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第一部 二章 教会編
14 慌ただしい一日
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教会の朝は早い。朝七時頃、礼拝堂に教会の人間が全員集まると、一日の始まりとして礼拝が行われる。教会に関わらずこの国の人間は毎朝の礼拝を欠かさず行い、女神ルミネアの福音を唱えるのだ。
「新しい朝を迎えさせてくださった主よ、今日一日私達を照らし、導いてください。いつもすこやかに過ごせますように。物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、最悪の時にも感謝すべきものがある事を悟らせてください。ルモアリーベ」
「ルモアリーベ」
神父ドミニクの言葉に続いて礼拝堂中の人間が一斉に唱える。響き渡った声の余韻が耳の中に残ったまま、礼拝が終わると、レイは黙り込んでいるツグナに「なにか聞きたいことはあるか?」と問いかけた。なかなか自分から話そうとしないツグナを気遣ってくれたのだろう。話させようとするレイを無視するわけにもいかず、ツグナはしばらく間を開けてから「ルモアリーベって毎回言ってるのは……」とたどたどしく言葉を紡いだ。
「祈りの言葉だよ。古典ヴァルテナ語で愛のままにって言う意味らしい」
「……愛のままに、ですか」
得意げに答えるレイに力なくオウム返しして、下を向く。愛と聞くと、何故かラヴァル卿の最後を思い出して胸が苦しくなった。愛のままに愛した結果が殺人にたどり着くなんておかしいけれど。でも、最後にみせたあの顔は―――
「いくぞ。兄弟」
その声にはっとし、顔を上げる。過去の記憶に深く入り込んでしまうのは、自分の悪い癖だ。ごめんなさい、と一度謝り、ツグナはレイの後について行った。
二人は並びながら朝食の待つダイニングルームへと足を進める。宗教程不確かで不可解なものはない。無いものを信じる、というのは非常に難しい事だからだ。救いがあると信じなければ得体の知れない外界の恐怖に打ちのめされてしまう。人間の心は自分が思っている以上に繊細で、脆弱なものだ。
自分は救われる、そんな根拠もないものに信仰するのも、きっと安心を得たいからなのだと以前シアンが言っていたのを思い出した。そんな可愛くもない分析するような奴が神を信じるとは思わないけれどと、ツグナは思う。
「あ、レイ兄ちゃん! ツグナ兄ちゃん! おはよう!」
突然かけられた声に、ツグナは肩を大きく揺らす。その隣でレイは目の前から歩いてきた二人に「おはよう、ヴィル。メアリー」と返しながら、ツグナの腹部を肘でついた。思わずツグナも「お、おはようございます」と素っ気ない声で返す。
「レイ兄ちゃん。いつも礼拝終わったら私たちのところ来てくれるから、どこいったのかなって思って」
「ああ、悪かったな。今日は一日兄弟に仕事を教えないといけないから。お前らだけでも大丈夫だよな?」
「うん! ヴィルは私がついているし」
「なら、頼んだぞ。メアリー」
「任せて!」
メアリーは胸の前に腕を構えて、誇るような笑顔で答える。本当の姉弟みたいだとツグナが横目で見つめていると、メアリーはツグナに気がついて、ヘーゼルのつり目を細めた。
「ツグナ兄ちゃん、ちゃんとレイ兄ちゃんの言うこと聞くんだよ! 怒るとすっ~ごく怖いんだから!」
「余計なことを教えるな、メアリー。ほら、朝食始まるから早く行くぞ」
「はあい」
言葉終わりににぃと歯を見せて笑うと、メアリーは隣で小さくなっているヴィルの手を引いてダイニングルームへと向かっていった。自分より遥かに小さな存在なのに、しっかりした子だ。その二つの背中を見つめてレイはため息をつき「ほら、俺達も行くぞ」と歩き始めた。
八時半頃。二人はダイニングルームで朝食を終え、食器を片付けにキッチンへと足を運んだ。そこにはシスターと仲良く皿洗いをする子供の姿がある。ツグナとレイは「これ、よろしくお願いします」と言って皿を台上へと置いた。
「あ、ごめん。そこに置いてある追加用の灰瓶取ってくれないかしら?」
皿を洗っていたシスターはこちらの存在に気がつくと、ツグナの傍に置いてある瓶のようなものを顔で指す。初日に会ったシスターリトアとは別の人……確かシェリー・ブラウンという名前だったはずだ。声色が少し低くて、眼鏡をかけているのが特徴である。他にも常に笑顔を絶やさない太めのシスターがアマンダ。シェリーより小柄で顔立ちが幼げなのがイライザと、シスターは彼女を含めて四人いる。イメージしているものよりずっと小規模だ。
そんなことを考えながらもツグナは「これですか?」と瓶を手に持って見せるように突き出すと、シェリーは「そうそう、それよ」と言って水の滴った手を差し出し瓶を催促する。その落ち着きのない声質に違和感があったものの、ツグナは特に気にせず灰の入った瓶をシェリーに手渡した。
この教会では司祭、助祭、シスター四人とツグナを合わせた十数名の子供たちが生活しているようだ。勿論シスター四人だけで全ての仕事をこなせるわけもなく、食器洗いや掃除洗濯などは子供たちの仕事としても分担される。午前はそういった教会の手伝い、午後からは聖歌隊の練習というのが主な一日のスケジュールだと、レイは説明した。
そして今回、ツグナとレイに割り当てられた午前の手伝いが洗濯という事である。
外は昨夜と違って雲一つない穏やかな晴天だった。けれど気温は低く、湿度はやや高め。この季節だから仕方がないとは思うが、長時間水作業となると話は違ってきた。
「うう、寒い……」
ここまで長時間外で活動したのは、今日が初めてになるだろう。ツグナは自分の横に積まれた大量の洗濯物を一つ一つ手洗いで綺麗にしていく。水に使った指先の皮は既にふやけていて、指の間は赤くヒビのようなものが出来ていた。そして、なにより寒い。
ブラッディ家の使用人はこんな事を毎日していたのか、そう思うとあれ程怖がっていた使用人が偉大な人物に思えてきた。あのメイドさえも。案外そんな使用人たちの苦労を知るために、ここに送り出されたのかもなと、ツグナは一人シアンの意図を考える。
「進んでいるか? 兄弟」
背後から聞こえてくるレイの声に思わず振り返ると、その手にはまたもや追加の洗濯物の山があった。それを見たツグナの視界が歪む。
「それ……また」
「ああ。昨日突然雨降ってきたからな。まあ、二人でやれば午前中には終わるよ」
俺、洗濯得意なんだ。レイはそうつけ加えてツグナの隣に洗濯物の山が入った籠を置く。またか、とでも言いたげにツグナは目を細めながら顔を地面に向けてため息をついた。その姿を見て「そのうち慣れるよ」とレイはツグナの傍に座って同じように水の中に手を突っ込んだ。冷たいはずなのに、ちっとも顔に出ていない。
「寒くないん、ですか……?」
「寒いに決まってるだろ。でも今日は太陽出てるから暖かいほうだよ。これぐらいで音を挙げていちゃ冬は越せないからな」
レイは内容にしては楽しそうに話しながら「その汚れはこうした方がいい」とツグナにアドバイスをする。ツグナも、無口ながら負けじと一生懸命に汚れを落とそうとするが、なかなかに上手くいかない。レイはそれを見て「貸してみなよ」とツグナの洗い物に手をつけると、あっという間に汚れを落としてしまった。力は僕の方が上のはずなのにと、ツグナは汚れの落ちた服を不思議そうに見つめる。
「……僕がやると落ちないのに……魔法?」
「あははっ、魔法か……面白いね。でも俺のは魔法じゃなくてコツ。俺も初めの方は全然できなくて、シスターにコツを教えて貰ったんだよ。あっ、シスターってメガネかけていない方達のことな。メガネをかけているシスターが入ったのは結構最近でさ、兄弟と同じ新人さんさ」
「僕みたいに人が?」
「シスターが来るのは珍しいよ。孤児はそれなりにいるけど。でも、他の街に比べたら少ない方かな。人口が少ないっていうのもあると思うけど」
「お前は……いつからここに?」
ふと、別の汚れを落としながらレイに問いかける。レイはしばらく考え込んでから「生まれた時からかな」と洗い終わった洗濯物を広げて言った。
「俺、赤ん坊の頃に教会の前に捨てられていてさ。それを拾ってくれたのが今のドミニク神父。だから、俺からしたら神父が父親みたいな存在なんだよ」
赤子の時から捨てられていると聞いて、ツグナは思わず「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝った。なんで謝るんだよと、レイは気にせず笑ってみせる。
「俺は幸福なほうだよ。こうして素敵な家族に出逢えたし」
「……ヴィルとメアリーも……その、赤子の時に?」
「まあ、そうだな。二人とも親の育児放棄だ。ここに来る理由は発達が人より遅れている、望んでいない出産とか色々あるけど、一番は親の生活がままならないとかそんなだ。そういった子供をドミニク神父は受け入れている」
「そっか……良い人、ですね」
自分の時も何も聞かずに助けてくれたんだし、やはり聖職者というのは優しい人間が多い。昨夜の事を考えながら呟くと、隣にいたレイは少し間を開けてから「そうだな」と答える。
「そういえば、兄弟は今までどこで生きていたんだ? 家から追い出されたとか?」
その問いにツグナは思わず肩を大きく揺らす。何故分かるんだとでも言いたげに隣を振り返り「え、なんで追い出されて……」と言葉を濁らせた。
「あー、なんていうか勘? ってやつ? 観察していてやけに礼儀正しいし、食事の仕方も綺麗だったから。あと、首から下げているロザリオとか高そうだし、元は貴族だったりと思って」
レイは作業を続けながら答える。なんて観察力と洞察力だと思いながら、ツグナは首から下げているロザリオを見つめた。来る時にブラッディ家との関連は隠せと言われているしな、と考えてから「これは……あれだ。親の形見、みたいなやつ」と誤魔化す。
「ふうん、本当?」
「本当だよ! 大体ロザリオだったらお前だってつけてるだろ、です。 金の高そうなやつ」
ツグナはそう言ってレイの首から下げている金のロザリオを見つめる。レイは「ああ、これね」と小さく呟いてから「これは、ドミニク神父から貰ったものだよ」と笑ってみせる。その声音は笑顔に反して悲しそうに聞こえた。
「ふうん。本当なのか、ですか?」
「なんだよ。さっきの仕返しか? これは俺の十歳の誕生日に貰ったプレゼントだよ。これでいいだろう? さっさと仕事片付けないと……」
呆れたように答えながらレイは再び手を動かし始める。プレゼントと言えば、目を通した本の中に何回か出てきていたが、もう少し嬉しそうな表現をしていたはずだった。なのにこいつは心の底から喜んでいるようには見えない。プレゼントを貰っても人によって感性は違うんだなとツグナは一つ学習する。
確かに、自分がシアンからプレゼントを貰っても喜べる気はしない。絶対何か裏にあるに違いないからなと考えながら、ツグナも仕方がなく作業へと戻った。
十二時、教会の尖った屋根の真上を太陽が通過する頃だ。午前の仕事を終え、教会中の人間がまたダイニングルームに集まって祈りと共に昼食を取る。半頃には昼食が終わったが、聖歌隊の練習は十三時からなので各自休憩をとって過ごした。
「ねえ、ツグナ兄ちゃんって本読める?」
昼食後、部屋に戻ろうとするツグナを捕まえてメアリーがヴィルと共に本を持ってきた。先程のレイとの会話が思い浮かんだが、基本的に人と話したくない気持ちに揺らぎはない。ツグナは明らかに嫌そうに顔を歪めながら「いや、読めません」とその場を立ち去ろうとする。
「ええ? でもレイ兄ちゃんが読めるって言ってたよ」
「何を根拠にそんなこと言ったんだ……というかその、あいつに読んでもらえればいいだろう?」
「レイ兄ちゃん神父様に呼ばれてるから、今はいないの。ねえ、読んでよ!」
「読んで、欲しい……」
メアリーとヴィルに迫られるが、ツグナは「いや、僕は……ちょっと用事があるから」と断る。それを見たメアリーとヴィルはその小さな肩を落として、悲しそうに俯いた。そんなに落ち込まれると思っていなかったので、自分がいけない事をしている気がしてきたのか、ツグナは「じゃあ、ちょっとだけ」とため息をつく。ツグナが押しに弱いと自覚した瞬間だった。
先程昼食で使ったダイニングルームでメアリーとヴィルに囲まれながら、ツグナは分厚い革表紙を捲った。だいぶ古いのか捲っただけで埃のようなものが舞う。ページも上だけではなく全体的に黄ばんでいて、ボロボロだ。一体いつの本なのだろうかと疑問に思いながら、ツグナは一番初めに出てきた文字を声に出して読んでいく。
「えっと。昔々、王都から見放された辺境の村にルミネアと言う美しい村娘がおりました。ルミネアは働き者で、優しく、村の者から愛されていました」
「ツグナ兄ちゃん! 王都って? 辺境って何?」
「えっと……えっと?」
「王都は国の中心部。辺境はその中心部から離れた地域や国境の事を言うよ」
聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには教会で一番初めに出会った青年のコナーが立っていた。出会った時よりお淑やかで、いかにも聖職者っぽい。
「随分古い本を読んでいるね、君達」
「コナーさん! 神父様と話してたんじゃあ……」
「ああ。話し終わった後にレイ君とすれ違いになってね。君たちの様子を見に行って欲しいと頼まれたんだ。ツグナ君がちゃんと文字が読めているかどうかも」
ツグナはその言葉に反応して眉を顰める。あいつ、やっぱり適当に言ってたんだな。確信がないなら最初から頼むなよと、心の中で悪態をつく。人を避けようとするのが悟られているのだろうか。だから、人と関わらせるために―――そこまで考えてシアンが思い浮かび、沈痛する。
あいつは面倒みが言いわけじゃないけど、先の事をひとまわりもふたまわりも考えているんだよな。舞踏会のあのスカスカな計画がいい例だ。まさか、今回も人にはああ言っといて、何か裏があるんじゃないかとツグナは今更冷や汗を垂らす。
「でも、ツグナ君文字読めるみたいだし、その心配はなさそうだね。誰かから教えて貰ったことが?」
「……はい。そうです、一応。でも、あまり自信がないので……その、変わっていただけませんか」
ツグナは開いたページの続きを指で刺しながらコナーに押し付ける。その言葉は嘘ではない。実際、シアンに文字を教えられたのは本当に少しの時間だけだ。あとは自分で調べろだとか言って意味だとかはろくに教えられたことはない。まあ、最近はたまに執事さんに教えて貰ったりしたことはあったけれど。
「え? まあ、僕でいいならいいけど……時間あるし」
「誰でもいいよ! 早く続き読んで!」
「……読んで」
コナーが答えを求めるようにメアリー達に顔を向けると、二人は気にせずに続きの催促をする。読み手が変わったところで二人は続きが読めればいいようだ。気を使うコナーにツグナは特に気にしないと口を閉ざして首を振る。
「じゃあ、続きから……コホン」
咳払いをして息を吸ってから、コナーはツグナが読んでいたページの続きから音読し始めた。もうここにいる必要はなさそうだとツグナは立ち上がったが、隣に座っていたメアリーとヴィルに腕を引っ張られ、無理やりその場に居続けることを余儀なくさせられる。
「十六歳になったルミネアは、村長から山奥にある古びた教会の掃除を命じられました。この村では十六歳以上の者が教会の祭壇の掃除を月に一度するしきたりなのです」
「しきたりって?」
「昔からの習慣づけられた約束みたいなものだよ」
コナーは本を音読しつつ、質疑にも丁寧に答えた。メアリーの問いはツグナにもほとんど分からないので、聞いているだけで勉強になる。いつの間にかツグナも部屋に戻ることを忘れて聞き入った。
「そこには一つだけ守らなければいけないルールがありました。それは、決して教会で名前を呼ばれても答えてはいけない事です。本当にそんなことがと疑念に思いながらもルミネアが教会に行くと、祭壇の掃除中に確かに声が聞こえてきたのです。ルミネアよ、ルミネアよと。ルミネアは村長に言われた事を忠実に守り通し、そして教会の祭壇の掃除を命じられてからあっという間に一年の月日が流れました。ある日、ルミネアが祭壇の掃除をしていると、今までとは違い、助けを求める声が聞こえてきたのです。その悲痛な声にルミネアは思わず約束を破り、答えてしまいました。ルミネアが声を辿ってその教会の地下へと向かうと、そこには────」
「おや? こんな所で何を読んでいるんだね? コナー」
次の展開に聞き入っていたツグナ達は思わず肩を大きく震わせる。コナーが音読を止め、顔を上げるとそこにはドミニク神父とレイの姿があった。
「神父様! レイ兄ちゃん! 話は終わったの?」
「え? ああ、うん。というかお前らいつまでここにいるんだ? もう聖歌隊の練習始まるぞ?」
呆れたように見つめるレイにメアリーは「えっ! もう時間!?」と周囲をキョロキョロと見回す。落ち着きのないメアリーに目を取られていると、先程まで読んでいた革表紙の分厚い本を見て、ドミニク神父は慌てたように本をコナーから取り上げる。
「コナーよ。何故これを……この本は私の書斎にあるものだぞ!」
「え? でも、これは……」
コナーは笑顔で見つめてくるドミニクに思わずたじろぐ。ドミニクの書斎は入ってはいけないのがこの教会のルールらしい。あれ、でもこれを持ってきたのってメアリー達だよな? ツグナは思わずメアリーの方を向いてみると、焦ったメアリーは「聖歌隊に遅れるー!」と大袈裟に言ってその場から逃げ出した。ヴィルも「待ってえ」とメアリーの後に続いて走り出す。
「どういうことか説明してくれるな?」
「ほ、本当に違うんです! あ、ツグナ君! 説明してくれよ!」
「あ、えっと……。僕も聖歌隊があるのでこれで……ごめんなさい!」
涙目になって助けを求めるコナーに、ツグナはこの先の面倒事が頭に浮かび思わずその場から逃げ出す。近くにいたレイは「すみませんコナーさん。後で俺からあいつらに言っておくんで、今日のところは」とその場を去った。後ろで「そんなあ!」とコナーの悲鳴が聞こえたが、駆け出す羊達が振り返ることはなかった。
午後からは礼拝堂で聖歌隊の一人として練習に励む事になっている。これが終われば後は夜の礼拝と食事をとって寝るだけだ。早く自分の部屋に戻りたいと思いつつ、初めての聖歌隊にツグナは胸を高鳴らせる。ところどころしか聞いたことはないが、賛美歌を聞くのは正直嫌いじゃなかった。けれど、それは開始数分で絶望へと変わった。
「えっと。兄弟はとりあえず音のとり方からだな」
レイはそう言って、苦笑いを向ける。歌声の適正を見ようとしたがこれは酷い。まるで断末魔のような金切り声を聞いているようだった。音程の仕組みも分かっていないようだし、これは基礎の基礎から始めないと上達は難しい。
「シスターイライザ。俺、こいつに音の取り方教えるから、そっちは通常通り練習していてください」
「え、ええ。その方が良いみたいね」
レイの言葉に答えるイライザの表情も口端が引きつっている硬直した笑顔だ。二人の会話を見て、ツグナは酷く落ち込んだように背中を丸めてため息をついた。
「そんなに……酷いか? 僕って」
「いや、初めてなんて誰でもそんなもんだよ。兄弟は今までに歌ったことないのか? 賛美歌とか」
それを聞いて目を逸らす。ブラッディ家の礼拝に出ていれば歌っていたのだろうけれど、ツグナは密室に大勢の人が集まる事から敢えてその場を避けていたのだ。つまり、歌ったことは皆無である。
「いや、ないです」
ツグナが答えると、どおりでと言った具合に受け止めてから「歌を聴いたことは?」とレイが問いかける。確かに邸にいた時も聞こえてきたことがあったが、まともに聞いたのはここに来てからが初めてだ。「今日初めて聴いた、です」と声を小さくさせて答えるツグナにレイは改善策が見つかったように笑みを浮かべた。
「じゃあ、まずは音を聞く事からだな。混成合唱は高低のある音の羅列が重なって初めて一つの綺麗な形になる。けれど兄弟は高低の出し方が分かっていないから、まずは自分の音域を知らないと。それが出来ればすぐにあっちに混ざれるさ。聞いたところ兄弟は声が高域で伸びも通る綺麗な声をしているし、あとはリズム感と音程さえ掴めればすぐだよ」
その二つを身につけるのに時間がかかりそうだとツグナは落胆して肩を落とす。とはいえ、今回のシアンに送り出されたのが聖歌隊に入る事だから仕方がないのか。というか、ここまでしてシアンの言うことを聞く理由はあるのだろうかとそもそもの自分の行動について考えた。
「まあ、実践あるのみだ。俺が音を上げて声を出していくから兄弟は真似していってくれ」
レイは持っていた賛美歌を見ながら声を出してツグナに教え始める。隅で練習するそんな二人の様子に、子供達を指揮するイライザは優しく綻ぶような笑みを浮かべるのだった。
それから聖歌隊の練習は日が沈むまで続いたが、ツグナが子供達と混ざれることはなかった。
練習後、各自一時間の休憩を挟んでからそのまま礼拝堂で夜の礼拝が行われた。昨晩はこの時間帯に足を踏み入れたので、ようやくこれでこの教会に来てから一日が経過した事になる。
それからは、昨夜と同じようにダイニングルームで夕食をとった。昨日と同じように端に座っていたが、いつの間にかメアリーとヴィル、レイに囲まれていて、食事中に話しかけられるので大変食べずらかった。だが、不思議と悪い気はしない。初めてリトアに家族だと言われた時は、その家族という言葉の概念が理解できずに戸惑ったけれど。きっとこの、こそばゆいような胸の暖かさがそれなのだろうと、ツグナは思った。
「ツグナ君、皆と馴染めているようで良かったですね」
「ああ、彼には人を惹きつける何かがあるんだろう。人見知りのヴィルにあの顔を向けさせるなんて大したものだ」
ツグナの周囲の賑やかさに他の子供たちも釣られて集まっている。一番端に座っていた司祭ら六人は、そんな子供達の様子を眺めて静かに言った。
「でもいいんですか? 食事中にあんなに騒いで……」
眼鏡をかけたシスター、シェリーはぽつりと呟く。仮にも教会という神の前なのに無礼ではないかと、感じたようだ。
「構わないさ。あんなに楽しそうな子供達を強制するなんて出来ないからね。ルミネア様も子供たちの元気な姿に喜んでくださるに違いない。自分が出来なかったように」
ドミニク神父の答えにシェリーは首を傾げる。それはまるで、ルミネア様が自分の子供に出来なかったような物言いだった。
食事を終えると、各自部屋に戻って就寝の時間となる。一日あれだけのスケジュールをこなせば疲れが溜まって自然と眠りに落ちるのは簡単な事なのかもしれない。今日はよく眠れそうだと、ツグナは二階建てベッドに仰向けになって目を閉じる。しかし、そう簡単に寝させてくれる程甘くはなかった。
「ああ! 頬を抓るな!」
ツグナが勢いよく上半身を起こすと、口を尖らせたメアリーが自分の眼前に座って何度か瞬きをした。その後ろには眉を下げたヴィルの姿がある。
「だってまだ眠くないもん! お話しようよ!」
「お話……したい」
「僕は疲れてるんだ! というかお願いだから一人にしてくれ!」
メアリーに続いて自分のベッドに入ってくるヴィルに、ツグナは思わず声を張り上げた。というか自分より幼いのに何故そんなに体力があるんだと、しがみつく二人の服を引っ張り上げる。
「気に入られてよかったな、兄弟」
しばらくして二階のベッドからレイの皮肉が聞こえてきた。上で悠々と横になっているレイを想像して腹が立ったツグナは、片足で二階のベッドを蹴る。
「おい、お前なんとかしろよ!」
「嫌だね。 今までは俺がやっていたんだ。 さて、俺はもう寝ようかな」
「ふざけんな! いい加減に……!」
気が立って少し力んでしまったツグナが再度ベッドを蹴りあげると、大きな音ともにベッドの上段の板に穴を開けた。上で寝ていたレイは「え」と小さく声を上げて下段のベッドに落ちてくる。
「どうしたんだい!? ……ん?」
その大きな音に近くにいたアマンダが部屋に入ってくると、ベッドの下段にはレイに押しつぶされているツグナの姿があった。その隣ではキャッキャッと笑い声をあげるメアリーとヴィルの姿もある。その後、アマンダの怒鳴り声が響いたのは言うまでもないだろう。その日は、レイと二人で無事だった下段ベッドを使うはめになった。
「狭い……もっとそっちに行ってくれ」
「ベッドを壊したのは誰だっけ」
意地悪に放たれたその言葉にツグナは悔しそうに下唇を噛み締めてから舌打ちをすると、その場から起き上がる。
「やっぱり床で寝る」
「なんだよ。俺と寝るのそんなに嫌?」
「当然だ! 大体一人用に二人は狭いだろ! それにお前のベッドを壊したのは僕だし、僕が床に寝るのは当然だ」
そう言ってツグナは穴の空いたベッドから布団だけを引きずり降ろす。別に気にしなくていいのにとレイがその光景を見つめていると、ふと、ツグナに向けた視線が項に刻まれた文字を捕らえた。何が書いてあるのだろうと、興味本位にレイはツグナの項をじっと見つめる。
「R-207?」
ツグナの持っていた布団が落ちた。ツグナは瞬時に項を抑えながら、レイの方へと振り返る。動揺と恐怖に揺れた瞳がレイを捉えていた。
「なあ、それって……」
レイはここまで呟いてから後悔した。ツグナの瞳は涙を浮かべ、体は凍えるように震えていたからだ。その涙にレイはギョッと目を見開いてから「大丈夫か?」と手を伸ばす。ツグナはブラッディ家に来たばかりの頃と同様に、怯えた瞳でその手を払った。乾いた音がやけに大きく響き渡る。
シアンと初めて出会った時も、ツグナは同様に自分の被験番号に対して大きく気を動転させた。しかし、シアンが名前のなかった自分に名前をつけることで、一時的にその恐怖から解放されていたのだ。使用人に怯えていても、シアンに気を許せていたのはそれもあってからだろう。あれ以来、シアンが実験施設について何一つ聞こうとしなかったのも助けられていた。こいつは何も知らなかったから、疑問に思ったのも当然のはず。こいつは悪くない、のに。
「……ご、ごめ」
「いい。もういいから……だから早く寝ろ」
ツグナは低い声で冷たくあしらってから、毛布の中に包まった。毛布に顔を埋めているせいで自分の吐息が、早くなった鼓動が大きく聞こえてくる。その丸くなった毛布を見て、レイは力なく俯いてから背を向けるようにして横になった。
翌日。昨夜のことが未だ気まずいツグナは、レイを避けるようにして午前中を過ごした。今日はレイと挨拶ぐらいしか会話を交わしていない。レイが悪くないのは百も承知している。けれど、会うのが嫌というよりは怖かったのだ。
被験番号……あれは人間以下の証明である。レイにその知識があるかは定かじゃないが、例えそうでも人に見られるのは避けたかった。
午前中の仕事が終わり、あっという間に昼休憩の時間になる。長引けば長引くほど気まづくなっていき、心は黒い歪のようなものが這いずり回っているようだ。
「あ、ツグナ君」
食器を片付けに行った帰り道、背後から聞こえてくる声に怯えながらも振り返る。
「えっと……」
「助祭のコナーだよ。昨日一緒に本を読んだよね?」
「ああ。そう、でしたね」
目を逸らしながら答えるツグナにコナーは落胆して肩を落とす。助祭という事もあってか、どこか存在感の薄い男だ。とはいえ、今は人と話すほどの余裕があるわけじゃない。
「ごめんなさい……あの」
「もしかして、レイくんと何かあったのかい?」
コナーはツグナの心情を読み取ったかのように問いかけた。レイ、の言葉にツグナの肩が小さく震える。
「あ、えっと。その……」
「あはは。やっぱりか。今朝の二人、様子がおかしいと思ったからさ」
言葉を濁らせるツグナに、コナーは軽く笑ってみせた。
「これはどうでもいい話なんだけど。僕はさ、物覚えが人より悪かったから、お前が聖職者になるのは無理だって言われた事がある。修道院を出て初めてこの教会に来た時も不安でいっぱいだった。……でも、こんな出来損ないの僕をドミニク司祭はお見捨てにならなかった。司祭だけじゃない、シスターや子供達もだ。特に古株のレイ君にはこの教会について色んなことを叩き込まれたよ。皆も彼も優しく僕を受け入れてくれたから、今僕はここにいる。ここの教会の人達はみんな優しいよ。レイ君もいい子だから、君のことも分かってくれるさ。きっとね」
「……そう、ですね」
コナーの笑みにツグナは俯いたまま震えた手を抑えるように拳を作る。教会に来てからそれは知らされた。ここの人間は無理に過去を詮索しようとしない。シスターも、レイも。それが彼らなりの優しさなのだ。
「あ、一方的に話してしまってごめんね。呼び止めた本題はこれ。君の聖書と賛美歌だ。朝と夜の礼拝、それから午後の聖歌隊で使うからなくさないようにしてくれよ」
そう言ってツグナに分厚い本を二冊持たせる。想像した以上の重さにツグナは思わず前によろけた。本をまじまじと見ていると、顔を上げたコナーが「ほら、お迎えだ」と言ってツグナの背後を見つめる。
ツグナは思わず振り返ると、そこには「やっと見つけた」と駆け寄ってくるレイの姿があった。ツグナは思わず後退しそうになったが、俯いて立ち止まる。
「……あ、あの。ご、ごめ」
「ごめん!!」
目を伏せて謝罪の言葉を口にしようとしたツグナの声は、威勢のいい声によってかき消される。ツグナが見上げた目先に映った彼の表情は、申し訳なさそうに歪んでいた。
「何も考えずに無神経だったよな。誰にだって思い出したくない過去はある。ここに来る人間なら尚更だ」
レイはそう言ってツグナの瞳をしかと見つめてから、手を差し出す。
「その……もし許してくれるなら、また一緒に歌の練習をしないか? ツグナが良ければだけど」
レイは照れているのか顔を赤らめて目を逸らしている。今まで自分より幼い子供達を相手にしていたせいか、同じ目線の人間と仲違いした事が初めてだったのだ。だからこそ、仲直りというものを知らない。不器用だなと、思いつつもコナーはツグナの背後で見守る。
差し出されたレイの手は重なり合ったあのシアンの手とは違って、微かに震えていた。拒まれることへの怯えなのか、それでもその手は下ろさない。自分が一方的に気まずくしてしまったのに、歩み寄ろうとしてくれるレイがとても眩しく思えた。
「うん。よろしくな、レイ」
ツグナは目を細めて口角を緩ませると、差し出された手を握った。
「新しい朝を迎えさせてくださった主よ、今日一日私達を照らし、導いてください。いつもすこやかに過ごせますように。物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、最悪の時にも感謝すべきものがある事を悟らせてください。ルモアリーベ」
「ルモアリーベ」
神父ドミニクの言葉に続いて礼拝堂中の人間が一斉に唱える。響き渡った声の余韻が耳の中に残ったまま、礼拝が終わると、レイは黙り込んでいるツグナに「なにか聞きたいことはあるか?」と問いかけた。なかなか自分から話そうとしないツグナを気遣ってくれたのだろう。話させようとするレイを無視するわけにもいかず、ツグナはしばらく間を開けてから「ルモアリーベって毎回言ってるのは……」とたどたどしく言葉を紡いだ。
「祈りの言葉だよ。古典ヴァルテナ語で愛のままにって言う意味らしい」
「……愛のままに、ですか」
得意げに答えるレイに力なくオウム返しして、下を向く。愛と聞くと、何故かラヴァル卿の最後を思い出して胸が苦しくなった。愛のままに愛した結果が殺人にたどり着くなんておかしいけれど。でも、最後にみせたあの顔は―――
「いくぞ。兄弟」
その声にはっとし、顔を上げる。過去の記憶に深く入り込んでしまうのは、自分の悪い癖だ。ごめんなさい、と一度謝り、ツグナはレイの後について行った。
二人は並びながら朝食の待つダイニングルームへと足を進める。宗教程不確かで不可解なものはない。無いものを信じる、というのは非常に難しい事だからだ。救いがあると信じなければ得体の知れない外界の恐怖に打ちのめされてしまう。人間の心は自分が思っている以上に繊細で、脆弱なものだ。
自分は救われる、そんな根拠もないものに信仰するのも、きっと安心を得たいからなのだと以前シアンが言っていたのを思い出した。そんな可愛くもない分析するような奴が神を信じるとは思わないけれどと、ツグナは思う。
「あ、レイ兄ちゃん! ツグナ兄ちゃん! おはよう!」
突然かけられた声に、ツグナは肩を大きく揺らす。その隣でレイは目の前から歩いてきた二人に「おはよう、ヴィル。メアリー」と返しながら、ツグナの腹部を肘でついた。思わずツグナも「お、おはようございます」と素っ気ない声で返す。
「レイ兄ちゃん。いつも礼拝終わったら私たちのところ来てくれるから、どこいったのかなって思って」
「ああ、悪かったな。今日は一日兄弟に仕事を教えないといけないから。お前らだけでも大丈夫だよな?」
「うん! ヴィルは私がついているし」
「なら、頼んだぞ。メアリー」
「任せて!」
メアリーは胸の前に腕を構えて、誇るような笑顔で答える。本当の姉弟みたいだとツグナが横目で見つめていると、メアリーはツグナに気がついて、ヘーゼルのつり目を細めた。
「ツグナ兄ちゃん、ちゃんとレイ兄ちゃんの言うこと聞くんだよ! 怒るとすっ~ごく怖いんだから!」
「余計なことを教えるな、メアリー。ほら、朝食始まるから早く行くぞ」
「はあい」
言葉終わりににぃと歯を見せて笑うと、メアリーは隣で小さくなっているヴィルの手を引いてダイニングルームへと向かっていった。自分より遥かに小さな存在なのに、しっかりした子だ。その二つの背中を見つめてレイはため息をつき「ほら、俺達も行くぞ」と歩き始めた。
八時半頃。二人はダイニングルームで朝食を終え、食器を片付けにキッチンへと足を運んだ。そこにはシスターと仲良く皿洗いをする子供の姿がある。ツグナとレイは「これ、よろしくお願いします」と言って皿を台上へと置いた。
「あ、ごめん。そこに置いてある追加用の灰瓶取ってくれないかしら?」
皿を洗っていたシスターはこちらの存在に気がつくと、ツグナの傍に置いてある瓶のようなものを顔で指す。初日に会ったシスターリトアとは別の人……確かシェリー・ブラウンという名前だったはずだ。声色が少し低くて、眼鏡をかけているのが特徴である。他にも常に笑顔を絶やさない太めのシスターがアマンダ。シェリーより小柄で顔立ちが幼げなのがイライザと、シスターは彼女を含めて四人いる。イメージしているものよりずっと小規模だ。
そんなことを考えながらもツグナは「これですか?」と瓶を手に持って見せるように突き出すと、シェリーは「そうそう、それよ」と言って水の滴った手を差し出し瓶を催促する。その落ち着きのない声質に違和感があったものの、ツグナは特に気にせず灰の入った瓶をシェリーに手渡した。
この教会では司祭、助祭、シスター四人とツグナを合わせた十数名の子供たちが生活しているようだ。勿論シスター四人だけで全ての仕事をこなせるわけもなく、食器洗いや掃除洗濯などは子供たちの仕事としても分担される。午前はそういった教会の手伝い、午後からは聖歌隊の練習というのが主な一日のスケジュールだと、レイは説明した。
そして今回、ツグナとレイに割り当てられた午前の手伝いが洗濯という事である。
外は昨夜と違って雲一つない穏やかな晴天だった。けれど気温は低く、湿度はやや高め。この季節だから仕方がないとは思うが、長時間水作業となると話は違ってきた。
「うう、寒い……」
ここまで長時間外で活動したのは、今日が初めてになるだろう。ツグナは自分の横に積まれた大量の洗濯物を一つ一つ手洗いで綺麗にしていく。水に使った指先の皮は既にふやけていて、指の間は赤くヒビのようなものが出来ていた。そして、なにより寒い。
ブラッディ家の使用人はこんな事を毎日していたのか、そう思うとあれ程怖がっていた使用人が偉大な人物に思えてきた。あのメイドさえも。案外そんな使用人たちの苦労を知るために、ここに送り出されたのかもなと、ツグナは一人シアンの意図を考える。
「進んでいるか? 兄弟」
背後から聞こえてくるレイの声に思わず振り返ると、その手にはまたもや追加の洗濯物の山があった。それを見たツグナの視界が歪む。
「それ……また」
「ああ。昨日突然雨降ってきたからな。まあ、二人でやれば午前中には終わるよ」
俺、洗濯得意なんだ。レイはそうつけ加えてツグナの隣に洗濯物の山が入った籠を置く。またか、とでも言いたげにツグナは目を細めながら顔を地面に向けてため息をついた。その姿を見て「そのうち慣れるよ」とレイはツグナの傍に座って同じように水の中に手を突っ込んだ。冷たいはずなのに、ちっとも顔に出ていない。
「寒くないん、ですか……?」
「寒いに決まってるだろ。でも今日は太陽出てるから暖かいほうだよ。これぐらいで音を挙げていちゃ冬は越せないからな」
レイは内容にしては楽しそうに話しながら「その汚れはこうした方がいい」とツグナにアドバイスをする。ツグナも、無口ながら負けじと一生懸命に汚れを落とそうとするが、なかなかに上手くいかない。レイはそれを見て「貸してみなよ」とツグナの洗い物に手をつけると、あっという間に汚れを落としてしまった。力は僕の方が上のはずなのにと、ツグナは汚れの落ちた服を不思議そうに見つめる。
「……僕がやると落ちないのに……魔法?」
「あははっ、魔法か……面白いね。でも俺のは魔法じゃなくてコツ。俺も初めの方は全然できなくて、シスターにコツを教えて貰ったんだよ。あっ、シスターってメガネかけていない方達のことな。メガネをかけているシスターが入ったのは結構最近でさ、兄弟と同じ新人さんさ」
「僕みたいに人が?」
「シスターが来るのは珍しいよ。孤児はそれなりにいるけど。でも、他の街に比べたら少ない方かな。人口が少ないっていうのもあると思うけど」
「お前は……いつからここに?」
ふと、別の汚れを落としながらレイに問いかける。レイはしばらく考え込んでから「生まれた時からかな」と洗い終わった洗濯物を広げて言った。
「俺、赤ん坊の頃に教会の前に捨てられていてさ。それを拾ってくれたのが今のドミニク神父。だから、俺からしたら神父が父親みたいな存在なんだよ」
赤子の時から捨てられていると聞いて、ツグナは思わず「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝った。なんで謝るんだよと、レイは気にせず笑ってみせる。
「俺は幸福なほうだよ。こうして素敵な家族に出逢えたし」
「……ヴィルとメアリーも……その、赤子の時に?」
「まあ、そうだな。二人とも親の育児放棄だ。ここに来る理由は発達が人より遅れている、望んでいない出産とか色々あるけど、一番は親の生活がままならないとかそんなだ。そういった子供をドミニク神父は受け入れている」
「そっか……良い人、ですね」
自分の時も何も聞かずに助けてくれたんだし、やはり聖職者というのは優しい人間が多い。昨夜の事を考えながら呟くと、隣にいたレイは少し間を開けてから「そうだな」と答える。
「そういえば、兄弟は今までどこで生きていたんだ? 家から追い出されたとか?」
その問いにツグナは思わず肩を大きく揺らす。何故分かるんだとでも言いたげに隣を振り返り「え、なんで追い出されて……」と言葉を濁らせた。
「あー、なんていうか勘? ってやつ? 観察していてやけに礼儀正しいし、食事の仕方も綺麗だったから。あと、首から下げているロザリオとか高そうだし、元は貴族だったりと思って」
レイは作業を続けながら答える。なんて観察力と洞察力だと思いながら、ツグナは首から下げているロザリオを見つめた。来る時にブラッディ家との関連は隠せと言われているしな、と考えてから「これは……あれだ。親の形見、みたいなやつ」と誤魔化す。
「ふうん、本当?」
「本当だよ! 大体ロザリオだったらお前だってつけてるだろ、です。 金の高そうなやつ」
ツグナはそう言ってレイの首から下げている金のロザリオを見つめる。レイは「ああ、これね」と小さく呟いてから「これは、ドミニク神父から貰ったものだよ」と笑ってみせる。その声音は笑顔に反して悲しそうに聞こえた。
「ふうん。本当なのか、ですか?」
「なんだよ。さっきの仕返しか? これは俺の十歳の誕生日に貰ったプレゼントだよ。これでいいだろう? さっさと仕事片付けないと……」
呆れたように答えながらレイは再び手を動かし始める。プレゼントと言えば、目を通した本の中に何回か出てきていたが、もう少し嬉しそうな表現をしていたはずだった。なのにこいつは心の底から喜んでいるようには見えない。プレゼントを貰っても人によって感性は違うんだなとツグナは一つ学習する。
確かに、自分がシアンからプレゼントを貰っても喜べる気はしない。絶対何か裏にあるに違いないからなと考えながら、ツグナも仕方がなく作業へと戻った。
十二時、教会の尖った屋根の真上を太陽が通過する頃だ。午前の仕事を終え、教会中の人間がまたダイニングルームに集まって祈りと共に昼食を取る。半頃には昼食が終わったが、聖歌隊の練習は十三時からなので各自休憩をとって過ごした。
「ねえ、ツグナ兄ちゃんって本読める?」
昼食後、部屋に戻ろうとするツグナを捕まえてメアリーがヴィルと共に本を持ってきた。先程のレイとの会話が思い浮かんだが、基本的に人と話したくない気持ちに揺らぎはない。ツグナは明らかに嫌そうに顔を歪めながら「いや、読めません」とその場を立ち去ろうとする。
「ええ? でもレイ兄ちゃんが読めるって言ってたよ」
「何を根拠にそんなこと言ったんだ……というかその、あいつに読んでもらえればいいだろう?」
「レイ兄ちゃん神父様に呼ばれてるから、今はいないの。ねえ、読んでよ!」
「読んで、欲しい……」
メアリーとヴィルに迫られるが、ツグナは「いや、僕は……ちょっと用事があるから」と断る。それを見たメアリーとヴィルはその小さな肩を落として、悲しそうに俯いた。そんなに落ち込まれると思っていなかったので、自分がいけない事をしている気がしてきたのか、ツグナは「じゃあ、ちょっとだけ」とため息をつく。ツグナが押しに弱いと自覚した瞬間だった。
先程昼食で使ったダイニングルームでメアリーとヴィルに囲まれながら、ツグナは分厚い革表紙を捲った。だいぶ古いのか捲っただけで埃のようなものが舞う。ページも上だけではなく全体的に黄ばんでいて、ボロボロだ。一体いつの本なのだろうかと疑問に思いながら、ツグナは一番初めに出てきた文字を声に出して読んでいく。
「えっと。昔々、王都から見放された辺境の村にルミネアと言う美しい村娘がおりました。ルミネアは働き者で、優しく、村の者から愛されていました」
「ツグナ兄ちゃん! 王都って? 辺境って何?」
「えっと……えっと?」
「王都は国の中心部。辺境はその中心部から離れた地域や国境の事を言うよ」
聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには教会で一番初めに出会った青年のコナーが立っていた。出会った時よりお淑やかで、いかにも聖職者っぽい。
「随分古い本を読んでいるね、君達」
「コナーさん! 神父様と話してたんじゃあ……」
「ああ。話し終わった後にレイ君とすれ違いになってね。君たちの様子を見に行って欲しいと頼まれたんだ。ツグナ君がちゃんと文字が読めているかどうかも」
ツグナはその言葉に反応して眉を顰める。あいつ、やっぱり適当に言ってたんだな。確信がないなら最初から頼むなよと、心の中で悪態をつく。人を避けようとするのが悟られているのだろうか。だから、人と関わらせるために―――そこまで考えてシアンが思い浮かび、沈痛する。
あいつは面倒みが言いわけじゃないけど、先の事をひとまわりもふたまわりも考えているんだよな。舞踏会のあのスカスカな計画がいい例だ。まさか、今回も人にはああ言っといて、何か裏があるんじゃないかとツグナは今更冷や汗を垂らす。
「でも、ツグナ君文字読めるみたいだし、その心配はなさそうだね。誰かから教えて貰ったことが?」
「……はい。そうです、一応。でも、あまり自信がないので……その、変わっていただけませんか」
ツグナは開いたページの続きを指で刺しながらコナーに押し付ける。その言葉は嘘ではない。実際、シアンに文字を教えられたのは本当に少しの時間だけだ。あとは自分で調べろだとか言って意味だとかはろくに教えられたことはない。まあ、最近はたまに執事さんに教えて貰ったりしたことはあったけれど。
「え? まあ、僕でいいならいいけど……時間あるし」
「誰でもいいよ! 早く続き読んで!」
「……読んで」
コナーが答えを求めるようにメアリー達に顔を向けると、二人は気にせずに続きの催促をする。読み手が変わったところで二人は続きが読めればいいようだ。気を使うコナーにツグナは特に気にしないと口を閉ざして首を振る。
「じゃあ、続きから……コホン」
咳払いをして息を吸ってから、コナーはツグナが読んでいたページの続きから音読し始めた。もうここにいる必要はなさそうだとツグナは立ち上がったが、隣に座っていたメアリーとヴィルに腕を引っ張られ、無理やりその場に居続けることを余儀なくさせられる。
「十六歳になったルミネアは、村長から山奥にある古びた教会の掃除を命じられました。この村では十六歳以上の者が教会の祭壇の掃除を月に一度するしきたりなのです」
「しきたりって?」
「昔からの習慣づけられた約束みたいなものだよ」
コナーは本を音読しつつ、質疑にも丁寧に答えた。メアリーの問いはツグナにもほとんど分からないので、聞いているだけで勉強になる。いつの間にかツグナも部屋に戻ることを忘れて聞き入った。
「そこには一つだけ守らなければいけないルールがありました。それは、決して教会で名前を呼ばれても答えてはいけない事です。本当にそんなことがと疑念に思いながらもルミネアが教会に行くと、祭壇の掃除中に確かに声が聞こえてきたのです。ルミネアよ、ルミネアよと。ルミネアは村長に言われた事を忠実に守り通し、そして教会の祭壇の掃除を命じられてからあっという間に一年の月日が流れました。ある日、ルミネアが祭壇の掃除をしていると、今までとは違い、助けを求める声が聞こえてきたのです。その悲痛な声にルミネアは思わず約束を破り、答えてしまいました。ルミネアが声を辿ってその教会の地下へと向かうと、そこには────」
「おや? こんな所で何を読んでいるんだね? コナー」
次の展開に聞き入っていたツグナ達は思わず肩を大きく震わせる。コナーが音読を止め、顔を上げるとそこにはドミニク神父とレイの姿があった。
「神父様! レイ兄ちゃん! 話は終わったの?」
「え? ああ、うん。というかお前らいつまでここにいるんだ? もう聖歌隊の練習始まるぞ?」
呆れたように見つめるレイにメアリーは「えっ! もう時間!?」と周囲をキョロキョロと見回す。落ち着きのないメアリーに目を取られていると、先程まで読んでいた革表紙の分厚い本を見て、ドミニク神父は慌てたように本をコナーから取り上げる。
「コナーよ。何故これを……この本は私の書斎にあるものだぞ!」
「え? でも、これは……」
コナーは笑顔で見つめてくるドミニクに思わずたじろぐ。ドミニクの書斎は入ってはいけないのがこの教会のルールらしい。あれ、でもこれを持ってきたのってメアリー達だよな? ツグナは思わずメアリーの方を向いてみると、焦ったメアリーは「聖歌隊に遅れるー!」と大袈裟に言ってその場から逃げ出した。ヴィルも「待ってえ」とメアリーの後に続いて走り出す。
「どういうことか説明してくれるな?」
「ほ、本当に違うんです! あ、ツグナ君! 説明してくれよ!」
「あ、えっと……。僕も聖歌隊があるのでこれで……ごめんなさい!」
涙目になって助けを求めるコナーに、ツグナはこの先の面倒事が頭に浮かび思わずその場から逃げ出す。近くにいたレイは「すみませんコナーさん。後で俺からあいつらに言っておくんで、今日のところは」とその場を去った。後ろで「そんなあ!」とコナーの悲鳴が聞こえたが、駆け出す羊達が振り返ることはなかった。
午後からは礼拝堂で聖歌隊の一人として練習に励む事になっている。これが終われば後は夜の礼拝と食事をとって寝るだけだ。早く自分の部屋に戻りたいと思いつつ、初めての聖歌隊にツグナは胸を高鳴らせる。ところどころしか聞いたことはないが、賛美歌を聞くのは正直嫌いじゃなかった。けれど、それは開始数分で絶望へと変わった。
「えっと。兄弟はとりあえず音のとり方からだな」
レイはそう言って、苦笑いを向ける。歌声の適正を見ようとしたがこれは酷い。まるで断末魔のような金切り声を聞いているようだった。音程の仕組みも分かっていないようだし、これは基礎の基礎から始めないと上達は難しい。
「シスターイライザ。俺、こいつに音の取り方教えるから、そっちは通常通り練習していてください」
「え、ええ。その方が良いみたいね」
レイの言葉に答えるイライザの表情も口端が引きつっている硬直した笑顔だ。二人の会話を見て、ツグナは酷く落ち込んだように背中を丸めてため息をついた。
「そんなに……酷いか? 僕って」
「いや、初めてなんて誰でもそんなもんだよ。兄弟は今までに歌ったことないのか? 賛美歌とか」
それを聞いて目を逸らす。ブラッディ家の礼拝に出ていれば歌っていたのだろうけれど、ツグナは密室に大勢の人が集まる事から敢えてその場を避けていたのだ。つまり、歌ったことは皆無である。
「いや、ないです」
ツグナが答えると、どおりでと言った具合に受け止めてから「歌を聴いたことは?」とレイが問いかける。確かに邸にいた時も聞こえてきたことがあったが、まともに聞いたのはここに来てからが初めてだ。「今日初めて聴いた、です」と声を小さくさせて答えるツグナにレイは改善策が見つかったように笑みを浮かべた。
「じゃあ、まずは音を聞く事からだな。混成合唱は高低のある音の羅列が重なって初めて一つの綺麗な形になる。けれど兄弟は高低の出し方が分かっていないから、まずは自分の音域を知らないと。それが出来ればすぐにあっちに混ざれるさ。聞いたところ兄弟は声が高域で伸びも通る綺麗な声をしているし、あとはリズム感と音程さえ掴めればすぐだよ」
その二つを身につけるのに時間がかかりそうだとツグナは落胆して肩を落とす。とはいえ、今回のシアンに送り出されたのが聖歌隊に入る事だから仕方がないのか。というか、ここまでしてシアンの言うことを聞く理由はあるのだろうかとそもそもの自分の行動について考えた。
「まあ、実践あるのみだ。俺が音を上げて声を出していくから兄弟は真似していってくれ」
レイは持っていた賛美歌を見ながら声を出してツグナに教え始める。隅で練習するそんな二人の様子に、子供達を指揮するイライザは優しく綻ぶような笑みを浮かべるのだった。
それから聖歌隊の練習は日が沈むまで続いたが、ツグナが子供達と混ざれることはなかった。
練習後、各自一時間の休憩を挟んでからそのまま礼拝堂で夜の礼拝が行われた。昨晩はこの時間帯に足を踏み入れたので、ようやくこれでこの教会に来てから一日が経過した事になる。
それからは、昨夜と同じようにダイニングルームで夕食をとった。昨日と同じように端に座っていたが、いつの間にかメアリーとヴィル、レイに囲まれていて、食事中に話しかけられるので大変食べずらかった。だが、不思議と悪い気はしない。初めてリトアに家族だと言われた時は、その家族という言葉の概念が理解できずに戸惑ったけれど。きっとこの、こそばゆいような胸の暖かさがそれなのだろうと、ツグナは思った。
「ツグナ君、皆と馴染めているようで良かったですね」
「ああ、彼には人を惹きつける何かがあるんだろう。人見知りのヴィルにあの顔を向けさせるなんて大したものだ」
ツグナの周囲の賑やかさに他の子供たちも釣られて集まっている。一番端に座っていた司祭ら六人は、そんな子供達の様子を眺めて静かに言った。
「でもいいんですか? 食事中にあんなに騒いで……」
眼鏡をかけたシスター、シェリーはぽつりと呟く。仮にも教会という神の前なのに無礼ではないかと、感じたようだ。
「構わないさ。あんなに楽しそうな子供達を強制するなんて出来ないからね。ルミネア様も子供たちの元気な姿に喜んでくださるに違いない。自分が出来なかったように」
ドミニク神父の答えにシェリーは首を傾げる。それはまるで、ルミネア様が自分の子供に出来なかったような物言いだった。
食事を終えると、各自部屋に戻って就寝の時間となる。一日あれだけのスケジュールをこなせば疲れが溜まって自然と眠りに落ちるのは簡単な事なのかもしれない。今日はよく眠れそうだと、ツグナは二階建てベッドに仰向けになって目を閉じる。しかし、そう簡単に寝させてくれる程甘くはなかった。
「ああ! 頬を抓るな!」
ツグナが勢いよく上半身を起こすと、口を尖らせたメアリーが自分の眼前に座って何度か瞬きをした。その後ろには眉を下げたヴィルの姿がある。
「だってまだ眠くないもん! お話しようよ!」
「お話……したい」
「僕は疲れてるんだ! というかお願いだから一人にしてくれ!」
メアリーに続いて自分のベッドに入ってくるヴィルに、ツグナは思わず声を張り上げた。というか自分より幼いのに何故そんなに体力があるんだと、しがみつく二人の服を引っ張り上げる。
「気に入られてよかったな、兄弟」
しばらくして二階のベッドからレイの皮肉が聞こえてきた。上で悠々と横になっているレイを想像して腹が立ったツグナは、片足で二階のベッドを蹴る。
「おい、お前なんとかしろよ!」
「嫌だね。 今までは俺がやっていたんだ。 さて、俺はもう寝ようかな」
「ふざけんな! いい加減に……!」
気が立って少し力んでしまったツグナが再度ベッドを蹴りあげると、大きな音ともにベッドの上段の板に穴を開けた。上で寝ていたレイは「え」と小さく声を上げて下段のベッドに落ちてくる。
「どうしたんだい!? ……ん?」
その大きな音に近くにいたアマンダが部屋に入ってくると、ベッドの下段にはレイに押しつぶされているツグナの姿があった。その隣ではキャッキャッと笑い声をあげるメアリーとヴィルの姿もある。その後、アマンダの怒鳴り声が響いたのは言うまでもないだろう。その日は、レイと二人で無事だった下段ベッドを使うはめになった。
「狭い……もっとそっちに行ってくれ」
「ベッドを壊したのは誰だっけ」
意地悪に放たれたその言葉にツグナは悔しそうに下唇を噛み締めてから舌打ちをすると、その場から起き上がる。
「やっぱり床で寝る」
「なんだよ。俺と寝るのそんなに嫌?」
「当然だ! 大体一人用に二人は狭いだろ! それにお前のベッドを壊したのは僕だし、僕が床に寝るのは当然だ」
そう言ってツグナは穴の空いたベッドから布団だけを引きずり降ろす。別に気にしなくていいのにとレイがその光景を見つめていると、ふと、ツグナに向けた視線が項に刻まれた文字を捕らえた。何が書いてあるのだろうと、興味本位にレイはツグナの項をじっと見つめる。
「R-207?」
ツグナの持っていた布団が落ちた。ツグナは瞬時に項を抑えながら、レイの方へと振り返る。動揺と恐怖に揺れた瞳がレイを捉えていた。
「なあ、それって……」
レイはここまで呟いてから後悔した。ツグナの瞳は涙を浮かべ、体は凍えるように震えていたからだ。その涙にレイはギョッと目を見開いてから「大丈夫か?」と手を伸ばす。ツグナはブラッディ家に来たばかりの頃と同様に、怯えた瞳でその手を払った。乾いた音がやけに大きく響き渡る。
シアンと初めて出会った時も、ツグナは同様に自分の被験番号に対して大きく気を動転させた。しかし、シアンが名前のなかった自分に名前をつけることで、一時的にその恐怖から解放されていたのだ。使用人に怯えていても、シアンに気を許せていたのはそれもあってからだろう。あれ以来、シアンが実験施設について何一つ聞こうとしなかったのも助けられていた。こいつは何も知らなかったから、疑問に思ったのも当然のはず。こいつは悪くない、のに。
「……ご、ごめ」
「いい。もういいから……だから早く寝ろ」
ツグナは低い声で冷たくあしらってから、毛布の中に包まった。毛布に顔を埋めているせいで自分の吐息が、早くなった鼓動が大きく聞こえてくる。その丸くなった毛布を見て、レイは力なく俯いてから背を向けるようにして横になった。
翌日。昨夜のことが未だ気まずいツグナは、レイを避けるようにして午前中を過ごした。今日はレイと挨拶ぐらいしか会話を交わしていない。レイが悪くないのは百も承知している。けれど、会うのが嫌というよりは怖かったのだ。
被験番号……あれは人間以下の証明である。レイにその知識があるかは定かじゃないが、例えそうでも人に見られるのは避けたかった。
午前中の仕事が終わり、あっという間に昼休憩の時間になる。長引けば長引くほど気まづくなっていき、心は黒い歪のようなものが這いずり回っているようだ。
「あ、ツグナ君」
食器を片付けに行った帰り道、背後から聞こえてくる声に怯えながらも振り返る。
「えっと……」
「助祭のコナーだよ。昨日一緒に本を読んだよね?」
「ああ。そう、でしたね」
目を逸らしながら答えるツグナにコナーは落胆して肩を落とす。助祭という事もあってか、どこか存在感の薄い男だ。とはいえ、今は人と話すほどの余裕があるわけじゃない。
「ごめんなさい……あの」
「もしかして、レイくんと何かあったのかい?」
コナーはツグナの心情を読み取ったかのように問いかけた。レイ、の言葉にツグナの肩が小さく震える。
「あ、えっと。その……」
「あはは。やっぱりか。今朝の二人、様子がおかしいと思ったからさ」
言葉を濁らせるツグナに、コナーは軽く笑ってみせた。
「これはどうでもいい話なんだけど。僕はさ、物覚えが人より悪かったから、お前が聖職者になるのは無理だって言われた事がある。修道院を出て初めてこの教会に来た時も不安でいっぱいだった。……でも、こんな出来損ないの僕をドミニク司祭はお見捨てにならなかった。司祭だけじゃない、シスターや子供達もだ。特に古株のレイ君にはこの教会について色んなことを叩き込まれたよ。皆も彼も優しく僕を受け入れてくれたから、今僕はここにいる。ここの教会の人達はみんな優しいよ。レイ君もいい子だから、君のことも分かってくれるさ。きっとね」
「……そう、ですね」
コナーの笑みにツグナは俯いたまま震えた手を抑えるように拳を作る。教会に来てからそれは知らされた。ここの人間は無理に過去を詮索しようとしない。シスターも、レイも。それが彼らなりの優しさなのだ。
「あ、一方的に話してしまってごめんね。呼び止めた本題はこれ。君の聖書と賛美歌だ。朝と夜の礼拝、それから午後の聖歌隊で使うからなくさないようにしてくれよ」
そう言ってツグナに分厚い本を二冊持たせる。想像した以上の重さにツグナは思わず前によろけた。本をまじまじと見ていると、顔を上げたコナーが「ほら、お迎えだ」と言ってツグナの背後を見つめる。
ツグナは思わず振り返ると、そこには「やっと見つけた」と駆け寄ってくるレイの姿があった。ツグナは思わず後退しそうになったが、俯いて立ち止まる。
「……あ、あの。ご、ごめ」
「ごめん!!」
目を伏せて謝罪の言葉を口にしようとしたツグナの声は、威勢のいい声によってかき消される。ツグナが見上げた目先に映った彼の表情は、申し訳なさそうに歪んでいた。
「何も考えずに無神経だったよな。誰にだって思い出したくない過去はある。ここに来る人間なら尚更だ」
レイはそう言ってツグナの瞳をしかと見つめてから、手を差し出す。
「その……もし許してくれるなら、また一緒に歌の練習をしないか? ツグナが良ければだけど」
レイは照れているのか顔を赤らめて目を逸らしている。今まで自分より幼い子供達を相手にしていたせいか、同じ目線の人間と仲違いした事が初めてだったのだ。だからこそ、仲直りというものを知らない。不器用だなと、思いつつもコナーはツグナの背後で見守る。
差し出されたレイの手は重なり合ったあのシアンの手とは違って、微かに震えていた。拒まれることへの怯えなのか、それでもその手は下ろさない。自分が一方的に気まずくしてしまったのに、歩み寄ろうとしてくれるレイがとても眩しく思えた。
「うん。よろしくな、レイ」
ツグナは目を細めて口角を緩ませると、差し出された手を握った。
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本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
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※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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