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一章
26.お水
しおりを挟む不意に、上目遣いが蘇る。
潤ってこぼれ落ちそうな桃色。それが自信なさげにこちらを見て、忌々しい臭いを漂わせる。
こっちの一挙一動で喜び悲しんで、優しく囁けばなんでも言うことを聞きそうだ。
都合が良いに越したことはない。
承認欲求を満たされた時の快感を好意と勘違いしたなら、勘違いしたままで良い。
"ちがう"
今にも泣き出しそうな声が言った。
"あれは········"
震えて、プライドの欠けらも無いものだ。
「あれ、ダリア?」
廊下の向こうからハインツェが現れる。
今日も気に食わない部下の腕を切り取ったという。溜息は出尽くしてしまった。
「また執務室?」
「誰かのせいで雑務が増えたからな」
「もったいねぇ。部屋からイイニオイがすんのに」
「·····」
ハインツェは他よりも鼻が利くらしい。
通りで捕食欲が強い。
問題を起こさないためにも、ミチルのフェロモンを更に抑制する必要がありそうだ。
歩き去ろうとするが、相手は「アレ」と、ダリアの背後を指さした。
「感情によっても変わるらしいじゃん。例えば今は·····もっと濃くて、蒸れるような匂い·····──自分から喰って欲しいって言ってるみたい」
新たな問題を考えていたダリアは、ふとハインツェを見返した。
「今頃、股の下グチョグチョに濡らして泣いてんじゃねえの?」
彼は口の端を釣りあげ笑っていた。
まるで楽しくて仕方なさそうな顔は、最奥の扉を眺めている。
「ああ、いいなぁ。抱く気ないならさ、変わってよ」
「随分気に入ったみたいで何よりだ」
阿呆らしい。
"ダリア·····"
「·····」
熱っぽい視線も、モノ欲しげな顔も安いものだ。
ダリアは早足に先を進んだ。
チクタク、チクタク、チクタク。
初めの方は気にならなかった針の音が、今では大きな生活音みたいに無視できなくなる。
ミチルは羽毛の中で寝返りをうった。
激しい眠気は一定の山を乗り越えると消え去った。
おかげで眠ってしまう心配がなく、彼を待っていられる。
そう思ってから、どれだけ時間が過ぎただろうか。
2回続けてクシャミが出る。
すっぽり毛布を被っているのに肌寒い。
水風呂に入ったのがいけなかったのかもしれない。
また意識がぼんやりし始めた時、ボーン、と、低い地鳴りがした。
深夜1時の鐘だ。
鼻がツンといたんだ。ミチルは誤魔化すように、シーツに顔を擦りつけた。
その日、ダリアは寝室へやってこなかった。
─────────────
人の話し声がする。
一人はよく聞き覚えのあるものだ。
「40度を超える高熱が、ただの風邪だと?」
普段落ち着き払ったそれが、いつにも増して冷たい気がする。
答えたのは当惑した男の声だった。
「獣人は基礎体温が高いので·····薬と栄養を摂り、睡眠をよくですね·····」
(基礎体温·····薬·····?)
意識がおぼつかない。
しばらく話し声が続き、やがて静かになる。ミチルはそっと目を開けた。
瞼が鉛みたいに重かった。
「ジェロン·····?」
すぐ側にいる黒い影が揺れて見える。
だんだん視界がハッキリしてくる。彼の顔を見たミチルは安堵した。
一瞬、無表情が、とても不満そうに見えたからだ。
「ここは·····?」
目を動かすと、頭が割れるように痛い。
「ミチル様の寝室です」
彼によると、今朝から10時間あまり意識のない状態だったという。
確実に、昨日の水風呂と、もしかしたらハインツェから受けた仕打ちが原因だ。迷惑をかけたことを謝るより先に、相手が口を開いた。
「何かあればお申し付けください」
テキパキした声が告げる。
何かなんて、考えられない。身体中が重たくて、目頭が熱い。
ミチルはかすかに首を振った。返事はなく、しかし彼が部屋を出てゆく兆しもなかった。
「·····あの·····ジェロン·····?」
「はい」
伏せ目がちだった視線がこっちに向けられる。
用事がないようだが、なぜ出て行かなぃだろう。
「ずっと、部屋に·····?」
「はい。目を離さぬようにとのことですから」
彼はそれきり岩みたいに動かなくなってしまった。
ピタリと止まって、1ミリも動かない。今にも眠りそうな目を無理やり開いて、ミチルは彼を観察した。
「お休み下さい」
敬語なのに命令に聞こえるのは気のせいだろうか。
「·····やっぱり·····お水、飲みたい·····」
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