夏幻

櫻霞 燐紅

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風に揺れる紫草、全ては夏の幻影。

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「…ら、あ…ら、玲!」
 何度も自分の名前を呼ぶ声に玲は固く閉ざしていた瞼を開いた。
「…とう、さん?」
「玲、大丈夫か?」
 視界に飛び込んできたのは自分を心配そうに見下ろす父親の顔だった。
「あぁ…、よかった…」
 目を開き、声を発した玲に父親は安堵したように彼の手を握ったまま、ベッドに顔を埋める。そこで初めて玲は自分が寝かされているのが、自宅の自分の部屋ではないことに気付いた。
 白い天井に壁。保健室で見るようなカーテンレールが天井に張られ、そこから吊るされたカーテンが玲の寝るベッドと父親を囲んでいる。消毒の匂いと、自分たち以外の大勢の人の気配に、ここが病院である事に気付く。
「父さん、一体…」
 ここが病院である事は分かったが、何故そんな事態になっているのかがわからず、安堵に力が抜けたようになっている父親に困惑気味に声を掛けた。
「…覚えてないのか?お前、母さんの墓の前で倒れていたんだぞ」
「母さんの、墓…」
 父親の言葉に思い当たる節がなくて、玲は首を傾げた。
「覚えてないなら、それでもいい。ただ、お前が目覚めてくれただけで、俺は十分だ」
 そう言って、小さな子供にするように父親は玲の頭をガシガシと手荒く撫でてきた。そんな父の行動に、相当心配をかけたようだと、玲はされるがままに撫でられていた。


—後日―
 
 改めて話を聞いたところによると、玲は母親の墓の前で倒れていたのだという。
 倒れていたのを見つけたのは寺の住職で、声を掛けても反応のない玲の様子に救急車を呼び、父親に連絡してくれたのも彼だったそうだ。
 心配した父親には何があったのかをしつこく聞かれたが、玲は覚えていない、と言い張った。
 あの体験を話したところで信じもらえるとも思えなかったし、結局のところアレが本当に起きたことなんか、或いは倒れている間に見た夢だったのか、玲にはわからなかったのだ。
 ただ、倒れていた玲の格好はボロボロで山の中、ずっと獣道を歩いていてもここまではならないだろうという程、泥や草木の葉や汁で汚れていたらしい。
 らしいと言うのは、倒れてるのを発見されてから、二日の間目を覚まさなかったからだ。
 湿気を帯びた熱い風が玲の頬を撫で、髪を揺らしていく。
 窓から見える景色は、見慣れたいつもの風景。
 開けたままの窓からは夏特有の熱を孕んだ風が入ってきた。その風に乗って鼻腔をくすぐる花の香り。
 すでに季節は過ぎてるはずの甘い香り。
 玲の脳裏に、山の中誰に見られることもなく咲き乱れる藤の花がよぎった。
 きっとあの場所では季節など関係なく、花は咲き乱れ、散り、そしてまた咲くのだろう。
 そして、それを玲が目にすることはない。
 いや、あってはいけないのだろうと思った。
 あれは夏の暑さの中で見た幻。
 むせかえるような香りと熱が見せた白昼夢。
 玲は頭を一つ振ると、読みかけだった本へ目を戻した。
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