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一章
50.話し声
しおりを挟むハンカチの行き場は彼の唇だ。
二度、三度。そこを拭った布切れは、また元の場所へ戻された。
「·························」
彼の言いたいことは充分わかった。
気にしていた自分が馬鹿みたいだ。今度から口付けは嫌がらせとして使わせてもらうことにして、ミチルは反対方向を向いた。
正午からしとしとと雨が降り始めた。
部屋の中は少し肌寒い。
順調に時を刻む時計の音を聞きながら、時間が経つにつれて心が浮つく。
その日も早く部屋を出た。
他の兄弟達みたいに、ダリアと2人の時間を過ごしたい。
彼らと一緒にいても無闇にしっぽや耳が出なくなったことも、報告したい。
そうしたらまた褒めてくれるかもしれないから。
足踏みを繰り返してから、意を決して部屋の扉をノックしようとした寸前だ。
話し声が聞こえてきた。
一人はおそらくダリア。
もう一人は分からない。耳をすませるが、それ以上声は聞こえてこなかった。
仕切り直してノックをすると、入室を許可する返事が来た。
部屋の中央に佇む彼がいた。
薄暗く、既に厚いカーテンが窓をおおっている。
確かに声が聞こえたはずだが、他には誰もいない。
(気のせい?)
「·····今日も、予定より早かったな」
背筋に冷たい汗が流れた。
突き放すような声。昨日とは違う雰囲気に戸惑い、ミチルはその場に立ちすくんだ。
彼は、ある時は愛情を感じるほど優しく微笑み、またある時は塵屑でも見るような目でこちらを見下ろす。
ダリアは業務におわれていて忙しいから。
自分が役立たずだから、彼が怒るようなことをしてしまったに違いない。
そう思っていた。
しかしときに、そんな一時の感情と処理するには難しいほど暗い視線を感じるのだ。
「食事は済ませたのかい?」
頷くと彼はかすかに微笑んだ。
疲れたような笑顔は大人の色気があって素敵だが、同時に不安を煽る。
「そうか。アヴェルじゃないが、それ以上は痩せないでくれ」
「·····おいしくなくなるから?」
「··········」
部屋はしんと静まり返った。
「面白い冗談だな」
彼の一言で笑い話にされた。
彼になら、"食べられたい"。そんな思いを込めて聞いたことだったのにだ。
「どこかに行くの?」
「ああ」
タイを締め直すダリアはそれきりこっちを見ない。
このまま彼の言うとおりにしていたら、一生業務連絡をするだけの仲になってしまう。
そんなの嫌だ。
「行かないで」
声が小さかったのか、無視されてしまった。
彼が扉へ近づいてゆく。
「ここにいて」
ミチルは叫んだ。
自分でも少し驚くくらい大きな声だった。
後ろ姿は男らしくひきしまってセクシーだ。冷たい雰囲気にドキドキ高鳴る心臓が期待をふくらませる。
彼は、どんな表情をしているだろうか。
「······そんなに望むならそうしよう。俺が良いと言うまでは声をかけないでくれるね?」
ミチルは飛び跳ねたいのを我慢して首を縦に振った。
机に着いたダリアはもうこちらを見なかった。
少し寂しく思うが、前回よりはずっといい。ベットに腰かけて、気付かれないように彼を盗み見る。
長い指が、時折書類をめくった。
筆を動かす度に凸凹を変える間接が男らしい。知的な瞳も、高い鼻の横顔も、どこをとっても高潔だ。
ミチルはもじもじと足先を動かした。
いつの間にか視線は彼を見つめて、話すことが出来ない。
ベットから漂ってくる入浴剤の香りにドキドキして、身体が熱い。
端にあった枕を抱き寄せる。
そしてそれを股間に押し付けたのは、いわば本能的だった。
静かな部屋で、想い人と2人きりで、相手のベットの上。
いやらしい気持ちに抑えはきかず、そっと腰を動かす。
押し付けたり擦ったりするともどかしい気持ちよさが与えられた。ミチルはそれを欲して、ひたすら声を殺し快楽に耽った。
ダリアの手が止まっていることには気が付かなかった。
(イッたら、だめ)
枕を握りしめて快楽に耐える。
射精はしなかったが、寸止めをくらった腹の奥がねじれるみたいだ。
性器を擦っただけでこんな感覚は初めてだった。
ただ奥にダリアが欲しい。見たこともないのに、咥える妄想をしていた。
「·····他人の物を、随分勝手に汚すんだな」
「·····──────へ··········」
顔を上げたミチルは固まった。
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