紅華

櫻霞 燐紅

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 ふと、人通りの少ない路地を歩いていると、誰かと話したいと思った。
酔っていたからだろう。淋子は悠哉の番号へ掛ける。二、三回のコールの後、聞きなれた声で応えがあった。
『もしもし?』
 聞き慣れた声が耳朶を打つ。
「ユキ?久しぶり」
『どうしたの?』
 珍しく連絡を寄こした淋子に悠哉は不思議そうに言った。
「ん~、今から遊び来ないかなあ、と思って」
『…姉さんの家に?』
「…。あ~、やっぱ無理だよね。ごめんね」
 その微妙な間に淋子は慌てて、謝罪を口にした。別れた相手に自分は一体なんてことを言っているのか…。
『…別に行ってもいいよ』
「いいの!?」
 予想外の悠哉の言葉に淋子の声が弾む。付き合っていた時でさえ悠哉はなかなか淋子の家に遊びに来てくれなかったのだ。それが珍しく間があったとはいえ、二つ返事である。驚くなというほうが無理だろう。
『いいよ、たまには』
 驚いて聞き返した淋子に悠哉はさらりと返した。
『今からだと…、着くのは一時くらい?』
「そうだね」
 悠哉の言葉に淋子は相手に見えないのにその場で頷く。
「近くまで来たら連絡頂戴。迎えに行くから」
『わかった』
 淋子の言葉に悠哉が頷くのが分かった。悠哉は方向音痴だった。まだ、それを知らなかった付き合いはじめのとき、淋子が行きたい店を悠哉が知っているというので案内を頼んだら四時間くらい同じようなところをぐるぐる回らされた記憶がある。付き合っていたときに数回しか来たことのない淋子の家を悠哉が覚えているとはどうしても思えなかった。
「じゃあ、待ってるから」
『じゃあ、後で』
 淋子の家から駅までは距離があったがそんなのは気にならないくらいに彼女の声は弾んでいた。そんな淋子の様子に気づいているのかいないのか、悠哉はそういうと電話を切った。
 
淋子からの電話を切ると、悠哉は出かけるための準備を始めた。着替えを終え、ポケットに財布と携帯を突っ込む。
 そういえば、と付き合っていたときに借りたCDや本を未だに返していないことを思い出し、一緒に持って行こうかとも考えたが、机に置かれた時計の指す時間に、借りた物は後回しにすることにした。今から準備していたら電車に間に合わないかもしれない。
 よく考えれば悠哉が淋子に何かを貸したことはほとんどなく、いつも借りるのは悠哉の方だった。しかも、借りたものを返さずにまた違うものを借りるので物が増えていく一方だった。
いい加減に返さないとな…
 そんなことを思いながら部屋を後にした。
 
 淋子は悠哉との電話を切ると家へと急いだ。酔った勢いで電話してしまったとはいえ、まさか本当に来てくれるとは思わなかったのだ。
部屋、掃除しないと
 悠哉の予想外の返答にうれしい反面、部屋を片付けていないことを思い出し、急いで家に帰る。
 やたら体が熱くなっている気がするのは急いでいるからやアルコールが入っているからだけではないだろう。久しぶりに悠哉の声を聞けて、まして彼とこれから会えるからだということを、淋子は否定しようとは思わない。
 この状態をすぐ下の妹の言葉を借りるなら『乙女』といったところだろうか。
 自分の中にもまだこんな面が残っていたことに内心驚かずにはいられなかったが。
 どんなに離れてしまっても、お互いの関係が、『彼氏』『彼女』という枠から外れてしまっても、淋子の心を占めるのは悠哉なのだということを、改めて実感させられてしまったのだから、仕方ない。
 淋子は部屋へ駆け込むようにして帰ると、散らかったままになっている服や本を急いで片付け始めた。
 普段からそれほど脱ぎ散らかしているわけではないので、衣類の片付けは、それほど時間はかからなかった。むしろ問題は本棚から溢れそうになっている本などの類のほうだ。購入時にいつもカバーをかけてもらうため、一目見ただけでは何の本なのかも分からないものの方が圧倒的に多い。それでもある程度は分かるため、淋子は床やテーブルに積まれた本を本棚へ片付けた。
 ざっと掃除機をかけ、部屋を見回す。とりあえず体裁を保てるくらいには部屋はきれいになっていた。それに長く息を吐き出す。
 スマホで時間を確認すれば電話してからすでに一時間くらいは過ぎていた。悠哉からの連絡はまだ入っていなかったが、じっと待っていることもできずに、淋子は最寄の駅まで向かうことにする。
 夜風に紛れて、微かに雨の匂いがしたような気がした。足を止めて淋子は空を見上げる。だが、そこにあるのは瞬く星々ばかりだ。
 風が強いのだろう。瞬く星を流れる雲が隠しては通り過ぎていく。
 淋子が駅に着くとどうやらちょうど着いていたらしい悠哉の姿があった。
「ユキ」
 電話をかけようとしていたらしい悠哉は自分の名を呼ばれて顔を上げた。
「着く前に連絡してって言ったじゃん」 
「…、寝てた」
 そんな悠哉に駆け寄りながら言うと、春悠は淋子を見下ろしながらそう答えた。付き合っていたころと変わらないそんな悠哉の様子に淋子は嬉しい反面、チクリと胸の奥が痛むのを感じた。
 彼は何も変わっていない。
 淋子の胸を苦い物が去来する。こんなに変わってしまった。付き合っていた頃と変わらない悠哉の様子に、淋子はまるで自分が汚物にでもなったかのような錯覚を覚えた。
 隣りを歩く姿に、見慣れた横顔に、手を伸ばしそうになって、それをなんとか止める。
 自分と悠哉はもう恋人ではないのだ。なのに、手を繋ぎたいと思ってしまった自分を恥じるように淋子は悠哉から視線を引き剥がした。
 家に着くと、悠哉はかまわずに来たときに必ず座っていた定位置に腰を下ろした。
昔に戻ったみたい。
 そんな悠哉の様子に淋子は性懲りもなくそんなことを思う。昔だったら、淋子が座るのは悠哉の膝の間だった。後ろから包まれるように抱きしめられるその体勢が淋子は好きだった。しかし、別れて大分たっているのだから、さすがにそんな風に座ることはできない。
 その為、淋子は悠哉の隣りに座った。気をつけて座ったつもりだったが、悠哉と淋子の体が微かに触れ合った。それに淋子は一瞬体を強張らせたが、悠哉の方は気付いていないのか、全く気にしている様子はなかった。
 そんな悠哉の様子に淋子はほっとすると同時に少しだけ寂しくなる。あくまでも引きずっているのは自分だけだということを突きつけられているかのようだ。
「…どうした?」
 さっきまで普通に話していた淋子が急に黙り込んでしまったからか、悠哉が淋子の顔を覗き込むようにして言った。
 そんな悠哉に淋子は慌てて顔を上げると笑ってみせる。
「ううん、なんでもないよ」
 しかし、そんな淋子の顔を悠哉はじっと見つめると、その頭をぽんぽんと叩くように撫でた。付き合っていた時とかわらない、悠哉のそんな態度に淋子は泣きそうになる。
 そんな淋子を上向かせると、悠哉はその目元にキスをした。小さな音を立てて涙を吸われて、初めて淋子は自分が泣いていたことに気付いた。自分では堪えていたつもりだったが、涙は淋子の頬を滑り落ちる。
 止まることなく流れる涙を、悠哉が少しだけ困ったような顔をしながら唇で拭う。
 泣いていると自覚した途端、淋子の口から小さな嗚咽が漏れた。そんな淋子の唇を悠哉の唇が優しく塞いだ。
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