SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 二章 教会編

17 ルミネア

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 昼間の神聖な静けさとは違って、夜の礼拝堂は底知れない不気味な空気を漂わせている。今夜は月が出ているのだろう。月光を通したステンドグラスの極彩色によって祭壇は彩られ、その前では跪いたドミニクがツグナの持っていたロザリオを掲げていた。隣には、口を僅かに歪ませて微笑むシスターリトアの姿もある。
 ミシェルも言っていたが、あんな事をしても尚、神と向き合えるなんて聖職者として失格なのではないのかと、物陰からその様子を見ていたツグナは思った。というか、あいつ、僕のロザリオをどうする気だろう。
「あれがシスターの言っていた典礼みたいだな」
「ああ。でもここからじゃ、二人の会話がよく聞こえない」
「こんな夜更けに二人きりで典礼なんて、聞いたことがないわ」
 三人は揃って物陰から様子を見ていると、ステンドグラスから入り込む月光がより一層輝きを強め、徐々に白い人影へと形成されていった。全体的に白いその容姿はツグナがここに来たばかりの時に出会ったものと同じものだ。その背中からは白銀の翼を生やし、裸足は地に着くこともなく、ふわふわと浮遊している。
「ごきげんよう。ドミニク神父」
「ああ、お逢い出来て光栄です。ルミネア様」
 ドミニクの一言に身を潜めていた三人は目を見開いて、声も出さずに体を硬直させた。聞き間違いか? と非現実的な事実を受け入れられずに何度も確かめるように瞬きを繰り返す。けれど、宙を浮いている人影を説明する理由も見つからない。やはり、あれが本当にルミネア様だったのかとツグナが再確認するように祭壇前を見つめた。
「あの方が、ルミネア様……」
 生まれて初めてその容姿を目にしたレイは、感動とは程遠い恐怖に震えた声で呟いた。教会の教えの下で育ってきたとはいえ、神の存在は非現実的なものに近い。それほど遠い距離にあるからこそ信仰が成り立つわけであり、実際目にするとなると感動どころではないのだろう。ミシェルに至っては信じられないと言わんばかりに目を見開いて、先程から瞬きを繰り返すだけだった。
「あら? 今日は可愛らしい子羊達も連れてきているのね」
 ルミネア様と呼ばれる存在は少し顔を上げて、明らかにツグナ達のいる方向を見つめながら言った。その声は透き通るような神聖さがあって、礼拝堂の隅々までハッキリと聞こえてくる。ドミニクはルミネアの視線の先を見つめてから「誰かいるのか?」と威嚇するように腹の底から轟く声で言った。
 見つかったか。三人は物陰に隠れながら冷や汗を垂らしていると、先程から何かを考え込んでいるようだったレイが「思い出した」と呟いた。
「こんな時になによ。ドミニク神父の弱味でも思いついたわけ?」
「違くて……えっと。さっきツグナが十歳の時にドミニク神父の周りで何かあったか? って聞いてきただろ?」
「あ、ああ。そういえば言ってたな、そんな事」
 正直レイに言われるまで自分が言ったことすら忘れていたのだったが。ツグナは曖昧な記憶を思い浮かべながら、レイの話に耳を傾けた。
「……多分、だけど。確か豹変した辺りの時期だったんだ。ドミニク神父がルミネア様が見えるようになったって言い始めたのは。うん。確かにそうだ、間違いない。だからドミニク神父は本物の神の代理人として選ばれたのだと大喜びして……」
 レイの言葉にツグナが眉を顰めると、先程よりもハッキリとした声質で「そこにいるのは分かっている。出てきなさい」と催促するようにドミニクの声が響き渡った。一度は戸惑い、物陰の向こうで渋っていたが、ツグナとレイは覚悟を決めて会衆席へと歩み出る。あれが神だったら隠れていても無駄かと、ミシェルも慌てて後から姿を現した。
「おや、なぜこの三人が此処へ? 先程シスターから閉じ込めたと報告を聞いたのだが」
「ええ。確かに鍵をかけたはずですが」
 素っ気なく答えるリトアを横目に、ドミニクは片手に持っていた神書を閉じた。その音に、レイは下唇を噛み締めながら一歩後退する。ツグナは怯えたレイを庇うように自分の後ろへと押し込み、前へと踏み出した。
「おい! よくも閉じこめてくれたな、イカレ神父! レイから話は全部聞いたぞ! 僕のロザリオを返せ!」
「おや。昼間とは違って随分強気だね、ツグナ君」
「当たり前だろ! 本性を知って、いつまでも大人しくしていられるか!」
 ツグナは冷静でいる神父に威嚇しようと、その場で床を思いっきり踏んだ。ダンッと大きな音が響いたが、ドミニクは全く動じずに「とはいえ」とツグナの背後に隠れるレイを見つめる。
「言ってしまったのかね、レイ。まあ、今更問題ではない。いずれツグナ君もレイと同じように快楽に平伏すようになるのだからね」
 まるでお前のせいだとでも言いたげな口調に、レイの鼓動は警鐘のように早く鳴り響き、全身に震えが広がった。ドミニクに見つめられ、そこから目を離せないまま動悸が激しくなる。
「それに、まさか新人のシェリー君も裏切るなんて、実に残念だよ」
「閉じ込めておいてよくそんな事が言えるわねぇ、神父様?」
 ミシェルは眉をひそめて口角を引き攣らせた。秘密が知られたところで余裕を突き通すか。ドミニクの表情は薄らと口角を吊り上げたままで、動揺の一つも見せやしない。眼前にいるのが子供と女という事もあってだろう。そこには来たばかりの時に手を差し伸べてくれたドミニクの姿はどこにもいなかった。ツグナはドミニクの余裕に腹立たしさが募りながらも、この状況は利用できると更に前へと身を乗り出す。
「そうだ! お前の行動をルミネア様が許すわけない! レイへの屈辱を今ここで懺悔しろ! もう二度と繰り返さないと誓うんだ!」
 信徒にとって神の教えは絶対。なら、自分たちが説得するよりもルミネア様から言ってもらえた方が確実的だろう。我ながらいい案だと声を張り上げたが、眼前のドミニクは先程と変わらず余裕の笑みで立っている。
「はて。一体何を言っているのだね。あの行為は十戒にも触れていない。なにより、ルミネア様が許して下さっているのだぞ」
 ドミニクが両手を広げ声を張り上げている後ろで「ええ、その通り」とルミネアが静かに答えた。
「はあ!? そんなわけないだろう! だってあいつはレイを……!」
「神の代理人である神父様のすべきことに間違いなんてありませんわ。神父様はいついかなる時でも私たちを導いてくださるお方。神父様はなんの罪も犯しておりません」
 目の前に立ちはだかる三人の言葉にツグナは先程のレイとの会話を思い出した。あんな屈辱をレイは何年も我慢してきたのに。ずっと苦しみながら一人で戦ってきたのに、神は奴を庇うのか。なんて、裏切られた気分だろう。レイはずっとドミニク神父のことも、ルミネア様のことも信じていたのに。噛み締めた口の中から溢れる唾液は、まるで悔しさと怒りを象徴しているかのようだ。背後から「イカれてる」とミシェルの呟きが聞こえてくる。
 怒りによって奥歯をかみ締めていたツグナは耐えられなくなって、 首からさげていたロザリオを引きちぎるように乱暴に外すと、床に投げ捨てた。そこから追い打ちをかけるように足を振り下げる。勢い余ってロザリオは衝撃と共に床に陥没し、真っ二つに割れた。その様子を見てツグナ以外の全員は目を見開く。
「お前の目は節穴なんだな。神に祈れば幸福になれるか? 人の死は止められるか? 戦争や貧困はなくなるのか? 神は人間に利益を与える義務はないし、人の都合のいい道具でもない! それでも神に祈るのは、そこにいるだけで心が救われるからだよ! 心の弱い人間にとっては唯一変わることのない平等な光だからだよ! なのに、お前らはそうやって信じていた者を突き放そうとするのか! 裏切るのか!」
 ツグナは涙目になりながら怒鳴り散らす。握りしめた拳は小刻みに震え、歯を食いしばり、その隙間から漏れだした吐息が唸り声とよく似ていた。
「信じた者の光にならない神なんていらない! 神が裁かないなら、僕が裁く!」
 眼前のドミニク、シスターリトア、ルミネアの三人を睨みつけながら、ツグナは一歩前に足を踏み出す。その怒りに燃える赤い瞳にルミネアは背筋が竦み上がった。目の前にいるのは間違いなくただの子供のはずなのに。空気をビリビリと通して伝わってくる彼の気迫に、ルミネアは顔を歪めてたじろいだ。
「ドミニク神父! これは立派な冒涜行為だわ! 彼を止めなさい!」
「ルモアリーベ」
 ツグナはドミニク神父に向かって走り出すと、足の関節めがけて横に蹴りを放った。足を狙えばバランスを崩すだけで、致命傷を負わせることなく動きが止められる。しかし、その蹴りはドミニク神父の足に到達することもなく、斧の柄によって受けとめられた。ツグナは目を見開いて地上に足をつけると、その巨大な斧を手に持つ人物を見上げる。
「神に歯向かうとは、愚かな子」
 すぐさま切り上げるように操られた斧の動きに、ツグナはよろけるように後退しながら、リトアを睨みつけた。いつの間に斧を……それよりもあの細い腕のどこに巨大な斧を操る力があるのだろう。自分で言うと説得力に欠けるが、大斧を軽々と操るリトアに、普通ではないとツグナは警戒を強めた。
「彼は私がお相手いたしますわ。神父様は残りの二人を」
「殺すなよ」
「ええ。
 笑顔で短く返すと、リトアは再び斧を振り上げた。その間、ドミニクは先程のツグナに圧倒して動けなくなっているミシェルとレイに向かって歩きだし、胸ポケットに手を入れる。それを見たミシェルはハッとし、隣にいたレイの肩を掴むと、近くの信徒席(Pew)の間へと倒れるようにして逃げ込んだ。
 隠れると同時に後ろからドンドンと銃声が聞こえてくる。レイは何があったか理解出来ずに先程までいた場所を覗いてみると、そこには数弾撃ち込まれた跡があって、床にいくつもの穴を開けていた。思わずひい、と小さく悲鳴をあげる。
「おや、かくれんぼかね?」
 ドミニクはひっひっひっと引き笑いを短く切ったような声を上げる。目の前で逃げたのだから居場所は分かっているくせに。ドミニクの言葉を皮肉に思いながらも、ミシェルは震えるレイの隣で顔を歪めさせた。
 あの距離でわざわざ足元を狙ってきたのは、殺そうとしていない証拠だ。恐らく、あちらの目的はあくまでこちらを捕虜する事だろう。こちらの居場所がバレている上に、信徒席の間に隠れたとなれば捕まるのも時間の問題だ。
 ドミニクは遊んでいるのか「どこにいるかなあ?」と間延びした言葉を呟きながらゆっくりと歩き出し、ミシェル達が隠れている信徒席に銃弾を撃ち込む。その度に隣にいるレイは涙を浮かべながら体を縮こませた。
「ふふふっ、愉快愉快。まさかこんなに面白いものが見れるとは」
 ルミネアは空中でツグナ達の危機を楽しそうに俯瞰する。ツグナがリトアの斧を避ける度に「ほらほらちゃんと逃げないと首が飛んじゃうわよー」とからかうように声をかけるが、それに反応するほどの余裕がツグナにはなかった。斧を掠めた頬からは、涙と似た生暖かい感触のものが伝っていく。
「ミシェル! レイを連れて早く逃げろ!」
 ツグナはリトアの斧を躱しながら、その場で二人に伝わるように怒号に似た大きな声を上げる。
「無駄ですよ」
 言葉の終わりと同時に、リトアは斧を避けたツグナの足を払った。ツグナはバランスを崩し、その場で尻をつくと、容赦なく振りかざされた斧を両手で受け止める。体勢が悪いせいで先程よりも力が出ず、徐々に自分の方へと押されていくのを感じながら、リトアを睨みつけた。
「か弱い者達に何ができると言うのです? 人のことを気にしていないで、貴方も早く降参しないと、その体がどうなっても知りませんよ」
「……っく」
 これではドミニクを止めに行くことさえできない。なんとかしてこの状況を打開しなければと、ツグナは押し返すように力を入れた。二つの力は同等で、斧は震えながら二人の間を留まる。なんて力だ。人よりもずば抜けていると思っていたのに。余裕を崩された恐怖で、つぅと背筋に冷や汗が垂れていくのを感じた。
「誰が、か弱い者よ」
 そんな二人の会話は当然ながらミシェルの耳にも入ってきた。女子供と言うだけで舐められたものだと、気に食わなさそうに呟く。とはいえ、正直居場所がバレている以上、物陰に隠れているこちらの方が圧倒的に不利だ。ドミニクの足音も先程よりも近づいてきている。状況は時間を重ねるごとに悪化していくばかりだ。ここまで追い詰められたんじゃ、戦うしかない。
 ミシェルはそう考えて思わず口角を吊り上げた。瞳孔が開き、鼓動が跳ね上がるのを感じる。それは緊張からくるものではなく、状況を楽しんでいる自分がいたためにだ。
「ミシェルさん……大丈夫ですか?」
 状況に不釣り合いなミシェルの表情を気にして、レイは思わず声をかける。その声は微かに震えていて、とても人を気にかけるような表情ではないとミシェルは思った。自分が一番不安で怖いくせに。本当にどこまでも家族思いで、お人好しな奴。そういうところは二人揃って兄弟みたいによく似ていた。
「ガキに気を使われるほどじゃないわよ」
 レイの頭を撫で、太腿につけていたレッグホルスターから一挺の拳銃を取り出した。違うちがう。私はあの戦闘狂と一緒なんかじゃないと、拳銃を胸の前で構え、目を瞑る。
 不利な状況とはいえ、拳銃を手にすると心強いものを感じた。先程までの不安や興奮が波を引いていき、冷静に頭の中を処理する。今やるべきことはそう。あの神父の手から拳銃を離す。それだけに集中しろ。ミシェルが再び目を開けた時、その表情は、先程のものより険しく、覚悟を決めた兵士の顔つきをしていた。
「さあ、そろそろチェックメイトの時間よ」
 ツグナ達を俯瞰していたルミネアは、問いかけるようにして言った。
「もう、あなた達に勝ち目なんてないわ。勇気を振り絞って立ち向かってきたのに、残念だったわね。無力な人間の抵抗ほど無駄なものはないわ。あなた達に明るい未来はない」
 判決を下すかのようなその言葉にツグナは「うるせえ!」と声を荒らげた。リトアが振り下ろす斧の力に両手で耐えながら声を振り絞る。
「今日明日自分が死ぬだとか、未来がないだとか、そんなのは神が決めることじゃない! 例えそれが決められた運命でも、そんなのは自分の手でいくらでも変えてやる!」
 自分で口にして不思議だった。少し前の自分からはとても想像もできなかっただろう。
 以前は、他人によって自分の生死を定められる環境にいた。使えないと判断されたらその場で殺され、少しでも利用できると思われたら、死にたくても無理やり生かされた。時にはレイのように研究員の性欲に当てられたこともある。だからずっと分からなかった。自分の価値は自分で決めるなんてシアンの言葉も、自分が幸せを求めることも。
 ツグナはリトアを睨み続けながらゆっくりと斧を押し出した。どこにそんな力がとリトアが驚いていると、ツグナが両手で受け止めている斧の刃から奇妙な音が聞こえてくる。ピキピキと根を張るように広がるその音に、リトアから初めて笑みが消えた。
「未来がどうなるかは自分で決める! 僕らの運命を、お前が決めるな!」
 凄まじい気迫と共に、ツグナの両手で押さえていた大斧の刃が粉々に砕け散った。刃だったものが床に散乱し、リトアは殆ど柄だけになったものを手にその場で固まる。大きな音にドミニクとルミネアは声を失い、その光景を呆然と眺めた。勿論それをミシェルが見逃すわけがない。
「よくやった。少し見直したわよ、ツグナ」
 ミシェルはそう呟くと、ドミニクに向かって銃弾を二発撃ち込んだ。一つは右足へ、もう一つの銃弾はドミニクの手の甲を正確に貫くと、悲痛な悲鳴と共に衝撃で宙を舞った拳銃は離れたところへと落ちる。ドミニクは手足の痛みに震えながらその場で蹲っていると、暫く痛みに悶えてからハッとなって床に落ちた銃を拾おうと手を伸ばした。
 しかし、いつの間にか目の前に来ていたミシェルがそれを許すこともなく、足で銃を踏みつけると、後ろへと蹴り飛ばす。拳銃は長椅子の角にあたり、隙間へと入り込んで見えなくなった。
「神父様!!」
 リトアが声を上げると、先程粉々に破壊された斧の破片が目の前に突きつけられた。思わず顎を引いて目の前の人物を見つめる。
「ほらな。未来なんていくらでも変えられるだろ」
 ツグナはリトアに破片を突きつけたまま、俯瞰していたルミネアを見上げて言った。その自分と瓜二つな赤い瞳にルミネアは唇をかみ締めて、顔を歪ませる。
「さあて、神父様? まだ抵抗する気はあるかしら?」
 ミシェルは床に蹲るドミニクを見下ろして、蔑むような冷笑を浮かべる。ドミニクは銃弾を撃ち込まれた手を抑えながら、地面に顔を押しつけて動こうとしない。蹴ってやろうかとミシェルが見下ろしていると、レイもドミニクの元へ駆け寄ってきた。
「神父様……」
 レイはその姿を見下ろして、ただそう口にする。その瞳は憐れみや悲しみなどの感情が渦巻いていているようにも思えた。暫くどうする事も出来ずに場が停滞していと「何があったんだい?」と慌てたような声が聞こえてくる。声のする方を見ると、そこには眼前の光景に唖然と口を開いているコナーの姿があった。
「えっ、これはどういう……人が浮かんで……シスター! ドミニク神父! 一体何が起こって……」
 コナーは頭の追いつかない状況に、その場であたふたと立ち尽くしていた。そう言えばこの人、この時間も普通に寝ていたって事は、レイのことも知らないのでは? ツグナは遠くでそんな三人を見つめながらも、コナーの登場によって肩の緊張が解ける。
「ふふふふっ、あははははは!」
 耐えようと固く閉ざしていた唇の隙間から漏れ出すように、ルミネアの笑い声が響いた。ツグナは再び緊張で体を強ばらせて、ルミネアを睨みつける。ふと、視界に入ったリトアの体から黒いモヤが漏れだし、時空が曲がったかのようにぐねぐねと歪んでいることに気がついた。そのモヤはルミネアに吸い込まれているように見える。
「こんなに笑ったのは何百年ぶりかしら。いや、生まれて初めてかも」
 ルミネアはそう言ってゆっくりと地上に降りてくる。何をする気だ? とその様子を見ていると、先程まで顔を床につけて動こうとしなかったドミニクが右足を引きずりながらルミネアのいる祭壇へと向かっているのが見えた。
 いつの間にそんな所へと驚いたミシェルは、余計なことをされたら困るともう片方の足に銃弾を撃ち込む。ドミニクはそれによって床に倒れ込むが、這いつくばりながらも祭壇に向かうことをやめようとはしなかった。
「ル、ネア……様、お、助けを……」
 その姿は芋虫のようだった。ずりずりと祭服を擦りながら這いずり、整えられていた髪はぐしゃぐしゃになっている。今まで築き上げてきた信頼が崩れ落ち、地に落とされ、それでもなお神に救済を乞う。光を見ようとする。諦めの悪さはある意味人間の性であるのかもしれない。そのルミネアに対する執着は一体どこから生まれるのだろうと、ツグナはドミニクを見下ろして思った。
「ああ、可哀想に」
 ルミネアは地上まで降りてくると、祭壇まで這ってきたドミニクを憐れんで言った。ドミニクは力を振り絞って上半身を起こし、ルミネアを見上げる。
「初めて貴方に会った時を思い出すわ。あの日は確か、路地裏で信仰心のない人間に攻撃されて倒れていたのよ」
 ルミネアは懐かしがるように目を細めて言いながら、ドミニクの首から下げているツグナのロザリオをゆっくりと取り上げた。
「祈りの象徴を取り上げられ、馬鹿な人間から罵声を浴びせられ、それでも貴方は神はいると信じた。何故私の声に答えてくれないのですか、と。その姿は無様で惨めで―――」
 とっても笑えたわ。ルミネアは口端を三日月のように釣り上げた。
 次の瞬間、ルミネアの指先から漏れだした黒いモヤが片腕を包み込み、鋭利なものへと変わると、ドミニクの腹を突き刺した。異質で鈍い音が短く響き、真っ赤な鮮血がルミネアの黒いモヤがかかった手を伝ってぽたぽたと滴り落ちる。それを背後で見ていた一同は愕然と目を見張った。
「貴方にもう、神は必要ないわ」
 ルミネアの声と共にドミニクは耳を劈く悲鳴をあげ、打上げられた魚のように痙攣しながら横へと倒れた。身廊の赤絨毯を塗り替えてしまう程の鮮血が広がっていき、鉄錆の強烈な臭いがこの場にいる人間たちの元に届く。
「神父様……? え?」
 レイは目を見開き、首を振りながら後退して尻をつくと、ガクガクと身体を震えさせた。その臭いにツグナは瞳孔を見開き「お前!」と雄叫びのような声をあげ、ルミネアに向かって足を振りかざす。しかし、先程のリトアが完全に黒い影のような姿になると、蛇行しながらツグナの肩を貫いた。銃弾を受けた時と似た痛みに顔を歪めながら、貫かれた肩を抑えてルミネアを見上げる。
「全く、折角いい玩具が手に入ったのに。あっさりバレやがって。最初から最後まで無様だわ」
「……シスターも、お前だったのか」
「ええ。でも流石に二つを維持すると、本調子が出なくてね。これでようやく自由に動けるわ」
 ルミネアは微笑みながら、先程吸収したばかりの黒いモヤを手中に収めるようにして握りしめる。全身から漏れ出すモヤは体の輪郭と一体化し、元の美しい輝きを取り戻した。
「ルミネア様が、シスター……?」
「えっ、ルミ……え!? あの方が!?」
「ちょっと、あの方なんて大層な奴じゃないわ! 人殺してんのよ!?」
 そう言い放ったミシェルの言葉にツグナは違和感があった。ルミネア様が人を殺す? 本当にそんなことがあり得るのだろうか。そう考え出したらおかしな点がいくつもある。第一、僕達は何故こいつを「ルミネア様」と認識しているのだろう。ツグナは空中から見下ろしてくるルミネアをじっと睨みつけたまま、そもそもの始まりについて考えた。
「てっきり貴方のことは仲間だと思っていたけれど。邪魔してくるなんて残念だわ」
「お前と一緒にするな」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、驚いたわ。呪われた魂とこんな所で出会うなんて。やはり貴方達は混沌の中を生きるのね」
「は?」
 ツグナが眉をひそめた時、ふと視界の端に映ったドミニクの指先がかすかに動く。まだ生きていると理解する間もなく、ルミネアは白銀の翼を大きく広げ、地上に振りかざした。ツグナは傍にいたドミニクを素早く横抱きにすると、飛び跳ねるように後退してミシェル達の元へと降り立つ。先程までツグナがいた場所は数十の羽が突き刺さり、しばらくすると黒い影となってルミネアの元へ戻っていった。突き刺さっていた地面には、銃弾を撃ち込んだ時と同じようにいくつもの穴が空いている。
「死体を守るなんて、意味のない事を」
 ルミネアが距離を置いたツグナを見つめて言うと、レイは恐る恐るツグナに横抱きにされたドミニクの傍に近寄った。
「コナーさん、ドミニク神父をお願いします。まだ息があるから、助かるかも」
「ほ、本当かい!?」
 コナーはドミニク神父の口元に掌をかざして呼吸を確認する。弱々しいが確かにまだ息をしているようだ。それを聞いたレイは「まだ助かるか?」と眉を下げながらコナーに聞く。
「ああ、まだ間に合うかもしれない。とにかく医者に見てもらおう」
「そうはさせないわ」
 コナーはドミニクを背負い、レイと共に外に出ようとするが、入口の扉は押しても引いても開けることができない。レイは「なんで開かないんだよ!」と入口の扉を叩き始めた。
「ここから全員逃がすわけないわ。今眠ってる子羊達も含めてね」
 冷徹に口に出された言葉にレイは青ざめながら「そんな」と返す。こんなやつが本当に今まで信仰してきた神なのか? ツグナは「おい」と威圧的な口調でルミネアと向き合った。
「お前、本当は何者だ?」
 ツグナの放った言葉に、宙に浮かんでいるルミネアは何度か瞬きをした。そもそもこいつがルミネアだと認識するようになったのは、ドミニクが言っていたからというだけなのである。つまり、こいつがルミネアだと言う確証は何処にもないのだ。
「私が何者かですって? それは貴方の見たイメージにお任せするわ」
「はあ?」
 何を言っているのだと、呆れたような尻上がりの声でツグナは返した。ルミネアは反転した状態でこちらをからうように見つめる。それが馬鹿にされているようで、見ているだけで腹立たしかった。
「お前……まさかその質問、ドミニク神父にもしたのか?」
「ええ。勿論そうだけれど」
「そうか。なら、安心した。お前はルミネア様なんかじゃない」
 その言葉に教会内を飛び回っていたルミネアの笑顔が消え、ツグナを冷徹な瞳で見下ろす。
「前に神書で読んだんだ。創造主が人間を創った時、永遠の命をいいことに、欲のままに暴れ、神に刃向かった存在がいるって。そいつらは神の世界に帰るために魂を得ようと人間を陥れ、堕落させようとする。お前のしていることは悪魔と同じことだ」
 ラヴァル卿に言われてから、悪魔を知ろうと神書を読み漁っていたので、その知識がここに来て役に立った。ほとんど前半の「創造録」というものしか読んでいないが。ルミネアはそれに対して答えるのに数十秒の間を開けてから「……何が、神書よ」と低い声で呟いた。
「そこに書いてあることが全て正しいと本気で思っているの?」
 眼前のルミネアは先程とは違って項垂れ、掠れた声で呟いた。片方の口角を引き攣らせ、瞼は不規則にぴくぴくと動いている。
「神なんて人間が作りだした幻想よ! 創り出した幻想主の名を借りて、裁きの真似事をしているだけ! 自分たちの都合のいいように邪魔者を消す理由を作っているだけだわ! それによって殺された人間は数え切れないほどいる! 貴方達が祈りを捧げているルミネア様だって! 私だって……!」
 ルミネアは明らかに嫌悪に歪めた表情をして、言葉の最後を震わせた。時折ふうふうと唇の間から漏れ出す吐息は怒りと苦痛が入り交じっていて、ツグナは何も言い返せずにルミネアを見つめる。
「人と違うから異端だと神が言い張るなら、欲に溺れている悪魔の方がよっぽどマシだわ!」
 ルミネアは顔面を左右非対称に歪めて怒鳴り散らすと、持っていたツグナのロザリオを真っ二つに折った。折られたロザリオは光を反射させて地上へと落ちていく。
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