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〖84〗かけがえのないもの
しおりを挟む薄暗い部屋の中央に佇んでいた青年が、ふと瞼を開いた。
まるで目を覚ましたばかりのような、それにしては冴えた瞳が、壁に取り付けられた時計へ視線を向ける。
ホテルの舞踏会が始まった頃だ。
「ヴィンセントの部下」の任務が終わるまでは、残り数時間。
もう時期、長い歴史を持ったこの国にも終わりが来る。
今夜は長い夜になる。
冷たい銀の睫毛が、再び俯かれた。
[第11話]
オペラハウスから逃げ出し、全速力でホテルまで向かう。
通りすがりの人々が何事かとこちらを見返すが、気にしている余裕はない。
階段を駆け上がる。部屋のノブを握ったとき、反対側から何者かが扉を引っ張る。
シオンは前のめりに倒れ込んだ。
「あっ!」
不可抗力で、扉からでてきた人物に抱きついてしまった。
「·····エル?」
慌てて相手をみあげる。
神経質な瞳がこちらを見下ろしている。
「エドワード…」
シオンは安堵のため息を漏らした。
自分を酷く抱いた男を見て安心するなど可笑しなことだが、今はこの見知った顔に救われる。
同時に、確信した。
自分にとって彼らは、憎むべき存在ではなくなってしまった。裏切ることも、到底不可能だ。
「鬱陶しいんだけど」
いかにも面倒くさそうな声が、早く離れろと唸る。
拒絶するように肩を押そうとする手が寂しくて、シオンは彼の胴体をぎゅっと抱きしめた。
失った家族と故郷、行方不明の親友。かけがえのない人達は、手の届かない場所にあった。
彼らは、この手で触れることが出来る。今のシオンにとって素晴らしいことだった。
「エドワード」
「…は、…?」
硬い身体から心臓の鼓動が聞こえる。
シオンはめいっぱい腕に力を込めた。
待てども、彼は無言のままだった。
「……?」
こちらを引き剥がそうと伸ばされていた手は、ピタリと動きを止めている。
「エドワード?」
「…っ…」
「·····悪いが」
口を開きかけたエドワードより先に、もう一人の声が言葉を紡ぐ。
扉の向こうから腕を引かれる。エドワードから離れたシオンは、リヒトの胸の中に納まった。
「時間が押してるんだ」
まだ何か用かと聞くリヒトに、エドワードは大きな舌打ちを落とす。彼はこちらを見向きもせず、廊下に消えてしまった。
鈍いきしみ音と共に扉が閉まる。
シャンプーの香りが漂ってくる。
どぎまぎして離れようとするが、リヒトの腕はビクともしなかった。
「·····?」
何となく気まずい雰囲気だ。
リヒトを見上げる。
目が合うと、黄金のまつ毛はそっと伏せられた。
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