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一章
100.はなし
しおりを挟む寂しさには慣れていたはずなのに、指先が震える。フェロモンが特に乱れる発情期が来たみたいだった。
(あれ·····?)
窓は、いつ開けたっけ?
すぐ側でクスリという笑い声が聞こえた。
(また、変な夢?)
そう思うほど覚束無い夕暮れ時。
起き上がって伸びをする。目元を擦ろうとした手は硬い温もりに覆われた。
「·····へ?」
ベットの前に佇む背の高い影。
こちらの手を取った彼はそっとかがみこみ、甲へ口付けを落とす。
白銀色の毛先一つひとつが、刃の切っ先のように輝いた。
「·····起こしてしまったかな?」
「·····ルシ·····」
やっぱり夢だろうか?
結局目元をゴシゴシこする。2、3回瞬きするが、夢にしては巧妙すぎる───いやむしろ夢かまぼろしでなければ存在し得ない程の美貌が微笑んでいる。
「会いたかったよ」
「へ??」
甘い声の語尾が笑うと、耳の生える当たりがゾワゾワする。
"また来る"
彼が去り際に告げた言葉だ。
他の兄弟と違って、彼はほとんど屋敷に居ない。
「·····ミチル?」
帰ってくると言うよりは、用があるときにだけくるような感じだ。
普段、彼はどこにいるんだろう?
会いたいと思ったら、どこに行けばいいんだろう?
ダリアのせいで寂しい思いをしたからか、不安定な時期だからか?
こんな時に彼に会いたくなるなんて、最低だ。
「プレゼントを持ってきたんだ」
こちらを見つめていたルシフェルが、次には話題を変えた。
ベットに腰かけ、ホルスターのポケットから何かを取り出す。
どこを見ても思わずときめくほど万能な体躯だ。
戸惑っていると、目の前に何かを差し出された。
「·····クッキー?」
紙袋に入っていたのは、クッキーにしては分厚くて小ぶりな焼き菓子。
果物、チョコレート、ナッツの香りがする。
格好よくて大人っぽいルシフェルがこんなに可愛いお菓子を持っているなんて驚きだ。
(おいしそう)
忘れていた空腹が呼び戻されてくる。
「城下に新しく開店したスイーツ屋さんなんだって」
ミチルは甘いもの好きでしょう?部下から評判だって聞いて買ってきたんだと、どこか嬉しそうに声をかけ続けてくれるルシフェルを凝視する。
彼がこれを、わざわざ自分のために買ってきてくれたらしい。
仕事中に、自分のことを思い出すことがあるんだ。
さっきよりも意外な一面を知ってしまい戸惑う。
食べようと思ったけれど、恥ずかしくなって手を伸ばすことが出来なかった。
彼は自分を大切に思ってくれているんだ。
「喜んでくれるかと思ったりして·····」
「·····?」
「またミチルを思い出したよ」
長い指が紙袋に差し込まれる。
「口を開けて」
おずおず開いた口元に、キューブ型のサブレが転がされる。前歯でサクッとほぐれて、芳醇なバターの香りが広がった。
「美味しい?」
こんなに香りの良い焼き菓子は初めてだ。
「甘くておいしい」
思わず述べた感想はしりすぼみに消える。
ルシフェルがそっと手を伸ばしてくる。ドギマギして視界を薄めるが、中指が口元を拭っただけだった。
食べかすが付いていたみたいだ。
「·····!」
こっちを拭った指先は、そのまま彼の口元へと持っていかれる。
赤い舌が光った。
「ミチルの方が甘いかな」
歯の浮くようなセリフに、もはやぐうの音も出ない。
身体を撫でて、切ない絶頂を味わわせた指。赤い舌は息が苦しいほどこちらの唇を吸ってきて·····───破廉恥な出来事を思い出していることに気がつき、激しく首を振る。
こんなセリフ、おとぎ話の王子様でも言わないはずだ。
そして彼の容姿ではそれさえも様になっているから、ドキドキしてたまらないのだ。
まるでこっちの心を見透かすように、弱った時に支えてくれる相手。
不思議な人だ。
「ルシ·····いつも、どこにいるの?」
彼はどこに還ってくるのだろう。
仕事はとても忙しそうだ。ちゃんと休めているのだろうか?
ルシフェルのことを何も知らない。
こんなふうに一方的なのは寂しい。
「·····」
ミチルが俯いている間──ルシフェルは人知れずほくそ笑んだ。
「寂しい思いをさせたのかな」
「!」
屈んできた顔が頬にキスを落とす。
口にしなくても分かってくれて、やはり望む通りの言葉をくれるのだ。
「ぁ、っ」
追加でこめかみにもリップ音を落とされ、妖しい気分になったところで彼が離れてゆく。
恥ずかしくて肯定することはできなかった。
可愛げの無い性格だ。
自己嫌悪するミチルは、相手が染まった頬を眺めていることには気が付かなかった。
「すこし、俺たちの話をしようか」
「ルシたちの·····?」
ここへ来てから、誰も教えてくれなかった彼ら自身の話。
もちろん聞きたい。
「知りたい」
期待の眼差しに微笑み返し、ルシフェルは窓の向こうを見つめた。
滑らかな唇から笑みが消える。
空はまた少し暗くなるのに、赤い瞳だけが静かに輝きを増す。
どんなことでも知りたいと思った。
「俺を愛してくれる?」
「·····へ?」
かわいた風が二人の間を吹き抜けていく。
唐突な質問に頬が熱くなる。
浮ついた熱を愚かに思うほどの沈黙だ。
彼の口元が僅かに弧を描いた。
「俺がサタンだとしても」
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