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 蛇の姿のあやかしとなって以来、毎日のように社にやってくる少年を見守っていた。
 村で虐げられている彼はいつもみすぼらしい姿でいたが、巫女であることを心の支えとし、今はもういない“水神様”を旦那様と呼び、慕ってくれていた。

 なんて一途で健気で、愛しい子。
 あの子が本当に、僕の妻であったらいいのに。

 想いは日増しに募り、いつしかその欲求は身を焦がすばかりになった。
 彼を抱き締めて口づけて、心身共に自分の妻にしたいとばかり念じるようになった。

 この汚れた想いそのものが、自分が神でなくなった証。
 彼は巫女として自分を信じてくれているだけなのに。それすら、自分は既に資格を失っているというのに。自分は彼を、雄が雌を欲する心で愛してしまっている。
 愛欲は渇望となって止めどなく、苦しむたびに愛しさがますます募っていく。

 やがて神を忘れた村は、かつてないほどの災害に見舞われた。
 長雨に端を発するものの、山が崩れたのは彼らが木を切り過ぎたせいの人災。だというのに、彼らは全ての責任を神に押しつけ、あろうことか阿澄を無益な生贄にしようとした。

 自分がもし神でいられたら、村を滅ぼすほどの神罰を下せたのに。
 そして阿澄だけは救い出して、幸せな日々を与えたというのに。
 僕が、阿澄を幸せにしたのに!

 そこで自分は邪悪な閃きを得る。
 阿澄が死んだ瞬間に彼の魂を捕まえられたら、自分の妻として傍に置くことができるのではないか。
 果たして何の罪も無い阿澄は身勝手な村人達によって滝に沈められ、彼が最期まで信じ続けた神の成れの果てによって、異世界へと連れ去られたのである。




「僕は村人達と同じだ。自分の欲のためにおまえを犠牲にした。謝って許されることではないけれど、本当にすまなかった、阿澄」

 ぐにゃり。また霧が歪む。
 膨張した霧は端から畳を飲み込み、いつしか視認できる範囲は二人の周りのわずかな空間のみとなっていた。

 世界が消えかけているさなか、阿澄はまだ戸惑いの渦中にいた。
 自分の信じていた神はとうに失われていた。それは巫女にとって最悪の裏切りだ。辛苦に耐えた意味そのものを失って、死してなおあやかしに魂を攫われて、いったい自分は何のために存在しているのかと絶望すら感じる。

 ――――けれど。だけれども。
 だからと言って、今目の前で後悔に打ちひしがれている人を、責める気にはどうしてもなれない。

(だって私は、旦那様を……)

 目の前が、白く霞んだ気がした。
 ハッと我に返ると、霧が既に二人の間にも忍び込み始めている。すぐ傍にいるはずの旦那様さえ白の中へ隠されてしまいそうで、阿澄は思わず取りすがった。どこにもいかないよう両腕を強く掴み、ふるふると首を横に振る。

「待ってください旦那様、どうしてここを消す必要があるのですか」
「本来ならおまえの魂はあの世に向かい、僕のことも村のことも忘れて生まれ変わるはずだった。僕はその機会を奪ったんだよ」
「それは、そう……ですけれど」

 旦那様がやんわりと、しかししっかりと阿澄の手を自分から外そうとする。もういいから、と言わんばかりの諦めを微笑に滲ませて。

「あやかしの僕が、おまえを手に入れるなんておこがましいこと、してはいけなかったんだ。ありがとう阿澄、今まで付き合ってくれて。もうおまえは、全ての嘘から解き放たれていいんだよ」
「私を愛していると言ってくれたことも、嘘だったのですか?」

 咄嗟に飛び出したのが、どうしてそんな問いかけだったのか。
 自分を騙していたあやかしに、自分はどうして愛を質すのか。

(だって、だって私の幸せは……)

「それだけは嘘じゃない。愛しているよ。僕の存在が消えるまでずっと、僕はおまえを愛している」

 阿澄の脳裏を記憶が駆け巡る。生きていた頃の悲惨な思い出ではなく、ここで妻として暮らしてきた日々の彩りを思い起こす。
 自分を大事にしてくれる旦那様。いつも大きな愛情で包んでくれていた伴侶。
 その向けてくれた眼差しの優しさに、抱き締めてくれた腕の強さに、そして魂を攫うほど執着してくれた想いに、いったいどんな嘘があったというのだろう。

(そう、私の幸せは――――)

 混乱していた気持ちの全てが一点の確信に収束する。
 白く霞んでいく旦那様の顔が近づいて、その唇がそっと、阿澄の唇に触れた。

「さようなら、阿澄。今度こそ幸せな一生になるよう、祈っているよ」


「貴方を忘れた命に、幸せなんてあるはずがない!」


 濃さを増していた霧が、一瞬怯むように薄らいだ。
 常になく声を荒げた阿澄に、至近距離の旦那様が目を丸くする。
 阿澄は再び旦那様の腕を掴み、想いの丈を畳みかけた。

「貴方が私の過去を隠していたのは、私に辛い思いをさせたくなかったからでしょう? それは貴方の愛と優しさに他ならない。なのにどうして、私を手放そうとするのですか。私が生まれ変わってしまったら、あやかしである貴方とは二度と会えないじゃないですか。そんなのは嫌です!」
 
 阿澄は驚く旦那様の彼の体を精一杯に抱き締め、自分から再び唇を重ねる。
 ひんやりと冷たい旦那様の唇に、今度は自分の方から温もりを分け与えるように。

「僕はおまえを勝手に攫って……こんな、嘘で固められた世界に閉じ込めたんだよ?」
「私を幸せにするために創ってくれた世界の、何が嘘なんですか。貴方が私を大切にしてくれた想いしか、この世界にはこめられていない。旦那様に仕え、旦那様を愛し、旦那様に愛されることだけが、私の幸せの全て。――――この世界だけが、私の幸せの全て!」

 サアッ、と霧が一斉に引いていく。
 畳が現れ、壁に障子が現れ、縁側の向こう、いつも二人で眺めていた庭の景色が彼方へと広がり、
 澄み渡る青空に暖かな陽射し、飛び交う小鳥の囀り、その舞い降りた木の枝の落とす影、
 白糸のように流れる小さな滝とその傍らに佇む古びた社、そして庭の隅々へと流れていく清らかな川の流れ。

 阿澄と旦那様が暮らしていた穏やかな屋敷の一切が、二人の目の前に色彩を取り戻して現れた。
 呆然とする旦那様の胸に頭を預けながら、阿澄は旦那様の大きな手を両手で包み込む。

「私の想いでこの世界が姿を変えるというのなら、この美しい眺めのように、私は貴方を想っています」
「……僕はとっくに、神でも何でもないのに」
「ならば私も水神の巫女ではなく、ただの貴方の妻でしかありませんよ、旦那様」

 背けた表情はうかがえなかったが、旦那様の声も手も確かに震えていた。だから阿澄は、安心させるように握る手に力をこめる。
 やがて旦那様は阿澄を腕の中に閉じ込め、静かに抱き締めてくれた。
 これ以上の幸せがどこにあるというのか。阿澄はその広い背中に腕を回し、穏やかに微笑んだ。







 ――――そしてまた、穏やかな日々。

 阿澄の朝は旦那様に髪を梳いてもらうことから始まる。
 艶やかな黒髪に丁寧に櫛を通し終えた旦那様は、いつものように阿澄を抱き締め、その耳元へ愛を囁く。

「愛しているよ、僕の阿澄」
「毎朝気恥ずかしいですよ、旦那様」
「本当のことだから毎日言わせておくれ」
「……では、私からも」
「え?」

 旦那様の頬に唇を寄せると、旦那様は少し驚いた後、この上なく嬉しそうに破顔した。

 誰にも邪魔されない二人だけの箱庭。
 いつか時の彼方で、二人の魂が朽ちて消えるまで。
 世界は、幸せに満たされた日々を刻んでいく。
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