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「·····んっ」


一瞬の事だった。
柔らかな温もりが触れた。


「力を抜いて」


上唇の辺りに、彼の声が落とされた。


「………へ……?っ…」


おまけのようにリップ音がつづく。
ノワはパクパクと口を開閉した。


「あ··········や·····っ!────っ·····」


声を発しかけた唇はぱくりと塞がれた。

熱いものが口内に侵入し、引っ込んだ舌を引き出され、絡み取られる。
身体中を甘い電撃が駆け抜けてゆく。


「ふっ……んぅ…」


膝から力が抜けたら、大きな手に腰を抱きとめられた。
ゾクゾクとした余韻が身体中に滞っている。
紛れもない、粘膜どうしの口付けだった。


(な、なんで·····?)


なんで、と、脳内で何度も繰り返す。
どうしようもなくて、唇をかみ締める。


「パトリック」


頬を撫でていた指が再び顔を持ち上げた。
宝石のような瞳がノワを覗き込む。心臓が、ドクドクと悲鳴を上げている。
一言も口にすることが出来ない。


「な·····」


ユージーンは、慊焉たるように笑みを浮かべた。
目尻に涙をうかべたノワは耳まで真っ赤だ。

──誰を慕っていようが、意味の無いことだ。
現に彼は今、フィアンの事などもうこれっぽっちも考える余裕が無いようだった。


「この件についてはぜひ日を改めて、ゆっくり話したいと思うんだが·····」


低い声が腰に響く。


「どうかな?」


答えは二つあってないようなものだ。


「は、い·····」


ノワは誘導されるまま頷いた。

この男には、誤魔化しは通じない。
ユージーンが1歩下がったのと同時に、ガチャリと扉の開く音がした。


「もう来てたのか」


やってきたのはロイドだ。

集合時刻より随分早めにやってきたらしい。
ノワは瞼を瞬いて、潤んだ瞳を乾かした。


「何かあったのか?」


彼は異様な雰囲気を感じとったようだ。


「早かったね」


ユージーンがにこやかに言う。
様子を見るに、ロイドが扉を開ける前から、気配を察知していたらしかった。


「気にする程の事でも無い」


「そうか」


ロイドは鬱陶しそうにネクタイをゆるめる。


「まだまだ暑いな」



「今日は特にね」


同調する割に、ユージーンはロイドとは対照的にとても涼し気だった。


「今日の反省会だが───」


ロイドが、ふとノワへ視線をやる。
三白眼は大きく見開かれた。


「おい」


慌てて顔を背けるが、手遅れだ。
こちらへ向かってきたロイドが、目の前で立ち止まった。


「泣いたのか?」


ロイドがノワを覗き込む。
強い眼差しのおかげで、強面が3割増だ。しかし紡がれた声音は、普段の厳しいそれとは違っていた。


「頬の傷はどうしたんだ」


ノワは黙りこむ。
ロイドは、伸ばしかけた手を止めた。


「パトリック?」


驚くほど真剣な顔がこちらを見つめている。
まさかさっきの出来事を言う訳にもいかない。しかし誤魔化そうにも、作り笑いを出来そうにはなかった。


「ごめんなさい」

「謝れなんて言ってないだろう」


肩に、優しい重みが加わる。



「何があったんだ?」


鍛錬での傷痕を幾つもつけた手だ。
心配してくれているんだ。無愛想な優しさに触れると、余計に誤魔化すことが困難になってしまった。


「ロイド」


ユージーンがロイドを呼ぶ。


「さっきの続きは?」


「そんなことよりも·····」


抗議しかけたロイドは一度口を閉ざす。
ノワの頬が赤いのが誰のせいなのかを理解したようだ。


「彼と"個人的なトラブル"があったんだ」


ユージーンがこの件に関して口出しは必要ないと言えば、それ以上の言及は法度だ。

考えられるのは、ノワが何らかの無礼や失態をおかした可能性。部外者がノワを庇う必要は無い。
しかしロイドは釈然としなかった。


「どうしても知りたいなら、俺は構わないけどね」


「!?」


ユージーンが突拍子もないことを言い出す。


「どんな理由があるんだ?」


「パトリック、彼に事情を説明しても良いかな?」


ハラハラして見守っていたら、事の先を一任されてしまった。







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