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透明人間は幸せになれるか
しおりを挟む俺、妙本箱根の朝は早い。
毎朝家族の誰よりも早く起きて、一杯のインスタントコーヒーを飲み、勉強に勤しむ。
有意義で優雅な朝である。
部屋のカーテンを開けると、窓から一斉に燈色の朝日の光が差し込む。新しい朝、希望の朝だ。
早寝早起きが座右の銘である俺は、朝日に向かって伸びをして、今日も今日とて一番乗りでリビングへと向かう。
……はずだった。
「……ん、おはよう」
「…………」
リビングには既に先客がいた。
……下着姿で歯を磨く、俺の妹、妙本瑞希である。
俺は瞬時に目を逸らしたが、瑞希は半裸であるにも関わらず、俺の事など全くもって気にも止めていないようで、歯を磨く手を止めず、寝起きの目をパチクリさせていた。
対する俺は妹の下着姿を覗いてしまったという罪悪感に苛まれていた。
が、当の瑞希が平然としている以上、ここで退出をし、変に意識していると思われるよりは、無関心を装ってやり過ごした方がまだマシだろう。
俺は顔を上げてお湯を沸かしにキッチンへと向かう。
顔を上げると、嫌でも瑞希の姿が視界に入る。嫌ということは決してないが。
……発展途上の胸と腰つき、まだ中学生だな、だが将来有望だ等という変態紳士的な感想を俺は抱いて、足先から撫でるように瑞希を眺める。
最終的に瑞希と目が合い、瑞希がご立腹な表情でこちらを見ていたことに俺は気付いた。
「……わざとじゃ無さそうだからこっちも怒らないであげていただけで、視姦していいとは一言も言ってないからね?」
「視姦だなんて、そんな滅相もない」
瑞希の従順な従者の様な弁明をして、俺は事なきを得ようとしたが、「鼻の下が伸びてるよこのバカ」という言葉と共に彼女の白く細長い足で俺は腰を蹴られた。ありがとうございます。
「はあ、お兄ちゃんがしばらく見ない内にこんな変態になってたなんて、私は悲しいよ」
「いや、男子高校生は皆こんなもんだぞ、むしろ健全だ」
「……私、高校行くのやめようかな」
何て軽口を叩き合いながら俺がキッチンへ向かうと「私にも一杯頂戴」と洗面所に向かう瑞希が言い残して行った。帰って来た瑞希はバスローブを羽織っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん。朝起きた後の口の中ってメチャクチャ汚いらしいよ」
「……ああ、知ってる。だから俺も歯を磨いてきた」
嘘である。瑞希に知識マウントを取られるのが嫌だったので、適当な嘘をついたに過ぎない。そして、俺はかなりのショックを受けた。毎朝俺は汚ねぇ口でコーヒーを飲んでいたのか。今後は朝食後でなく起きてすぐ歯を磨こう。
「なあ、ところで瑞希はいつまでこっちに居るんだ?」
「うーん、分かんない」
「……父さんは何も言ってなかったのか?」
「……まあね」
「…………?」
どうにも煮え切らない態度で瑞希は答える。一体どうしたんだと、俺がその事について追求すると、瑞希は両手の人差し指をツンツンぶつけ合いながら、口を尖らせて言った。
「私、あの人とあんまり話せて無いんだよねぇ……」
「え?そうなの?」
意外な事実であった。あの馬鹿みたいに陽気な父親と、明るく元気な瑞希はかなり性格的にも近しいし、馬が合うものだと思っていたのだが……
「まあ、あの人も思春期の娘の扱いに戸惑ってるのかも知れないけど、私から話しかけても素っ気ないんだよね。もともと放任主義な人だし……そもそも、私に感心が無いのかも」
「いや、それは無いだろう。きっと瑞希の言うとおり、娘との距離感に悩んでるだけだって。ああ見えて奥手な人で、プロポーズも母さんの方がしたらしいからな」
「……そうだといいんだけど」
瑞希は物憂げに、溜息を吐いて言った。
「……そもそも、特に経済的に余裕がある訳じゃないのに二人離れて暮らそうなんて、馬鹿げてると思わない?それもどっちが娘息子を優秀に育てられるかなんて勝負で。……最初はホントに酷かったよ。もし私が小説家として売れてなかったら、体を売ろうとも思ってたくらいにね」
「……そんなに酷かったのか?」
確かに俺達の側も決して裕福だったわけではない。だが瑞希が言うほど困窮な生活を送っていた訳でもなかった。
「あの人の仕事はカメラマンっていう安定しない職業だからね。腕はあるみたいだけど、やっぱり稼げない時はあるみたいで、それがたまたま別居を始めたタイミングと被ったって訳」
瑞希は嘲笑するように息を吐いて続けた。
「……これは今でも覚えているんだけど、お母さんとあの人で、私とお兄ちゃんどっちを引き取るかをじゃんけんで決めたんだ。何でじゃんけんになったか、それは二人ともお兄ちゃんを引き取りたがってたから。私は、ハズレだったんだよ。結局、あの人が負けて私を引き取ることになったけど、あの人は私に対して素っ気なかった。つまり、そういう事だよ」
「……そ、それは元々優秀だったお前を引き取っても勝負にならないからで……」
「だったらそんな勝負しなければいいじゃん。両親二人とも一緒に暮らしてれば、少なくとも私達人並みの生活は送れてたはずだよ」
「……だ、だけど……」
「……ふふ、お兄ちゃんは優しいね。慰めてくれてありがとう。……私、お兄ちゃんの事は唯一信頼してるんだ。周りの人は皆馬鹿ばっかり、ホント、嫌になっちゃう」
「……そんな事はない。俺意外にも、お前の事を助けてくれる人はきっといる」
「……居ないよ、そんな人」
そう言うと瑞希は静かに立ち上がって、ゆっくりとリビングを後にする。
……彼女のその後ろ姿が、話しかけないでと言っている様で、俺は声をかけることが出来なかった。
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