76 / 104
第四章
75話 父兄の期待
しおりを挟む
葬儀には愛織のクラスメイトほか、事故に居合わせた小児患者の春子、桜爛大附と才徳学園のテニス部レギュラーなどが弔問に訪れた。
喪主は父蓮十郎が務め、兄妹も弔問客対応に終われて悲しむ暇もなく。その代わりと言わんばかりに味楽の大将がおんおんと泣き出すものだから、伊織はそれを宥めるのに必死でなおさら涙も引っ込んだ。
読経、焼香ののち、棺を閉める前の最期のお別れ時には弔問客のほとんどが涙を流したが、そのなかでも兄妹はシャンと背筋を伸ばして見守った。みながひとしきりお別れを述べたのち、視線は自然と兄妹へ向けられる。伊織が千秋を見た。千秋はうなずき、ともに棺へ歩み寄る。
顔を見られるのもこれが本当に最期。
伊織はおもむろに、ふところからあるものを取り出した。
「むこうに行ったらおかんといっしょに読んでや」
ということばとともに姉の枕元に添えたのは昨夜遅くにしたためた手紙。それを見た弔問客はまた、泣いた。千秋が棺の窓から手を差し入れて愛織の頬を撫でる。
「────」
ちいさく囁いた彼のことばは誰にも聞こえない。
聴こえたのはきっと愛織だけ。その瞬間、千秋の瞳からぽろりとひとしずくだけ涙がこぼれた。伊織の手が千秋の背に添えられた。先ほど囁かれた彼のことばこそ聞こえなかったけれど伊織には分かっていた。彼の想いも、涙の意味も。
兄妹そろっていまいちど合掌をしたのち、伊織が千秋を支えるように棺から離れた。
棺の窓は閉められて、四隅に釘が打たれゆく。
葬儀屋からの儀礼的な挨拶をさいごに、棺は火葬場へと送られた。
※
ちょっといいかい、と。
告別式が終わり棺が火葬炉に入ってまもなく、大神は如月蓮十郎に声をかけられた。骨揚げは親族のみというアナウンスのため帰り支度を終えた矢先のことだった。
蓮十郎は外で話そう、とジェスチャーをして大神を連れ立ち中庭へ出る。
「ほんとうにいろいろとありがとう」
開口一番、蓮十郎は頭を下げた。
大神は恐縮した。礼を言われるようなことはなに一つしていないつもりだったからである。結局愛織にしてやれたことは、振り返れば何もなかった──と、告別式のあいだずっと考えていたほどだ。
そんなことはない、と蓮十郎が中庭のベンチに腰かける。
「愛織の体調のこともそうだが──なにより伊織のことだ。母親を亡くしてまだ半年も経ってないあの子が、ここまで短期間で前向きになってくれた」
「それはアイツの努力です。初めて会った日からずっと伊織は変わってない。それは、愛織もおなじくそうだったのだとおもうけど」
「ああ。強い子たちだよ、いや──強いんじゃない。本当は強くなんかないんだけど、強く在らなくちゃいけない環境に私が置いてしまったんだ。香織が──あの子たちの母親が死んだときもちょうど全英オープンで試合中だった。死に際に立ち会うことができなくて、ふたりには心細い思いをさせちまって」
「あの大会の直後に引退を表明されましたね」
「続けていく自信がなくなった。いや、続ける意味を見失っちまった。振り返ってみりゃァ私のテニス人生は香織がいてこそのものだったから」
蓮十郎はうなだれる。
その感覚は弱冠十七歳の大神には共感し得ぬ感覚であろう。大神にとって──いや多くの高校生選手にとってのテニスは、あくまで自分が本能からやりたいと思うものであり、だれかのために戦うものではない。
如月蓮十郎という男はコートの上で縦横無尽に駆けまわる猛獣選手だった。そのプレーを初めて見たのは大神が五歳のころだったろうか。アメリカの地でテニスに出会い研鑽を積む少年は、しかし周囲との人種の違いに幼いながらに悩まされた。
骨格も筋肉もなにもかも、周囲の西洋人とくらべれば発達は遅く、ずいぶんと負け越したものだった。そんななかテレビで彗星のごとくあらわれた日本人プロ。体格などものともしないそのプレーにどれほど勇気づけられたことか。
如月蓮十郎プロは大神謙吾にとって、テニスを続ける糧であったことは間違いない。
その憧れだった選手もしょせんは人なのだ──と大神はいま痛感している。とはいえ、その人間臭さは嫌いじゃない。蓮十郎のとなりに腰をかけ、大神は高校生らしい好奇心を発揮した。
「失礼を承知でうかがいますが、その──如月プロには奥さまがふたりいらっしゃるっていう認識でいいんでしょうか」
「あ、いや。恥ずかしいな。はは──日本は一夫多妻は認められてねえからなあ。正妻というか、戸籍上は千秋の母親が妻なんだ。ただ香織とは妻よりも前に知り合ってた。妻とはありがちな見合い結婚だ」
「へえ」
「もちろん妻のことは大事におもってるよ。なんだかんだここまで文句も言わずについてきてくれてるし、香織とその娘たちのことに関してもずいぶん寛容だった。まあ、たぶん承知の上だったんだとおもう」
「承知というと」
「私の気持ちが、香織にあったことにだよ」
「…………」
「高校生にこんな話をするのも恥ずかしいけどさ。香織はもともとスポーツトレーナーとして所属してたんだ。私の試合のときもよくスタッフとしてついて来てた。伊織たちを見りゃ分かると思うが、そりゃあもう香織は綺麗な子だった。女に足りてた当時の私でも目がくらんだ」
「ふ、」
「でも彼女はどっかぽや~っとしてる子で、男に言い寄られても気付かない。恋愛というものもあんまりよく知らない。ってまあ箱入り娘みたいな娘だった。数多の女と寝てきた私も初めてだったんだ、ああいう子は」
ああ恥ずかしい、と蓮十郎は頬を赤らめた。
まるで心は二十代当時にもどったかのようすに、大神はクスクスとわらう。
「それはもう夢中になって迫った。好きだって気持ちをずっと伝え続けて、でも一向に躱されるもんだからとうとう一度はあきらめてさ。当時、いい加減身を落ち着かせろともらってた見合いを承諾したんだ。それがいまの妻ね」
「はい」
「踏ん切りつかなかったからいっそ既成事実も作っちまおうって子ども作ってさ、とうとう俺が結婚するってなったときに香織が泣いたんだよ。やっと気付いたんだって、いままで応えられなくてごめんなさいって。もうさ、わかる? ずっと好きだった女が自分にそう言ってひとりで泣いてんだぜ。たまんねーだろ」
「…………そうですね」
「どうしても好きだった。ずっと好きだったから、ほかの男のものになるなんて考えたくもなくて──その」
「ヤッちまったんですね」
「ヤッ、ちまったんだなァ」
「子どもが出来てどうしたんです」
「もちろん父親になるって言ったよ。このことで妻のことはそうとう傷つけちまったけど、だからって香織のことは捨て置けるわけねえ。三人の父親になるって宣言したわけだ。まあ、出来たのは金銭援助とたまにテニスを教えてやることくらいのもんだったけどさ。……」
まあそんな感じ、と蓮十郎は空を仰ぐ。
大神もつられて見上げた。建物の煙突から煙が立ち昇る。まるで空に続く梯子のように伸びて、伸びて──魂というものが目に見えたなら、きっと彼女は一段一段を踏みしめてあがっていることだろう、と大神はおもった。
火葬場は全面のガラス張りになっており、遠目ながら中が見える。才徳や桜爛のテニス部員たちは千秋や伊織を囲んで何ごとかを話している。そこそこ笑顔も見えるあたり必死に励まそうとしているようだ。
先ほどひとしずくの涙をこぼした千秋も、すっかり笑顔にもどっている。
「千秋がキミに」
蓮十郎がふとつぶやいた。
「伊織と試合をしろと言ったろう」
「はい──インターハイのあとにそう言われました」
「もうした?」
「いえ。ただ、打ち合っただけでも千秋さんの言いたいことは分かった気がします」
「そう。……伊織は、アイツは昔から筋がよくて。もちろん愛織の方がいろいろうまいんだけど、いざ本番勝負ってなると愛織は頭を使って難しくプレーを組み立てちまう子だった。逆に伊織はもう頭よりも身体が先に動くタイプで──そらもう面白いんだ」
「わかります。でも、愛織が言ってました。伊織はシングルスがスランプなんだと」
そうなんですか、と大神は前傾して蓮十郎を覗き込む。俺もわからんのだよ、と姉妹の父は苦笑した。
「伊織は中学にあがってからテニスと向き合いたがらなくなった。もちろん打つのは好きで俺の友人たちとはよく練習したけど、実力を見せつけるような場面をいやに嫌った。千秋が発破をかけようが俺がなにを言おうが、アイツは突っぱねて──俺も千秋も、前みたいに奔放なテニスで貪欲に勝ちをとりにいくあの子のテニスが見たかった。おそらく愛織もそうだったはずだ」
「…………」
「去年の全国からキミのことは知っていたんだ。千秋も、キミのテニスはおもしろいと常々言ってた。だから香織があんなことになってあの子たちを関東に呼んだとき、伊織に才徳を提案したんだ」
蓮十郎の視線が大神に移る。
「キミがいるからだ。キミと試合をすることで、あの子のなかのテニスがなにか変わるんじゃないかと期待した。だから──」
「俺から七浦というヤツに注目させるよう、千秋さんが仕向けたんですね」
「そういうことだ。でも結局……愛織がこうなってしまった以上、伊織は今度こそテニスを捨てちまうかもしれんな。あの子は俺と似てだれかのためにテニスをやってきた子だから」
「…………」
巻き込んですまない、と苦悩する父親はぐっと目頭をおさえる。
「でも才徳に入ってあの子が変わったのもたしかだった。今後は俺みたく、テニスはやめちまうかもしれないが──せめて卒業するときまでは仲良くしてやってくれるとうれしい」
ということばを最後に、蓮十郎は黙った。
大神は一瞬口をひらいたけれども、結局なにを返すこともなかった。けれどいまこの瞬間、彼のなかでひとつ確固たる思いが芽生えたのはたしかだ。遠目に見えるガラス窓の向こうで微笑する伊織を、大神はまばたきひとつせずに見つめ続けた。
喪主は父蓮十郎が務め、兄妹も弔問客対応に終われて悲しむ暇もなく。その代わりと言わんばかりに味楽の大将がおんおんと泣き出すものだから、伊織はそれを宥めるのに必死でなおさら涙も引っ込んだ。
読経、焼香ののち、棺を閉める前の最期のお別れ時には弔問客のほとんどが涙を流したが、そのなかでも兄妹はシャンと背筋を伸ばして見守った。みながひとしきりお別れを述べたのち、視線は自然と兄妹へ向けられる。伊織が千秋を見た。千秋はうなずき、ともに棺へ歩み寄る。
顔を見られるのもこれが本当に最期。
伊織はおもむろに、ふところからあるものを取り出した。
「むこうに行ったらおかんといっしょに読んでや」
ということばとともに姉の枕元に添えたのは昨夜遅くにしたためた手紙。それを見た弔問客はまた、泣いた。千秋が棺の窓から手を差し入れて愛織の頬を撫でる。
「────」
ちいさく囁いた彼のことばは誰にも聞こえない。
聴こえたのはきっと愛織だけ。その瞬間、千秋の瞳からぽろりとひとしずくだけ涙がこぼれた。伊織の手が千秋の背に添えられた。先ほど囁かれた彼のことばこそ聞こえなかったけれど伊織には分かっていた。彼の想いも、涙の意味も。
兄妹そろっていまいちど合掌をしたのち、伊織が千秋を支えるように棺から離れた。
棺の窓は閉められて、四隅に釘が打たれゆく。
葬儀屋からの儀礼的な挨拶をさいごに、棺は火葬場へと送られた。
※
ちょっといいかい、と。
告別式が終わり棺が火葬炉に入ってまもなく、大神は如月蓮十郎に声をかけられた。骨揚げは親族のみというアナウンスのため帰り支度を終えた矢先のことだった。
蓮十郎は外で話そう、とジェスチャーをして大神を連れ立ち中庭へ出る。
「ほんとうにいろいろとありがとう」
開口一番、蓮十郎は頭を下げた。
大神は恐縮した。礼を言われるようなことはなに一つしていないつもりだったからである。結局愛織にしてやれたことは、振り返れば何もなかった──と、告別式のあいだずっと考えていたほどだ。
そんなことはない、と蓮十郎が中庭のベンチに腰かける。
「愛織の体調のこともそうだが──なにより伊織のことだ。母親を亡くしてまだ半年も経ってないあの子が、ここまで短期間で前向きになってくれた」
「それはアイツの努力です。初めて会った日からずっと伊織は変わってない。それは、愛織もおなじくそうだったのだとおもうけど」
「ああ。強い子たちだよ、いや──強いんじゃない。本当は強くなんかないんだけど、強く在らなくちゃいけない環境に私が置いてしまったんだ。香織が──あの子たちの母親が死んだときもちょうど全英オープンで試合中だった。死に際に立ち会うことができなくて、ふたりには心細い思いをさせちまって」
「あの大会の直後に引退を表明されましたね」
「続けていく自信がなくなった。いや、続ける意味を見失っちまった。振り返ってみりゃァ私のテニス人生は香織がいてこそのものだったから」
蓮十郎はうなだれる。
その感覚は弱冠十七歳の大神には共感し得ぬ感覚であろう。大神にとって──いや多くの高校生選手にとってのテニスは、あくまで自分が本能からやりたいと思うものであり、だれかのために戦うものではない。
如月蓮十郎という男はコートの上で縦横無尽に駆けまわる猛獣選手だった。そのプレーを初めて見たのは大神が五歳のころだったろうか。アメリカの地でテニスに出会い研鑽を積む少年は、しかし周囲との人種の違いに幼いながらに悩まされた。
骨格も筋肉もなにもかも、周囲の西洋人とくらべれば発達は遅く、ずいぶんと負け越したものだった。そんななかテレビで彗星のごとくあらわれた日本人プロ。体格などものともしないそのプレーにどれほど勇気づけられたことか。
如月蓮十郎プロは大神謙吾にとって、テニスを続ける糧であったことは間違いない。
その憧れだった選手もしょせんは人なのだ──と大神はいま痛感している。とはいえ、その人間臭さは嫌いじゃない。蓮十郎のとなりに腰をかけ、大神は高校生らしい好奇心を発揮した。
「失礼を承知でうかがいますが、その──如月プロには奥さまがふたりいらっしゃるっていう認識でいいんでしょうか」
「あ、いや。恥ずかしいな。はは──日本は一夫多妻は認められてねえからなあ。正妻というか、戸籍上は千秋の母親が妻なんだ。ただ香織とは妻よりも前に知り合ってた。妻とはありがちな見合い結婚だ」
「へえ」
「もちろん妻のことは大事におもってるよ。なんだかんだここまで文句も言わずについてきてくれてるし、香織とその娘たちのことに関してもずいぶん寛容だった。まあ、たぶん承知の上だったんだとおもう」
「承知というと」
「私の気持ちが、香織にあったことにだよ」
「…………」
「高校生にこんな話をするのも恥ずかしいけどさ。香織はもともとスポーツトレーナーとして所属してたんだ。私の試合のときもよくスタッフとしてついて来てた。伊織たちを見りゃ分かると思うが、そりゃあもう香織は綺麗な子だった。女に足りてた当時の私でも目がくらんだ」
「ふ、」
「でも彼女はどっかぽや~っとしてる子で、男に言い寄られても気付かない。恋愛というものもあんまりよく知らない。ってまあ箱入り娘みたいな娘だった。数多の女と寝てきた私も初めてだったんだ、ああいう子は」
ああ恥ずかしい、と蓮十郎は頬を赤らめた。
まるで心は二十代当時にもどったかのようすに、大神はクスクスとわらう。
「それはもう夢中になって迫った。好きだって気持ちをずっと伝え続けて、でも一向に躱されるもんだからとうとう一度はあきらめてさ。当時、いい加減身を落ち着かせろともらってた見合いを承諾したんだ。それがいまの妻ね」
「はい」
「踏ん切りつかなかったからいっそ既成事実も作っちまおうって子ども作ってさ、とうとう俺が結婚するってなったときに香織が泣いたんだよ。やっと気付いたんだって、いままで応えられなくてごめんなさいって。もうさ、わかる? ずっと好きだった女が自分にそう言ってひとりで泣いてんだぜ。たまんねーだろ」
「…………そうですね」
「どうしても好きだった。ずっと好きだったから、ほかの男のものになるなんて考えたくもなくて──その」
「ヤッちまったんですね」
「ヤッ、ちまったんだなァ」
「子どもが出来てどうしたんです」
「もちろん父親になるって言ったよ。このことで妻のことはそうとう傷つけちまったけど、だからって香織のことは捨て置けるわけねえ。三人の父親になるって宣言したわけだ。まあ、出来たのは金銭援助とたまにテニスを教えてやることくらいのもんだったけどさ。……」
まあそんな感じ、と蓮十郎は空を仰ぐ。
大神もつられて見上げた。建物の煙突から煙が立ち昇る。まるで空に続く梯子のように伸びて、伸びて──魂というものが目に見えたなら、きっと彼女は一段一段を踏みしめてあがっていることだろう、と大神はおもった。
火葬場は全面のガラス張りになっており、遠目ながら中が見える。才徳や桜爛のテニス部員たちは千秋や伊織を囲んで何ごとかを話している。そこそこ笑顔も見えるあたり必死に励まそうとしているようだ。
先ほどひとしずくの涙をこぼした千秋も、すっかり笑顔にもどっている。
「千秋がキミに」
蓮十郎がふとつぶやいた。
「伊織と試合をしろと言ったろう」
「はい──インターハイのあとにそう言われました」
「もうした?」
「いえ。ただ、打ち合っただけでも千秋さんの言いたいことは分かった気がします」
「そう。……伊織は、アイツは昔から筋がよくて。もちろん愛織の方がいろいろうまいんだけど、いざ本番勝負ってなると愛織は頭を使って難しくプレーを組み立てちまう子だった。逆に伊織はもう頭よりも身体が先に動くタイプで──そらもう面白いんだ」
「わかります。でも、愛織が言ってました。伊織はシングルスがスランプなんだと」
そうなんですか、と大神は前傾して蓮十郎を覗き込む。俺もわからんのだよ、と姉妹の父は苦笑した。
「伊織は中学にあがってからテニスと向き合いたがらなくなった。もちろん打つのは好きで俺の友人たちとはよく練習したけど、実力を見せつけるような場面をいやに嫌った。千秋が発破をかけようが俺がなにを言おうが、アイツは突っぱねて──俺も千秋も、前みたいに奔放なテニスで貪欲に勝ちをとりにいくあの子のテニスが見たかった。おそらく愛織もそうだったはずだ」
「…………」
「去年の全国からキミのことは知っていたんだ。千秋も、キミのテニスはおもしろいと常々言ってた。だから香織があんなことになってあの子たちを関東に呼んだとき、伊織に才徳を提案したんだ」
蓮十郎の視線が大神に移る。
「キミがいるからだ。キミと試合をすることで、あの子のなかのテニスがなにか変わるんじゃないかと期待した。だから──」
「俺から七浦というヤツに注目させるよう、千秋さんが仕向けたんですね」
「そういうことだ。でも結局……愛織がこうなってしまった以上、伊織は今度こそテニスを捨てちまうかもしれんな。あの子は俺と似てだれかのためにテニスをやってきた子だから」
「…………」
巻き込んですまない、と苦悩する父親はぐっと目頭をおさえる。
「でも才徳に入ってあの子が変わったのもたしかだった。今後は俺みたく、テニスはやめちまうかもしれないが──せめて卒業するときまでは仲良くしてやってくれるとうれしい」
ということばを最後に、蓮十郎は黙った。
大神は一瞬口をひらいたけれども、結局なにを返すこともなかった。けれどいまこの瞬間、彼のなかでひとつ確固たる思いが芽生えたのはたしかだ。遠目に見えるガラス窓の向こうで微笑する伊織を、大神はまばたきひとつせずに見つめ続けた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
おひとりさま男子、カップルYouTuberになる ~他校に進学した優等生JKが婚約者だった~
椎名 富比路
青春
学校に居場所を求めていなかった主人公は、他校に進学した元同級生の地味子と再会。
家主である叔母から、地味子が婚約者だと聞かされる。
叔母の提案で、二人で配信業をすることに。
カップルYouTuberデビューすることになるなんて。
私も貴方を愛さない〜今更愛していたと言われても困ります
せいめ
恋愛
『小説年間アクセスランキング2023』で10位をいただきました。
読んでくださった方々に心から感謝しております。ありがとうございました。
「私は君を愛することはないだろう。
しかし、この結婚は王命だ。不本意だが、君とは白い結婚にはできない。貴族の義務として今宵は君を抱く。
これを終えたら君は領地で好きに生活すればいい」
結婚初夜、旦那様は私に冷たく言い放つ。
この人は何を言っているのかしら?
そんなことは言われなくても分かっている。
私は誰かを愛することも、愛されることも許されないのだから。
私も貴方を愛さない……
侯爵令嬢だった私は、ある日、記憶喪失になっていた。
そんな私に冷たい家族。その中で唯一優しくしてくれる義理の妹。
記憶喪失の自分に何があったのかよく分からないまま私は王命で婚約者を決められ、強引に結婚させられることになってしまった。
この結婚に何の希望も持ってはいけないことは知っている。
それに、婚約期間から冷たかった旦那様に私は何の期待もしていない。
そんな私は初夜を迎えることになる。
その初夜の後、私の運命が大きく動き出すことも知らずに……
よくある記憶喪失の話です。
誤字脱字、申し訳ありません。
ご都合主義です。
俺と妖怪の筒ましい生活(否定)
ぽぬん
青春
真砂秋緋はごく普通の高校生活を送るために、代々続く【筒師】と呼ばれる妖怪を使役して陰ながら世の為人の為に力を使って解決する一族の跡取り確定の現実から逃げ出す為、実家から離れ、念願の独り暮らしを始めたのだが、幼なじみや腐れ縁の友人、突如現れた姉と言い張るロリばばぁに妖怪まみれの生活に戻されていく。
「俺は普通の人間としていきるんだっー!!!」
叫びは届くのだろうか?
※話数表記を、章+サブタイトルへ変更しました。
御堂藤学園二年D組あかね組
hakusuya
青春
二年生になった明音の生活は一変した。親の離婚で苗字が変わり、弟妹たちの面倒をみるために家事、バイトにいそしむ毎日となる。クラス替えでカースト最上位のグループを離れた明音は、地味で目立たない新しい学園生活をめざすが、周囲の者はそれを許してはくれなかった。一癖も二癖もある連中が何だかんだとちょっかいを出してくる。果たして明音は望んだ学園生活を送ることができるのか。
防大女子!前へ進め!
JUN
青春
防衛大学に在籍する学生が言うには、世の中には男子、女子、防大女子の3つの性があるという。スケジュールはキチキチだし、自由はないし、厳しいし、ストレスフルな毎日を送る防大女子。ガンバレ、防大女子!前へススメ!『防大女子!──Xデーに備えよ──』の前の話になります。
私の隣は、心が見えない男の子
舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。
隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。
二人はこの春から、同じクラスの高校生。
一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。
きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。
沢田くんはおしゃべり
ゆづ
青春
第13回ドリーム大賞奨励賞受賞✨ありがとうございました!!
【あらすじ】
空気を読む力が高まりすぎて、他人の心の声が聞こえるようになってしまった普通の女の子、佐藤景子。
友達から地味だのモブだの心の中で言いたい放題言われているのに言い返せない悔しさの日々の中、景子の唯一の癒しは隣の席の男子、沢田空の心の声だった。
【佐藤さん、マジ天使】(心の声)
無口でほとんどしゃべらない沢田くんの心の声が、まさかの愛と笑いを巻き起こす!
めちゃコミ女性向け漫画原作賞の優秀作品にノミネートされました✨
エブリスタでコメディートレンドランキング年間1位(ただし完結作品に限るッ!)
エブリスタ→https://estar.jp/novels/25774848
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる