矢理ベッドに押し倒した。
「で、でも……寝たらまた……こわ、怖い……」
「じゃあ、君が寝るまで側にいてやる。今日はあらかた仕事も片付いたしな」
 そう言ってツグナが横になるベッドに座った。毛布をかけ直し「これでいいだろ」と見つめる。はっきり言って面倒だ。昔の自分もこんなに面倒に思われていたのだろうかと、足を組みながら考える。
『頼むよエリナ! 今日も僕と一緒に寝て! 僕を一人にしないで! 僕を……置いていかないで……』
 自身の足元を見ながら、そんな過去のことを思い出す。落ち着かせるように少年の柔らかな白髪を撫でて、静寂の中一人、懐かしい日々に浸った。しばらくしてすぅすぅと寝息が聞こえることに気づき、撫でていた手の方を見つめる。
「おい。いくらなんでも早すぎるだろ」
 背中を丸め、腕を抱え込むようにして寝るその姿はまるで一匹の野良猫のよう。いや、こうして寝る時に暖を取っていたに違いない。ただその表情は先程とは違って安堵を浮かべている。自分の手のひらを抱え込むようにして寝る姿に、ヨダレがつくと腕を引いたが、なかなか離してくれそうになかった。
「……あと少しだからな」
 本日何回目かの溜息をつき、その寝顔に眉を下げながらシアンは天井を見上げた。



 この部屋に来てから、時の流れがやたら遅い。時間が悪夢に飲み込まれて、深淵の闇を永遠と停滞している。雨の日も、気怠い午後も、正気と狂気を行ったり来たりしている。ありふれた時間なんてものはない。一人でいると実験施設での記憶ばかりが蘇って怖くなる。その時は、あれ程嫌っていたベッドサイドチェストに置かれた薬に頼って狂気を落ち着かせてからツグナは目を瞑った。
 シアンは日に二度、食事を持ってこの部屋に来ては、体調を伺ったり、自分の身の回りの事について語ったりなどして、とにかくツグナに声をかけ続けた。心理療法は薬に頼らず、こうして話し合うことが一番大切だと言う。初めはただシアンの唇の動きに集中して何も聞いていなかったが、最近では悪夢を紛らわせようと話を飲み込むようにしている。ツグナが殆ど話さないので毎回シアンの独り言のようになっているが、毎日懲りずに部屋に訪れるシアンに少しずつツグナは心を許すようになっていった。
「美味いか?」
「うん。美味しい」
   ある日の昼食時だ。美味しそうに飾り付けられた皿上の子羊肉を、ツグナはフォークで突き刺し、頬張るように口に含む。最低限道具を使うようになったが、勢い強くて汁が飛ぶし、ナイフを全く使おうとしない。近々食事のマナーも教えなくてはとシアンは考えながら「それは良かった」とその様子を眺めた。
   あれから食事の大切さを教えようと、色んなものを食べさせてきた。その度に必ず「おいしい」と言う言葉を口に出させ、刷り込むように心がけた。人の脳は案外騙しやすい。言葉と脳の連携により、快楽中枢の刺激にでもなれば、味覚を取り戻せるのではないのかとシアンは考えたのだ。
   とはいえ、そう簡単にいく訳でもない。結果、味覚障害でなんの反応も示さなかった彼が唯一味覚を認知したのが林檎だった。全く関係のないところで認識されたのは少し腹立たしくあるが、それ以来その刷り込みが効いてなのか、少しずつ味覚を取り戻している。
「お前は食べないの?」
「心配しなくても、俺はもう済ませてるよ」
「ふうん」
「そんなに急いで食べるな、はしたない。ちゃんと味わって食べろ」
 味わう? と首を傾げるツグナに「美味しいと感じて食べることだ」とシアンが鼻を鳴らした。分からずツグナは美味しい美味しいとひと口ごとに繰り返して食べる。
「そうじゃなくて……一応美味しいってのは味の良さを表現した言葉ではあるんだが……まあ、いい」
「お腹いっぱい食えば同じ」
「全然違う。食事はただ腹を満たすだけではなく、人間の楽しみの一つでもあるんだ。まあ、君は今まで肉なんて高価なものを食べたことがないだろし、分からないだろうけどね」
   少し意地悪に言って、シアンがツグナの反応を伺う。しかし、ツグナにはシアンの皮肉が効かなかったようで「肉なら食べたこと、ある」と肉を頬張り、数回噛んでから飲み込んだ。
「へえ、意外に太っ腹だったんだな。肉なんて、なかなか食えるものじゃないぞ」
「……でも腹壊すから嫌い。それに、見た目もぐちゃぐちゃしてた」
「おいおい……まさかそれって生じゃないだろうな」
   脳裏に浮かんだ想定にシアンは若干引いていると、ツグナは最後の肉を惜しむかのように頬の両側の粘膜に擦り付けた。舌を器用に動かし、唾液を混ぜ合わせながらゆっくりと飲み込んでいく。
「ふう……ご馳走様でした」
「ああ、気に入ってくれたみたいで何よりだよ」
   そう言ってテーブルの皿を木製のワゴンに乗せると、シアンは切り替えたように丸めていた羊皮紙を手に取って手際よくテーブルに広げる。ツグナは眼前に広げられた羊皮紙に、首を傾げてシアンを見つめた。
「なにするの?」
「ああ。今日はこの後少し時間があるんだ。だから、君に文字を教えようと思ってね。君、言葉は話せるようだが、文字の読み書きはできないだろ?」
「うん」
 そう言えば以前新聞を持ち込まれた時にそのような事を認識されていた。文字を書くにも読むにも、今まで必要なかったからな。ツグナは生まれて初めて目にする紙を見て思う。
「まずは……折角だし、自分の名前を書けるようにしようか」
 そう言って、シアンはインクを机に置いてから羽根ペンで丁寧に書き込んでいく。紙には見本となるような分かりやすい大きさと間合いで『Tsuguna Crisis』と書かれてあった。
「これが君の名前。これを真似て書いてみろ」
 シアンに持たされた羽根ペンを受け取りながら、ツグナはじっと自分の名前の文字列と向き合う。自分の名前を書くだなんて、夢にも思わなかった。ツグナは一度困ったようにシアンを見つめるが、シアンは「ほら早く」と言って笑みを浮かべている。その言葉に促され、ツグナは羽根ペンの先を紙の上に置いた。
「あまり力むと書けないぞ」
 慎重に手本の字を見ながらペン先をスライドさせていくツグナにシアンは度々声をかける。そうして数十分かけて手本の隣に歪な文字列が出来上がった。大きさもバラバラだがしっかりとツグナ・クライシスと名前が書かれている。
「へえ、初めてにしては上出来じゃないか?」
 シアンは書かれた名前に感心していると、褒められた事が嬉しかったのか、ツグナは少しだけ顔を明るめた。相変わらず単純だなとシアンは内心で思いつつ、次々と文字を書き込んではツグナに真似て書くように命じる。これを何回か繰り返しているうちに、シアンは何冊か本を持ってきて文字の読み方も教えた。
 薬の効果もあってか、集中力もシアンの話に向いたので、悪夢に捕らわれることはなく、ありふれた時間というものを初めて実感したツグナの感情は少しずつ本来の色を取り戻していった。
「なあ、本当に切るのか?」
 椅子に座らせられたツグナが心配そうにこちらを見つめる。その白髪は元から長いこともあって、さすがに三ヶ月近くなると腰の辺りまでの長さになっていた。
「当然だ。邪魔だろ? それに男で長いのは女みたいだと世間からは言われるんだ」
「なんで駄目なんだ……?」
「女と言うだけで舐められるって世間からの認識だよ。いいから黙れ。頭を切られたいのか」
 脅しのようなシアンの一言にうっ、と言葉がつまり、ツグナは黙って前を向く。少し鼻歌を混じえるシアンに「なんでそんなに楽しそうなんだ?」と前を向いたまま問いかけた。
「別に。やっと邪魔くさい君の髪がなくなるからな。振り返られる度にイライラすることがなくなる」
「ふうん」
 何かを考え込むようにして俯く。まだまだだなと、シアンは笑みを浮かべてから「それと」と白髪を撫でた。
「少し、懐かしいんだ」
 ジョキン。その呟きはハサミの音にかき消された。
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