片翼のエール

乃南羽緒

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第五章

102話 次代へ

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 空は晴天なり。
 朝九時からはじまった試合はまもなく二時間を経過する。タイブレークカウント128-128、大神のサーブはなおも正確に井龍のサービスコートをえぐる。井龍もブレずにリターンを深く返す。もはやどちらが勝ってもおかしくはない。
 伊織の心は、昨日の黒鋼戦とちがってひどくおだやかだった。
 なぜかは分からない。この試合が負ければ才徳の優勝はなくなるというのに、この一進一退につづく試合を前に清々しさすら感じている。伊織を囲むように試合を観戦する才徳メンバーもまたおなじような顔をしていた。
 改めて言うよ、と倉持がつぶやく。
「大神ってすげえなあ」
「ああ。おれいま、才徳のテニス部入ってよかったって思ってた」
「俺も」
「オレもや」
 姫川、蜂谷、杉山が顔を見合わせてわらった。
 すこし後ろから観戦する天城はいまにも泣き出しそうに眉を下げ、星丸はすでに泣きはじめ、明前は怪我をした右目をアイスノンで冷やしながらぼんやりと試合を見つめている。
 すごいわね、と。
 観客席にいた天谷夏子がメンバーのそばに寄ってきた。その瞳はキラキラと潤んで、まっすぐに大神へ向けられる。
「なんだか涙が出てきちゃった。私、この部活の、みんなの顧問になれたこと──生涯の自慢にするわ」
 といって涙をぬぐう顧問に、生徒たちもつられたのか杉山は泣きながらわらった。
「そら自慢になるでェ!」
「そーだぜ夏子。なんたって大神はプロになる男だもんな」と姫川も頬を染める。
「井龍もなるかもしれないぞ」とは、蜂谷。
「いつか全英オープンなんかで対決してたらすげえよな」倉持の声も弾む。
「もしそうなったら──」星丸はあんぐりと口を開けた。
「俺たち──すごい歴史的瞬間に、立ち会っちゃったのかもしれないね」
 天城が明前を見る。
 うん、と彼は氷嚢を目から外す。
「そうかもな」
 そしてやさしく微笑んだ。

(大神。……)
 伊織はまっすぐに大神を見た。
 コートの向こう側、リターナーとして構える彼の顔がはっきりと見える。ふと目が合った気がして、胸がトクンと跳ねた。
 大神の口角があがった。
 視界がゆがむ。
 嗚呼──。
 気が付けば伊織は、微笑みながら泣いていた。

 ──。
 ────。
 両翼を雄々しくひろげた鷲の校旗が南風にあおられる、放課後の才徳学園高等部テニスコートでは、今日も変わらず小気味よい音を響かせて、懸命にテニスに励む生徒のすがたがある。
 一方部室からは、男子生徒たちの騒がしい声が絶えず聞こえていた。
「だれだよ、部室に少女漫画溜め込んだヤツ!」
「それ杉山だろ。アイツねーちゃんいるから少女漫画に抵抗ねーんだと」
「あースマンスマン。それ家に置いとくと、姉ちゃんが勝手に読んでネタバレしてくんねん」
「だからって部室に置いてんじゃねーよッ。この量マジで今日一日で持って帰れんのか? 大神に、荷物は今日出しとけって言われてるだろ」
「まあまあ倉持落ち着いて。どうせまた遊びに来るんだから、今日いっぺんにじゃなくてもいいだろ。大神には黙っておこう」
「しょうがねーな──」
「うわきたねえっだれだこの靴下! 見たことあるぞッ」
「俺はないけど──ある?」
「あらへんな」
「ねーよ! 自分のじゃねーのか、朝陽」
「あー? 言われてみりゃ片っ方ねえ靴下が家にあったな。これおれンか!」
「馬鹿!」
 そう、今日は。
 三年生として夏のインターハイを終え、先日引退した倉持たちの部室掃除の日である。ほぼ自室のように使用したため溜まりに溜まった荷物の整理を、夏休み中には終わらせろと大神に言われ、こうして夏休み最終日に片しているというわけである。
 ちなみにその指示を出した本人は、引退前から整理をしていたため、いまはすでに後輩指導のためコートに立っている。
 ロッカーの中身を精査してゴミ箱に突っ込んだ姫川が、ハァとため息をついた。
「引退かぁ。なんか──あっちゅー間だったな」
「俺ァもうインハイ終わって絶賛燃え付き症候群だぜ。受験勉強に切り替える心の余裕がねえ……」
 倉持は哀しそうにうなだれる。
 部室内掃除はあらかた終えただろう。蜂谷はひとつひとつ、三年ロッカーを開けて確認しながら「みんな」とほくそ笑んだ。
「一番記憶に残った試合ってどれ? 団体戦で」
「うーん。オレはこの前のインハイ決勝やな、相手べらぼうに強かったもん」
「あー。おれどれだろ、全国の桜爛戦かな」
「ああ、俺もやっぱ桜爛の仙堂だ。リベンジマッチだったから」
 とそれぞれが感想を述べる。
 司郎は、と姫川が見上げた。
 そうだなあ、と蜂谷は最後のロッカー扉をパタンと閉めた。
「俺がどうしても忘れられないのはやっぱり、全国決勝のS1試合──だな。あれは名試合だった」
「あっずりい。自分のじゃなくていいなら、そりゃそうだろ。おれもそれだわ」
「ワイもやァ。学長室前にある全国大会のトロフィー見るだけで涙出てくるもん」
「まさしく伝説──だったよな」
 倉持も満足げにうなずいた。
 部室内掃除が終わり、さあコートへいこうと四名が部室から出ると、ボールの山を持ってふらふらと歩くひとりの女子生徒が目に入った。彼女は新入生で女子テニス部を希望したテニス部員である。
 頑張ってるなぁ、と倉持は目を細めた。
 これまで廃部同然であった女子テニス部だが、先日のインターハイ個人戦にて、七浦伊織が見事初出場にして初優勝を飾ったこともあり、入部希望者が続出したのだという。
 一方で顧問天谷が中心となって、女子テニス部に興味のある生徒を募集。いまでは一、二年合わせて十二人ものメンバーが集まった。
 女子の方も、と杉山が伸びをした。
「大神が練習メニュー作ってやったんやて?」
「ああ。いつかアベック優勝させるのが夢なんだと」
「大神の夢って果てしねえなぁ」
「そのくらいでなきゃ」
 クスクスと蜂谷がわらう。
 そのとき、コートから続々と部員たちが出る姿が見えた。カートにボールかごを乗っけて駆けてくる部員を見る限り、練習が終わったようだ。
 すれ違う後輩たちが元気よく挨拶を交わしてゆく。
 最後尾を小走りに駆けてきたのは、明前と星丸だった。よう、と杉山が元気よく手をあげると、明前がすこし身を引いた。
「うわッ。先輩たちいたんスか」
「相変わらず嫌そうな顔するやん──」
「あれ」姫川がひょいとコートの方へ首を伸ばす。
「新部長は?」
「あいつなら大神ぶちょ──大神先輩といっしょにこっち来てるとおもいますよ」
 といって、星丸と明前は小走りに部室へ戻っていった。才徳テニス部には基本的に、ゆっくり歩く習慣がないのである。
 星丸の言うとおり、まもなくコートの方から天城が姿を見せた。真剣な顔で練習メニューの紙とにらめっこしながら歩いてくる。
「天城!」
「えっ。あっ」
 杉山の爆声をうけ、天城はパッと顔を上げた。その表情はみるみるうちに明るくなり、小走りで駆けてくる。
「杉山先輩! みなさんもッ」
「新部長はどないや」
「な、なんとかやってます。薫と廉也がサポートしてくれるので」
「あんまり無理すんなよな。前任が大神だっただけに、プレッシャーがあるかもしれねえけど。お前はお前のやり方があるんだから」
 と苦笑する倉持に、天城はうれしそうにわらった。
「はい。先ほど大神ぶちょ──大神先輩にも言われました」
「そういや大神は?」
「職員室へ行くと仰ってました。この前のインターハイ優勝について、インタビューがあるとかで。たぶん伊織先輩もセットで」
「あー、そうか。個人戦はアベック優勝だったもんな」
「ええ。もう学校前の横断幕がスゴいことになってます。あとで見てみてください」
 といって天城は頭を下げ、部室へと駆けていった。

 職員室までの道のり。
 校舎の壁に四枚の垂れ幕がでかでかと垂れ下がっている。夏休みのあいだに、校長がはりきってセットしたのだろう。
 ──第百十四回全国高校総体テニス選手権大会インターハイ 男子団体戦優勝
 ──第百十四回全国高校総体テニス選手権大会インターハイ 男子個人戦優勝 三年A組 大神謙吾
 ──第百十四回全国高校総体テニス選手権大会インターハイ 女子個人戦優勝 三年C組 七浦伊織

 視線をスライドさせて、倉持が快活にわらった。
「王者才徳学園、はじまったな!」

 ──第四十六回全国選抜高校テニス大会 男子団体戦総合優勝

(完)
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