赤ずきんは夜明けに笑う

森永らもね

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第一部 二章

17 突然の来訪者(挿絵あり)

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「なに、この人たち……」

 飛んできた壁の一部で怪我をしたのか、エマの腕からは血が出ていた。腕を抑えながら震える様子を庇うように抱きしめ、リーゼロッテはただ目の前の敵だけを見続ける。ジェラルドを殺し、クリフを殺し、更に過去でのグレッグの話に怒りは頂点に達していた。奥歯を噛み締め、ぴくぴくと口角にシワを作る。

「そんな目で見てんじゃねえよ……ってあれ。あいつ、いねえじゃん。いたろ? もう一人、狼になれるやつ」

 アレクのことを言っているのだろうか。辺りを見回すグレッグの様子に「あいつとはもう縁を切った。だから関係ない」とすかさずリーゼロッテが返す。

「あ? なんだよ、ついに見捨てられたのか? そりゃあ、そうか。アンタと関わるとろくな目に遭わないもんな」

 どくん、と鼓動が高鳴る。あいつの言う通りだ。自分といるからこんな目にばかり遭う。クリフや父さんのようになる前に、何とかしてエマさんを逃がさなくてはと、武器を構えながら睨みつけた。

「聞いたか? あの狼はいないんだとよ」
「聞いてる聞いてる。全く、どうしたものかね」
「おい……やる気あるのか。アンタの嗅覚で探るとか……」

 グレッグの隣にいた黒髪の長身は俯きながら、地面に落ちた瓦礫を横に避けるように蹴りつけた。先程から気になっていた人物にリーゼロッテは眉をしかめる。なんなんだあいつは。グレッグの連れだというのなら敵で間違いはなさそうだが、なんだか異質な空気を纏っている。
 強ばった顔のまま注視していると、黒髪の長身は「それは面倒だなあ」とゆっくり顔を上げた。この世のものとは思えないほど綺麗な金目をしている。切れ長で、やる気の感じられない眠そうな目だ。

「……ん? ああ、久しぶりじゃないか。お嬢さん。あの村でゆっくり休めたかい?」

 唐突に話しかけられ、リーゼロッテは肩を震わせた。久しぶり? 村? 頭に疑問符が浮かびながらも、どこかで見たことがあるような容姿にしばらく考えてから「あっ」と声を上げる。

「貴方……! ローレアズ村の……!」

 思い出した。確か、アレクと出会ったローレアズ村に行く前に、迷いの森で出会った男だ。その異様な空気と人喰い狼が出ると最初に忠告してくれたので、印象深く覚えている。というか、あの村の人達はいい人だとかゆっくり休めるとか言っていたのに、全くの嘘だったと今更ながらに思った。覚えててくれて光栄だよ、と黒髪の長身は人が良さそうに笑ってみせる。

「知り合いだったのか?」
「そ。飯を探してフラフラしてたらその途中で。まさか悪魔だったなんて知らなかったな」
「嘘つけ。あんたら魔族は肉眼で魔力が見えるだろ。見るだけで悪魔か判断できる」

 そうだったけ? ととぼける様子にリーゼロッテは不思議と首を傾げた。嘘つきで魔族? それに黒髪に金色の目……そこまで考えてから一つの想定が過ぎる。

「えっ……まさか……月狼ルーナ・ルプス?」

 ゾッと血の気が引いていき、思わず後退した。あの伝説の月狼―――となると、彼がアレクの父だと言うのか。そう考えてみれば確かに面影がある。

「そうそう。正式名称はね。でも人の姿の時はジークフリートって名前だから、そっちで呼んでくれると嬉しいな。ジークでもいいよ」

 ニコニコと人懐っこく接してくる様子に思わず魔族だということを忘れてしまう。同じ魔族でも、バジリスクとは全然雰囲気が違っていた。

「……まさか。あの村で起こった人喰い事件、貴方がやったの?」

 自分が村に到着する数日前に起こった人喰い事件。けれどもあの時、アレクはあの流電石の牢獄に捕らえられていた。本人も覚えがないと言っていたし、まさかと口に出す。

「ああ……あまり好きじゃない味だったなあ。あの女」

 その答えにすぐ確信する。やはりアレクはあの事件後に人を食べてはいなかったのだ。なんだか嬉しくなりながらも、もう自分には関係ないとハッとして切り替える。
 目の前には仇と魔族。はっきり言って最悪だ。月狼の方は敵意が感じられないが、いつ襲ってくるかも分からない。自分の背中の方に押し出しながらも小声で「エマさん」と声をかける。

「私が注意を引くので、隙を見てここから逃げてください。お願いします」

 ギュッと拳を固め、顔を険しくさせる。元より、一人旅を始めたら真っ先にこいつを探し出して殺すと決めていた。あっちからやってくるなんて手間が省けていい。そう、踏み出した一歩を強く蹴りつけ、距離を詰める。

「……っ!」

 殺気を込めて振りかざした剣鉈をグレッグに容易く受け止められた。殺気高いな、と口元を歪めてグレッグが足をかける。少しバランスを崩したリーゼロッテはそのまま後ろに側転し、体勢を戻した。父に寄生していたグレッグだとはいえ、男性の力相手ではどうしても劣ってしまう。けれど、今の自分には深く考えている余裕なんてなかった。体を低く構え、体当たりするように続けて剣鉈を振るう。

「クソ野郎……!」

 怒りがただ、自分を突き動かしていた。熱いものが目の縁に溜まる。受け止められ、けれど押し切るように横切ってから、足で剣鉈の軌道と同じように蹴りつけた。

「なかなかやるじゃねえか……!」

 一瞬の隙も与えず攻撃を繰り出すリーゼロッテに、グレッグはクロスボウを向けた。はっとし、地面を転がるようにして避ける。

「へぇ……避けやがった」

 弓とは違い、トリガーを引くだけで放てるクロスボウは近距離でもしっかりと力を発揮する。近くに寄ってこられないように放つが、リーゼロッテは家の中のものを使いながら逃げ回って、避け続けた。必ず矢の先端を向けないといけないので軌道が読みやすくていい。

「すごい……」

 自分より年下なのに、こんなにも軽快に動けるなんて。アレクの言う通りだとエマは感激する。が、何を思ったのかグレッグはクロスボウをエマの方に向けた。

「これなら、避けられるか?」
「な……っ!」

 放とうとする様子にリーゼロッテは慌ててエマの方へと走った。ビュン、と風を切るそれに間に合わないと察し、エマの前に飛び出る。

「リーゼちゃん!」

 肉を突き破る嫌な音がした。ぽたぽたと血が床に滴り落ちる。矢はエマの前に立ちはだかったリーゼロッテの肩に深く突き刺さっていた。ぐっ、と顔を歪め、奥歯を噛み締めて叫ぶのを耐える。なんて卑怯なやつだ。避けられないエマを狙えば自分は庇うしかできないと考えたのだろう。

「……っう、うう……ぐ」
「へえ。凄いな。矢が刺さっても声を出さないなんて」

 ガクガクと震えながら突き刺さった矢を見つめる。見ているだけで痛さが増しているような気がし、目を逸らしながら矢を持った。息をついて引き抜いてみれば、刺さった腕はだらんと力を失う。

「……どういうつもりです? 一般人を巻き込むなんて。貴方は腐ってもギルドハンターでしょう?」
「あ? 別にいいんだよ。獲物に対して手段は選ばない。それが俺たちだ」

 あんたもそうだろ? そう言って攻撃を続けるグレッグにリーゼロッテは近くのテーブルを倒した。台が立った後ろに素早く隠れる。

「無駄な抵抗だな。リーゼ。そんなものか?」

 矢を装填しながらグレッグが投げかける。その言葉を背中で受け止め、床を見つめていると、隣にいたエマが急にスカートを破った。その布で刺された肩の処置をする。

「ごめん……ごめんね。あたしのせいで……」

 少し驚いたように目を見開いてから「いいえ。私こそ。巻き込んでしまってすみません」と小声で返す。やはり、自分と関わる人間は不幸になってばかりだ。痛みより申し訳なさの方が勝る。これ以上抵抗すれば、エマさんも無事ではすまないかもしれない。そう悟り「分かった」と大きめに声を出した。

「降参する」

 何とか両手を上げながら立ち上がり、グレッグの方を向いた。じっ、と見つめ、テーブルの外に出る。

「目的は私でしょ? だから、この人には手を出さないで」
「……へえ。利口になったんだな、リーゼ」

 お前にリーゼと呼ばれる筋合いはないと思いつつも、睨みつけたまま向き直る。武器を下ろせと言われ、両手を上げたままわざとらしく見せるように手を広げ、地面に落とした。そのままグレッグの方に蹴りつける。

「これでいいでしょ。もう……」
「勘違いしているようだな」

 その言葉にリーゼロッテの眉根がぴくんと動いた。訝しげな表情をしていると、グレッグが「俺達は別に、アンタなんかの為にここまで追ってきたわけじゃないんだぜ?」と告げた。
 そこまで聞いた時に、リーゼロッテは違和感に気づく。何故グレッグとの距離がこんなに開いているのかを。持っていたクロスボウの矢が変わっていることに気づき、青ざめる。そういえばこいつ、クリフを殺した時に―――

「そしてもう一つ。俺はアンタを捕らえに来たんじゃねえ。ジェラルドの敵を討ちに来たんだ」
「はっ―――?」

 すぐさま過ぎった想定にリーゼロッテははっとし、テーブルに隠れているエマに飛びついた。グレッグの放った矢はテーブルに突き刺さり、ドゴンと音を立てて吹き飛ぶ。木っ端微塵になったテーブルは破片を撒き散らしながら砕け散り、爆発の勢いで二人は強く、壁に体を打った。天井が崩れ落ち、穴となった屋根から光が漏れる。

「何自分だけ奪われたと思ってやがるんだ、リーゼよぉ? アンタが俺から全て奪った。あの日も、お前を施設にぶち込んでようやくジェラルドがギルドハンターに戻ってくる計画だったのに。お前のせいで、ジェラルドが死んだ! お前が現れたせいで……ジェラルドは一人にならなかったんだ!」

 語りながら歩き出し、壁の前で倒れているリーゼロッテの前で立ち止まった。そうしてから一度後ろに足を下げ、勢いよく蹴りつける。

「かっ……は……!」
「ジェラルドは俺の最高の駒だった! 俺の人生は順調に進んでいた! そのために邪魔なヤツらは排除してやった! あいつの弟も、友達も、妻子も……!」

 何度も何度も体を踏みつけられながら、リーゼロッテは「妻子……?」と呟く。その直後だった。爆煙から現れたエマが落ちていた壁の木材でグレッグを殴りつける。

「こいつ……!」

 目線を離した隙に素早く起き上がり、リーゼロッテがグレッグを蹴りつけた。バランスを崩しながらもこちらにクロスボウを構えて見せるグレッグに構わず向かい、腕を真上に払い退ける。まだ、火薬筒矢のままで撃たないと分かっていた為だ。そこから背後に向けさせるように蹴りつけ、思わずグレッグがトリガーを引く。

「おっと……」

 放たれた矢は高みの見物をしていた月狼の真横の壁に突き刺さった。爆発し、月狼の姿が見えないことを確認して「逃げて!」とリーゼロッテが叫ぶ。それに少し戸惑いながらも、エマは全力でその場から駆け出した。

「ちっ……無駄な足掻きを……!」

 激昂したグレッグはリーゼロッテの腹に蹴りを放ち、その場に尻をつかせる。肩まで伸ばされた黒髪を鷲掴み、宙に持ち上げた。呻くリーゼロッテは先程壁に打ち付けられたせいで、体が上手く動かない。

「あーあ。行っちゃった」

 途端に背後から声が聞こえる。勿論、あんな攻撃でこいつが倒れるなんて思っていなかった。何故追いかけなかった? とグレッグが背中を向けたまま問いかける。

「その方が話は面白くなる。だろ?」

 またわけの分からない事をとグレッグが呆れたように嘆息した。その隙に、首を伸ばし、リーゼロッテがグレッグの腕に噛み付く。

「っ! いってぇ!! このクソガキが!」

 思いっきり頬を殴られ、リーゼロッテは地面に倒れた。何度かまた腹を強く蹴りつけられた後、乱暴な手つきで首を掴まれる。鼻血が口元まで垂れ、不快だ。

「ちっ……全くどこまでもムカつく奴だなぁ! あいつを逃がしてヒーロー気取りかぁ? なぁ、リーゼ」
「はっ……あ」
「アンタは俺の邪魔ばかりする……本当に目障りなやつだ。そういうところエリンのやつにも似ているよ。あの女は俺の事に気づいて邪魔をしてきた、唯一の人間だからな……まあ、気づいたところでどうせ無駄な事には変わらなかったが」

 脳の酸素濃度が下がりながらも、必死になって掴んでくる手を殴りつける。けれども力が出ない。

「……ああ、そういえば。アンタには魔物に襲われて死んだって言ってたな。真実を教えてやろうか?」

 喉を押し潰され、息ができなかった。背中を逸らし、口を大きく開けて酸素を取り込もうとする。グレッグの顔がぶれて、視界が定まらない。

「あいつの妻子はここで殺された。悪魔にな。その悪魔を放ったのが、俺だ」
 上を向き、リーゼロッテは血管の這う目のまま喉の奥を鳴らした。




「はあ……っ、はあ……!」

 一方、エマは無我夢中で自分の家に向かっていた。何が起こったか理解出来ていない。けれども、自分の腕に残った痛みが現実をこれでもかと突きつけた。

『私が注意を引くので、隙を見てここから逃げてください。お願いします』

 先程のリーゼロッテの言葉に胸を締め付けられる。自分のために体を張って庇ってくれた。自分を助けるために、降参までしてくれた。普段走ることがないため足がもつれ、その場に倒れる。肩で大きく息をし、フラフラと起き上がった。

「おい……? エマ? 何してんだ?」

 聞き覚えのある声に顔を上げる。そこには不思議そうにこちらを見つめているアレクの姿があった。安心したのか体の芯が熱くなり、同時に涙が溢れる。

「食事持っていったきり帰ってこねえから……どうしたんだよ、その怪我……」
「アレ、ク……!」

 歩み寄るアレクにエマは倒れるようにして抱きついた。動揺し「お、おい」とアレクがその肩に手を置く。

「大変なの……リーゼちゃんが、変な人達に襲われて……それであたしの事庇ってくれて……! あたし、逃げるしか出来なくて……!」

 声が震える。情報のまとまらない話し方に顔色を変えながらも「落ち着けって」とアレクがエマの涙を拭った。

「唐突過ぎてワケわからねえよ……さっきの大きい音と関係が……?」
「説明している暇はないの! 早く助けに行かないと……! このままじゃ……」

 涙目で見上げ、エマがギュッとアレクの腕を掴んだ。その様子にアレクは数秒考えてから「無理だ」と返す。

「……あいつは一人でも十分だって言った。弱い俺が行ったところで足でまといになるだけだよ」

 冷たく返し目を逸らす。本当は心配でならなかった。けれど、昨夜のこともあり、意地を張っているのか足は動かない。

「なんでよ……! あんなに傍に居なきゃって言ってたじゃない! 今行かなかったら一生後悔するよ!!」
「……もう、俺には関係ない」

 そう言って外方を向いた時だ。馬鹿! 張り詰めた声が聞こえた直後、乾いた音が自分の頬を叩いた。目を見開き、熱を持って赤くなった頬をアレクが抑える。

「な、なにす……」
「心配してる癖にいつまで意地張ってんだよ!! リーゼちゃんは、あんたを守るために突き放したんだ!」


 いつにない荒々しい言い方に、アレクは目を丸くした。唖然とし、ただ佇立してエマと向き合う。

「アレク言ってたじゃない! あの子はいつも一人で何とかしようとするって! 今回だって、迷惑かけたくないから! あんたを失いたくなかったからに決まってるだろ! ずっと傍で見てきたくせに、どうしてそんなことも分からないんだよ!!」

 どくん、胸が大きく高鳴った。ああ、そうか。そうだったのか。抑えた頬を中心に全身が熱くなる。狩りに関しては器用なくせに、一人で何でも抱え込むような不器用な奴。あいつはそういう奴だった。父親を自分の為に亡くし、クリフを亡くし、それでなくても追い詰められていたのに。

『私たちの旅はここで終わろう』

 あの時のリーゼロッテを思い出す。真っ直ぐと見つめてはいるが、元気とはかけ離れた、脱力の見える暗澹が灰色の目に宿っていた。思えばエドガーと話し終わってからも様子がおかしかったように思える。
 何故あの時、気がついてやれなかったのだろう。目が覚めたような感覚に声を失った。どんな時も支えるってあの時誓ったのに。自分はまた、間違えたのか。
 ふらりと踏み出すアレクに「アレク?」とエマが声をかけた。ありがとう、そう言ってエマの頭をくしゃりと撫でる。

「……お前はそこで待ってろ。俺があいつを連れてくるからさ」

 向けられた背中は今朝見たものより大きく感じた。ハッキリとは言わなくても目的が分かりエマの表情が明るくなる。そのままアレクは、前へ駆け出した。





「……はっ……」

 酸素を失い、朦朧とした頭でもそれが何を意味しているのかリーゼロッテは理解ができた。漏れ出した息に雑音が混じる。熱を持った耳がドクンドクンと脈打って気持ちが悪かった。

「ドラゴン退治を持ちかけ、ジェラルドの奴を妻子から離し、こちらで準備した悪魔に襲わせた。ちょいと可愛がったやつでな。あいつらは話せないが、決して知性がないわけじゃない。恨みがあれば人を殺すことだってできる。そしてにもそれは、ジェラルドの妻子に牙を向いた」

 ボロボロと涙が溢れた。エドガーの話と合わせ、全てが繋がっていく。こいつは本当に、救いようのないゲス野郎だ。

「哀れなものだよ。失った子供の亡霊にアンタを重ねて、あいつはずっと幻想を見ていた! 不幸なあいつを見ているのは最高に気分がいい。だから、俺もくだらねえ幻想に付き合ってやったのさ!」

 憎悪が胸の奥を蝕んでいく。世界が真っ黒に染っていく。口端から唾液を垂らしながらも、目は真っ直ぐとグレッグを捉えて離さなかった。殺す、殺してやると頭の中をぐるぐると回る。

「家族ごっこは楽しかっただろう? でも、その幻想ももう終わりだ! 俺は運がいい。この地でもう一度あいつの子供を殺せるんだからなあ!」

 首が更に締め付けられる。呼吸することがままならない。意識が遠のき、抵抗していた手がずるりと脱力して滑り落ちた。

「リーゼ!!」

 視界が完全に黒に染まる直前だった。聞き覚えのある声が頭の中に響く。鼓膜に反響し、脳まで伝わるそれに意識を戻した。声の主は首を掴むグレッグに素早く近づいて横に蹴飛ばす。バランスを崩しながらもグレッグは何とか倒れずに耐えた。

「げほ……げほっ……はぁー……はぁー……」

 手から離れたリーゼロッテは床に下ろされ激しく咳き込んだ。大丈夫か? と問いかけるアレクに「な……で、ぎだ、の」と潰れてカサカサになった声で返す。

「私、酷いごと、いっだ……」
「ああ。それは傷ついたし本気で腹が立った」

 間を置かずに返され、リーゼロッテが罪悪感に震え固まる。でも、とアレクが更に続けた。

「お前が死んだら、俺はきっと一生後悔する。それだけは嫌だ。もう、誰も失いたくない……それはお前も一緒なんだろ?」

 自分の心理を悟られたようで動揺した。瞬きを何度か繰り返してアレクを見上げる。ほら立てよと腕を引かれ、立ち上がった。

「説教なら後でいくらでもしてやる。だから、もう一人で抱え込むのはやめろ。分かったな?」
「……うん……! ごめん……」

 もうアレクとは話せないと思っていたのに。涙で視界が霞みながらもリーゼロッテの口元に笑顔が戻った。仲直り、と突き出された拳をぶつけ合う。


「ちっ。やっときやがったか」

 蹴られた横腹を抑えるグレッグに「こいつ……クリフを殺した……!」とアレクが反応する。アカヤケノキで鼻がやられていたが、多少の匂いは覚えていた。眉間に皺を寄せ、アレクが目元に影を作りながら睨みつける。だがその睨みには目も向けず、グレッグは舌打ちをしてから「おい、出番だぞ」と先程から見物していた人物に声をかけた。

「ああ。僕のことは気にせずに。どうぞ続けて」
「元よりアンタの任務だろ!?」

 怒鳴るグレッグにアレクは黒髪長身男を見つめた。なんだか背中がザワザワする。誰だ? と呟く様子に「気をつけて」と声の調子を戻したリーゼロッテが返した。

「……あいつ。魔族の月狼ルーナ・ルプス。つまり……」

 語尾でアレクの空気が変わった。呼吸が乱れ「あいつが……」と瞳孔を開く。いつもと様子が違っているような気がした。

月狼ルーナ・ルプス……こんなところで会えるなんてな……お前のせいで母さんは……!」

 低い声色にゾッと背中に鳥肌が立つ。そういえば出会ったばかりの時に、一度月狼の話を聞いたことがあった。

『あんなやつと血が同じってだけで吐き気がする』

 家族を捨てたのだと、酷く恨んでいるようだった。冷静とは思えない横顔に「待って!」とリーゼロッテが引き止める。間もなく、アレクが月狼に向かって駆け出した。


「伏せ」


 落ち着いた声を聞いた瞬間、アレクは膝からその場に崩れ落ちた。足が重く、地面に張り付いたかのように動かない。

「……は?」

 困惑しているアレクの頭上から「急に殴りかかってくるなんて躾がなってないね」と月狼が言い、そのままグリグリと後頭部を踏みつけた。リーゼロッテも困惑した様子で「アレク!? どうして……」と声をかける。

「わ、かんね……体が、勝手に……」

 起き上がろうとする意思はあるのに全く体がついてこない。震えながら腕を使って体を持ち上げようとするが、強い重力を感じて地面から離れられなかった。

「え? なに、本気で僕を殴れると思ったの?」

 馬鹿だな、と月狼はそのままアレクを勢いよく蹴り飛ばした。地面を転がり、離れたところで呻く。クソ野郎と見上げるアレクの前で、踵に座りニッコリ微笑んだ。

「君って僕の息子? なんだってね。ということは少なからず僕の血が流れているわけだ。知ってるかい? 魔族ってのは、実力主義なんだ。強い者が支配し、強い者に従う。そういう血のルール? ってやつがあるんだよ。だから、君みたいな雑魚は僕に指一本触れられない。理解出来た?」

 残念だったね、とケラケラ笑いながら立ち上がる。魔族内にも序列があったのは知っていたが、こんな特性があったなんて。ごくり、とリーゼロッテが生唾を飲み込む。これが、魔族の力なのか。

「さあて。そろそろ飽きてきたし、折角だから楽しいことをしようか」

 アレクの背中をポンポンと叩き「君、確かアレクだったよね」と月狼が呟く。あれだけ嫌っていたのに、触られてもなんの抵抗もできない。自分がやるしかないと、リーゼロッテは近場に落ちていた自身の弓を素早く手に取った。

「で、あそこにいるのが今の主人、リーゼロッテね。君たち、いいコンビじゃないか」

 気に入ったよ、と不敵に笑ってみせ、月狼はアレクの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。


「じゃあ、アレク。リーゼロッテを喰い殺そうか」


 その言葉に空気が凍りついた。えっ、とリーゼロッテが後退すると同時にアレクは俯きながら立ち上がる。

「……はい」

 虚ろでどこを向いているか分からない目をしていた。不気味に思い、リーゼロッテの足底が寒くなる。直後、アレクは狼の姿に変えた。

「ア……レク?」

 嘘だよね、と言いたげに声をかける。怯えながらもアレクに話しかけようとするリーゼロッテにアレクは容赦なく爪を振るった。反射で避けようとするも爪が当たってしまい、そのとてつもない腕力によってリーゼロッテは容易く壁に吹き飛ばされる。

「ぅ、あ……っ」

 背中を打ち、膝をつく。掠ったものとは思えない深い傷だ。震えながら湯水のように溢れ出る血を止めようと腕を掴む。アレクは本気だ。ゆっくりと向かってくるアレクにリーゼロッテは思わず弓を構えた。けれども動じる様子がない。

「どうしたの……? アレク……! ねえ、止まって……」

 必死に声をかけるが、アレクは聞く耳を持たない。無駄だよと月狼の声を横耳にしながら、続けて攻撃してくるアレクを避ける。

「そいつにもう君の声は届かない。君がそいつを殺さないと、君が死ぬことになるよ」
「そんな……っ!」

 素早い爪攻撃かと思えば、純粋な狼とは思えない身のこなしで前回転し、離れたリーゼロッテを蹴りつける。いつものアレクとは思えない動きだ。転がりながらも地面に手をついて、体を止めた。また再度ふらつきながら後退し、弓矢を構えてみれば、それに向かって容赦なくアレクが突進してくる。このままでは本当に殺される。真っ向から来る風にリーゼロッテは涙目でそう悟った。けれど―――

『これ以上俺に罪を……与えないでくれ!』
『お前は一度俺のことを信じてくれたろ。なら、もう一度俺を信じてみろ。今度からは俺がお前の傍にいる』
『誰もがお前みたいに勇敢じゃないんだ』
『帰ろう……クリフが待ってるんだ』
『お前が死んだら……どうしようっで……』
『うるせえ! こっちは本気で焦ったんだよ!』
『何言ってるんだ? お前はリーゼロッテだろ』
『言ったろ!? お前のそばにいるって! お前が望むならそれについて行くって!! 約束したじゃねえか!』
『説教なら後でいくらでもしてやる。だから、もう一人で抱え込むのはやめろ。分かったな?』

『リーゼ』


 色んなアレクの声が頭に過ぎる。どれも辛くて悲しくて、でもアレクがいたから乗り越えられた大切な思い出だ。真正面まできたアレクが口を開いたところで、リーゼロッテは力なく構えを解いた。

「無理だよ……私、アレクに攻撃なんて出来ない」

 死を悟ったリーゼロッテの笑顔はすぐに消えた。大きなアレクの口がリーゼロッテの頭を飲み込んだからだ。首と体を繋ぐ筋肉をぶづぶづと食いちぎり、首を高く持ち上げてから完全に切り離す。
 周囲に巻かれた水のような血飛沫が飛び、首を失った体に覆い被さる黒い一匹は、そのまま小さな腹部の内臓も貪りくらった。食べたものが舌、続いて全身に広がっていく感覚が心地よく、本能のままに食い散らかし、まだ齢十五程の少女の体を堪能した。血が甘い。脳が、溶ける。

「うえ……ひでえ」

 流石のグレッグもそれを見て引き気味だった。最早生前の姿が分からなくなったその肉塊に向かって歩き「馬鹿だね」と月狼は呟く。

「生物の均衡が保たれるのは一瞬さ。この世に永遠はないんだよ。いつか壊れる日が必ず来る。信頼も、友情も、愛も」

 そうだろ? と黒狼の背中を撫でてみせた。その途端にアレクの意識が戻る。すぐさま映ったのは見覚えのある赤頭巾と惨たらしい死体だった。

「……え?」

 始め、アレクはそれがなんだか理解できなかった。舌に広がる鉄の味。鼻腔をツンと突き刺す腥さ。それらの感触を受け、徐々に目を見開いていく。

「どうだった? 君の好きなリーゼロッテの味は? 美味しかったかい?」

 理解した瞬間に息が激しく乱れ、その場で荒い呼吸音が響いた。震えながら後退し、赤子の喃語のような声が漏れ出る。


「う……うおおおおおおおお!!」


 絶叫がけたたましい程に空間を揺らした。だが、遠吠えの気迫は悲しみに飲まれ、一切の恐怖を感じることがない。それを見て、暴れるアレクの頭を月狼はゆったりとした手つきで撫でた。その瞬間に全身が脱力し、アレクが人に戻って倒れる。

「さて。決着がついたようだし。僕達の目的を果たそう。彼を女王の元に」

 動かなくなった死体に横たわるアレクを見て、月狼は楽しそうに笑ってみせた。
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