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〖第四十話〗

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「··········ひ·····っ?」


大きな瞳が見開かれる。
消え入りそうな声が、違う、と呟いた。


「気づかないとでも?」

「あ、ぁ·····っ」


もう、このままどうにかしてしまいそうだ。
『衝動』は強い荒波のように押し寄せ、セシルを支配しようとした。

ひっく、と、すすり泣く声が聞こえた。


「ネロ·····?」


ネロは静かに涙を流していた。

泣かせてしまった。
人間の涙など排泄と同じだ。そう思っていたセシルは、初めて他人の泣き顔に罪悪感を覚えた。


「ネ·····」

「ごめんなさい、ごめんなさい」


しゃくりあげながら、ネロはそう繰り返した。

セシルは、ここに来た頃から自分の面倒を見てくれた。間違ったことをすれば叱ってくれ、。分からないことは教えてくれた。
こうして薬だって塗ってくれた。 

けれど、今やっと感じることのできた彼の温もりは、自分が嘘をついて手に入れたものだ。


「本当は、嘘で·····触って欲しくて、嘘ついたんです」


ネロは、ポロポロと涙を流しつづけた。
セシルの表情をうかがうことは出来ない。

頭の上に、優しい温もりが触れた。


「今後はどうすれば良いか、分かったでしょう」


告げられたのは、戒めの言葉ではなかった。


「私に嘘をつく必要はありません」

「·····嘘、つかなくても、触ってくれた?」


ネロは恐る恐る聞く。
ハイとは頷き難いが、問題にならない程度なら、わがままを聞くことだって可能だ。


「じゃあ·····」


ネロはセシルに腕を伸ばした。


「何ですか?」

「すこしだけ·····」

「·····」


精一杯腕を伸ばすネロを、セシルはそっと抱きしめた。

主人の奴隷と、使用人。ネロと自分の関係はそれだけだ。
そこになんの情もあってはならない。


「臀部には、樹蜜のオイルを塗っておきましょう」

「·····おしりに?」


オイルを片手に戻ってきたセシルは、次に柔らかな尻と鳴き声に耐える羽目になったのだった。

























「つまり君はあれか?泣くまでそのナニをしゃぶらせて愛をせがんだ上に真っ赤になるほどあのマシュマロのようなお尻を叩き続けて最後には気絶させたとそういう訳かい?!」


なんてことだと叫ぶディック。

やはりこれには言わない方が良かった。イヴァンは密かに後悔する。

しかし他に宛もないのだ。


「…ああ」

 
ディックの酷い要約を肯定し、彼はソファに腰かけた。


「俺がネロを慰めに行く」


すっくと立ち上がったディックは、イヴァンの眼力に睨めつけられ静かに座り直す。

イヴァンは深い溜め息をつく。
すっかり参ってしまっている様子だ。ディックは口をあんぐりと開けてから、首を振った。

機械のような彼が、いつになく一人の人間らしい。


「どうしてそんな事したのさ」


原因を突き止めようと投げ掛けた質問に、彼は言葉を選ぶようにして呟いた。


「泣き顔を見ると歯止めが効かない」


途中かきあげられた白銀の髪から、鋭いエメラルドが覗く。長い脚を組むのがとても絵になる目の前の男の性癖は、自分に負けず劣らず過激的だ。

イヴァンにとってネロがただの奴隷なら問題ないのだ。
しかし、イヴァンは彼を愛しているという。


「いやぁ、お前みたいなスカした色男に、まさか好きな子を執拗に苛め倒すサドな性癖があったなんてなぁ。怖い怖い」


ふざけて発したはずの言葉は、静かな部屋へと消える。ディックはそれがシャレにならないことを自覚した。

かなりの重症だ。
そうなれば、無責任なことは言えない。ディックは過去の女性経験を参考にアドバイスを試み、ふと気付いた。

ネロは男だが、今まで彼ほど可愛らしく純粋で健気な相手は見たことがないと。

「その、なんだ·····普段の100億倍くらい優しくしてやれよ」


参考にならないアドバイスに、イヴァンは低い声で唸った。


「分かってる」


今すぐに行ってやればネロも喜ぶものを、この王子は動かないのだから。ディックは呆れてから、そういえばと話題を変える。


「早朝から出掛けたみたいだが·····ステファン王子は?」


「町を見てくるらしい。あとは恐らく、彼女の第2の墓に」


彼女が生きていれば、ネロの少し年上だろうか。ふと、先日のステファンとネロの出来事を思い出した。


「·····あー、イヴァン?」


彼に言うべきかと声をかけたところで、思いとどまる。
ステファンがネロを押し倒して強姦しているならまだしも(そんなことは絶対に報告できないし自分もしないとは限らないが)、ネロがステファンを押し倒していたというのがまた問題だ。


「何だ」


「いや···そろそろ行くよ」


ディックは帽子をもちあげた。
あの出来事を口にする勇気はない。


「自信もてよ。ネロもお前を気に入ってるんだから」


慰めるつもりで言ったはずだが、それを聞いたイヴァンは訝しげに眉をひそめた。


「あいつが気に入っているのは、俺との性交だけだ」


この男は、余程他人の感情に疎いらしい。
純粋すぎる少年と言葉足らずな上に鈍感な主人。とても先が思いやられる。


「そこまで自信あるなら大丈夫だろ····」


変人と称されているディックですら、イヴァンには時に振り回されてしまう。
次来るまでにどうにかなるだろう。ディックは早々に結論付けて、力無く部屋をあとにした。



その後も、イヴァンはどうにもネロが気になって仕方がなかった。

   数分後、彼はネロの閉じ込められている部屋の扉を開けることになる。
広いベッドの中央に、丸まって横になるペットを見つけた。
ネロはすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

イヴァンはそっとベットへ腰掛ける。
スリーパーから伸びた細い足を視線で追う。やがて、滑らかな尻の膨らみが覗き見えた。

1度触るのを躊躇い、しかし数秒後、スリーパーをめくり上げる。
見たいものは見たい。
ディックがいれば間違いなく「そういう所がいけない」と叫んだだろう。

白い肌に、赤い斑点がよく映えている。
この自分が何度も吸い付きむさぼった印だ。

優しくしてやりたいという反面、ネロの煽情的な姿を前にすると、理性は崩れ去ってしまう。
人を愛しいと思ったのは、初めてだった。
愛したいと願ったことも、全てこの奴隷が初めてだ。

立ち上がりかけたイヴァンは、ピタリと動きを止める。
そっと手を握ってきたあたたかい温もりが、直ぐに離れてゆく。
ネロはこちらを不安げに見つめながら、小首をかしげた。


「イヴァン様·····今日も、どこかにいくんですか」


空気にとけるような声は、寝起きのせいか掠れていた。
黒目がじっとこちらを見つめている。
なにか欲しいものでもあるのだろうか。

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