ヒガンバナの箱庭

ツジウチミサト

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 あずさは屋敷の門の前に立っていた。
 着の身着のまま荷物も持たず、草履すらない裸足である。

 内側からなら自由に開けられる通用門の閂に、あずさは震える指をそっと掛ける。禁じられていた鍵は、呆気ないほど簡単に外れた。

 あれきり何も言わず、振り向きもしなかった葉月の部屋から、逃げるようにしてここまで来た。
 周囲に首を巡らせるが誰もいない。心臓が緊張に高鳴って、破れてしまいそうだ。

 この木戸を押しさえすれば、自分は弟達の待つ家に帰れる。
 様子のおかしかった葉月の、これはいったい何の気まぐれか。まだ半信半疑だが、葉月の言うように、きっと霜月のいない今しか機会はないのだろう。
 今を逃せば、二度と弟達に会いに行けない。

(……でも、会っても、いいのか?)

 何年か前、他の集落からの客人の饗宴に侍らされ、彼らの目の前で兄弟に抱かれた。さらにその痴態にいきり立った客達に、失神するほど手酷く犯された。
 奉公人として兄弟に仕えるのならまだしも、他の男にメスとして与えられるだなんて。そんなことをされたら、自分は本当に売女になってしまう。
 だから嫌だと必死に拒んだのに、抵抗するなと殴り飛ばされ、裸に剥かれた。口にも尻にも雄をねじ込まれ、好色で下劣な男達を満足させるためだけの、モノとして扱われたのだ。

 自分は汚い。
 汚されたからではなく、犯されながら悦んでいたからだ。
 痣だらけの体で、雄の白濁にまみれながら、いつしか恍惚と微笑んでいた。

 こんな穢れきった兄を、弟達は許してくれるのだろうか。
 自分を純粋に慕ってくれる幼くて可愛い子達に、自分は兄と名乗って許されるのだろうか。
 ────許されないのではないか。

「……でも、会いたい。弟達に会いたい……!」

 悲痛な叫びを上げたあずさは、キッと眼前を見据えた。
 頭の中で、真っ赤な悲願の花が咲く。
 意を決して扉を開き、外へと走り出た。


------------------------------------------------------------------------

 上の弟は物静かで、感受性豊かで傷つきやすい子だった。
 その心の弱さを父に心配されていたが、あずさは彼の優しさを愛しく思っていた。
 彼もまた、自分の繊細さを理解する兄を信頼し、あずさのように立派な兄になりたいと、憧れと尊敬を抱いてくれた。

 下の弟は意志が強く男気に溢れ、誰よりも家族を大切にする子だった。
 少々粗野な振る舞いを母に心配されていたが、あずさは彼の一本気なところを好ましく思っていた。
 彼もまた、自分の言い分をきちんと聞いてくれる長兄を信頼し、あずさが叱ればきちんと非を認める素直さがあった。

 幼い内に両親を亡くしてしまったあの子達を、自分は守らなければならない。そう思えばどんな苦痛も我慢出来た。会えなくても、彼らだけが心の支えだった。
 弟達を想わなかった時など、家を出てからの長い年月、一秒だってありはしなかった。
 愛してる。ずっと弟達だけを愛していた。
 すっかり大人になった弟達と再会した時も、あんな地獄の中でさえ嬉しくて────。

 だから、自分は壊れてしまった。

------------------------------------------------------------------------


「うぅっ……!」

 ズキン、と頭に刺すような痛みを覚え、あずさは崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。
 ズキンズキン、頭痛が止まず、蹲ったまま頭を抱える。
 苦痛の中でも思うのは、もうすぐ会えるはずの弟達のことばかりだ。

(はやく、いかなければ)

 叱咤して立ち上がり、重い体を引きずるように歩みを進める。

(あいたい、かえりたい)

 もうそれしか考えられない。
 思い起こす様々な場面が『記憶』と食い違っていることすら気づけずに、あずさの思考と視野はどんどん狭まり、ただひとつの悲願に集約されていく。

(……おとうとたちに、あいたい……!)


 やがて川沿いの土手に差し掛かった。
 夕陽をうけて黄金に輝く水面への斜面に、圧倒的な赤が広がっているのが目に入る。
 あずさは思わず足を止めた。
 それは彼岸花の群生だった。満開に咲き乱れる赤い花を前にして、あずさの目は驚愕にみるみる見開かれていく。

「あ……」


 赤。一面の赤。
 真っ赤なあれは、飛び散ってこの身を染める、あの“赤”は。


「あ、ああ、ああああああっ!」

 突然、あずさは狂ったように叫び、頭をかきむしった。
 痙攣する体を激しく捩る。ふらついた足を滑らせ、悲鳴を上げながら彼岸花の中へ転げ落ちると、その狂乱はさらに加速した。

「それは、それだけは嫌だと言ったのに! 言ったのにぃ!」

 でたらめに蹴り上げた足が、か細い茎を折り散らす。花が散る。散り乱れる。
 喉から血が出るような金切り声を上げるあずさの上に、折れた赤い花が降り注ぐ。
 血走った目が極限まで見開かれ、獣じみた咆吼が茜色の空に響き渡った。



 声を聞きつけた人々が土手の上に集まってきていた。
 花の中で暴れる狂人があずさだと気づいた者もいて、今邑様に知らせろ! と焦る声が上がる。

 その人垣をかき分け、土手を滑り降りる男があった。

「あずさっ!」

 あずさを花の中から助け起こしたのは、他の集落へ出かけているはずの霜月だ。
 最早人とは思えない声を上げて狂うあずさを、驚きと、そして悲痛な表情で腕の中に抱える。
 霜月には、あずさの頭の中で起きた狂嵐が瞬時に解ってしまった。でたらめに暴れる体を抱き締めて、懸命に落ち着かせようと声をかける。呼びかける。届かない叫びを上げ続ける。

「あずさ、戻ってこい! 『そっち』から逃げていい。俺達がずっと守るから! 戻ってこい……戻ってきてくれ……っ!」

 くしゃりと歪ませた顔は、あずさを嬲っていた残忍な雄とはまるで違う、庇護を請い求める幼子のようだった。

 やがて、嗚咽を漏らす霜月と、体力が尽きたのかその腕の中で気を失ったあずさを、土手の上から眺める男があった。

「私たちの『家』に帰ろう……“兄上”」

 あずさと、霜月に──兄と、本当の名前を捨ててしまった弟へそう呟いて、「葉月」と名乗っていた男は、そっと哀しみに目を閉じた。
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