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一章
33.企み
しおりを挟む「俺たちの大切なお嫁さんなんだからさ」
ミチルの背に鳥肌が立った。
今度は一体、何を企んでいるんだ?
「なんだお前?気でも狂ったか?」
案の定アヴェルが眉をひそめる。
ハインツェは彼に含み笑いだけを返し、腕はこちらの背もたれに回した。
お陰でその後アヴェルに暴行を加えられることは無かった。
(助けられた?)
前までは一緒になってつついたりいじめたりしてきたくせに、どういう風の吹き回しだろうか?
「どしたのチルチル」
授業中、絵画みたいな横顔を覗き見ると、切れ長な目の端と視線が合った。
一瞥し、彼がニヤリとほくそ笑む。
相変わらず不気味な笑い方だが、顔をかたむけたハインツェは、そっと耳打ちしてきた。
「ペン、逆」
(ペン?)
左手に握ったペンを見る。
インクが出る方が上になっていた。
彼はそれを最後に前へ向き直った。
何もされなかった。
ミチルの心臓は、だんだんと嫌な躍動を落ち着けていった。
"俺たちの大切なお嫁さんなんだからさ"
彼が行いを反省し、心を改めてくれたのでは?
もしかしたらと一縷の期待を持った。
でないと、こんなに無害な言動に説明がつかない。
(もし、違ったら?)
でも今日の彼は、酷いことをしなさそうだ。
今なら本人に聞ける気がする。口の中でなんかいも短文を繰り返して、そのうえで逡巡した後、ミチルは彼の袖を引っ張った。
「ん?」
ハインツェがうざったそうに振り返る。
デカい図体はそばにいるだけで少し怖い。この身体に怯えずにすんだら、どんなに安心できるだろう。
ミチルが袖を掴んでいるのを見ると、彼は軽く片眉を持ち上げた。
「もう、いじわるしないの?」
声はカスカスだが、確かに言えた。
相手の表情は新鮮だった。持ち上げられた眉が変な方向に歪んで、両眼が見開かれる。
こんなに長く、初めて見つめあった。
驚きと釈然としない様を混ぜたような顔だった。
「·····んーと、して欲しいの?」
彼に聞き返されてハッとする。
今の台詞じゃ、おかしなニュアンスに聞こえたんだ。
ミチルはブンブン首を振った。
余計なこと、言わなきゃ良かった。
俯いたまま、教師の話は耳に入らない。逆向きを指摘されたペンをしっかり持ったって、何の役にも立たなかった。
時間は剣呑な雰囲気と共にすぎてゆく。
しかし、250分ぶっ続けの授業だ。
数十分がすぎた頃、脳内は眠気に襲われる。
今日はハインツェが落ち着いているし、アヴェルは用事で途中退出するらしい。
このまま無事に時間が過ぎる、そう思っていたせいでもあった。
「··········?」
アヴェルが部屋を後にしてから少し経った頃、背もたれに回されていた手が、そっと毛先を撫でた。
(気のせい?)
ハインツェが初めの頃みたいに伸びをする。
離れていった手が、ごく自然に膝の上に乗せられた。
ミチルは驚いて彼をみあげた。
相手は変わらず前を向いたまま、左手にはペンを握っている。口の端は少し釣り上げられていた。
「·····!」
太ももから股下に這い上がってくる手のひらのせいで、ハーフパンツが持ち上がる。
突如、親指の腹で足の付け根を強く押される。
ミチルの身体はビクリと飛び上がった。
「ん、チルチル、寒いの?」
わざとらしいほど大きな声が問いかけてきた。
ハインツェの大声を無視することが出来なかったのだろう。空調の温度をあげようかと提案してきた教師だが、彼はニコリとして言った。
「俺があっためたげる」
「!?」
両脇に伸びた手が身体を持ち上げる。
ミチルはハインツェの膝の上に落ち着いた。
「や·····!」
「逃げんなって」
笑みを含んだ声音だが、音程は半音低い。
既に、今までの経験から、逆らえば後で何をされるか分からないことを学んでいる。
じっとしていると授業が再開された。
そして彼の企みは始まったばかりだった。
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