赤ずきんは夜明けに笑う

森永らもね

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第一部 一章

05 悪魔(挿絵あり)

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 森を抜けてから何日も歩き、ようやく次の街「レスデト」が見えてきた。そこそこ大きく、街の中からいくつもの荷馬車が出ていく。外観だけでもかなり賑わっているのが分かった。

「よし、ここら辺に止めよう」

 街の外れで動きを止めるアレクに「本当に行くの?」と心配そうにリーゼロッテが言った。眉を下げ、明らかに嫌そうな顔をしている。

「当然だろ。毎日焼肉、煮込み交互に食べるのは流石に飽きた。しかもお前が飯担当になると全部同じ味付けだし! あとたまにこがす! 俺はこう見えてグルメなんだよ」
「そんなに嫌なら食べなければいいんじゃない?」

 ひくり、と片方の口角がぎこちなく上がる。確かに料理はあまり得意じゃないし種類も多くないけれどと、目を逸らす。

「第一……私……」
「あー、大丈夫だって。不安ならその素敵な赤ずきんでも被っていろよ。今どきそんなヤツら街にゴロゴロいるし」


 目を伏せているリーゼロッテの赤ずきんに手を伸ばし、アレクが無理やりフードを深く被せた。確かに顔は隠せるけど、怪しまれないかと不安になる。

「ひとまず、馬と一緒に旅をしているのはお前らの印象でもあるし、色々目立つからクリフにはここら辺で留守番してもらおう。な?」

 こいつの飯もついでに買えるしとアレクが親指で指してみれば、クリフは勢いよく歯を立てて噛み付こうとした。危ねぇなと言いながらもアレクが慌てて手を引っ込め、睨みつける。未だに二人は分かり合えていないようだ。

「……分かった。でもすぐに出てくるからね」

 あの村人のことがあって、リーゼロッテは追われているのだという自覚が芽生えていた。そんな状況で、大きな街になんて怖くて入りたくない。分かっていると軽い足取りで前へ進むアレクに溜息をつきながら、二人はクリフを置いてレスデト街に入っていった。

「よし……無事に入れたな」

 入口前で色々検査されなくて良かったと、アレクが息をつく。その後ろでリーゼロッテは隠れるように顔を俯かせたまま歩いた。

「おい。もっと堂々と歩けよ。それじゃあ、あからさまに怪しいだろ」
「だ、だって……」

 自分は特に法に触れるようなことをしているわけではないが、やはり警戒して体が縮こまる。こいつ嘘が苦手なタイプだなと、目線だけを後ろに向けつつ「それじゃあ転ぶだろ」とアレクが手を引いた。熱いぐらいの体温はなんだか安心する。

「おばさん、そのハーブ……あー、あと傷薬くれ」

 金ならあると、人懐っこい笑顔で話しかけるアレクに「いらっしゃい」と店主が迎える。その隣でじっと佇むリーゼロッテに「妹さんかい?」と中年店主が声をかけた。

「そんな格好じゃあ、何か悪い事をしたみたいに見えるねえ」

 笑いながら言われた冗談にリーゼロッテは大きく肩が跳ねた。ち、違う、と明らかな動揺をみせる隣で「よくわかったな」とアレクが言葉を遮る。

「こいつ、引きこもりだったから大きな町が初めてなんだ。今は父さんと喧嘩して、飛び出したこいつを連れ戻し中」
「あらま! 引きこもりの挙句家出なんて、見た目によらずとんでもないワルだねえ。全く、両親は大切にしなさいよ。いつまで一緒にいられるか分からないんだから」

 萎縮するリーゼロッテの頭を店主が撫で「このハーブだったね」と何事もなかったかのように品物を紙袋に詰めた。頷いた後、二人から目線を離した店主の隙に「冗談本気にするなよ、ばーか」とアレクが小声で呟く。

「あとは傷薬……そうそう! あんたら飲む傷薬は知ってるかい?」

 飲む傷薬? 振り返った店主の言葉にアレクは首を傾げた。傷薬は基本練った薬草を患部につける塗り薬のはずだが。

「そうそう、ギルドハンター御用達の。なんでも、原料となるレアもんのキノコの栽培に成功したらしくて、最近は市場に安く出回っているんだ。昔は偉い人にしか使わせてもらえなかったのに。いい時代になったもんだよ」
「へえ。でも、飲んだだけで治るのか?」
「人間の回復能力を急激に上げてくれる代物さ。私も先日ここを深く切っちまったが、飲めばあっという間に傷が消えちまったよ。騙されたと思って飲んでみな」

 熱く語る様子になんだか気になってしまう。大抵詐欺なら大金を取ってくるはずだが、値段は結構お手頃だった。なにより裏市の売人ならともかく、厳格な規定水準がある街の売り場で詐欺なんてあるわけがない。訴えられて潰れるのは店側だ。

「じゃあ、五つぐらい買っておくよ」
「まいどありぃ!」

 品物が入った紙袋を受け取り、代わりに硬貨を差し出して、店から離れた。しばらく歩いて、先程から無言のリーゼロッテを肘で小突く。

「なっ! なにし……!」
「お前、嘘つくの下手すぎ。そんなんでよく生きてこれたな。本当ガキ」

 あの強気はどこへ行ったんだかと、鼻で笑ってみせる。ガキだという揶揄にカッとなり、リーゼロッテは腹立たしいままアレクの足を蹴りつけた。よろめき、落ちるおちると、アレクが笑いながら紙袋を持ち直す。
 緊張が解けた状態で残りの買い物を済ませ、二人が最後の店についた時はほぼ真上にいた太陽が西の方角に傾いていた。荷物を持たされた状態で待っているリーゼロッテの前に「お嬢ちゃん」と声がかかる。

「凄い荷物だねえ。誰か待っているの?」

 知らない顔ぶれの三人組だ。顔を見られないようにと俯き、少し赤ずきんを深く被りながら「何の用ですか?」と警戒する。

「別に。沢山荷物持ってて大変そうだから声をかけたんだよ。良かったら俺らが持ってあげようか?」

 リーゼロッテはすぐさま彼らが荷物を奪おうとしているのを理解した。きっと弱そうな旅人だと思われてからかいに来たのだろう。こんな白昼堂々に、面倒な奴らだ。いいです、と短く切って顔を逸らした。

「そんなに冷たくするなよぉ? 親切にしてやってんだから」

 下品な笑いを浮かべて肩を押し出した。バランスを崩してその場に倒れ、荷物を落とす。だせぇ、と上からゲラゲラと笑い声が聞こえた。正体がバレていなくてもこんなふうに馬鹿にされるなんて。父が外の世界に出るなと言っていた理由が何となくわかった気がした。

「なに、楽しそうなことしてんだ?」

 その声が聞こえたと同時に男の一人が視界外に弾き出された。なんだテメェと振り返ってみればそこには大きめの青い外套に身を包んだアレクが立っている。

「寄ってたかって、ガキをからかってんじゃねえよ。情けねえ」

 なんだと! と声を上げて一人が殴り掛かる。けれどもアレクは動じず、いとも容易くその拳を掴んだ。そこから足を払うようにして、男を転ばせる。

「お前ら人間の攻撃なんて止まって見えるんだよ。分かったらさっさと帰れ」

 怪我はしたくないだろ? とまだ立っている一人を見つめる。アレクから漂う強者の空気に押され、三人組は「覚えてろよ!」と立ち上がって逃げていった。ばーか、とその背中をアレクは見送る。

「待たせたな……どうだ? なかなかイカすだろ?」

 大きめの青い外套に身を包み、くるりと翻すように回ってみせる。いつもの服にマントを羽織っているだけだ。殆ど何も変わらないと、リーゼロッテは目を細めて凝視する。この人はこれを選ぶのにどれだけ時間をかけているのだろう。本当に追われているという自覚があるのだろうか。

「……色々言いたいことはあるけど、とりあえずありがとう。ところでなんでそんなに大きいマントを? 動きにくくない?」
「あー……その方が狼から戻った時すぐに隠せるだろ」

 ああ、全裸になることかと思い出す。一応気にはしていたんだと考え「そう」と軽く笑ってみせた。この際ずっと狼でいたらと思っていたが、目立つしなによりこれまで人間で生活してきた本人的にも辛いものがあるのだろう。全裸でいられても困るしと、落ちた荷物を拾って立ち上がる。

「お前も新しいヤツ買ったら? そんなボロボロだから浮浪者だと思われて絡まれるんだろ?」

 荷物を半分持つアレクに「いらないよ」とリーゼロッテは歩き出した。

「これは父さんから貰った赤ずきんなの」
「はあ。なんでそんなに目立つ色を……」
「私に一番似合う色だって。それに赤は自然界では危険色だから、魔物に襲われにくくなる」
「……ふうん」

 目的を達成し、会話をしつつもさっさと街から出ようと帰路についたところで、周囲からざわめきが聞こえてくる。元を辿るようにキョロキョロと見回していると、人々の目線は、傷薬を買ったあの店に集まっていた。

「おい、早く寄越したまえ! 私はこのあと用事があって忙しいんだ!」

 薬屋の前にいたのはきらびやかで装飾の多い服に身を包んだ、いかにも高貴そうな男の姿。その背後に鎖に繋がれた十代半ばの少女の姿がある。肌着に近いワンピースを着せられ、ずっと俯いている状態だった。リーゼロッテは考えるまでもなく一目で「悪魔」だと悟る。

「ふん。ストナタンの在庫はこれだけか。使えない店だ」

 腹立たしさのまま店の商品台を蹴りつけ、物が落ちる。おい、と高貴そうな男が近くにいた護衛兵に声をかけた。

「今から発したら会合場所まで何日でつく?」
「普通通りで行きますと七日……リンモエテ山を越えると三日程で」
「ギリギリか。仕方あるまい……後者で行こう」

 その言葉に護衛兵は不安げに「ですが」と引き止めた。途中から洞窟を通らないといけないため馬車は使えないし、なにより危険がつきまとう。

「越えるといったら越える! 大切な会合なんだぞ! 遅れたら何をされるか分かったものじゃない!」

 その返しに元よりあんたの行動がゆっくりなせいでと文句を言いたくなったが、口を噤んで渋々了承した。行くぞと高貴な男に鎖を引かれ、少女はその場に倒れる。

「ちっ! このノロマ!!」

 先の尖った靴で、高貴な男は少女の顔を蹴りつける。鼻血を出し、奇妙な声で呻くその様子に護衛兵が慌てて「領主様、あまりここで目立つことは……!」と止めた。

「ええい! うるさい! こいつらは生きてること自体が悪だ! 悪魔はこの世界を滅ぼすと、そう予言にもあるだろう! 害悪だ! 第一、人の形をしているくせに言葉も話せず、魔力を持たないなんてひたすらに気味が悪い。誰も望まない、生きてるだけで無駄なゴミ共め」

 ペッと、唾を吐きかけられ「ほら、逆らってみろよ。ただし人の言葉でちゃんとなあ」と踏みつけられる。それでも、少女はただ無言で耐えるばかりだ。一瞬、じっと見つめていたリーゼロッテと目が合ったがすぐに「さっさと行くぞ」と引っ張られ、一行はリンモエテ山の方へ向かって行った。

「なんだアイツら。おばさん、大丈夫だった?」

 嫌な奴らだなと睨みつけながら、アレクが薬屋の店主に近づく。蹴られたことで物が落ちて、地面には商品が散らばっていた。

「ああ、大丈夫さ。奴らはこの街の領主様だよ。この通りに出ている全ての店の管理人さ。逆らったら店を取り上げられちまう」

 今日は特に機嫌が悪かったなんて、店主が拾いながらため息をついた。
 街には基本、町長兼領主が存在している。代表である領主が土地を貸し、そこで商人達が物を売って、その売上のうち何%を土地代として奴らに献上するというのが国によって定められているルールだ(売上の%は町によって異なる)
 また、ジェラルドのような狩人など、店の人間と契約し商品を納品する人間たちも存在するが、商品を提供する場の基本金を取られてしまうため、その生活は貧しいという。だが、化け物などから取れるレアな素材は近くで提携しているギルド商会に納品でき、商会側から別途で支給金が貰えるため、高く買い取られることが多いのだ。ギルドハンターに憧れる人間が多い所以である。

 アレクについてきたリーゼロッテは落ちたものを拾っている店主を見て、しばらく見ていただけだったが、そのうち店の方に回り、一緒になって拾った。手に持った瓶を店の台に並べていくリーゼロッテに店主が「ありがとう。お嬢ちゃんはいい子だね」と優しく手を握る。その際にじっと見つめられ「そんなこと……」と慌てて顔を逸らした。
 こんなに温かい人も自分のことを知ったらあの村人のように、なんて考えて眉を下げる。さっきだってそうだ。みんな、目の前であの子があんなことをされても見て見ぬふりをしていた―――自分もそのうちの一人だ。

「そうだ。いいものをあげるよ」

 お礼と言ってはなんだがと、店主は思い出したかのように店の奥に入っていき、何やら白いものがふわふわと浮かんでいる小瓶を差し出した。

「これはケラパラ。洞窟とか暗いところにふわふわしている謎の生物さ。こいつらは自分に危険が迫ると敵を威嚇するために強く発光する。そりゃあ、雷が落ちたみたいに強烈なやつさ。だから、化け物なんかの目眩しとして使われることが多いんだよ」

 使う時は瓶を思いっきり振って素早く後ろを向くんだと言われながら、リーゼロッテはその小瓶を受け取る。結構生物には詳しい自信があったが、これは初めて知った。背後から「毛玉みてえだ」とアレクが覗き込む。

「もし帰る時に化け物に襲われたら、これを使って逃げるんだよ」
「……ありがとう、ございます」

 まさかこんなものを貰えるなんてと、深々お辞儀をする。効果的にも今後役に立ちそうだと大切にしまい、二人は手を振る店主に見送られながら街を出た。

「クリフ、お待たせ」

 町外れにいるクリフの元へ帰ってくる。クリフは主人を見るなり跳ね上がり、押し倒さんばかりの勢いでリーゼロッテに擦り寄った。甘えてくるクリフの顔から体まで大きく撫でながら、リーゼロッテは買ってきた手のひらサイズのベリーを与える。最近は特にクリフとの絆が深まったのか、なんだか前より甘えてくれているような気がした。おい、と背後から不機嫌そうな声が聞こえてくる。

「イチャついてるところ悪いが早く行くんだろ? 聞いたところだと、次の所までは丸々一週間かかる。その途中に村もないし、山をぐるっと回る必要があるらしい」

 その言葉に撫でる手を弱めながら「その事なんだけど」とアレクの方に目線を向けた。

「食料は長く持たせたいの。なるべく街に寄らないためにも。それに正規ルートだと、この先には関所があるし……」
「は? じゃあ、あいつらと同じようにあの山を通っていく気か?」
「……うん。その方が私たちには安全かなって」 

 それ以外にも正直、あの少女のことが気がかりでならなかった。小さく頷くリーゼロッテに「また森かよ……」と顰めた顔でアレクが頭をかく。とはいえ、関所で止められていたら元も子もない。

「……なあ。さっきのあの子が気になるとかではないよな?」

 考えていたことが悟られ、肩を震わせて動揺するが、すぐに「違うよ」と首を横に勢いよく振った。分かりやすいやつだと思いつつ、関所を避けるべきなのは理解でき「……それならさっさといくぞ」とアレクは前を歩き出した。

「もう行くの? 少し休んだら……」
「大丈夫だって。日没まで時間があるなら有効に使わねえとな」

 街の近くじゃこいつも休めないだろうし、なんて先程の事を思い出して、前を向きながら手を振る。頭の後ろで腕を組み、フラフラと歩く青い背中を見て、リーゼロッテは荷物を乗せたクリフの手綱を引いた。





 リンモエテ山は木々が既に赤や茶に染まり、まるで秋のような光景だった。名も知らぬ珍しい動物が自分たちの前を横切り、遠くからじっとこちらの様子を見つめてくる。

「すごい豊か……木も見たことないやつが沢山……古代樹かな?」

 この山は一年中ずっと季節を保っている一季地帯なのだろう。見渡す限り生えている大木も、迷いの森とは違った形状で、なんだかぐねぐねして不思議だ。

「人工物も見当たらないし、人が立ち入る場所じゃないんだろうな」

 人の臭いも全くしねえ、なんてアレクが鼻を僅かに動かす。確かに街でのやり取りを思い出す限り、人が入ることは滅多にないのだろう。とはいえ禁足地になっているわけでもない。山を越えるだけで関所を通らなくて済むと考えると、なんだか怪しい気もした。

「お? あれじゃねえか?」

 しばらく歩いていくと、見上げるほどの大きな洞穴が見えてきた。中から吹いてきた冷たい風が、一行を突き抜けていく。

「うっ……くっせえ……何だこの臭い」

 隣にいたアレクが涙目になりながら鼻を抑える。その反応に「大袈裟だなあ」とリーゼロッテは呆れたように鼻で笑った。

「大袈裟じゃねえよ! 俺はお前らより嗅覚が優れてんだ! みろ! クリフも嫌がってるだろ」

 指差す方向を見てみれば、確かにクリフも耳を後ろに伏せ、ブルブルと顔を振っている。少し興奮している様子に「大丈夫だよ」と宥めるように撫でた。

「私も僅かに感じるけど、多分コウモリの糞尿の臭いだよ。洞窟どころか私の家の中でもしてた」

 木の家だった為、コウモリが壁や天井の隙間に住み着くことがよくあった。家の中を糞だらけにし、食べ物をだめにするので父と一緒になって追い出していたなと懐かしむ。

「あの人たちもこの中を通ったのかな……」
「さあな。鼻が全く機能しねえから分からねえ」

 本当に酷い臭いだと腕で鼻を押さえるアレクに「そんなに酷いなら、ハーブでも鼻に突っ込んだら?」なんてクリフに乗せた荷物を軽く叩いた。 嫌に決まってんだろ、とアレクが前進するリーゼロッテに続く。
 中は当然湿っぽく、どこからかピタンピタンと水の滴る音が聞こえてきた。藻の生えた青臭さと、糞尿の臭いが入り交じって、眉間が痛くなる。ランタンに火を灯し、奥へ進んでいたが、途中でアレクが興奮したように天を見上げた。

「すげぇ……」

 岩の天井には星空のような青白い光が一面に広がっていた。一粒一粒が強弱をつけながら光り、ランタンが要らなくなるほど先の暗闇を照らしている。

「外にでも出ちまったのか……?」
「違うよ。まだ洞窟の中。彼らはグロワルトラっていう昆虫の幼体。コウモリの糞に卵を産みつけて孵化すると、天井に張り付いて光に寄ってきた小さな虫を食べるの」

 まさかこんなところで見られるなんてとリーゼロッテは感嘆し、キラキラと目を輝かせながら見上げる。

「はあ!? じゃあ、これ全部……」
「幼虫だよ。成虫は口にハサミを持ってる肉食昆虫!」

 図鑑でしか見たことがなかったと、隣でクルクルしながら喜ぶリーゼロッテに「お前が全部話したせいで一気に気持ち悪くなった」とアレクが目を細めた。捕まっていた時に虫にはお世話になったが、別に好きなわけでは決してない。

「早く行こうぜ……降ってきて服の中に入ったら最悪だ」

 急に冷めた様子で歩き出すアレクを不思議に思いながらも、リーゼロッテは慌てて後を追う。
 洞窟は自然にできたものにしてはかなり道幅もあって歩きやすい。ところどころ急斜面があったりするが、それも持っていたロープで何とか対応出来た。ここだけは人の手が入っているのだろうかなんて考えていた矢先、聞き覚えのある声が聞こえてくる。思わず岩陰に隠れ、奥を見てみればそこには昼間見た奴らの姿があった。

「聞いとらんぞ……こんなっ……こんな化け物がいるなんて……!」

 青ざめたレスデト街の領主がふらふらと後退する。キチキチキチ、と歯軋りのような奇妙な音が洞窟内に響き渡った。

「あっ……」

 闇からゆっくり出てきたのは、頭部に大顎状のハサミを持ち、柔らかな毛に覆われた体の側面から八本の足を生やした巨大蜘蛛の姿だ。蜘蛛にしては珍しく尻尾があり、尻を上げている様子がまるでサソリのようにも思えた。口の上に密集した水晶は異様に澄んで、怯えた領主の顔を合わせ鏡のように映している。よく見たら天井には無数の糸が張られていて、その中に護衛兵の物言わぬ頭が空中で回るようにぶらりと吊り下がっていた。ぽたぽたと断面から溶けた皮膚が爛れ、近くには体を包んだであろう大きな糸の塊が蜘蛛の巣に引っ付いている。

「くっ……」

 顔を強ばらせ、領主は一緒にいたあの少女の背中を押し倒した。膝から転び、横に倒れる少女を置いて自分は一目散に逃げる。

「なっ……!」

 その様子を影から見ていたリーゼロッテは思わず身を乗り出した。目の前の大蜘蛛は水晶体に少女を映し、大きなハサミを広げ構えている。

「助けないと……!」
「ばっ! 正気か!?」

 腕を引くアレクに「離してよ!」とリーゼロッテが振り払う。

「今出たらお前まであいつの餌食だぞ!」
「だからって見捨てるの!? あの子を囮にしてここを通るの!?」

 それじゃあさっきのクソ野郎と同じだと、怒鳴るように訴えるが、アレクは「それは」と俯いて何も答えようとはしなかった。もういい! と言ってリーゼロッテが押し出し、襲いかかろうとする大蜘蛛の前に飛び出す。もう、人と同じように見て見ぬふりをするだけなんて嫌だった。

「おい! リーゼロッテ!」

 やめろとアレクが止める間もなく、リーゼロッテは勢いよく滑り込むようにして少女を抱きしめた。風が通ると同時にスッパリ切れた髪が数本ひらひらと落ちていく。ギリギリ避け、体を横に摺り、呻きながら起き上がった。

「ひっ……」

 近くで見た事でより大きく感じる。大蜘蛛の目に映った自分を見て、まずいと鼓動が早鐘の如く胸を打ちつけた。そして理解する。わざわざ関所を設けなかった理由が。

「ギュイイイイイ!」

 耳を劈くような甲高い声にリーゼロッテは素早く少女の手を引いて駆け出した。恐怖で身を震わせるよりも、体が危機を察して本能的に動いたのだろう。守りながらの戦闘はキツいと、アレクのいる岩場に少女を押し出す。

「お願い……その子……守って……!」

 その瞬間、足元に吐き出された糸が巻き付き、地面を摺ってから宙に引き上げられた。カラン、と弓が地面に落ちる。

「ううっ……糸……」


 離れようとするがどんどん巻きついていき、体のラインが分かるほど絞めつけられる。逃れようと動く度に肌にくい込んで、血が糸を伝って滴った。先程の護衛兵も同じように捕まって、首だけが糸で切り落とされたに違いない。

「リーゼロッテ……!」

 このままでは死んでしまう。助けないと。岩陰から出ようとするが、アレクの体は震えて言うことを聞かない。一度死のうとして、今更何を怖がっているんだと思っていたが、体は正直だ。

「くそっ……!」

 人間の喧嘩には自信があった。過去に散々絡まれて、その度に喧嘩を繰り返す日々。技術はそれでついたし、動きだって持ち前の動体視力では遅く見えた。けれども今目の前にいるのは人の形から遠く離れたおぞましい姿の化け物だ。奥底に眠る獣の本能なのか、警鐘のように鼓動が大きくなって動けなくなる。その様子を見て「アレク!」とリーゼロッテは苦しみながら声を上げた。

「私に……ランタンの炎……投げて……お願い……」

 蜘蛛の糸はタンパク質でできている。いくら鋼のような強度で人一人持ち上げられるほど丈夫でも、熱には弱い。それならと、言われるがままランタンの中のロウソクを取り出し、震えながらリーゼロッテの体に向かって投げつけた。じゅっと音を立てて溶けだし、リーゼロッテは床に落ちる。

「はあっ……はあっ」

 地面に叩きつけられたことで体が痛めたが、転がるようにして炎を消し、すぐに弓を構えて大蜘蛛と向き合う。
 蜘蛛は体外消化する生き物だ。余分なものを体内に入れようとしないため、丈夫な消化器官を必要とせず、他の昆虫に比べて体が柔らかいのが特徴である。勝機が見えたわけではないが、攻撃が効かないわけじゃない。

「こい……っ」

 その声を皮切りに、大蜘蛛は再度上体を起こし、鋭いハサミでリーゼロッテに襲いかかってきた。体高な分、攻撃が届かない範囲も広い。その場で地面に顔がつくほど屈みこみ、素早く寝返りをして解体用の剣鉈を直接大蜘蛛の体に突き刺した。奥まで突き刺し、緑の体液を顔に浴びながら、縦に少しずらして範囲を広げる。ぎゅい、ギュイイイイイと悲痛な声が響いた。

「すげぇ……」

 ちゃんと化け物と戦っているところを見たのは初めてだった。あんな大きなやつに傷をつけるなんてと、アレクが感嘆をあげる。正直無理だと諦めていたが、もしかしたらと希望を抱いた。

「見ろよ。お前のために戦ってんだぞ……って、言葉通じないか」

 怯えてぼうっとしている少女の背中を押し、見せつける。彼女が世間で言うところの悪魔だということはアレクも察していた。だからこそ、リーゼロッテもあれだけ必死になっているのだろう。けれども少女は何も答えずに、リーゼロッテを光のない目で見つめるばかりだった。

「はあっ……まだ、だめか」

 顔に緑の体液を付着させたまま、リーゼロッテが離れる。大蜘蛛はよろけながらもまだ余裕があるようにしっかりと立って飛びかかってきた。フラフラと足を連れされるように避け、リーゼロッテはハサミの上部にある目を狙う。
 蜘蛛の視界はピンぼけだ。あくまで目は距離を図る道具に過ぎなく、実際は足の側面にある聴毛が視力の代わりだという。それでも、距離感が分からなければ動きにくさは増すはずだ。せめて片方だけでも潰せればと構えたところで大蜘蛛はまた糸を吐き出した。

「もう効かない……!」

 素早く避け、矢を放とうとしたところで、大蜘蛛が壁に張りつけた糸を手繰り寄せ、一気に距離を詰めた。思いもしない突進に倒れるように避ける。

「なに……今の……」

 体の大きさにしてはあまりにも軽快な動きに驚く。大蜘蛛はそのまま天井に上がっていき、何やら紫の液体を無数に降らせてきた。大きな液体はどろりと質量があり、ボチャボチャと音を立てながら床に落ちていく。その一滴がリーゼロッテの服につくと、あっという間に溶けていった。

「ど、毒……!」

 それもかなり強力なものだ。酸とよく似ている。大きさだけじゃなく毒もあるなんてとドロドロした液体から離れ、後退していく。ふと風を感じ、振り返ってみれば、糸にぶら下がり振り子のような勢いで大蜘蛛が背後から迫ってきた。まさか、毒で動ける範囲を縮小して誘導したのかと、真っ向から向かってくる影に青ざめる。反射で横に避けようとしたが、手足の長さに間に合わず体当たりされ、リーゼロッテは吹き飛ばされた。

「リーゼ!」

 体を宙に浮かし、数メートルほど転がった。地面に顔をつけたままゆっくり目を開けると、大蜘蛛は自分に向かってきている。かつて父は瀕死になると攻撃が変わる化け物がいると言っていた。いや、違う。あいつはまだピンピンしていた。ずっと遊ばれてたんだと、ゆっくり起き上がる。
 最後にやつは針のついた尻尾を体の上に突き上げ、うねるように紫色の液体を吐き出した。もう避ける気力もないと目を見開いたまま動けずにいた時、岩陰から何かが飛び出す。

「えっ……」

 自分に覆い被さるようにして出てきた影は紛れもなくあの少女の姿だった。両手を広げ、背中で毒を受けた少女と目が合う。じゅうじゅうと焼けるような音と共に煙を上げ、皮膚はぶくぶくと膨れ上がり、破裂するように溶けていく。骨を露わにし、ぼたぼたと赤黒の長い臓腑を爛れさせるその様子にリーゼロッテは声を失った。

「あ……が、と」

 目が溶けて真黒の両穴から白い涙を垂らし、一瞬だけ口角を上げたかと思えば、少女は自分の横に倒れ、水のように地面に広がった。目を見開いたまま、その光景に呆然とするリーゼロッテの耳に馬のひづめの音が聞こえてくる。

「ふ……っ!」

 クリフに乗ったアレクは素早くリーゼロッテを掴み、無理矢理乗せて洞窟を突っ切った。訳も分からないまま、ぼうっとしている様子に「リーゼロッテ!」とアレクが声を荒らげる。後ろからは逃がさないとばかりに俊敏な動きで大蜘蛛が後を追ってきた。

「ちっ、まだ追ってくるか……! おい! 街でおばさんに貰った小瓶! 使えるだろ!」

 それで撒くぞと怒鳴りつけるように声を張り上げるが、リーゼロッテは無反応だった。改めて「リーゼロッテ!」とアレクに名前を呼ばれてハッとし、震えた手で小瓶を取り出すと、勢いよく振って大蜘蛛に投げつけた。辺りは一瞬の静けさの後、視界全体が真っ白になる。リーゼロッテの顔を自分の体につけるように抑え、アレクはただ前だけを向いて走った。

「うっ、あああああああ……!」

 揺さぶられ、全てを理解する。アレクの青い外套にしがみつき、流れた涙と共に出たリーゼロッテの喚きは一行が無事に洞窟から出るまで続いた。





 外はもう真夜中になっていた。洞窟の近くにある見晴らしのいい所で一行は野宿をする。パキパキと焚き火の音がし、時間が経つと崩れ、再度木を増やすを繰り返した。しばらくしてアレクは湯気の立ったコップを二つ持ち、離れたところにいるリーゼロッテの元へ向かう。

「……これ、飲まないか? 街で買ってきた茶葉で入れた……」

 炎の光が届かず、月光が照らし出す場所で膝に顔を埋めているリーゼロッテに声をかけた。無言で首を振る小さな赤い背中の隣に座り、目を逸らすように月を見上げる。しばらく沈黙が続いた。

「……その……ごめん。あの時、お前のこと助けに行けなくて……それにあの子も……守れなかった」

 重々しい空気に耐えきれず、アレクが口火を切った。あの時のことを思い出す。リーゼロッテのピンチを知りながらも体が動かなかった自分とは違って、隣にいた少女は止めるまでもなく飛び出し、庇った。我ながら情けないと思う。恐怖で動けなかったどころか、リーゼロッテに託された事さえも守れなかったなんて。

「……お前に助けられておいて、俺は見捨てようとしてた。怖がりで……本当に、最低だ……」

 俯く、アレクに「違うよ」とリーゼロッテが顔を上げた。目が赤くなり、瞼が腫れている。

「怖いのは悪いことじゃない。大切なのはそれに立ち向かえるかどうかの行動だ。本当に怖くても、アレクはあの時炎を投げてくれた……私を連れ出してくれた。勇気に小さいも大きいもない。今ここに私がいるのはアレクのおかげだ……それと、あの子の」

 顔を僅かに上げたままリーゼロッテは遠くを見つめた。あの少女に庇われた事が過ぎる。人の形がドロドロに溶けて崩れていく瞬間。その匂いは、光景は、あまりにも強烈で、脳裏に焼き付く。目を伏せ、沈痛した表情を浮かべる。

「あの時……あの子ね、最後にありがとうって言ってくれた気がしたの」

 悪魔がこちらの言葉を話せるはずがないのに。自分には確かにそう聞こえた。なんで助けてくれたのかは分からない。それでも身を呈して救ってくれた。話が通じなくても、心は通っていた。父のことと重なり、ぎゅっと胸が締めつけられる。

「ねえ。アレク……悪魔は本当に生きてるだけで悪なのかな。予言って何? なんで存在しちゃいけないの? なんで差別されなきゃいけないの? なんで、色んなものを奪われないといけないの? ……言葉は話せなくても、魔力がなくても、元は皆同じ人間でしょ?」

 悲痛な嘆きだった。言葉を噛み殺し、ぐっと奥歯で耐え、悔しそうに涙を流す。こんなに深く考えられるのも自分が悪魔だからなのかもしれない。もし、自分が普通だったら、もっと他人事のように受け入れることが出来たのかもしれない。人間なんて当事者になって初めて理解しようする、自分勝手な奴らだ。私には分からないよ、とまた膝に顔を埋め、声がこもった。

「……それは、この世界が決めたんだ。みんなわけも分からずそれを守って、悪魔を攻撃することで安心している。自分たちが攻撃されないように。悪魔がいることで世界は平和を保てるんだ。だからみんな、それが正しいと信じてる。誰も間違いを正そうとしない」

 返されたアレクの返事にリーゼロッテは奥歯をかみ締め、腕の力を強めた。でも、それも変わる時が来たのかもしれないと、コップを置いてアレクが立ち上がる。

「リーゼロッテ。俺はお前が言うように悪魔が悪いやつだとは思えないんだ。今まで無関心で受け入れていたけど、やっぱり間違ってるって気づいた。だからもう、逃げるのはよそう。そんな間違った概念は、俺たちで壊すんだ」

 見下ろされ、リーゼロッテはキョトンと涙の浮かんだ目を向けた。

「……いいの? そんなことしたら怖いこと沢山あるよ? アレクは怖がりなんでしょ?」

 意地悪に力のない笑みを浮かべるリーゼロッテに「うっ」とアレクは言葉を詰まらせる。

「そ、そりゃあ俺は、お前と比べたら臆病だけど? 化け物相手はやっぱ怖ぇし……血だって本当はみたくない……でも、お前が望むならそれについて行く。ここに誓う……だから」

 中途半端な覚悟で着いてきてしまったことを後悔していた。そりゃあそうだ。こいつは生きるか死ぬかの境目で必死に今を生きようとしているのに。自分には覚悟が足りていなかった。

「俺に、戦い方を教えてくれ」

 その言葉にリーゼロッテは驚き、見上げる。彼の口からそんな言葉が出てくるなんて想定もしていなかった。困ったように眉を下げて「私、そんなに戦いに詳しいわけじゃないよ?」と涙を拭う。

「じゃあ、狩りの知識でも何でも……! 喧嘩には慣れてるけど……それ以上に強くなりたいんだ」

 頭を下げられた衝撃で涙が引いた。さすがに無理だと断ろうとしたが、その真剣な目にしばらく考え込んでから立ち上がる。

「……私は厳しいよ?」
「ああ、望むところだ」
「そっか……分かった」

 じゃあ容赦しないからねと、リーゼロッテはアレクと向き合い、笑う。二人を照らし出す月が今日は一段と綺麗に思えた。
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