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第三夜
第15話 執刀医の所見
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「歌舞伎町西側の植え込みに無造作に放られていた。発見者は近隣店に勤める朝帰りのホスト。歌舞伎町といっても裏路地に入ったあたりなんで人通りは多くはねえが、コンスタントに通る場所ではあるから、数日放置されていたとも考えにくい。『発見前日まではなかった』って証言も複数からとれている。遺体は全裸、発見場所からも遺留品は見つからなかったが、検視にて前歯のインプラント治療痕から身元が判明」
「血痕は?」
「まったく。発見された段階で傷口は乾ききってた」
「…………、死亡推定日については胃の内容物から見て、三月中にはすでに死亡していた可能性が高いです」
「三月中?」
「ええ。死因はこの腹部の傷からくる失血性ショック死。流血時、途中までは生存反応が認められる。……このあたりは検査が出たら確実な検案書をお渡しします。ハルミくん、これ検査にまわして」
「はい」
ハルミと呼ばれた若手助手は、テキパキと動き、細胞片を受け取るやすぐさま別室へと引っ込んだ。
解剖はそれから午前中いっぱいおこなわれ、なんだかんだで解放されたのは、昼の十三時をまわったころだった。
法医学教室に残ったのは沢井と三橋のみ。
ほか検視官や撮影担当などは解剖終わりと同時に、早々に帰っていった。
ふたりが残った理由は、もうしばらくすれば結果が出ると聞いたからである。先ほどまで解剖助手を勤めていた壮年女性が、ふたりにコーヒーを出してくれた。
神来はそれからまもなく戻ってきた。
先ほどまでの完全防備は影もなく、肩につくかつかぬかというほどのストレートヘアに、白衣に淡い水色のワイシャツと黒のスラックス、足元は楽でいるためかスリッパを履いている。
キリリと精悍な眉はそのままに、
「お疲れさまでした」
とわずかに口角をあげた。微笑のつもりだろうが、すこし固い。
なによりうわさのとおりの美丈夫。
沢井のとなりでコーヒーをひと口飲んだ三橋は、おどろきのあまりごくりと音を立てる。神来の手にはバインダーに挟まった資料がある。どうやらデータの検案書をわざわざ出力してくれたらしい。
「結果が出た。やっぱりさっき言ったとおりの内容で間違いないみたい」
「……三月中には死んでいた」
「中田聡美さん──ご両親は捜索願を出していないの?」
「少なくともそういった類いのものは出ちゃいねえ。いま別動隊がそこらへんを洗ってるが、もしかすると放蕩娘だったのかもなァ」
「遺体を見るかぎり性交痕はなし。からだ目当ての挙げ句に棄てられたって線は薄そうね。もっとも、やる前に殺られたのならそのかぎりではないけれど。なにより気になるのは体内に残った血液の量よ。あんまりに少なすぎる」
「痴情のもつれによる三文字割腹、だらだら血液が抜かれた挙句……失血により死に至った?」
「この傷は他者から受けたものだから割腹という表現は正しくないけれど。過程についてはその可能性が高いわ。とはいってもこの傷──それほど殺意があるようにも思えないのだけど」
「殺意がなくて血まで抜くかね。いや、あったとしてもだがよ……」
分からない。
沢井はいつも思う。衝動やら正当防衛ならともかく、こういった殺人を犯す者の心境が分からない、と。それは自分が正しく有るがゆえだと安心はすれども、時に悔しくもなる。
しかし解剖執刀医はそれほど深刻な顔ではなかった。
「血が欲しかったのかしら」
「血が?」
今朝見た新聞の見出しが脳裏をよぎる。
そう、と彼女はきれいに切りそろえられた髪をかきあげた。
「結果的に殺人になっただけで、結論はただたくさんの血が欲しかった──としたら、血が抜き取られた理由になるなとおもって。あるいは木乃伊を作りたかったとか……でもそうなると内臓が残っているのもおかしな話だわね。やっぱり前者かな」
「理解できねえな。なんで血なんか」
「あら、世の中には血液に興奮する人間もいるのよ。ヘマトフィリアっていうんだけれど。血液が芸術品のようにきれいに見えたり、相手ありきでいえば、相手と血液を介してつながりたいという欲望もあったり、あとこれはいちばん最悪なパターンだけれど、血液に性的興奮をおぼえるタイプとかね」
「…………」
「でも、たとえば覗きをして興奮する出歯亀野郎も、他人を覗くってなったら逮捕案件だけど個人的ななにかを覗き見るのは趣味の範囲内でしょう。そう考えると実害さえなければ、ヘマトフィリアだってそこいらの性的倒錯者となんら変わらないのよね」
なぜすこし楽しそうなのか。
沢井はみるみるうちに顔を青ざめていくが、となりで聞く三橋は興味深げにふんふんとうなずいている。
「ある種、殺人だって異常とも言い切れないですもんね」
「そうね。道徳に反してるだけで動物の本能としては正常かも。ふつうと言われる人間だって大なり小なり、なにかを守るために相手を攻撃することがある。それは時に言葉だったり暴力だったり。そして守るなにかというのも、大切なものだったり自分自身だったり。いずれにしろ宇宙から見れば、人がそういう暴力的一面を持ち合わせているのはごく自然なことで──」
「わ、わかった。わかった!」
これから女ふたりのあいだで盛り上がりそうな予感を察知した。
両手をあげて制止すると、三橋はくすくすと肩を揺らす。
「藤宮先生って話分かるなァ。ますます尊敬しちゃう」
「あら、あなただって今日の解剖立会い、初めてだったんでしょう。それなのにずいぶん肝が据わっている子だなって感心したのよ。ああいうのがにがてな子は、男女問わず倒れてしまうこともあるから」
「そうなんですか」
「女のほうが神経図太ェっていうしな」
と、沢井がふてぶてしくつぶやく。
そのとき三橋の携帯がふるえた。着信相手を確認して、彼女が「三國です」とディスプレイをタップした。内容は『ちょうど関係者への聞き込みが終了した』ことと、『これから昼食だから合流できるか』という二点。昼食をとりがてら情報共有をしたいらしい。
三橋は軽く了承。いいとこありますか、と沢井を見た。
逡巡したのち「ざくろ」と告げた。
「ざくろ?」
「森谷が分かる」
「あ、はい。じゃあ『ざくろ』で」
了解です、という声とともに電話は切れた。
その会話を聞いていた沢井はいよいようんざりした顔をする。
「おまえ──初めての解剖立会いのあとに飯が食えるのかよ。かわいげのねえ」
「関係ないですよオ。さすがにもつ煮は嫌ですけど」
「……ああそうかい。いいならいいけどよ」
といって、受け取った検案書を片手に沢井は立ち上がった。
若手だったころの自分が初めての解剖立会いをしてから三日間は、肉類はほとほと喉を通らなかった記憶があるというのに。やはり男は存外繊細な生き物だと身に染みる。
法医学教室の部屋から出ようと扉に手をかけたとき、神来が沢井を呼び止めた。
「そういえば」
「あ?」
「うちの愚弟がさんざんお世話になったとか」
「あ。……ああ!」
言われて思い出した。
そういえば彼女は藤宮。恭太郎の長姉である。
解剖現場を見ているともはや『執刀医』という分類で見てしまうため、彼女が何者なのかという認識を失念していた。
「そうか、恭の姉貴だったな」
「話には聞いていたのだけど。ご挨拶が遅くなってしまったわね」
「べつにいい。好きでやってただけだ」
「とっても生意気でしょう、あの子」
「ああ──というか」
沢井は一瞬閉口した。
それから、探るように神来を見る。
「アレ、あの耳は、生まれつきなのか」
「……少なくとも物心ついたときには『音がウルサイ』って言っていたから、そうだったのでしょうね。聾者《ろうしゃ》であれば生まれてすぐに分かるものだけど、聴覚が良すぎるなんて、自己申告でもなければ気づけなかったから」
「人心の声については?」
「さあ、たぶん本人すら覚えていないとおもう。初めてそうなんじゃないかって家族が気づいてからも、本人が自覚していなかったんだから。とはいえうちの家族はさいわいに楽観主義者が多いの。だから、それについてもどうとでもなるって結論づいて、いまでは普通のことになってるわ」
といって神来はツンと顎をあげた。
すこしばかり高飛車なところ、すこし常人とずれた感性、系統はちがうものの洗練された顔立ち──さすがは姉弟というべきか、と沢井は内心で納得した。
神来はにこりともせず、
「今後とも愚弟をどうぞよろしく」
と言った。
「……できる範囲で構ってやらァ」
今度こそ沢井は扉を開けて外に出る。
つづく三橋はといえば、何度も法医学教室の面々に頭を下げて退出するのだった。
「血痕は?」
「まったく。発見された段階で傷口は乾ききってた」
「…………、死亡推定日については胃の内容物から見て、三月中にはすでに死亡していた可能性が高いです」
「三月中?」
「ええ。死因はこの腹部の傷からくる失血性ショック死。流血時、途中までは生存反応が認められる。……このあたりは検査が出たら確実な検案書をお渡しします。ハルミくん、これ検査にまわして」
「はい」
ハルミと呼ばれた若手助手は、テキパキと動き、細胞片を受け取るやすぐさま別室へと引っ込んだ。
解剖はそれから午前中いっぱいおこなわれ、なんだかんだで解放されたのは、昼の十三時をまわったころだった。
法医学教室に残ったのは沢井と三橋のみ。
ほか検視官や撮影担当などは解剖終わりと同時に、早々に帰っていった。
ふたりが残った理由は、もうしばらくすれば結果が出ると聞いたからである。先ほどまで解剖助手を勤めていた壮年女性が、ふたりにコーヒーを出してくれた。
神来はそれからまもなく戻ってきた。
先ほどまでの完全防備は影もなく、肩につくかつかぬかというほどのストレートヘアに、白衣に淡い水色のワイシャツと黒のスラックス、足元は楽でいるためかスリッパを履いている。
キリリと精悍な眉はそのままに、
「お疲れさまでした」
とわずかに口角をあげた。微笑のつもりだろうが、すこし固い。
なによりうわさのとおりの美丈夫。
沢井のとなりでコーヒーをひと口飲んだ三橋は、おどろきのあまりごくりと音を立てる。神来の手にはバインダーに挟まった資料がある。どうやらデータの検案書をわざわざ出力してくれたらしい。
「結果が出た。やっぱりさっき言ったとおりの内容で間違いないみたい」
「……三月中には死んでいた」
「中田聡美さん──ご両親は捜索願を出していないの?」
「少なくともそういった類いのものは出ちゃいねえ。いま別動隊がそこらへんを洗ってるが、もしかすると放蕩娘だったのかもなァ」
「遺体を見るかぎり性交痕はなし。からだ目当ての挙げ句に棄てられたって線は薄そうね。もっとも、やる前に殺られたのならそのかぎりではないけれど。なにより気になるのは体内に残った血液の量よ。あんまりに少なすぎる」
「痴情のもつれによる三文字割腹、だらだら血液が抜かれた挙句……失血により死に至った?」
「この傷は他者から受けたものだから割腹という表現は正しくないけれど。過程についてはその可能性が高いわ。とはいってもこの傷──それほど殺意があるようにも思えないのだけど」
「殺意がなくて血まで抜くかね。いや、あったとしてもだがよ……」
分からない。
沢井はいつも思う。衝動やら正当防衛ならともかく、こういった殺人を犯す者の心境が分からない、と。それは自分が正しく有るがゆえだと安心はすれども、時に悔しくもなる。
しかし解剖執刀医はそれほど深刻な顔ではなかった。
「血が欲しかったのかしら」
「血が?」
今朝見た新聞の見出しが脳裏をよぎる。
そう、と彼女はきれいに切りそろえられた髪をかきあげた。
「結果的に殺人になっただけで、結論はただたくさんの血が欲しかった──としたら、血が抜き取られた理由になるなとおもって。あるいは木乃伊を作りたかったとか……でもそうなると内臓が残っているのもおかしな話だわね。やっぱり前者かな」
「理解できねえな。なんで血なんか」
「あら、世の中には血液に興奮する人間もいるのよ。ヘマトフィリアっていうんだけれど。血液が芸術品のようにきれいに見えたり、相手ありきでいえば、相手と血液を介してつながりたいという欲望もあったり、あとこれはいちばん最悪なパターンだけれど、血液に性的興奮をおぼえるタイプとかね」
「…………」
「でも、たとえば覗きをして興奮する出歯亀野郎も、他人を覗くってなったら逮捕案件だけど個人的ななにかを覗き見るのは趣味の範囲内でしょう。そう考えると実害さえなければ、ヘマトフィリアだってそこいらの性的倒錯者となんら変わらないのよね」
なぜすこし楽しそうなのか。
沢井はみるみるうちに顔を青ざめていくが、となりで聞く三橋は興味深げにふんふんとうなずいている。
「ある種、殺人だって異常とも言い切れないですもんね」
「そうね。道徳に反してるだけで動物の本能としては正常かも。ふつうと言われる人間だって大なり小なり、なにかを守るために相手を攻撃することがある。それは時に言葉だったり暴力だったり。そして守るなにかというのも、大切なものだったり自分自身だったり。いずれにしろ宇宙から見れば、人がそういう暴力的一面を持ち合わせているのはごく自然なことで──」
「わ、わかった。わかった!」
これから女ふたりのあいだで盛り上がりそうな予感を察知した。
両手をあげて制止すると、三橋はくすくすと肩を揺らす。
「藤宮先生って話分かるなァ。ますます尊敬しちゃう」
「あら、あなただって今日の解剖立会い、初めてだったんでしょう。それなのにずいぶん肝が据わっている子だなって感心したのよ。ああいうのがにがてな子は、男女問わず倒れてしまうこともあるから」
「そうなんですか」
「女のほうが神経図太ェっていうしな」
と、沢井がふてぶてしくつぶやく。
そのとき三橋の携帯がふるえた。着信相手を確認して、彼女が「三國です」とディスプレイをタップした。内容は『ちょうど関係者への聞き込みが終了した』ことと、『これから昼食だから合流できるか』という二点。昼食をとりがてら情報共有をしたいらしい。
三橋は軽く了承。いいとこありますか、と沢井を見た。
逡巡したのち「ざくろ」と告げた。
「ざくろ?」
「森谷が分かる」
「あ、はい。じゃあ『ざくろ』で」
了解です、という声とともに電話は切れた。
その会話を聞いていた沢井はいよいようんざりした顔をする。
「おまえ──初めての解剖立会いのあとに飯が食えるのかよ。かわいげのねえ」
「関係ないですよオ。さすがにもつ煮は嫌ですけど」
「……ああそうかい。いいならいいけどよ」
といって、受け取った検案書を片手に沢井は立ち上がった。
若手だったころの自分が初めての解剖立会いをしてから三日間は、肉類はほとほと喉を通らなかった記憶があるというのに。やはり男は存外繊細な生き物だと身に染みる。
法医学教室の部屋から出ようと扉に手をかけたとき、神来が沢井を呼び止めた。
「そういえば」
「あ?」
「うちの愚弟がさんざんお世話になったとか」
「あ。……ああ!」
言われて思い出した。
そういえば彼女は藤宮。恭太郎の長姉である。
解剖現場を見ているともはや『執刀医』という分類で見てしまうため、彼女が何者なのかという認識を失念していた。
「そうか、恭の姉貴だったな」
「話には聞いていたのだけど。ご挨拶が遅くなってしまったわね」
「べつにいい。好きでやってただけだ」
「とっても生意気でしょう、あの子」
「ああ──というか」
沢井は一瞬閉口した。
それから、探るように神来を見る。
「アレ、あの耳は、生まれつきなのか」
「……少なくとも物心ついたときには『音がウルサイ』って言っていたから、そうだったのでしょうね。聾者《ろうしゃ》であれば生まれてすぐに分かるものだけど、聴覚が良すぎるなんて、自己申告でもなければ気づけなかったから」
「人心の声については?」
「さあ、たぶん本人すら覚えていないとおもう。初めてそうなんじゃないかって家族が気づいてからも、本人が自覚していなかったんだから。とはいえうちの家族はさいわいに楽観主義者が多いの。だから、それについてもどうとでもなるって結論づいて、いまでは普通のことになってるわ」
といって神来はツンと顎をあげた。
すこしばかり高飛車なところ、すこし常人とずれた感性、系統はちがうものの洗練された顔立ち──さすがは姉弟というべきか、と沢井は内心で納得した。
神来はにこりともせず、
「今後とも愚弟をどうぞよろしく」
と言った。
「……できる範囲で構ってやらァ」
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