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5.前世の絶望

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 そのとき――――。

「ベイトソン公爵令嬢。どうされましたか?」

 夜会の警備の騎士がマリオンの様子に気付いて声をかけてくれた。でもこの声は……。懐かしいあの人の声。顔を見ればコンラッドだった。思わず縋るように彼に手を伸ばした。

「あ、たすけて」

 男性はすかさずマリオンを背に隠しコンラッドから遠ざけようとした。

「何でもない。彼女が体調を崩されたようなので静かな場所へ案内する所だ。騎士風情が余計な口出しをするな」

 コンラッドは引き下がらずに目を細めると低い声で言った。

「コンロン侯爵子息。先日子爵夫人との密会が見つかり子爵と立ち回りがあったと記憶しています。いいのですか。このことを侯爵様が知ったらどうなるでしょうね?」

 彼は侯爵子息だったのか。さっきから強気な言葉なのはその身分だからだ。何かあっても父親がもみ消すと思っている。

「父上に告げ口する気か? 卑怯な……」

 コンラッドはふっと片方の口角を上げた。

「お前ほどではない。それに王太子殿下の婚約者に手を出したとなれば侯爵様も庇えまい。家がどうなるか想像したらどうだ?」

「……どうせ殿下に見捨てられているくせに!」

 侯爵子息はマリオンに捨て台詞を吐くと忌々しそうに舌打ちをする。マリオンの手を乱暴に放すと足早に去って行った。

「助かった……ありがとうございます」

 気が抜けて足の力が入らずその場に座り込んでしまった。

「大丈夫ですか? 王太子殿下のところまでお送りしましょう」

「いいえ、殿下のところではなく馬車止めに連れて行ってくれますか?」

「ですか……」

「お願いします」

「分かりました」

 コンラッドはマリオンをそっと抱き上げた。遠慮するべきだと思ったが甘えてしまった。
 このままクリフトンのもとに戻っても鬱陶しがられる。もしくはふしだらだと叱責されるかもしれない。それならばもう帰りたい。ファーストダンスも踊り最低限の義務は果たした。これ以上会場にいてもマリオンは役に立たないのだから。
 コンラッドの腕の中は安心できる。抱きかかえる腕はマリオンを守るように力強い。コンラッドと一緒に過ごした一年間で体温を感じるほど触れ合ったことはなかった。ずっとこのままでいたい。クリフトンの冷たい仕打ちに傷ついている今、コンラッドの顔を見て耐えられずに涙がこぼれた。

「大丈夫か? いや大丈夫ではないな。怖い思いをしたんだ。それとすまないがハンカチは持っていない」

「えっ?」

 ぶっきらぼうな声だがマリオンを心配してくれている。そうだ。コンラッドの優しさはちょっと不器用だった。あの頃と同じ口調で話してくれたことがたまらなく嬉しい。心の中がじんわりと温かくなり涙が止まった。自分でそっと頬の涙を拭う。

「大丈夫。ありがとう」

 馬車止めでおろしてもらうと彼の顔を見上げた。どこか切なそうな表情にマリオンの心は苦しくなった。思わず会いたかった、そう言葉が出そうになった。

「ベイトソン公爵令嬢。どうぞお気をつけて」

 それはお互いの立場を思い出させる言葉だった。マリオンは公爵令嬢で王太子の婚約者、コンラッドは爵位を持たないただの騎士。数カ月前までは私たちは婚約者同然だったのにまるでその事実がなかったことになっている。それが酷く悲しい。マリオンは一度目を閉じそして淑女の仮面を着けた。

「騎士様。助けてくださり本当にありがとうございました」

 コンラッドは頭を下げマリオンの乗る馬車を見送った。これが私たちの距離。もう気安く話をすることは出来ない。馬車の中で静かに涙を流し自分の恋心を再び心の奥底にそっと仕舞い鍵をかけた。
 屋敷に戻るとオルゴールに仕舞ってある以前コンラッドからもらった手紙を取り出した。彼らしい豪快な文字をそっと指でなぞる。それは自分を励ます儀式だった。

 それから数日後、マリオンが不貞を働いているという噂が流れ始めた。夜会でクリフトンの目を盗み男性と密会していたという目撃証言まで出た。噂を流したのはコンロン侯爵子息だった。先日の腹いせのようだ。歩けなくなったマリオンをコンラッドが抱きかかえて運んでいたところを見た人間がいたことが余計に噂を大きくした。抱き合って口付けを交わしていたと誇張されている。彼は調子に乗りそれを触れ回っている。不貞なんてしていない。でもクリフトンは噂を聞いているはずなのに問い質さない。自分から言うのは言い訳をしているようで嫌だった。なにより心の中にはコンラッドへの想いがありその後ろめたさもあった。
 クリフトンは別のことを問いかけて来た。

「……マリオン。私をどう思っている?」

 クリフトンはじっと答えを待っている。この質問は時々される。

「尊敬しています」

 マリオンの本心だが彼は顔を曇らせた。でもこれ以外の返事は思い浮かばない。何度も聞くということはこの答えが彼の望むものではないのだ。だからといってマリオンは媚びるような言葉も嘘も吐けなかった。

 ある日クリフトンは夜会が終わるなりマリオンを別室に連れて行った。そこにはなぜかライラが同席していた。青いたれ目の瞳が潤みマリオンに対し敵意をあらわに睨んでいる。

「マリオン。ライラがこの手紙を拾った。お前が書いたもので間違いないか?」

 心当たりがないがそれを受け取り広げた。サッと目を通し唇を噛んだ。

 その内容はマリオンが男性に愛を囁くものだ。文字はマリオンの字にそっくりだった。浮気の証拠だと突きつけられた。

「これは私が書いたものではありません。文字は似せてありますが違います」

「見苦しいぞ。これはマリオンの字だ。筆跡鑑定もしてある」

「そんな……」

 本当に鑑定をしたのだろうか。確かに全体的に似ているがよく見れば微妙な違いがある。専門家なら分かるはずだ。

「お願いします。もう一度詳しく調査をして下さい」

 きちんと調べればこれが偽造だとすぐに分かる。それなのにクリフトンは突っぱねた。

「マリオン様。本当のことを言って下さいませ。夜会の時に騎士と抱き合ってたという目撃者もいるのです。認めればクリフトン様も分かってくれます。それで婚約を破棄すればいいのですもの」

 ライラは諭すように言うが認めるわけにはいかない。

「それは誤解です。抱き合っていたのではなく、具合が悪くて歩けない私を支えて下さっただけです」

 認めて婚約を破棄されるのはいい。自分はどうなってもいいがもし相手の騎士を探されるとコンラッドに迷惑をかけてしまう。

「本当ですか? 見つめ合っていい感じだったって聞いていますよ」

「ライラ、もういい!! マリオンを牢へ!」

 クリフトンは騎士に命じマリオンを牢屋へ放り込んだ。貴族用ではなく平民の罪人が入る場所だった。じめじめしてカビ臭い。恐怖を感じながらそこで一晩過ごした。

「殿下……どうして私を信じて下さらないの?」

 少しずつではあるが信頼を築けていたと思ったのはマリオンの独り善がりだったのか。

 かび臭い暗い牢の中で眠れるはずもなく「なぜ、どうして」と自問自答を繰り返す。コンラッドへの思いを閉じ込めて彼の婚約者として必死にやってきたのがすべて無駄に思えた。

 気付けば朝になっていた。両親はマリオンを見捨てたのだろう。そうでなければ抗議をして屋敷に連れ帰ってくれるはずだ。それが無理でも貴族用の牢に移動できたはず。マリオンの心は折れてしまった。コンラッドを失い両親に見限られクリフトンには憎まれている。

「もう、疲れたわ。努力する意味も見いだせない……」

 昼頃になると牢にクリフトンが現れ蔑むような眼差しを向けられた。

「マリオン。本当のことを言え」

「……私は不貞などしておりません」

「だがマリオンが騎士と抱き合っていた姿を見た証人がいる」

「抱き合ってなどいません。騎士様には具合が悪いところを助けてもらっただけです」

「…………」

 昨日と同じことをもう一度伝えた。嘘はない。疚しいことなど何もなかった。コンラッドは助けてくれただけですぐに別れた。彼の名前すら呼んでいないのに。
 
「マリオン。私をどう思っている?」

 クリフトンは何かを見極めようとするようにじっと自分の表情を見ている。またこの質問……。彼の意図が分からない。

「……もちろん尊敬しています」

「そうか」

 彼はゆるく首を振るとスッと表情を消した。そして腕をマリオンに向かって差し出す。彼の掌には小瓶が握られている。マリオンは目を見開くとそれをじっと見た。信じられなかった。妃教育で習った王家の秘毒……黄色い小瓶。万が一のときの自害用のものだと教わった。優しかったクリフトンが不貞の噂だけでここまでマリオンを追い詰めるのか。最悪の場合、せいぜい婚約を破棄して修道院に送られると思っていた。

「殿下……」

 それを力なく受け取るとぼんやりとクリフトンを見上げた。

「マリオン。それを飲め」

(彼は私に死んでほしいの? それほど憎まれていたなんて……もう、いい。何もかもどうでもよくなってしまったわ……)

 マリオンは毒の入った小瓶の蓋を開けるとそのまま飲み干した。少し苦い。でも苦しみは感じない。少し目が回って床に倒れた。薄汚れた天井が見える。マリオンはゆっくりと目を閉じた。涙が落ちる。自分がなぜ泣いているのか分からない。悔しいのか悲しいのか、でもすぐに全部終わる。意識が消える直前の一瞬、密かに淡い想いを抱き続けた人の顔が浮かんだ。それもすぐに消えていった。

 シンシアの前世、マリオンの人生はこうして終わった。



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