金色プライド

乃南羽緒

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第四章 春季都大会

97話 だいすき!

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 空港の独特な匂いが好きだ。
 初めて飛行機に乗ったのは物心もつかぬ幼いころ。親や橋倉に連れられて、西欧諸国へよく旅行したものだった。身内のトラブルで飛び立つ際は、たいていプライベートジェット機での移動だったゆえ、空港から飛行機に乗るときはかならずたのしいことが待っている──と幼心に先入観を植え付けられた。
 それを三十路までひきずって生きてきた大神。ゆえにいまも空港が好きだった。
(だからあの日も、すこし気が大きくなったのかもしれねえ)
 大神は珈琲をひと口飲む。
 十年前の別れを思い出している。慎重に慎重を期し、彼女の想いを確信するまで自身の気持ちを抑えてきたのに、空港にて伊織の泣きそうな顔を見たらもうダメだった。三年間の日本生活で学んだ『恥じらい』なども忘れて、キスをした。
 それから音信不通になるなんて、いったいだれが予想しただろう。正直すこしトラウマになりかけた。
(でも──)
 もはやそれも、いまはむかし。
 大神の首からさがったリングネックレスに視線を落とす。
 お互いテニスをする身ゆえ、指輪はテニスをする際に傷つきやすくなるから──という大神の配慮だった。
 ようやくつかまえた。
 数ヶ月離れるくらいなんでもない。なにせ十年待ったのだから。
 大神は珈琲を飲み干した。

『十七時三十分発、アメリカロサンゼルス行便をご利用のお客様へご案内申し上げます』

 アナウンスが流れる。
 現在時刻は十七時十分。すでに荷物は預けてある。ここから保安検査場での荷物検査もつつがなく終わるはず。あとすこし、珈琲を楽しんでもいいだろう。カップに目を落とす。
「…………」
 すでに珈琲は飲みきっている。
 なぜ、橋倉に早めの送迎を頼んだのに、さっさと保安検査場を抜けて中にあるプライベートラウンジへ行かず、こんなところで味の落ちるインスタント珈琲を嗜んでいるのか。大神はおのれに問いかける。
 あと一分したら立てばいい。
 いや、二分か。
 胸のうちがじりじりと灼けつく。いったい自分がなにを待っているのかもわからない。心ははやく荷物検査を済ませてしまいたいのに、身体はここから動くことを嫌がっている。心とからだがバラバラになったようだ。
「…………」
 奥歯を噛みしめ、立ち上がる。
 周囲の視線が刺さる。こんなことはいつものことだが、今日ばかりは少々人前に居すぎたようだ。視界の端で、こちらへ寄ってくる人影をとらえた大神はファンに囲まれる前にと保安検査場へからだを向ける。
「!」
 そのときである。
 大神の携帯に着信が入った。倉持からだった。足を止めて大儀そうに着信に出る。
 俺だ、と言う間もなく、倉持は焦ったような声色で『よかった出やがった』とさけんだ。
『おまえいまどこ?』
「羽田」
『んなこた分かってんだよッ。もう保安検査場通ったのか?』
「てめえの着信で邪魔されなきゃ、いまごろ通ってるだろうな」
『マジかーッ。よかった!』
「なにか用か。もういい加減時間が、…………」
 瞬間。
 じぶんを呼ぶ声が聞こえた、気がした。振り返る。しかし視界にはなにもない。よもや幻聴か──とふたたび背を向けた瞬間、ドンッという衝撃がからだに走った。
 背後からまわされた細腕。背中につたわるこのぬくもりは、知っている。
「…………伊織?」
 つぶやいた。
 その声は電話口の倉持にも届いていたようで、
『間に合ったか!』
 と弾んだ声をさいごに電話は切れた。
 振り返る。
 そこには、息を切らして抱きついてくる伊織が、たしかに居た。
「伊織おまえ」
「ハァ、ハ、ぜぇ……ち、ちょっと待った。……息、息が……」
「…………」
 呼吸を整えてから、伊織はいきおいよく顔を上げた。その表情はおどろくほど笑顔である。
「ッ間に合ったー!」
「なんでここに」
「エリーが連れてきてくれた!」
 なんだと、と大神が顔を上げる。
 伊織からすこし遅れて、エレノアを初め才徳OBの面々が息を切らして走ってきた。その最後尾には携帯を握りしめた倉持と、先ほど帰ったはずの橋倉のすがたもある。
「プライベートラウンジとか言うてたからさ、もう中入ってもたかなあ思ててんけど、駐車場ついたら橋倉さん待っててくれはってんやんか。ほんで大神ならきっとここにいてるやろって教えてくれたり、倉持クンが時間稼ぎしたり、うちはもう猛ダッシュやで。はぁーーー」
 ひとしきり喋ってから、伊織はふたたび深呼吸をひとつ。さらに大神の腕をつかみ腕時計を覗くと、ヤバッと眉をつりあげた。
「んなこたどうでもええねん。大神、見送りいらへんとか寂しいこと言わんとき」
「…………」
「こんどは、うちから誓う」
「あ?」
 と。
 眉をひそめた大神のくちびるに、伊織は口づけを落とした。
 目を見開く大神。
 伊織は照れの混じったドヤ顔で見つめ返す。それから、

「大神、だいすき!」

 とろけるような満面の笑みを浮かべた。
 大神の顔がいっしゅん歪む。やがて、
「…………フ、フハ」
 ハーッハッハッハ、と高らかに笑いだした。
 実はファンのあいだで有名な『大神の高笑い』である。彼はひとしきり肩をふるわせてわらうと、やさしい眼差しで伊織を見下ろす。
 伊織は言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 大神も返した。
 それから間もなく、再度のアナウンスが流れたことでふたりは二人だけの時間から一気に現実へと引き戻された。気付けば周囲には人だかりができている。
 無理もあるまい。
 ただでさえ先ほどから静かな注目を浴びていた大神のもとに、女がやってきたかとおもえば、突然のロマンスシーンを見せつけられたのだから。
 このなかに週刊誌記者がいれば、一大ニュースとなることだろう。現状に気付いた伊織は、顔色を赤くしたり青くしたりといそがしい。
「アカン。まったく空気読んでへんやった……恥ず」
「あーン? いいじゃねえかそんなこと」
「ほらはよ中行き! 乗り遅れるで」
「引き止めたくせに」
「それはそれ、これはこれ!」
「ククッ、わかったよ」
「気ィつけてな」
「ああ。──伊織」
「ん?」
「桜爛コーチ、よくやったな。おめでとう」
「…………」
「そして、ありがとう」
 大神はうれしそうにわらって、ひと言。
 それからようやっと、保安検査場の中へと歩いていった。一般客は目前で繰り広げられたドラマに唖然として、みな一様に固まっていたものの、とある客のひとりがアッと声を上げた。
 となりの連れに「ニュース。納得」と携帯画面を見せる。
 その場の客たちがつられて一斉に携帯を覗き込むなか、おなじく姫川がニュースアプリをひらき、その意味を知った。
「おーおー。有名人らしいことしやがって!」
「なんだなんだ? おっ」
「おほォ。大神もこういう立場の人間になったわけやなあ。感慨深いやないか」
 と、倉持や杉山もにっこりわらう。
 伊織とエレノアがなんのこっちゃと顔を見合わせるのを横目に、蜂谷が携帯画面を読み上げた。

『わたくし大神謙吾より二点ご報告させていただきます。ひとつは、五月二十日よりはじまる全仏オープンより復帰すること。ふたつには、かねてよりお付き合いしておりました一般女性と五月十一日に入籍したこと。伴侶に支えてもらいながら再出発に向けて万全の準備をととのえました。どうぞ試合は熱く、プライベートは静かにお見守りいただけますことをお願い申し上げます』──。

 ホッホッホ、と橋倉がわらった。
「謙吾坊ちゃまはこのような声明は必要ない、とおっしゃっていたのですがねえ。いまや世界中を虜にする大神謙吾が、だまって結婚するというのもなかなか味気ないではありますまいか」
「は、橋倉さんが勝手に声明を出したってこと?」姫川が目を丸くする。
「ええ。世の女性たちは大神ロスで阿鼻叫喚なことでしょうな。ホッホッホ!」
「女性ファン減るんじゃねーの?」倉持はうすら笑みを浮かべた。
「それでもよいのです。謙吾さまには、伊織さまという女性ファンがいちばんそばでついていらっしゃるんですから」
 ね、と。
 橋倉に同意を求められ、伊織は「うるさいうるさい」と声をあげる。
「それよりはよ戻らな。もう桜爛のみんな、予選突破祝賀会はじめてるって!」
「ちょっとくらい余韻に浸ってりゃあいいのに」
「まあええやん。今日は伊織のおごりらしいから、オレらもありつこうや」
「アホ。おごりは子どもたちだけで大人は金出すんや。そのためにアンタら誘ったんやからな。エリーはここまでの運転手役してくれたし、才徳顧問やし。金とらへんから心配せんでな」
「Wao!! イオリやさしーネ!」
「おい、だったら俺も綾南の──」
「倉持クンはそれ以前に才徳OBやねんから、みんなとおなじ扱いやの。橋倉さん、みんなのこと送ってもろてええですか!」
「ハイ。よろこんで」
 橋倉は上機嫌で駐車場へと足をすすめた。
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