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第一部 二章
15夕闇に眠る(挿絵あり)
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あの開墾地からだいぶ離れ、リーゼロッテとアレクは多くの人工物が土にまみれている丘陵へとたどり着いた。雨のせいで体が冷え、足場の悪さも相まって体力を激しく消費する。このまま走り続けるのは賢明ではなかった。
幸い、振り続ける雨で足跡を消してくれるため、すぐに追っ手が来ることもない。なによりも早く、混乱している頭を落ち着かせたかった。
傾いてはいるが、まだ雨を凌ぐだけの機能が残っている廃墟に入って、数時間―――いや、実際どれぐらいいたのかは分からない。かなり長い時間だったような気がする。
「ひぐっ……う゛う……ひっ、う……うう……」
あれからずっと、リーゼロッテは地面に顔を伏せ、クリフの死を嘆き、泣いていた。声は枯れ果て、今では鼻のすする音や横隔膜を不定期にひくつかせることしか出来なくなっている。未だに信じられないのと、初めて見る崩れ落ちたリーゼロッテに、アレクはただ座ってぼうっと地面を見続けた。
あのクリフが、まさか……最後を思い出してはじわりと目の奥が熱くなる。信じられない、信じたくない。けれども事実、見慣れたあの栗毛の影がどこにも見当たらない。どこにも、いない。あんなに、傍にいたのに。見ない日なんて、なかったのに。
これまでクリフと一緒に過ごしてきた記憶が次から次へと頭を過り、思い出に浸る以外の行動が全て無気力になった。母を亡くした時と全く同じだ。
ドサッ
視界外で何やら音がした。目線を持っていくと地面に顔を伏せていたリーゼロッテが完全に横に倒れている。
「リーゼ……? リーゼ!」
ハッとし近づいて、体を仰向けにするように揺さぶる。見ればリーゼロッテは呼吸を浅くし、耳まで顔を真っ赤にしていた。一瞬だけ人間に戻り、アレクが慌てて額に手を置いてみる。
「酷い熱……おい! しっかりしろ!」
その声に呻きだけで返された。小刻みに震え、腕を抱く様子に、とにかく暖めなくてはと狼の体で包み込む。考えてもみればここ最近は無茶の連続だった。疲労と、大切な者の死。弱っていた肉体を更に雨で濡らしたからだろう。受け止められない真実に悲しんでる暇もなく、アレクはリーゼロッテの看病に勤しんだ。
クリフに乗せていた荷物も殆どなくなった今ではできることも限られてしまう。リーゼロッテの火薬筒から火薬を拝借して火を起こし、雨の中狩りに行って飯を作るなど、何とか自分に出来ることはしたつもりだった。
だが、数日経ってもリーゼロッテの熱は良くなるどころか悪化するばかり。寝ている間も荒い呼吸が止まらない状態だった。
これ以上はこいつの死に繋がる。そう直感し、アレクはリーゼロッテを背負うとその廃墟から駆け出した。岩山に囲まれた風の吹き荒れる峽を越え、渓流を越え、無我夢中で走り続ける。
「頼む……あってくれ……!」
これだけ人工的な物を目にしてきたんだ。絶対、どこかに村があるはず。走って、走って。祈るように突き進んだ。体力の限界でも、途中で転倒しようとも、アレクが足を止めることはなかった。
「じゃあ、母さん。水汲んでくるから」
「気をつけなさいよ」
「大丈夫だって! どうせ、井戸近いし~」
とある村の一軒家から木のバケツを持った茶髪の若い女性が出てきた。バタンと扉を閉め、鼻歌を歌いながら黄昏の村を軽い足取りで歩く。今日も父さん帰ってこなかったなあ、なんて呟いた矢先、家の近くでボロボロになって倒れている黒狼を見つけた。
「えっ、なにこれ……狼? しかも死んでる……」
というかなんで青い外套をつけているのだろう。念の為誰か呼んで来ようかと思い、その場から離れようとした時、勢いよくくるぶし辺りを掴まれた。それも人間の手だ。振り返ってみると、そこには黒狼の姿がなく、先程の狼と全く同じ青い外套をつけた青年が横たわっていた。
「お願い……お願い、します。リーゼを……リーゼを助けてください……」
名前も知らない青年はそのまま手足を縮め、地に顔を伏せたまま土下座するように頼んだ。傍には顔を真っ赤にさせた赤頭巾の女の子が横たわっている。先程は黒狼の巨体で隠れていて見えなかったのだろう。驚いていた女性は必死に頼み込む青年を目に映し、戸惑いながらもゆっくりと口を開いた。
◆
次にリーゼロッテが意識を戻した時、目の前には見知らぬ天井が広がっていた。眠気を引きずることなくスッキリとした様子で上半身を起こしてみれば、途端に視界が傾く。思わず片手で目元を覆い、布団を見つめながらパチパチと瞬きを繰り返した。
ここは一体どこだろう。それまで自分は何をしていたんだ? 次から次へと疑問が思い浮かんで、白紙だった脳内を更に混乱させる。
そんな時、リーゼロッテの真横にあった部屋の扉が開いた。入ってきた黒髪の青年はこちらを見るなり目を見開き「リーゼ!」と嬉しそうに駆け寄ってくる。かと思えば勢いよく飛びつくように抱き締めて「良かった! 気がついたんだな!」と体を揺らした。
「アレク……私……」
未だに何があったのか分からないと混乱していると、同じ一枚扉から「ちょっと! 病人に無理させるんじゃないの!」と気の強い女声が聞こえてきた。前髪を流した癖のない暗めの茶髪にアンバー色のたれ目をした女性がじっとこちらを見つめている。
「いちいち言われなくてもそれぐらい分かってるっつーの、エマ」
抱きしめる手を解き、アレクがリーゼロッテから大人しく離れる。エマと呼ばれた女性は「全く、そういうところガキなんだから」とため息をついてリーゼロッテの前まで歩いた。ガキじゃねえし、と隣にいたアレクがボソリと返す。
「初めまして、リーゼちゃん。あたしはエマ。アレクから話を聞いてるよ。体調はどう?」
「え……あ、はい。だいぶ良くなった? かも」
その返しに「そう、それは良かった!」とエマが口角を上げて笑う。その元気な笑顔からこの人の人物像がなんとなく分かった気がした。けれども、未だに状況の処理が追いつかない。確か、気を失う前は―――
「あー……っと、まだ混乱している感じ?」
「そりゃあそうだろ。こっちはここに来るまで色々大変だったんだよ。もう、こっちに来て一週間……」
一週間、の言葉にリーゼロッテは反射的に立ち上がった。窓の外を見る限り、ここはどこかの村なのだろう。追っ手が来る、よりも一週間もこの村に滞在していることに青ざめた。早くここから出ないと。咄嗟に部屋を出ようとするリーゼロッテに「おい、どうしたんだよ」とアレクが腕を引いて止める。
「アレクこそどういうつもり!? 一週間も村の一軒家に身を置くなんて! 分かってるでしょ!? 私は……」
ローレアズでは村人から追われ、バジリスクの危機から救ったナサゴ村からは悪魔と判明するなり早々に追い出された。他にも行く先々の街で悪魔の扱いは散々アレクと共に見てきたはずだ。
悪魔だと追われて、そのせいで父さんが。クリフが―――気を失う前のことを思い出し、じわりとまた涙が込上げる。一方アレクは少しキョトンとしてから「あー、そういうことか」と頭をかいた。
「それに関しては気にするな。こいつ、お前が悪魔だって知っているから。知った上で助けてくれたんだ」
「……え?」
その言葉に「こいつってねぇ? 年上には敬語使いなさいよ」と腕を組んでエマがアレクを睨みつける。けれどもそんなやり取りはリーゼロッテの耳に入ってこない。悪魔だと既に知られている。まさか、彼女も懸賞金目当てで……とふらつくように後退した。
「……ひとまず、目が覚めたしさ。下に降りてきなよ。お腹すいたでしょ?」
もう一週間近く食べてないんだからと、エマが気を使って先に部屋を出ていく。それに対し「俺達も行こうぜ」と前を歩くアレクに「待って!」とリーゼロッテが不安げに見つめた。
「あの……私……わ、たし……」
俯きがちなリーゼロッテに「知ってる。不安なんだろ」とアレクが返した。
「大丈夫。あいつらはいい奴らだ。俺が保証する」
「でも……罠かもしれない。だって……」
「俺も、初めはお前みたいに疑っちまったけど、見ず知らずの俺たちを治療してくれた上にこうして家に匿ってくれた。村の奴らに他言なんてしてたら一週間もこうして呑気にお前の看病だって出来なかったさ。動けないお前の方が奴らには好都合だろ? 動けるまで何事もなかったってことはそういうことだ」
お前も早く来い、そう言ってアレクは先に廊下の階段を降りていった。その背中にリーゼロッテは困惑する。空中で引き留めようとして伸ばした手が何も得られずに降ろされ、俯きながら考えた。けれどどんなに考えても何も思い浮かばない。ただ胸の中がモヤついているだけ。思考しているようで頭の中は真っ白だ。
『お前も早く来い』
頭に残っていた一番信頼できる青年からの言葉に、リーゼロッテは自然と前に踏み出した。ゆっくりと、歩き方を覚えたばかりの子供のようにぎこちない足取りで階段を降りる。なにやら楽しそうな声が聞こえてきて、部屋の入口から顔を少し覗かせた。
「お、きたな。今日の夕飯、俺が作ったんだよ。食べるか?」
部屋からは、ずっしりと味わい深い香りが溢れ出ている。とろみのある液体を器に分けるアレクの様子にリーゼロッテは小さく腹を鳴らした。腕で押え、首を横に振る。
部屋の中には先程のエマという女性の他に中年の優しそうな女性がいるだけだった。母さん、と呼んでいるところを見るに、エマの母親なのだろう。
「リーゼちゃん。これ、良かったら」
はい、とエマが歩み寄り、差し出してきたのは水の入ったコップだ。大きく肩を震わせて、身を縮こませる。
「そ、それ……毒とか痺れ薬とか入ってる……?」
恐る恐る見つめて呟くリーゼロッテにエマは「え?」と驚きの声を漏らした。そこから吹き出すように豪快に笑い「まっさか~」と腹を抱える。
「どうせ入れるなら、こんなわかりやすいやつに入れたりしないよ~ほら……なんともないでしょ?」
半分を目の前で飲んでみせ「リーゼちゃんは面白い子だね」と頭を少し強めに撫でた。ほんと、そっくり、と呟きコップを渡す。
「その水はなんともないよ。また新しいやつ持ってきたら怖いだろうし、残りはどうぞ」
お姉さんの残りで悪いけど、と付け足し、エマが部屋に戻る。乱れた髪を直すように頭を触り、リーゼロッテは戻っていくエマの背中を見つめた。そうしてから波打つ水面に視線をやり、ゆっくりと水を口内に流す。なんともない、ただの水だ。
「食べないのか?」
折角俺が作ったのにと、器を一通り並べ終わったアレクがリーゼロッテに問いかける。食卓に並べられたご馳走に「相変わらず美味しそうね」とエマがアレクの背中から覗き込んだ。随分仲がいい。自分が寝ている間に打ち解けていたのだろうか。
少し気になりながらも匂いにつられ、フラフラと空いている食事の席に座った。目の前には久々に見かけたパンと、猪肉のスペアリブ、豆入りスープが並べてある。どれも香草独特の匂いがし、湯気に乗って鼻の奥を擽った。近くにいるだけでポカポカと温まる。
「いただきます」
三人の揃った声に、リーゼロッテも慌てて手を合わせた。キラキラと輝くスープを息で冷ましてから口に含む。旨み成分と同時に全身に温かさが広がっていき、なんだか不思議と優しい気持ちになれた。それを皮切りに勢いがつき、次々と口の中に入れていく。
『あと一日足らずでこの金は我々のものになるんだからな』
『こいつらは生きていること自体が悪だ』
『良かったな。お前らみたいな罪深い命にもちゃんと人に役立てるって存在価値があったんだ。こうして直接命を使う事でな』
『私たちがギルドハンターを呼ぶ前にどうか、この村を出て行って欲しい』
これまでのことが頭を過る。冷徹に浴びせられる人々の言葉や目の前で朽ちていく出会いで得た形だったもの達。父を失ってから、本当に色んなことが重なってきた。目の前が霞み、ポロポロと温かな雫が頬を伝って落ちていく。
「リーゼ……お前……なんで、泣いて」
アレクに言われて初めて、自分が泣いているのだと気づいた。自分でも不思議だった。何故泣いているのか分からなかった。暖かい食事によって心が満たされたせいだろうか。
「……ごめん……ごめんなさい……とってもあったかくて、美味しいから」
鼻水を垂らして泣きじゃくり、食事どころではなかった。その様子にアレクを始めとする他二人も、リーゼロッテのこれまでを想像して何も言うことはなく、ただ優しい目で見守った。
◆
「なんで。何もせずに匿ってくれたんですか……」
食事を終え、アレクが食器洗いをしている最中のこと。ある程度落ち着いたリーゼロッテは座ったまま恐る恐る親子に問いかけた。
「貴方達を最初に見つけたのはエマよ」
ティーカップを持ったエマの母、クレアは隣に座っていたエマに向かって確かめるように答えた。そう、とマグカップから口を離してエマが返す。
「正直、初めはすっごく怖かった。なにせ、自分よりはるかに大きな狼がボロボロで倒れているんだよ? だからあたしはその場から逃げようとした。でも一瞬目を離したら狼は青年の姿に変わっていてね。自分も怪我が酷いのにさ、リーゼロッテを助けてくださいっていうの、そいつ。ボロボロで泥まみれで……それなのにそいつは頭を地面に押しつけて必死だった」
「おい! その話はするんじゃねえって言ったろ!! 土下座なんてだせぇし情けないしカッコつかないから!」
思わず手を止めて振り返り、怒鳴るアレクに「あー、はいはい。分かったから」とエマが適当に手を振って返した。
「まあ、そんなわけで。青年の必死な土下座を目にしておいて見捨てられる程、あたしは人でなしじゃなかったってこと。ついでに言うと、あたしは悪魔を迫害する文化とか正直好きじゃなかったし、興味もないから。それは母さんも同じ。だから、男手も足りなかったし、家事とか手伝ってくれるていで匿ってたみたいな」
これでいい? とエマは頬杖を解いて椅子の背もたれに寄りかかった。はあ、とリーゼロッテが未だ疑いの目でエマに返す。
「安心して。別にこれから突き出そうなんて考えちゃいないよ。幸いこの村に一人だけいるギルドハンターは優秀だけど、ほとんどいないに等しいし。村も辺境だからゆっくり過ごせると思うよ?」
「……そうですか」
多分。多分だけど、きっと本当のことなのだとリーゼロッテは思った。それでも信じるのが怖くなってしまっているのは、これまでの経緯があったせいだ。俯いて考えていると何やら目線を感じ、顔を上げる。
「あの……なにか?」
「いや、気にしないで。なんだか懐かしい気持ちになっちゃってね」
リーゼちゃん? でいいかなとエマに話しかけられ、縦に頷く。それを見て、エマが目の前で小さく手招きし、思わず前に乗り出した。
「実はさ。アレクのやつ、家事の間にちょいちょいリーゼちゃんのこと見に行ってたの。夜、寝る時なんかは、ベッド用意してるのにリーゼちゃんに付きっきりで……傍にあった椅子に座りながら寝てた」
小声で打ち明けられた事に「アレクが?」とリーゼロッテが目を合わせる。エマは頷きながら更に続けた。
「さっきも土下座はダサイって言ってたけどさ。あそこまで自分より誰かを優先させて必死になれるのってなかなかできることじゃないと思う。それだけ、リーゼちゃんが大事なんだね……かっこいいやつじゃん」
だから彼に感謝しなよとエマが微笑し、肩に手を置いた。アレク、の言葉に反応したのか「呼んだか?」と気にするように青年が振り返る。自意識過剰! とエマが素早く会話を切った。
「はあ。ほら終わったぞ、皿洗い」
ぴっ、と水を払い、アレクが布で手を拭く。確認するためにエマが立ち上がり、洗われた食器をまじまじと見つめた。
「ほんと、家事は手早いね。この調子で村の人と狩りにもいって欲しいけど?」
「狩りは苦手なんだよ……そこにスペシャリストがいるから、そいつに頼むんだな」
疲れたと、アレクが頭上で腕を伸ばす。なんだよ弱虫、と顔をしかめるエマに「んだと~!?」とアレクが喧嘩腰に答えた。
そんな二人を見てリーゼロッテは思う。初めて会った時は弱気で、死にたいなんて言うから腹が立った。普段の強気なイメージとは違って戦闘面では逃げ出すし。それでもなんだかんだといつもアレクには助けられていた。
今回の事も、しがみつく自分を連れ出してくれなければ、クリフと共にあそこで死んでいただろう。自分一人じゃ、ここまで旅を続けることは出来なかった。アレクには感謝しなきゃなと、眉を下げながら笑う。
トントン。落ちかけた日が窓から差し込む中、軽快にノックをする音が聞こえた。真っ先にエマが反応し「私が出るよ」とドアを開ける。そこに立っていた人物に、アレクとリーゼロッテは目を見開いた。
「げっ、父さん……」
「ただいま……ってなんだよ。半年ぶりの帰りなのに嬉しくないのか、エマ」
扉の前に立っていた人物にエマが少し青ざめる。父親のような筋骨隆々の男の姿。しっかりと髭を剃った穏やかな顔つきとは違い、その腰には二本の片刃剣が収められている。忘れもしない、自分を悪魔収容施設に連れていったギルドハンターだ。
ゾワゾワした寒気に背中を押されるよう、リーゼロッテは駆け出し、台所から素早くナイフを手に入れた。先手必勝とばかりにそのギルドハンターに襲いかかる。その殺気を感じ取り、ギルドハンターはエマを横に押すと、片刃剣でそれを受け止めた。キンッ、金属の冷たい音が響く。「エドガー!」背後からクレアの声が聞こえてきた。
「なんで……貴方がここに……!」
「そりゃあ、こっちのセリフだ……!」
受け止めた刃を重ね合い、睨みつける。ナイフを持っていた手は力んで小刻みに震えた。蹴り飛ばされ、リーゼロッテは後退しながらも向き合う。間合いを見てまた攻撃を繰り出そうと一歩踏み出した時、肩に手を置かれた。
「なに。アレク。どいて」
「だめだ、リーゼ。落ち着け。みんな怖がってる」
その声にハッとする。見れば隣にいたエマは少し距離が離れたところで震え、クレアも同様に怯えながらじっとこちらを見つめていた。見慣れたその目線に手からナイフが滑り落ちる。
「かっ……! は……っ」
その瞬間、腹に勢いよくギルドハンターの蹴りが入れられた。ぐっ、と鳩尾を押しつぶされ、息が出来なくなる。「リーゼ! 」倒れたリーゼロッテを目線で追い、アレクは慌ててギルドハンターの行く手を阻んだ。
「待ってくれ! こっちにもう戦う意思はないんだ!」
知るかよ、そう言って放たれた拳に殴りつけられ、アレクは地面に尻をつく。やめてくれ、とそのまま足にしがみついた。
「ちっ。しつけえな。お前には関係ないだろう……って、そうか。わかったぞ。お前、あの時隠れていた負け犬だな」
心臓に氷水が流されたような感覚だった。あの時何も出来なかった自分を思い出す。その瞬間に振り払われるように蹴り飛ばされ、背中を強く打った。
「施設に送ったあと、お前が逃げ出したせいで一千万の約束も全てなかったことにされたんだよ! お前らのせいで……!」
「父さん! もうやめてよ!」
アレクに向かって振り上げた拳をエマが抱きつくように止めた。
「おい、クレア。エマ。どういうことだ。俺がいない間に家に悪魔を引き入れるなんて……悪魔を匿うのは大罪だ。自分達が何してるのか分かってるのか?」
「……っ、なによ! 悪魔狩りとかなんとか言って家族をほったらかしにしているくせに!! 偉そうにしないでよ! アレク君とリーゼちゃんは何もしていない!」
声を張るエマに被せるようにエドガーは「したさ!」と怒鳴るように言った。きっ、と睨みつけてリーゼロッテを指さす。
「あの……あのクソ悪魔はジェラルドのやつを殺しやがったんだ!! 他にも俺達の仲間を……!」
感情を吐き散らすエドガーの声に、先程から黙り込んでいたリーゼロッテは顔を上げた。エドガーという名、そして自分の父ジェラルド。まさか―――
「エドガーおじさん……?」
「黙れクソガキ! お前におじさん呼ばわりされる筋合いはない!!」
その声の大きさに肩を震わせる。やはりそうだ。エドガーおじさん……もといエドガー・ヴェナトル。ジェラルドの弟だ。あまり話してはくれなかったけど、弟がいて、とても仲が良かったが今は疎遠になっていると父から話を聞いていた。
「こんなクソガキに……なんで……ジェラルドが……! クソ……っ」
俯くエドガーにリーゼロッテは首を横に振った。違う、違う、と起き上がる。
「私じゃない……私が父さんを、殺せるはずがない……!! 大好きだった……私に色んなことを教えてくれて……! そんな大切な人を殺せるはずがない!! 父さんも、クリフも……全部っ!! グレッグが……!」
負けじと感情を溢れ出し、ボロボロと涙を流した。泣きじゃくり、嗚咽で話すことすらままならない。そんなリーゼロッテが言い放った「グレッグ」の言葉に、エドガーは大きく、分かりやすい瞬きをした。「グレッグだと?」と眉を顰める。
「俺からも説明させてください……リーゼロッテは本当に殺してなんかいないです……これまでの旅でもこいつは……」
「それは悪魔側のお前の意見だろ。真実は分からない」
バッサリと切り捨てられ、アレクは何も言えなくなる。けれど先程よりもエドガーは冷静のように思えた。しばらく沈黙が流れ、肌にピリピリとした緊張を感じる。「分かった」エドガーはそう言ってリーゼロッテを見下ろした。
「その悪魔と話がある。二人っきりでな」
「そ、それは……だめだ」
今この状況でエドガーとリーゼロッテが二人っきりになったら危険だと、アレクが慌てて割り込んで止めた。
「お前に言ってねえよ。静かにしろガキ。殺すぞ」
じろりと血走った横目で睨みつけられ、その威圧にアレクが黙り込む。どうするかはそこの悪魔次第だと、見つめたままエドガーが静かに話した。
「……わかりました。話します」
「おい!」
数秒の間を置いて、リーゼロッテは了承した。心配そうに見つめるアレクにまた「大丈夫」といつものように笑ってみせる。決まりだなと、独り言ちるような語調でエドガーが言った。
「家の裏に崖地があるからこい。そこで話そうじゃないか」
そう言ってエドガーは背を向けた。扉のノブに手を置き「先に行っている」と言い残して出ていく。怒号がやみ、辺りはしん、と静まり返った。場の空気は変わらず緊迫したままで息が詰まる。
「まさかジェラルドが死んでしまっていたなんて……」
ああ! と顔を覆い隠し、崩れ落ちるクレアに、エマは慌てて近づいて背中を摩った。沈痛した様子でリーゼロッテは見つめ、何も言わずに背を向ける。
「本当に行くのか? あいつ、家族の前だからって場所を変えただけでお前を―――」
引き留めようとするアレクに「そう、かもしれない」と目を伏せた。武器ならそこに、と言いかけるアレクに「いらないよ」と首を振る。
「戦いに行くわけじゃないし。それに……私にその意思があったら話し合いなんてしてくれない。私はただ、誤解を解きたいの」
それだけだからと、扉を開けた。行ってくる、その言葉にはリーゼロッテの固い決意を感じた。
◆
家の裏にある木の間を抜けていくと、崖のような見晴らしのいい場所へとたどり着いた。辺り一面に木が生え、切り立った山の向こうからは強烈な赤い陽光が漏れだしている。
「ちゃんと来たな」
こちらに背を向け、エドガーは何やら石碑の前に屈んでいた。足音に気づき、ゆっくりと背中を向けながら立ち上がる。
「待っていた。お前の言い分を聞かせてもらおう」
エドガーの声には未だ敵意のように張り詰めたものを感じた。鼓動が跳ね上がり、体の横で待機していた手が震える。けれどもここで負けてはいられないと生唾を飲み込み、リーゼロッテは自分が知る全てをエドガーに話した。
全てを話すのにかなりの時間を使ったような気がする。何をどう話せば伝わるかとか考える余裕はなく、ありのまま起こったことを包み隠さず話した。自分の旅を始めるきっかけとなったジェラルドの死。そして途中で聞いてしまったグレッグの陰謀。ここに来るまでの経緯。
次第にその言葉は感情的になり、次から次へと止まることなく溢れ出した。全く同じ人間に大切な家族が奪われた、その憎しみを。激情に駆られるリーゼロッテの話を、エドガーは黙って聞いていた。
全て話し終え、エドガーの反応を待っていると「そうか」と低くなにか思い詰めたような声が前から聞こえてくる。
「信じられないかもしれないですけど……! でも、あいつは全部……! 全部……!」
「ああ。お前の言葉なんて信じる気はねえ。だが、あの寄生虫がいかにもやりそうな事だ」
その声色は少しだけ敵意を失ったようだ。どうすればいいか分からず、困惑して固まっているリーゼロッテの耳に「ジェラルドのことだ。きっとお前には何も話していないんだろうな」とエドガーの呟きが聞こえてくる。
「グレッグの奴は……昔と変わらない。変に頭の回る狡賢いやつでよ。当時、ギルドハンターで新人ながらも注目を浴びていた俺たち兄弟……いや、今思えばあいつは初めからジェラルドに目をつけていたんだろうな。
俺たち兄弟の夢は世界一のギルドハンターになること。グレッグはそんな俺たちの夢と自分の志すものが同じだって理由で急に近づいてきて、かと思えば同世代であまりにも気が合うもんだから、そのまま三人でチームを作ったんだ。あの頃は、楽しかったよ」
エドガーは思い出す。まだ若かりし頃、兄弟で旗を上げ、ギルド内では期待の星とまで言われていた。そして、頭の切れるグレッグの加入により、自分たちは更にチームとして大きな功績をあげるようになった。
作戦に罠……それらを駆使し、以前では倒せなかった魔物も倒せるようになると、ついには上位魔物討伐の仕事がくるようにまでなった。化け物退治を終え、帰りにその報酬金で酒を飲み交わす。何とも幸せな日々だった。
「だが、あいつはそれで満足しなかった。ジェラルドが率いるチームの二番手は俺。あいつはその椅子が欲しかったんだろう。グレッグのジェラルドに対する信仰心は異常だった。自分は決して一番になれない。だからせめてトップの一番近い場所に留まりたい……その為に、俺が邪魔だった」
一瞬の事だったよ。エドガーは目を伏せたまま力なく呟く。
「忘れもしない、雨が降り止まない日のこと。前日俺は、ジェラルドと些細なことで喧嘩してよ。腹が立って、前から仲の良かった友達と魔物狩りに行ったんだ。だが俺はその日、そいつに崖から突き落とされた。魔物との戦闘によるものだと見せかけてな」
「え……」
「幸い一命は取り留めたが、それで脊髄をやっちまって。不定期に下半身が麻痺する体になっちまった。まあ、今ではリハビリでだいぶ調子を戻したんだがな。当時はショックでよ。それで……崖から落とされて動けない俺を助けてくれたのが、たまたま通り掛かったグレッグだ」
グレッグ、の言葉に体を強ばらせる。広い背中を向けたままのエドガーは更に続けた。
「その後、あいつは俺を突き落としたギルドメンバーを告訴し、追放処分にさせた。その事件を受け、弟を連れ帰ってきたグレッグをジェラルドは更に信頼するようになったんだ。一番の相棒としてな」
もうこれで分かったろ? とエドガーがリーゼロッテを見つめる。
「全てはあいつが仕組んだ事だった。一人になった時に近づいてきた友人も、ジェラルドの宝が何故か俺のところにあって喧嘩したことも、全部。俺をチームから外し、あいつが信頼を得るためのな。勿論、デタラメで言ってるんじゃない。少し気になったから、個人的に調べたんだ。追放された友人に話を聞きに行ったりしてな」
ぐっ、と奥歯を噛み締める。先程リーゼロッテに向けていたものよりも険しい顔だ。
「……正確にはそいつから聞き出せなかったんだ。追放されていた奴は既に死んでいたからな。自殺だったよ。そいつの部屋に隠されるように置いてあった手記に、グレッグのことが書いてあった。そこであいつの異常さに気づいたんだ」
もっと早く気づいてやるべきだったなと、エドガーは力なく笑った。自分が思っていた以上のグレッグのエピソードにリーゼロッテはただ、瞳を揺らして聞いている。
「グレッグは平気でそういうことをやる男だ。お前が言っていることに納得できちまうのもその為……だから、ジェラルドにも伝えようとはしたんだ。だけど、喧嘩したまま怪我を理由に離れていたらいつの間にか疎遠になっちまってな。それもあいつの計算だったのだろう」
「で、でも! それならなんで父さんを……!」
それだけ心酔しているのならジェラルドを殺そうなんて思わないはずだ。声を張るリーゼロッテに「ジェラルドを直接殺したのはグレッグじゃないんだろ?」とエドガーが鼻を鳴らした。
そういえば確かに、あいつらは自分を悪魔として捕らえるためにやってきたんだと思い出す。でも、そんな面倒なことを何故わざわざする必要があったのだろう。「なんでって顔をしてるな」エドガーが口火を切る。
「ギルドハンターはお前を捕らえに来たって言ってたよな。何故そこまでしてあいつがお前を排除しようとしたと思う?」
「何故……って」
じっと見つめられ、リーゼロッテが思わず後退した。分からねえなら教えてやるよと、エドガーが目を細める。
「お前のせいで、ジェラルドがギルドハンターをやめたからだ」
空気が凍りついた。目を見開き、リーゼロッテは震えながら「……え?」と聞き返すように答える。やっぱり知らされていなかったのかとエドガーはため息をついた。
「で、でも。父さんは……遠征中に母さんを亡くしたことがショックで辞めたって……」
「それも、間違いじゃない。もう十二年前のことだ。ジェラルドのやつにとある悲劇が襲った……ところで。話は変わるがこの石碑、なんだか分かるか?」
断崖の手前に立てられた石碑にリーゼロッテは首を横に振った。そうか、とエドガーがその石碑に手を置く。
「……これは。あいつの愛した妻エリンと、お前……リーゼロッテの墓だ」
自分たちの間を通り過ぎていく風が、より一層冷たく感じた。
幸い、振り続ける雨で足跡を消してくれるため、すぐに追っ手が来ることもない。なによりも早く、混乱している頭を落ち着かせたかった。
傾いてはいるが、まだ雨を凌ぐだけの機能が残っている廃墟に入って、数時間―――いや、実際どれぐらいいたのかは分からない。かなり長い時間だったような気がする。
「ひぐっ……う゛う……ひっ、う……うう……」
あれからずっと、リーゼロッテは地面に顔を伏せ、クリフの死を嘆き、泣いていた。声は枯れ果て、今では鼻のすする音や横隔膜を不定期にひくつかせることしか出来なくなっている。未だに信じられないのと、初めて見る崩れ落ちたリーゼロッテに、アレクはただ座ってぼうっと地面を見続けた。
あのクリフが、まさか……最後を思い出してはじわりと目の奥が熱くなる。信じられない、信じたくない。けれども事実、見慣れたあの栗毛の影がどこにも見当たらない。どこにも、いない。あんなに、傍にいたのに。見ない日なんて、なかったのに。
これまでクリフと一緒に過ごしてきた記憶が次から次へと頭を過り、思い出に浸る以外の行動が全て無気力になった。母を亡くした時と全く同じだ。
ドサッ
視界外で何やら音がした。目線を持っていくと地面に顔を伏せていたリーゼロッテが完全に横に倒れている。
「リーゼ……? リーゼ!」
ハッとし近づいて、体を仰向けにするように揺さぶる。見ればリーゼロッテは呼吸を浅くし、耳まで顔を真っ赤にしていた。一瞬だけ人間に戻り、アレクが慌てて額に手を置いてみる。
「酷い熱……おい! しっかりしろ!」
その声に呻きだけで返された。小刻みに震え、腕を抱く様子に、とにかく暖めなくてはと狼の体で包み込む。考えてもみればここ最近は無茶の連続だった。疲労と、大切な者の死。弱っていた肉体を更に雨で濡らしたからだろう。受け止められない真実に悲しんでる暇もなく、アレクはリーゼロッテの看病に勤しんだ。
クリフに乗せていた荷物も殆どなくなった今ではできることも限られてしまう。リーゼロッテの火薬筒から火薬を拝借して火を起こし、雨の中狩りに行って飯を作るなど、何とか自分に出来ることはしたつもりだった。
だが、数日経ってもリーゼロッテの熱は良くなるどころか悪化するばかり。寝ている間も荒い呼吸が止まらない状態だった。
これ以上はこいつの死に繋がる。そう直感し、アレクはリーゼロッテを背負うとその廃墟から駆け出した。岩山に囲まれた風の吹き荒れる峽を越え、渓流を越え、無我夢中で走り続ける。
「頼む……あってくれ……!」
これだけ人工的な物を目にしてきたんだ。絶対、どこかに村があるはず。走って、走って。祈るように突き進んだ。体力の限界でも、途中で転倒しようとも、アレクが足を止めることはなかった。
「じゃあ、母さん。水汲んでくるから」
「気をつけなさいよ」
「大丈夫だって! どうせ、井戸近いし~」
とある村の一軒家から木のバケツを持った茶髪の若い女性が出てきた。バタンと扉を閉め、鼻歌を歌いながら黄昏の村を軽い足取りで歩く。今日も父さん帰ってこなかったなあ、なんて呟いた矢先、家の近くでボロボロになって倒れている黒狼を見つけた。
「えっ、なにこれ……狼? しかも死んでる……」
というかなんで青い外套をつけているのだろう。念の為誰か呼んで来ようかと思い、その場から離れようとした時、勢いよくくるぶし辺りを掴まれた。それも人間の手だ。振り返ってみると、そこには黒狼の姿がなく、先程の狼と全く同じ青い外套をつけた青年が横たわっていた。
「お願い……お願い、します。リーゼを……リーゼを助けてください……」
名前も知らない青年はそのまま手足を縮め、地に顔を伏せたまま土下座するように頼んだ。傍には顔を真っ赤にさせた赤頭巾の女の子が横たわっている。先程は黒狼の巨体で隠れていて見えなかったのだろう。驚いていた女性は必死に頼み込む青年を目に映し、戸惑いながらもゆっくりと口を開いた。
◆
次にリーゼロッテが意識を戻した時、目の前には見知らぬ天井が広がっていた。眠気を引きずることなくスッキリとした様子で上半身を起こしてみれば、途端に視界が傾く。思わず片手で目元を覆い、布団を見つめながらパチパチと瞬きを繰り返した。
ここは一体どこだろう。それまで自分は何をしていたんだ? 次から次へと疑問が思い浮かんで、白紙だった脳内を更に混乱させる。
そんな時、リーゼロッテの真横にあった部屋の扉が開いた。入ってきた黒髪の青年はこちらを見るなり目を見開き「リーゼ!」と嬉しそうに駆け寄ってくる。かと思えば勢いよく飛びつくように抱き締めて「良かった! 気がついたんだな!」と体を揺らした。
「アレク……私……」
未だに何があったのか分からないと混乱していると、同じ一枚扉から「ちょっと! 病人に無理させるんじゃないの!」と気の強い女声が聞こえてきた。前髪を流した癖のない暗めの茶髪にアンバー色のたれ目をした女性がじっとこちらを見つめている。
「いちいち言われなくてもそれぐらい分かってるっつーの、エマ」
抱きしめる手を解き、アレクがリーゼロッテから大人しく離れる。エマと呼ばれた女性は「全く、そういうところガキなんだから」とため息をついてリーゼロッテの前まで歩いた。ガキじゃねえし、と隣にいたアレクがボソリと返す。
「初めまして、リーゼちゃん。あたしはエマ。アレクから話を聞いてるよ。体調はどう?」
「え……あ、はい。だいぶ良くなった? かも」
その返しに「そう、それは良かった!」とエマが口角を上げて笑う。その元気な笑顔からこの人の人物像がなんとなく分かった気がした。けれども、未だに状況の処理が追いつかない。確か、気を失う前は―――
「あー……っと、まだ混乱している感じ?」
「そりゃあそうだろ。こっちはここに来るまで色々大変だったんだよ。もう、こっちに来て一週間……」
一週間、の言葉にリーゼロッテは反射的に立ち上がった。窓の外を見る限り、ここはどこかの村なのだろう。追っ手が来る、よりも一週間もこの村に滞在していることに青ざめた。早くここから出ないと。咄嗟に部屋を出ようとするリーゼロッテに「おい、どうしたんだよ」とアレクが腕を引いて止める。
「アレクこそどういうつもり!? 一週間も村の一軒家に身を置くなんて! 分かってるでしょ!? 私は……」
ローレアズでは村人から追われ、バジリスクの危機から救ったナサゴ村からは悪魔と判明するなり早々に追い出された。他にも行く先々の街で悪魔の扱いは散々アレクと共に見てきたはずだ。
悪魔だと追われて、そのせいで父さんが。クリフが―――気を失う前のことを思い出し、じわりとまた涙が込上げる。一方アレクは少しキョトンとしてから「あー、そういうことか」と頭をかいた。
「それに関しては気にするな。こいつ、お前が悪魔だって知っているから。知った上で助けてくれたんだ」
「……え?」
その言葉に「こいつってねぇ? 年上には敬語使いなさいよ」と腕を組んでエマがアレクを睨みつける。けれどもそんなやり取りはリーゼロッテの耳に入ってこない。悪魔だと既に知られている。まさか、彼女も懸賞金目当てで……とふらつくように後退した。
「……ひとまず、目が覚めたしさ。下に降りてきなよ。お腹すいたでしょ?」
もう一週間近く食べてないんだからと、エマが気を使って先に部屋を出ていく。それに対し「俺達も行こうぜ」と前を歩くアレクに「待って!」とリーゼロッテが不安げに見つめた。
「あの……私……わ、たし……」
俯きがちなリーゼロッテに「知ってる。不安なんだろ」とアレクが返した。
「大丈夫。あいつらはいい奴らだ。俺が保証する」
「でも……罠かもしれない。だって……」
「俺も、初めはお前みたいに疑っちまったけど、見ず知らずの俺たちを治療してくれた上にこうして家に匿ってくれた。村の奴らに他言なんてしてたら一週間もこうして呑気にお前の看病だって出来なかったさ。動けないお前の方が奴らには好都合だろ? 動けるまで何事もなかったってことはそういうことだ」
お前も早く来い、そう言ってアレクは先に廊下の階段を降りていった。その背中にリーゼロッテは困惑する。空中で引き留めようとして伸ばした手が何も得られずに降ろされ、俯きながら考えた。けれどどんなに考えても何も思い浮かばない。ただ胸の中がモヤついているだけ。思考しているようで頭の中は真っ白だ。
『お前も早く来い』
頭に残っていた一番信頼できる青年からの言葉に、リーゼロッテは自然と前に踏み出した。ゆっくりと、歩き方を覚えたばかりの子供のようにぎこちない足取りで階段を降りる。なにやら楽しそうな声が聞こえてきて、部屋の入口から顔を少し覗かせた。
「お、きたな。今日の夕飯、俺が作ったんだよ。食べるか?」
部屋からは、ずっしりと味わい深い香りが溢れ出ている。とろみのある液体を器に分けるアレクの様子にリーゼロッテは小さく腹を鳴らした。腕で押え、首を横に振る。
部屋の中には先程のエマという女性の他に中年の優しそうな女性がいるだけだった。母さん、と呼んでいるところを見るに、エマの母親なのだろう。
「リーゼちゃん。これ、良かったら」
はい、とエマが歩み寄り、差し出してきたのは水の入ったコップだ。大きく肩を震わせて、身を縮こませる。
「そ、それ……毒とか痺れ薬とか入ってる……?」
恐る恐る見つめて呟くリーゼロッテにエマは「え?」と驚きの声を漏らした。そこから吹き出すように豪快に笑い「まっさか~」と腹を抱える。
「どうせ入れるなら、こんなわかりやすいやつに入れたりしないよ~ほら……なんともないでしょ?」
半分を目の前で飲んでみせ「リーゼちゃんは面白い子だね」と頭を少し強めに撫でた。ほんと、そっくり、と呟きコップを渡す。
「その水はなんともないよ。また新しいやつ持ってきたら怖いだろうし、残りはどうぞ」
お姉さんの残りで悪いけど、と付け足し、エマが部屋に戻る。乱れた髪を直すように頭を触り、リーゼロッテは戻っていくエマの背中を見つめた。そうしてから波打つ水面に視線をやり、ゆっくりと水を口内に流す。なんともない、ただの水だ。
「食べないのか?」
折角俺が作ったのにと、器を一通り並べ終わったアレクがリーゼロッテに問いかける。食卓に並べられたご馳走に「相変わらず美味しそうね」とエマがアレクの背中から覗き込んだ。随分仲がいい。自分が寝ている間に打ち解けていたのだろうか。
少し気になりながらも匂いにつられ、フラフラと空いている食事の席に座った。目の前には久々に見かけたパンと、猪肉のスペアリブ、豆入りスープが並べてある。どれも香草独特の匂いがし、湯気に乗って鼻の奥を擽った。近くにいるだけでポカポカと温まる。
「いただきます」
三人の揃った声に、リーゼロッテも慌てて手を合わせた。キラキラと輝くスープを息で冷ましてから口に含む。旨み成分と同時に全身に温かさが広がっていき、なんだか不思議と優しい気持ちになれた。それを皮切りに勢いがつき、次々と口の中に入れていく。
『あと一日足らずでこの金は我々のものになるんだからな』
『こいつらは生きていること自体が悪だ』
『良かったな。お前らみたいな罪深い命にもちゃんと人に役立てるって存在価値があったんだ。こうして直接命を使う事でな』
『私たちがギルドハンターを呼ぶ前にどうか、この村を出て行って欲しい』
これまでのことが頭を過る。冷徹に浴びせられる人々の言葉や目の前で朽ちていく出会いで得た形だったもの達。父を失ってから、本当に色んなことが重なってきた。目の前が霞み、ポロポロと温かな雫が頬を伝って落ちていく。
「リーゼ……お前……なんで、泣いて」
アレクに言われて初めて、自分が泣いているのだと気づいた。自分でも不思議だった。何故泣いているのか分からなかった。暖かい食事によって心が満たされたせいだろうか。
「……ごめん……ごめんなさい……とってもあったかくて、美味しいから」
鼻水を垂らして泣きじゃくり、食事どころではなかった。その様子にアレクを始めとする他二人も、リーゼロッテのこれまでを想像して何も言うことはなく、ただ優しい目で見守った。
◆
「なんで。何もせずに匿ってくれたんですか……」
食事を終え、アレクが食器洗いをしている最中のこと。ある程度落ち着いたリーゼロッテは座ったまま恐る恐る親子に問いかけた。
「貴方達を最初に見つけたのはエマよ」
ティーカップを持ったエマの母、クレアは隣に座っていたエマに向かって確かめるように答えた。そう、とマグカップから口を離してエマが返す。
「正直、初めはすっごく怖かった。なにせ、自分よりはるかに大きな狼がボロボロで倒れているんだよ? だからあたしはその場から逃げようとした。でも一瞬目を離したら狼は青年の姿に変わっていてね。自分も怪我が酷いのにさ、リーゼロッテを助けてくださいっていうの、そいつ。ボロボロで泥まみれで……それなのにそいつは頭を地面に押しつけて必死だった」
「おい! その話はするんじゃねえって言ったろ!! 土下座なんてだせぇし情けないしカッコつかないから!」
思わず手を止めて振り返り、怒鳴るアレクに「あー、はいはい。分かったから」とエマが適当に手を振って返した。
「まあ、そんなわけで。青年の必死な土下座を目にしておいて見捨てられる程、あたしは人でなしじゃなかったってこと。ついでに言うと、あたしは悪魔を迫害する文化とか正直好きじゃなかったし、興味もないから。それは母さんも同じ。だから、男手も足りなかったし、家事とか手伝ってくれるていで匿ってたみたいな」
これでいい? とエマは頬杖を解いて椅子の背もたれに寄りかかった。はあ、とリーゼロッテが未だ疑いの目でエマに返す。
「安心して。別にこれから突き出そうなんて考えちゃいないよ。幸いこの村に一人だけいるギルドハンターは優秀だけど、ほとんどいないに等しいし。村も辺境だからゆっくり過ごせると思うよ?」
「……そうですか」
多分。多分だけど、きっと本当のことなのだとリーゼロッテは思った。それでも信じるのが怖くなってしまっているのは、これまでの経緯があったせいだ。俯いて考えていると何やら目線を感じ、顔を上げる。
「あの……なにか?」
「いや、気にしないで。なんだか懐かしい気持ちになっちゃってね」
リーゼちゃん? でいいかなとエマに話しかけられ、縦に頷く。それを見て、エマが目の前で小さく手招きし、思わず前に乗り出した。
「実はさ。アレクのやつ、家事の間にちょいちょいリーゼちゃんのこと見に行ってたの。夜、寝る時なんかは、ベッド用意してるのにリーゼちゃんに付きっきりで……傍にあった椅子に座りながら寝てた」
小声で打ち明けられた事に「アレクが?」とリーゼロッテが目を合わせる。エマは頷きながら更に続けた。
「さっきも土下座はダサイって言ってたけどさ。あそこまで自分より誰かを優先させて必死になれるのってなかなかできることじゃないと思う。それだけ、リーゼちゃんが大事なんだね……かっこいいやつじゃん」
だから彼に感謝しなよとエマが微笑し、肩に手を置いた。アレク、の言葉に反応したのか「呼んだか?」と気にするように青年が振り返る。自意識過剰! とエマが素早く会話を切った。
「はあ。ほら終わったぞ、皿洗い」
ぴっ、と水を払い、アレクが布で手を拭く。確認するためにエマが立ち上がり、洗われた食器をまじまじと見つめた。
「ほんと、家事は手早いね。この調子で村の人と狩りにもいって欲しいけど?」
「狩りは苦手なんだよ……そこにスペシャリストがいるから、そいつに頼むんだな」
疲れたと、アレクが頭上で腕を伸ばす。なんだよ弱虫、と顔をしかめるエマに「んだと~!?」とアレクが喧嘩腰に答えた。
そんな二人を見てリーゼロッテは思う。初めて会った時は弱気で、死にたいなんて言うから腹が立った。普段の強気なイメージとは違って戦闘面では逃げ出すし。それでもなんだかんだといつもアレクには助けられていた。
今回の事も、しがみつく自分を連れ出してくれなければ、クリフと共にあそこで死んでいただろう。自分一人じゃ、ここまで旅を続けることは出来なかった。アレクには感謝しなきゃなと、眉を下げながら笑う。
トントン。落ちかけた日が窓から差し込む中、軽快にノックをする音が聞こえた。真っ先にエマが反応し「私が出るよ」とドアを開ける。そこに立っていた人物に、アレクとリーゼロッテは目を見開いた。
「げっ、父さん……」
「ただいま……ってなんだよ。半年ぶりの帰りなのに嬉しくないのか、エマ」
扉の前に立っていた人物にエマが少し青ざめる。父親のような筋骨隆々の男の姿。しっかりと髭を剃った穏やかな顔つきとは違い、その腰には二本の片刃剣が収められている。忘れもしない、自分を悪魔収容施設に連れていったギルドハンターだ。
ゾワゾワした寒気に背中を押されるよう、リーゼロッテは駆け出し、台所から素早くナイフを手に入れた。先手必勝とばかりにそのギルドハンターに襲いかかる。その殺気を感じ取り、ギルドハンターはエマを横に押すと、片刃剣でそれを受け止めた。キンッ、金属の冷たい音が響く。「エドガー!」背後からクレアの声が聞こえてきた。
「なんで……貴方がここに……!」
「そりゃあ、こっちのセリフだ……!」
受け止めた刃を重ね合い、睨みつける。ナイフを持っていた手は力んで小刻みに震えた。蹴り飛ばされ、リーゼロッテは後退しながらも向き合う。間合いを見てまた攻撃を繰り出そうと一歩踏み出した時、肩に手を置かれた。
「なに。アレク。どいて」
「だめだ、リーゼ。落ち着け。みんな怖がってる」
その声にハッとする。見れば隣にいたエマは少し距離が離れたところで震え、クレアも同様に怯えながらじっとこちらを見つめていた。見慣れたその目線に手からナイフが滑り落ちる。
「かっ……! は……っ」
その瞬間、腹に勢いよくギルドハンターの蹴りが入れられた。ぐっ、と鳩尾を押しつぶされ、息が出来なくなる。「リーゼ! 」倒れたリーゼロッテを目線で追い、アレクは慌ててギルドハンターの行く手を阻んだ。
「待ってくれ! こっちにもう戦う意思はないんだ!」
知るかよ、そう言って放たれた拳に殴りつけられ、アレクは地面に尻をつく。やめてくれ、とそのまま足にしがみついた。
「ちっ。しつけえな。お前には関係ないだろう……って、そうか。わかったぞ。お前、あの時隠れていた負け犬だな」
心臓に氷水が流されたような感覚だった。あの時何も出来なかった自分を思い出す。その瞬間に振り払われるように蹴り飛ばされ、背中を強く打った。
「施設に送ったあと、お前が逃げ出したせいで一千万の約束も全てなかったことにされたんだよ! お前らのせいで……!」
「父さん! もうやめてよ!」
アレクに向かって振り上げた拳をエマが抱きつくように止めた。
「おい、クレア。エマ。どういうことだ。俺がいない間に家に悪魔を引き入れるなんて……悪魔を匿うのは大罪だ。自分達が何してるのか分かってるのか?」
「……っ、なによ! 悪魔狩りとかなんとか言って家族をほったらかしにしているくせに!! 偉そうにしないでよ! アレク君とリーゼちゃんは何もしていない!」
声を張るエマに被せるようにエドガーは「したさ!」と怒鳴るように言った。きっ、と睨みつけてリーゼロッテを指さす。
「あの……あのクソ悪魔はジェラルドのやつを殺しやがったんだ!! 他にも俺達の仲間を……!」
感情を吐き散らすエドガーの声に、先程から黙り込んでいたリーゼロッテは顔を上げた。エドガーという名、そして自分の父ジェラルド。まさか―――
「エドガーおじさん……?」
「黙れクソガキ! お前におじさん呼ばわりされる筋合いはない!!」
その声の大きさに肩を震わせる。やはりそうだ。エドガーおじさん……もといエドガー・ヴェナトル。ジェラルドの弟だ。あまり話してはくれなかったけど、弟がいて、とても仲が良かったが今は疎遠になっていると父から話を聞いていた。
「こんなクソガキに……なんで……ジェラルドが……! クソ……っ」
俯くエドガーにリーゼロッテは首を横に振った。違う、違う、と起き上がる。
「私じゃない……私が父さんを、殺せるはずがない……!! 大好きだった……私に色んなことを教えてくれて……! そんな大切な人を殺せるはずがない!! 父さんも、クリフも……全部っ!! グレッグが……!」
負けじと感情を溢れ出し、ボロボロと涙を流した。泣きじゃくり、嗚咽で話すことすらままならない。そんなリーゼロッテが言い放った「グレッグ」の言葉に、エドガーは大きく、分かりやすい瞬きをした。「グレッグだと?」と眉を顰める。
「俺からも説明させてください……リーゼロッテは本当に殺してなんかいないです……これまでの旅でもこいつは……」
「それは悪魔側のお前の意見だろ。真実は分からない」
バッサリと切り捨てられ、アレクは何も言えなくなる。けれど先程よりもエドガーは冷静のように思えた。しばらく沈黙が流れ、肌にピリピリとした緊張を感じる。「分かった」エドガーはそう言ってリーゼロッテを見下ろした。
「その悪魔と話がある。二人っきりでな」
「そ、それは……だめだ」
今この状況でエドガーとリーゼロッテが二人っきりになったら危険だと、アレクが慌てて割り込んで止めた。
「お前に言ってねえよ。静かにしろガキ。殺すぞ」
じろりと血走った横目で睨みつけられ、その威圧にアレクが黙り込む。どうするかはそこの悪魔次第だと、見つめたままエドガーが静かに話した。
「……わかりました。話します」
「おい!」
数秒の間を置いて、リーゼロッテは了承した。心配そうに見つめるアレクにまた「大丈夫」といつものように笑ってみせる。決まりだなと、独り言ちるような語調でエドガーが言った。
「家の裏に崖地があるからこい。そこで話そうじゃないか」
そう言ってエドガーは背を向けた。扉のノブに手を置き「先に行っている」と言い残して出ていく。怒号がやみ、辺りはしん、と静まり返った。場の空気は変わらず緊迫したままで息が詰まる。
「まさかジェラルドが死んでしまっていたなんて……」
ああ! と顔を覆い隠し、崩れ落ちるクレアに、エマは慌てて近づいて背中を摩った。沈痛した様子でリーゼロッテは見つめ、何も言わずに背を向ける。
「本当に行くのか? あいつ、家族の前だからって場所を変えただけでお前を―――」
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「戦いに行くわけじゃないし。それに……私にその意思があったら話し合いなんてしてくれない。私はただ、誤解を解きたいの」
それだけだからと、扉を開けた。行ってくる、その言葉にはリーゼロッテの固い決意を感じた。
◆
家の裏にある木の間を抜けていくと、崖のような見晴らしのいい場所へとたどり着いた。辺り一面に木が生え、切り立った山の向こうからは強烈な赤い陽光が漏れだしている。
「ちゃんと来たな」
こちらに背を向け、エドガーは何やら石碑の前に屈んでいた。足音に気づき、ゆっくりと背中を向けながら立ち上がる。
「待っていた。お前の言い分を聞かせてもらおう」
エドガーの声には未だ敵意のように張り詰めたものを感じた。鼓動が跳ね上がり、体の横で待機していた手が震える。けれどもここで負けてはいられないと生唾を飲み込み、リーゼロッテは自分が知る全てをエドガーに話した。
全てを話すのにかなりの時間を使ったような気がする。何をどう話せば伝わるかとか考える余裕はなく、ありのまま起こったことを包み隠さず話した。自分の旅を始めるきっかけとなったジェラルドの死。そして途中で聞いてしまったグレッグの陰謀。ここに来るまでの経緯。
次第にその言葉は感情的になり、次から次へと止まることなく溢れ出した。全く同じ人間に大切な家族が奪われた、その憎しみを。激情に駆られるリーゼロッテの話を、エドガーは黙って聞いていた。
全て話し終え、エドガーの反応を待っていると「そうか」と低くなにか思い詰めたような声が前から聞こえてくる。
「信じられないかもしれないですけど……! でも、あいつは全部……! 全部……!」
「ああ。お前の言葉なんて信じる気はねえ。だが、あの寄生虫がいかにもやりそうな事だ」
その声色は少しだけ敵意を失ったようだ。どうすればいいか分からず、困惑して固まっているリーゼロッテの耳に「ジェラルドのことだ。きっとお前には何も話していないんだろうな」とエドガーの呟きが聞こえてくる。
「グレッグの奴は……昔と変わらない。変に頭の回る狡賢いやつでよ。当時、ギルドハンターで新人ながらも注目を浴びていた俺たち兄弟……いや、今思えばあいつは初めからジェラルドに目をつけていたんだろうな。
俺たち兄弟の夢は世界一のギルドハンターになること。グレッグはそんな俺たちの夢と自分の志すものが同じだって理由で急に近づいてきて、かと思えば同世代であまりにも気が合うもんだから、そのまま三人でチームを作ったんだ。あの頃は、楽しかったよ」
エドガーは思い出す。まだ若かりし頃、兄弟で旗を上げ、ギルド内では期待の星とまで言われていた。そして、頭の切れるグレッグの加入により、自分たちは更にチームとして大きな功績をあげるようになった。
作戦に罠……それらを駆使し、以前では倒せなかった魔物も倒せるようになると、ついには上位魔物討伐の仕事がくるようにまでなった。化け物退治を終え、帰りにその報酬金で酒を飲み交わす。何とも幸せな日々だった。
「だが、あいつはそれで満足しなかった。ジェラルドが率いるチームの二番手は俺。あいつはその椅子が欲しかったんだろう。グレッグのジェラルドに対する信仰心は異常だった。自分は決して一番になれない。だからせめてトップの一番近い場所に留まりたい……その為に、俺が邪魔だった」
一瞬の事だったよ。エドガーは目を伏せたまま力なく呟く。
「忘れもしない、雨が降り止まない日のこと。前日俺は、ジェラルドと些細なことで喧嘩してよ。腹が立って、前から仲の良かった友達と魔物狩りに行ったんだ。だが俺はその日、そいつに崖から突き落とされた。魔物との戦闘によるものだと見せかけてな」
「え……」
「幸い一命は取り留めたが、それで脊髄をやっちまって。不定期に下半身が麻痺する体になっちまった。まあ、今ではリハビリでだいぶ調子を戻したんだがな。当時はショックでよ。それで……崖から落とされて動けない俺を助けてくれたのが、たまたま通り掛かったグレッグだ」
グレッグ、の言葉に体を強ばらせる。広い背中を向けたままのエドガーは更に続けた。
「その後、あいつは俺を突き落としたギルドメンバーを告訴し、追放処分にさせた。その事件を受け、弟を連れ帰ってきたグレッグをジェラルドは更に信頼するようになったんだ。一番の相棒としてな」
もうこれで分かったろ? とエドガーがリーゼロッテを見つめる。
「全てはあいつが仕組んだ事だった。一人になった時に近づいてきた友人も、ジェラルドの宝が何故か俺のところにあって喧嘩したことも、全部。俺をチームから外し、あいつが信頼を得るためのな。勿論、デタラメで言ってるんじゃない。少し気になったから、個人的に調べたんだ。追放された友人に話を聞きに行ったりしてな」
ぐっ、と奥歯を噛み締める。先程リーゼロッテに向けていたものよりも険しい顔だ。
「……正確にはそいつから聞き出せなかったんだ。追放されていた奴は既に死んでいたからな。自殺だったよ。そいつの部屋に隠されるように置いてあった手記に、グレッグのことが書いてあった。そこであいつの異常さに気づいたんだ」
もっと早く気づいてやるべきだったなと、エドガーは力なく笑った。自分が思っていた以上のグレッグのエピソードにリーゼロッテはただ、瞳を揺らして聞いている。
「グレッグは平気でそういうことをやる男だ。お前が言っていることに納得できちまうのもその為……だから、ジェラルドにも伝えようとはしたんだ。だけど、喧嘩したまま怪我を理由に離れていたらいつの間にか疎遠になっちまってな。それもあいつの計算だったのだろう」
「で、でも! それならなんで父さんを……!」
それだけ心酔しているのならジェラルドを殺そうなんて思わないはずだ。声を張るリーゼロッテに「ジェラルドを直接殺したのはグレッグじゃないんだろ?」とエドガーが鼻を鳴らした。
そういえば確かに、あいつらは自分を悪魔として捕らえるためにやってきたんだと思い出す。でも、そんな面倒なことを何故わざわざする必要があったのだろう。「なんでって顔をしてるな」エドガーが口火を切る。
「ギルドハンターはお前を捕らえに来たって言ってたよな。何故そこまでしてあいつがお前を排除しようとしたと思う?」
「何故……って」
じっと見つめられ、リーゼロッテが思わず後退した。分からねえなら教えてやるよと、エドガーが目を細める。
「お前のせいで、ジェラルドがギルドハンターをやめたからだ」
空気が凍りついた。目を見開き、リーゼロッテは震えながら「……え?」と聞き返すように答える。やっぱり知らされていなかったのかとエドガーはため息をついた。
「で、でも。父さんは……遠征中に母さんを亡くしたことがショックで辞めたって……」
「それも、間違いじゃない。もう十二年前のことだ。ジェラルドのやつにとある悲劇が襲った……ところで。話は変わるがこの石碑、なんだか分かるか?」
断崖の手前に立てられた石碑にリーゼロッテは首を横に振った。そうか、とエドガーがその石碑に手を置く。
「……これは。あいつの愛した妻エリンと、お前……リーゼロッテの墓だ」
自分たちの間を通り過ぎていく風が、より一層冷たく感じた。
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