婚約破棄は根回しが大事

平井敦史

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実践編

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 今宵は王家主催の舞踏会。しかし、きらびやかに着飾った紳士淑女たちは皆困惑気味だった。王太子であるクリス殿下に寄り添っているのが、正式な婚約者であるラングレー公爵家のアリシアではなく、ウィルシャー子爵家のエリサ嬢だったからだ。

 以前から、二人が親密であるとの噂は流れていた。しかし、こうもあからさまな振る舞いに出られるとは、さすがに誰も予想はしていなかっただろう。
 アリシアの心中は察するに余りある。

 そして、楽団の演奏が途切れたのをきっかけに、殿下は高らかに宣言なさった。

「アリシア嬢、君との婚約を白紙に戻す!」

 それに対し、アリシアは落ち着き払った態度で応じた。

「恐れながら殿下、理由をお聞かせいただけますでしょうか」

「決まっているだろう。君の異母兄あにであるドノバン=ラングレーの不行跡が目に余るからだ!」

 会場の皆がざわついた。
 たしかに、ドノバン=ラングレーという人物は色々と問題がある。が、その行状を詳しく知っている者は一握りだし、しかもそのことを盾に取って異母妹いもうととの婚約を破棄するというのも、少々行き過ぎなのではないか、と皆思ったことだろう。

 当のドノバン=ラングレーもこの会場にいた。
 ちらりとそちらを窺うと、まさしく鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべている。
 それはそうだろう。
 まさかこんな場所で吊し上げられるなどとは、夢にも思っていなかったはずだ。

「まあ、何を証拠にそのようなことを仰るのでしょうか」

 反論するアリシアだったが、その態度や声は、どこか芝居がかっているようにも見えた。

「聞きたいというのならば聞かせてやろう。まず、公爵領内は言うに及ばず、王都においても、平民身分の女性たちに片っ端から手を着け、子供が出来ても金で黙らせてきた、というのはいくつも証言が得られている。何なら、その女性たちの名前を具体的に挙げようか?」

 そう仰りながら、殿下がドノバンに冷ややかな視線を向けられる。ドノバンは顔を真っ青にしながら、懸命に抗弁した。

「そ、それらは全て合意の上のこと。子供を公爵家に迎え入れるわけにはいかぬ、という点についても、女たちは納得しております!」

 いやいやいや。とても「合意」などと呼べるものではないはずだし、納得もしていないだろうと断言できるのだが?

「ふむ。被害者たちの証言とは大きく異なるようだが、百歩譲って合意の上だとしても、だ。相手が人妻となると、見過ごすわけにはいかぬな。ホワイトロック地区に住むトーマスという男の妻、ナンシー。知らぬとは言わせぬぞ」

「ぞ、存じま……、いえ、仰せの通り、そのナンシーなる女性は存じております。し、しかしながら、私は独身だと聞いておりました!」

「ほう、そうか。当人は、夫の目の前で手籠めにされたと証言しているが?」

 想像以上の非道ぶりに、周囲の紳士淑女たちも皆眉を顰める。ドノバンにエスコートされていた女性――ビリガン伯爵家のご令嬢が、凍り付いたような無表情のまま、すすすと離れていった。
 ドノバンは必死の形相で、

「そ、そのような! 殿下は、平民の戯言たわごとと、公爵家の跡取りである私の言葉、どちらをお信じあそばすのですか!」

「身分賤しき者どもの言葉など信じるに値せぬ、か。まあよかろう。この件は貴族院にて審議させる。次に、そなたが賭け事にのめり込み、複数の商会から多額の借金をした上、それらをことごとく踏み倒している、という件だ」

「お、お言葉ですが、踏み倒しているなどとは心外でございます。当然返済はいたしますとも。確かに、返済期限を過ぎてしまっているものもございますが、期限の延長には快く応じてもらっております」

 虚勢ではあるのだろうが、ドノバンが胸を張ってそう答えると、殿下はおもむろに一枚の書面を取り出された。

「そうなのか? だが、この証文を見ると、返済期限は一年以上過ぎていて、期限延長に関する裏書うらがきも無いようだが?」

 まさか、借用証文が殿下の手に渡っているとは思わなかったのだろう。ドノバンの顔から冷や汗がしたたり落ちる。

「そ、それは……。コリン商会のものでございますか。た、確かに裏書などは残しておりませんが、間違いなく返済期限は猶予をもらっております!」

「そう言われてもな。商人の世界では、口約束は証拠にはならぬぞ。それで、そなたへの貸し付け債権を譲り受けた商会の者が、先日返済を求めに行ったらけんもほろろに追い返されたと申しておった」

「先日……? そ、そう言えばこの間、借金を返せなどと借りた覚えもない商会の者が言ってきたので、追い返しましたが……。確か、ウィルシャー商会……」

 そう言いかけて、ドノバンははっとしたように殿下の傍らの女性を見た。
 エリサ嬢の実家ウィルシャー子爵家は、家格こそ低いが、商売で財を成している、いわゆる新興貴族だ。
 それにしても、ドノバンの借金がウィルシャー商会の手に渡っている、というのはいささか話が出来過ぎているような……。

「そなたの借金、全部合わせて金貨二,八五三枚。現在すべてウィルシャー商会が持っておってな。返済が滞って困っていたのだそうだ」

「そ、そんな! 大体、証文を勝手に他人に譲るなど無効です!」

「おいおい、何を言っている。譲渡を禁じる特約が付いているわけでもない債権の売買など、商人の世界では日常茶飯事だぞ」

 商人の世界の常識とやらはよくわからないが、殿下がそう仰るのであれば、そういうものなのだろう。

「まあ、ラングレー公爵家にとってみれば、たかだか金貨三千枚程度、大した金額ではないとは思うのだが、昨今、貴族家の財政事情も色々あろうしな。とはいえ、わがキャメロン王国の支柱たるラングレー家がたかだか三千枚の借金も返せぬとあっては、近隣諸国のあなどりを受けかねん。なので、僕が立て替えておいたから安心しろ」

「そ、それはありがとうござ……いま……す……」

 安堵の表情で礼を述べかけて、ドノバンは凍り付いた。
 公爵家の跡取りともあろう者が、借金を返済できず、こともあろうに王太子殿下に立て替えさせたなど、体面を何よりも重んじる貴族社会にあっては、恥さらしと呼ぶのも生温なまぬるい。そのことに思い至ったのだろう。
 おおかた、中小の商会に対し、公爵家の威をもって泣き寝入りを強いるつもりだったのだろうが、こんなことなら期限内にきちんと返済しておくべきだったな。自業自得だが。

 と、そこで、沈黙を保っていたアリシアがひざまずき、王太子殿下に詫びを入れた。

「殿下、誠に面目次第もございません。お立て替えいただきました金子きんすは、至急お返しいたしますよう、ラングレー家の名誉に掛けてお約束申し上げます」

 その言葉は、殿下に対する詫びというよりも、公爵家の名誉を傷つけた異母兄ドノバンに対する糾弾という方が適切だろう。
 異母妹いもうとにあてこすられて、ドノバンの顔が赤くなったり青くなったりとめまぐるしい。

「ああ、気にするな。大した金額ではない。しかし、ドノバンがラングレー公爵家の跡取りとして相応しくないということについては、納得してもらえただろう」

 殿下の言葉は、アリシアだけでなく、この場の紳士淑女皆に向けたものだったようだ。
 ゆっくりと周囲を見回す殿下に対して、異議を唱えドノバンを擁護しようなどという者は――当然のことながら――誰もいなかった。

「そういうわけでアリシア嬢。そなたを妃に迎えられぬ理由は理解できただろう。そなたには次期ラングレー公として、この国を支えてもらわねばならない」

「そ、そんな。私のようなものが公爵位を継ぐなど……。我が家には異母弟おとうともおりますれば」

「リチャードか? あの子はまだ十一歳だろう。なかなか聡明な子ではあるが、そなたを差し置いてラングレーを継がせる理由にはならぬな」

 どこか芝居がかった調子で、殿下とアリシアが会話を交わす。
 最初は、失礼ながら子爵令嬢との色恋に溺れた殿下のご乱心かと思ったりもしたのだが、何のことはない。これは殿下の後ろ盾によるラングレー家の下剋上ではないか。

 しかし、これで殿下とアリシアとの婚約は、白紙に戻されたわけか……。

 紳士淑女たちも、事情は察したようだ。とはいえ、ドノバンに味方しようなどという酔狂者がいるはずもなく。これで茶番は幕切れか――と、思われたのだが。

「ちょっとお待ちいただきたい!」

 いささか舌足らずな声が、広間に響き渡った。

「アリシアおね……、アリシア嬢の兄君あにぎみがろくでもないお人だということは理解できました。しかし、だからと言って、アリシア嬢との婚約を破棄するなどとおっしゃるのには、納得がいきかねます!」

 声を挙げたのは、キャメロンの隣国であるファランクス王国の第二王子・ルイス殿下だった。
 弱冠十二歳のルイス殿下は、現在我が国に留学中で、ラングレー家の第三夫人の子であるリチャードと仲が良く、その異母姉あねであるアリシアのことも、「アリシアお姉様」と呼んで慕っておられる、という話だ。
 一本気な少年の異議申し立てに、王太子殿下も持て余し気味だ。

「いや、ルイス殿、これはですね……」

「大体、正式な婚約者がおられるにもかかわらず、他の女性と浮気なさるなど、いかがなものでしょうか。アリシア嬢との婚約を破棄なさったのは、そちらの女性とご結婚なさるためということでしょうか?」

 会場の皆から、声にならない溜息が漏れる。
 煎じ詰めればそういうことだと内心では思っていても、誰も口にはできなかったことを、ルイス殿下はずばりと突いてしまわれた。

「ルイス殿下、お気持ちはありがたいのですが、クリス殿下のご判断はラングレー家の、ひいては我がキャメロン王国のためを思われてのことにございます。どうかご理解ください」

 アリシアが横から助け舟を出してきたが、ルイス殿下はかぶりを振って、

「アリシアお姉様は優しすぎます。そうだ! だったら僕が、お姉様を妻に迎えましょう!」

 いきなりとんでもないことを口になさる。
 我がキャメロンを上回る国力を有し、これまでの歴史においても色々因縁いんねんがあるファランクスの、しかも王位継承権を巡って異母兄弟と水面下で争っている第二王子と、我が国有数の貴族であるラングレー家の縁談など、揉め事の種にしかならないだろうに。
 口を挟める立場にないこの身がもどかしい。

「は!? ……いえ、失礼いたしました。ルイス殿下、お気持ちは大変ありがたいのですが、そもそもの問題として、あなたもお国に婚約者がいらっしゃいますでしょう?」

 諭すようにアリシアが言う。
 するとルイス殿下は、何の迷いもなくこうおっしゃった。

「彼女との婚約は破棄します! 僕はこの国であなたと出逢って、真実の愛に目覚めたのです!」

 わちゃー、という声にならない声が聞こえたような気がした。
 子供の前でお手本にならぬようなことをするものではない、という教訓だろう。
 皆、殿下に対してあからさまに非難がましい視線を向けることははばかりつつも、何とかしてくださいよと言わんばかりの空気が会場を覆う。

「あー。その、ルイス殿……」

 クリス殿下が何かおっしゃりかけたのを遮るようにして、アリシアが言った。

「ルイス殿下。婚約というものは、家と家との間で交わされた約束事。むやみに破棄してよいものではありません。悪い大人の真似をなさってはいけませんよ」

「あー、うむ。その通りだ、ルイス殿」

 悪い大人クリス殿下が真面目くさった顔を保ちながら相槌を打つ。
 会場の皆は、はらはらするやら笑いを堪えるやらで、何とも形容しがたい雰囲気だ。

「しかしアリシアお姉様……」

 なおも何事かつのろうとするルイス殿下だったが、アリシアは静かに微笑みながら、

「それに殿下、誠に申し訳ございませんが、私にも心に決めた殿方がおりまして」

 そう言って、視線をに向ける。――会場の警備を担当する近衛騎士の一人であるへと。

 アリシアの視線につられて、両殿下をはじめ、会場内の全員の視線が私に向けられた。
 え? え? ちょっと待ってくれないか。

「ジェラルド=ミラン――ミラン伯爵家の令息で、近衛騎士団きっての剣の達人です。元々、幼い頃から親しくしていた間柄でして。王太子殿下とのご縁談が持ち上がったことで、叶わぬ恋と諦めておりましたが、殿下がに目覚められたそうですので、私もそれにならうことにいたします」

 いや確かに、私とアリシアは幼馴染で、小さい頃から仲良くしてはきた。
 爵位は公爵と伯爵だが、我がミラン家も名門の家柄であり、家格は十分に釣り合いが取れる。
 それに、今のところ私は独身で、婚約者もいない。――アリシアが正式に殿下と結婚するのを見届けるまでは、そういうことを考える気になれず、親の勧める縁談も断り続けてきたのだ。

 しかし……。アリシアも私のことを想っていてくれたというのは、本当なのだろうか?
 殿下との婚約が決まる前だって、いつもつんとすました態度だったのだが。

「ジェラルド、あなたの答えは?」

 アリシアが真っ直ぐに私を見る。
 その表情は、求婚の返事を求める乙女というよりも、交渉相手に返答を迫る政治家のそれに近いようにも思えたが……。

「決まっているだろう。私――俺はずっと、お前のことが好きだった。この国の王妃になるというのならば諦めるしかなかったが、そうでないのなら、絶対誰にも渡さない!」

 ずっと胸の奥に溜め込んでいたものを一気に吐き出すようにそう言って、私は両殿下に対してひざまずき、

「ルイス殿下、誠に申し訳ございません。クリス殿下、どうか私たちのことをお許しいただきたい」

 クリス殿下は何だかほっとしたような表情で頷かれた。

「ああ、僕に異存はないよ。この国随一の勇者とこの国随一の知恵者が結ばれるというのなら、こんなめでたいことはないだろう」

 会場の紳士淑女も、怒涛の展開に困惑気味だったが、どうにかこうにか丸く収まったようだと解釈して、温かい拍手でもって私たちを祝福してくれた。

「……ジェラルドと言ったか。アリシアお姉様を泣かせたりしたら絶対に許さないからな!」

 泣き出しそうなのを懸命に堪えている様子で、ルイス殿下がおっしゃる。
 私は跪いたまま、心の底から誓った。

「この剣にかけて、お約束申し上げます」


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ちなみに、登場人物たちの年齢は、クリス20歳、アリシア&ジェラルド18歳、ドノバン21歳、エリサ16歳となっています。
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