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一章
53.クイズ
しおりを挟む聞き取ろうとして近づいてきた美形におののいて、また鳴き声が漏れる。
男は階段をのぼり続ける。
最上階ならほとんど人が出入りしないから、と、言い聞かせるような声が言うに。鳴き声を聞いても驚いていないようだった。
入ったのは客室と似た造りの部屋だ。
壁には威風堂々とした絵画が並び、机を挟んで向かい合った3人掛けのソファ、そして開放的なガラス扉の向こうにはバルコ二ー。部屋の中央にはグランドピアノがあった。
ミチルをソファに降ろし、相手はその隣に腰掛けた。
「ここには誰も来ないよ」
落ち着くまでいていいという囁きに無言を返す。
しばらくしてミチルは彼を見上げた。
何もされないし、聞かれないからだ。
もしかしたら怪しい者だと思われているかもしれない。
落ち着いてきた吃逆を飲み込み、口を開きかけて思考する。
自分はここでは、"何"なのだろう。
「君が何者でも、俺には関係ないさ」
「!」
「ここには、君と俺しかいないからね」
まだ何も話していないのに、疑問に返答がくる。
(もしかして、この人)
「心が読めるのかって?」
ミチルは彼の座った方とは反対側に仰け反った。
身体が軋んで体制を崩す。巨人用のソファから落ちそうになると、丈夫な腕に支えられた。
「残念ながら心は読めないよ。でも見つめたら」
可笑しそうに笑った横顔に目が晦む。
目元を拭われると、またいい香りがした。
「わかる気がする」
例えば深紅の瞳にのぞき込まれれば、考えていることは何もかも、本当に全て見透かされてしまいそうだ。
声には妖しい優しさを持っていて、特に不思議な香りがした。
花のように甘くて懐かしい匂い。魅力的な声音に香りをつけたら、こんなふうなんだろうと思う。
香水とは違う。
まるで惹き寄せられるような香りで────。
相手は少し驚いたように目を見開いて、次には色っぽい唇を綻ばせた。
「·····可愛いお耳が」
「··········ぁ·····!」
比較的穏やかな気分だったのに、それはピンと立って反応した。
匂いが漂っているはずだが───彼は微笑みを浮かべ、眩しそうに目を細めた。
「フェロモンは安定してるみたいだ」
彼は匂いでそれが分かるようだ。
その通りだ。耳が出たと知った時は驚いたが、それ以外は穏やかな心情だった。
そして今も、本来は他人が怖くて人見知りする性分だというのに、抵抗を感じない。
「俺と出会ったこと、嫌ではなかったのだと思ってもいいのかな」
髪の毛をそっと梳かれる。
多分この声と、匂いのせいだ。
「嬉しいよ」
撫でられているうちに眠たくなってきた。
昨日は一睡も出来なかったから微睡みが心地よい。
最後に見たのは、夜露のような微笑みだった。
耳を劈く罵声と、無数の目。
よく見る悪夢の中に、記憶に新しい人物が入り込んできた。
「出来損ない」
大好きな声が告げる。
部屋の隅に座り込んで耳を塞いでも、それは聞こえてくる。
「俺がお前を愛すとでも?」
心の奥底で、もしかしたらと願っていた。
「お前が大嫌いなんだ」
彼が離れてゆく。
きっともうふりかえってはくれない。
(待って)
暗闇の向こうに手を伸ばす。
(行かないで·····)
「行かないで·····」
伸ばした手が何かを掴んだ。
固くて乾燥した物体だ。目を開けると、だんだんピントが合ってゆく。
握りしめたのは角張った手。その向こうに、見開かれたライムグリーンがあった。
振り払ったのは彼の方だった。
「勝手に触んな」
手首がじんと痛む。
掴んでしまったのは申し訳なかったが、彼の手だと知っていたら絶対に触れなかった。
そもそも、なぜ掴める距離に?
(ここは·····)
見渡すと見覚えのある部屋だった。
ハインツェの寝室だ。
ジェロンが部屋から担いできたのだという。
それでは自室までは、"彼"が運んでくれたのだろうか。
「チルチル、また泣いたの」
叩き起されなかったのは意外だった。ハインツェはしばらくこちらを眺め、返答がないと鼻の先で笑った。
「よわ」
「··········」
誰だって悪夢を見ることはある。
どんなに悪魔みたいなやつでも───いや、彼は正真正銘悪魔だから、むしろ悪夢は好物なのかもしれない。
まだ少し、頭がぼうっとする。
「クイズ」
ハインツェが人差し指を立てる。
それがこっちの鼻先を弾いて、左右に動いた。
「泣き虫で弱くて淫乱で、1人じゃなんも出来ねえの、これ誰のことでしょう」
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