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第二章 遺した意思
34話 線香花火
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玄関を開けると同時に鼻をかすめたラベンダーの香り。
トレーニングのあとに大神が入浴する際、湯船にいれる入浴剤の匂いである。ラケットバッグを背負い、右手にコンビニ袋をさげた伊織が廊下をすすむと、風呂あがりの大神と鉢合わせた。
ドキン。伊織の胸が跳ねる。
よかった──上下とも服を着ている。
緊張のあまり上唇を舐める伊織を一瞥し、すぐに視線をそらした彼が、短く「おかえり」と言った。
「おん、ただいま。……」
「井龍は」
「帰った。ほんで大神からの借りものはぜんぶ、ラケットバッグ詰めてきた」
「そうか」
タオルで髪を拭きながら、大神はさっさとリビングダイニングへ行く。まだ怒ってるのか──と伊織の胸がちりりと痛んだとき、彼はソファに腰かけ、言った。
「どうだった」
「え?」
「試合」
「あ、ああ、うちが勝った。三ゲーム先取やったから先行サーブとれた時点で有利やってん。六ゲームのワンセットやっとったら分からんかったな」
「フ、だろうな。むかしとはいえ、俺とタイブレークで200以上競った男だ」
「うん。強かった。つよかったなぁ……」
つぶやいた。
うまくことばが出てこず、伊織はラケットバッグを背負ったまま、しばらくリビングダイニングで棒立ちする。荷物おろせよ、と言われてようやく自分がバッグを背負っていることに気づいたくらいだった。
バッグから、ラケットやらシューズやら、大神から井龍に貸していたものを出す伊織が、乾いた声でアッと声をあげる。
「せや。井龍クンが言うててん、えっと──今回の怪我のこともあるし、スポンサー契約とかの件で近いうち話がしたいんやて」
「あーん? そんなもん、いつも橋倉に一任してる。俺は来るもの拒まず去るもの追わず、だからな。昨年のオフに帰ってきたときは、製菓CMに出されたぜ」
「ちょっとは仕事選んだらええのに。キティちゃんか自分」
「あれは──橋倉が、あのとき共演した女優のファンだったんだと。ったく、俺をダシにしてちゃっかりサインまでもらってやがった」
「私欲の采配やな……」
「べつに、橋倉が満足ならそれでいい」
「…………」
彼は当然のように言いはなった。
橋倉とは、彼が幼いころから大神家に仕える老執事であり、大神謙吾をもっともよく理解する人間のひとりだとむかし聞いたことがある。大神から橋倉に対する信頼はとてつもなく厚い。
また胸がちりりと痛む。
バッグをあさる伊織の手が止まった。部屋には一気に静謐な空気がただよい、うかつなことを言う気にもなれない。
ふだんはほとんどつけないテレビのリモコンに、大神の手が伸びる。おもわず伊織がぱっとその手に触れた。
すこしおどろいた顔で大神が伊織を見る。
「あ。ぁーの、さっきコンビニ寄ってん」
「あァ」
「花火、買うてきた」
「は?」
「店の隅っこにな、ポツーン置いてあってん。もう十一月やってのに、夏の売れ残りがまだあったみたいでな。なんやかわいそうやなぁ思たら、買うてもた」
コンビニ袋から、手持ち花火が見える。
大神はいっしゅん呆れた顔をしたが、つぎの瞬間にはふっとやさしくほほえんだ。
「花火か──時季じゃねえな」
「そ、そうやんなぁ。おまけにこんな都心で花火なんか出来るとこないか。やはははは。ごめんごめん、うちったらまだ」
田舎気分で、とつぶやく声がふるえた。
すると大神はソファから立ち上がり、カーペット上へ無造作に置かれた花火を拾いあげた。そのままコートハンガーにかけられたジャケットを羽織る。
どこ行くん、と聞く前に彼が口をひらいた。
「水と殻入れ用意しろ」
「え?」
「近くにでけえ公園がある。すこし奥に入ったら出来るだろ」
「で、でも──通報されへんかなぁ」
「バカ騒ぎしなきゃいいんだよ。打ち上げとかロケットとかやるわけじゃねーんだから。……だいぶ冷えてきたから、羽織り持ってけよ」
といって、大神はさっさと玄関へ向かう。
ずいぶんやる気のようだ。伊織はあわててダウンジャケットと水、小さなアルミバケツを手にそのあとを追った。
────。
氷上公園に来た。
オフィス街を緑で彩る稀少な公園は、すこし奥に入ると通行人はまばらになる。ぽつねんと置かれたベンチを拠点に、バケツに水を入れ、ビニール袋をゴミ入れとしてセットすれば、手持ち花火の準備はバッチリだ。
「大神、火ィ持ってる?」
「ライターがある」
「タバコ吸わんのになんで持っとんねん」
「貰いものだ」
大神はポケットから銀製ライターを取り出した。
「おら、好きな花火えらべ。つけてやる」
「えへへ!」
と、伊織は無邪気に袋をあさる。
スタンダードな花火を取りだし、これにする、と意気揚々に振りあげた。
「下げろ。火ィつけるから」
「大神もえらびや」
「俺はいい。あとでテキトーなのを──」
「だめ、大神が好きなのえらんでほしいの!」
「あァ?」
顔をあげた大神の目に動揺がはしる。
なぜなら伊織の顔が、すこし泣きそうだったからだ。必死な顔で複数の手持ち花火を大神の前に広げている。
「だれかが満足すれば、とか、自分はなんでもええ、とかそんなんちゃうやんか。大神の『してやりたがり』で進むんやのうて、大神がえらんで満足してほしいのに」
「…………」
「ほんで、いっしょに火ィつけんねん。ほらはよえらびや!」
急かすように地面を叩く。
大神はちいさくわらって、そのうちのひとつを手にとった。べつにどれも似たようなものだから、それを選んだことに特別な理由はなかった。が、しいていうなら──自分の愛用するラケットと色合いが似ていたからだろうか。
よし、と満足そうに伊織がわらう。
オイルライターの火が揺れる。火は伊織の手持ち花火の点火先に近づく。やがて花火から、弾けるように火花がとんだ。
「うわっ。わははキレー! ほら大神もこっから火もらってええで!」
「ああ」
ふたりの手元で花火が舞う。
火薬の燃える匂い。爆ぜる音。華やかに夕闇を彩る色──。
伊織はたのしそうにふりまわす。
それを見る大神の頬もゆるむ。
それからおよそ二十分、互いにたいした会話こそなかったが、ふたり分の花火を目で、耳で、鼻で、じっくりと堪能した。
「なぜ人は最後に線香花火を残すのか──」
袋に残された線香花火。
それを手に、神妙な顔で伊織は言った。
そんな顔して言うことか、と大神は内心でわらいながら「そうだな」と付き合ってやる。
「人の一生と重ねてるからじゃねーのか」
「どういう意味?」
「何事も終焉をむかえるときは、せつなさを含むものだ」
「ふむ。……」
「火、つけるぞ」
「うん」
ふしぎな花火だ、とおもう。
はげしい音もなく、派手に吹き出すでもなく、その一色で闇を照らして、最後は玉をふるわせて地面に落ちるか、息を引き取るようにその火を萎ませ消えてゆく。
玉が落ちなければ願い事が叶う、というジンクスは、いったいだれが初めに言い出したのだろうか。
大神は日本に来るまで、線香花火の存在を知らなかった。才徳テニス部の夏合宿で初めて見た。あのころは夏真っ盛りだったゆえ、夏の終わりを感じられたものだが。
なんというか、と大神がつぶやく。
「線香花火ってのは、秋も深まったころにやるといっそう悲壮感が出るな」
「ホンマや。めっちゃさびしいわ」
「遊びの旬ってのも大事だな……」
「でもたのしいよ」
伊織はいった。
「秋の花火も、これはこれで趣あるやん。ワビサビってやつ」
「そういうもんか」
「うん」
顔をほころばせる彼女を、線香花火越しに見る。その笑顔はむかしとちっとも変わらない。
だから大神は、こちらもまた無邪気にわらっていった。
「フ、ほんとに──十年前とまったく変わってねえのなおまえ。一度は婚約までいったくらいには、おとなになったはずなのによ」
と。
すると伊織は、閉口した。
したけれどまたすぐに口をひらき、緊張したように吐く息をふるわせる。
「うん。変わってへんかも」
「自分でいうか」
「だって十年前もいまも結局アンタが好きやもん──」
「…………」
「この十年間かてたぶん、わすれたことなかったんや。ほかのだれを好きになっても結局」
大神だけはずっと特別やったんや、と。
しゃがむ膝に顔をうずめた伊織に大神は手を伸ばす。
それから、ベンチの陰でキスをした。
とっくに火の消えた線香花火の持ち手を提げながら、ふたりはしばらく互いのくちびるを慈しむように食みあった。溶けるほどくちびるを合わせてから、額をくっつけたまま、熱のこもった瞳で見つめ合う。
これはなんのキス、と伊織が問うた。
もう聞くな、と大神は照れたようにわらった。
────。
朝日が目に沁みる。
窓の位置がちがうことに気づいた伊織が、ごろりと寝返りを打つ。瞬間、心臓が止まるほどおどろいた。
視界いっぱいにひろがる猫っ毛。パジャマ越しの胸元からじんわり伝わる人肌の熱。からだに残る心地よい重だるさ。
(あ。……)
おもいだした。
どころか、忘れていない。いや忘れられるわけもない。なにせ昨日は、家へ帰ってからすぐ、夕食を摂ることもわすれて深夜まで事に及んでいたのだから。昨夜の、おもい返すのも憚られるほど乱れた自身の恥態をおもって、伊織は顔を撫で下ろした。
冗談抜きに。
(ころされるかとおもった)
と、危機をおぼえるほどすさまじかった彼の熱量。全身で受け止めたからだはいま、起き上がる気力もない。
途中から記憶があいまいだが、パジャマの着用ふくめてからだがきれいにととのえられたところを見るかぎり、気を失ったあと大神が甲斐甲斐しく世話してくれたらしい。
時刻は午前八時。
二時ごろまで励んだゆえか、家主はまだねむっている。からだを引きずって伊織が身を起こす。と、腕をとられてふたたびからだはベッドに沈んだ。
大神が、腰に腕を絡めてくる。
「…………」
伊織の胸元に顔をうずめたまま、手を躊躇なくパジャマの下に侵入させてきた。すかさず彼の頭をしばくと、大神はもぞりと身じろぎ、ねむそうに片目をあけた。
どうやら無意識の手だったらしい。
「……あ?」
「────おはよ」
と、返す伊織の声はか細くなった。
当たり前だ。いったいどんな顔をしてあいさつすればいいというのだ。あれほどの恥態、元婚約者にだって見せたことはないのに。
頬を赤らめる伊織を見て、大神は、
「あァ……」
という色っぽいため息とともに、首を伸ばして伊織の首すじにキスをした。ちゅ、ちゅ、とついばむような口づけが、徐々に下へむかって、鎖骨へ滑る。
「ちょっと!」
「ん」
「やらへんよ」
「やるよ」
迷いなきまなこである。
アホ、と伊織はふたたび大神の頭をしばく。しかしいやらしく伊織のからだをさわる彼の手は止まらない。
「こ、この絶倫野郎──!」
「なんとでもいえ」
と大神が、伊織のパジャマの裾に手をかけたときだった。枕元に置かれた伊織の携帯がアラームを告げる。そう、今日は日曜日。
桜爛テニス部午前練の日──。
「やばい!」
伊織がいきおいよく身を起こし、布団を蹴ってベッドを飛び出した。ともに蹴られた大神は大の字にベッド上へころがる。
「…………」
なぜいつもこうなる。
と、言いたげなやるせない表情でハァーッと、深く、深くため息をついた。
トレーニングのあとに大神が入浴する際、湯船にいれる入浴剤の匂いである。ラケットバッグを背負い、右手にコンビニ袋をさげた伊織が廊下をすすむと、風呂あがりの大神と鉢合わせた。
ドキン。伊織の胸が跳ねる。
よかった──上下とも服を着ている。
緊張のあまり上唇を舐める伊織を一瞥し、すぐに視線をそらした彼が、短く「おかえり」と言った。
「おん、ただいま。……」
「井龍は」
「帰った。ほんで大神からの借りものはぜんぶ、ラケットバッグ詰めてきた」
「そうか」
タオルで髪を拭きながら、大神はさっさとリビングダイニングへ行く。まだ怒ってるのか──と伊織の胸がちりりと痛んだとき、彼はソファに腰かけ、言った。
「どうだった」
「え?」
「試合」
「あ、ああ、うちが勝った。三ゲーム先取やったから先行サーブとれた時点で有利やってん。六ゲームのワンセットやっとったら分からんかったな」
「フ、だろうな。むかしとはいえ、俺とタイブレークで200以上競った男だ」
「うん。強かった。つよかったなぁ……」
つぶやいた。
うまくことばが出てこず、伊織はラケットバッグを背負ったまま、しばらくリビングダイニングで棒立ちする。荷物おろせよ、と言われてようやく自分がバッグを背負っていることに気づいたくらいだった。
バッグから、ラケットやらシューズやら、大神から井龍に貸していたものを出す伊織が、乾いた声でアッと声をあげる。
「せや。井龍クンが言うててん、えっと──今回の怪我のこともあるし、スポンサー契約とかの件で近いうち話がしたいんやて」
「あーん? そんなもん、いつも橋倉に一任してる。俺は来るもの拒まず去るもの追わず、だからな。昨年のオフに帰ってきたときは、製菓CMに出されたぜ」
「ちょっとは仕事選んだらええのに。キティちゃんか自分」
「あれは──橋倉が、あのとき共演した女優のファンだったんだと。ったく、俺をダシにしてちゃっかりサインまでもらってやがった」
「私欲の采配やな……」
「べつに、橋倉が満足ならそれでいい」
「…………」
彼は当然のように言いはなった。
橋倉とは、彼が幼いころから大神家に仕える老執事であり、大神謙吾をもっともよく理解する人間のひとりだとむかし聞いたことがある。大神から橋倉に対する信頼はとてつもなく厚い。
また胸がちりりと痛む。
バッグをあさる伊織の手が止まった。部屋には一気に静謐な空気がただよい、うかつなことを言う気にもなれない。
ふだんはほとんどつけないテレビのリモコンに、大神の手が伸びる。おもわず伊織がぱっとその手に触れた。
すこしおどろいた顔で大神が伊織を見る。
「あ。ぁーの、さっきコンビニ寄ってん」
「あァ」
「花火、買うてきた」
「は?」
「店の隅っこにな、ポツーン置いてあってん。もう十一月やってのに、夏の売れ残りがまだあったみたいでな。なんやかわいそうやなぁ思たら、買うてもた」
コンビニ袋から、手持ち花火が見える。
大神はいっしゅん呆れた顔をしたが、つぎの瞬間にはふっとやさしくほほえんだ。
「花火か──時季じゃねえな」
「そ、そうやんなぁ。おまけにこんな都心で花火なんか出来るとこないか。やはははは。ごめんごめん、うちったらまだ」
田舎気分で、とつぶやく声がふるえた。
すると大神はソファから立ち上がり、カーペット上へ無造作に置かれた花火を拾いあげた。そのままコートハンガーにかけられたジャケットを羽織る。
どこ行くん、と聞く前に彼が口をひらいた。
「水と殻入れ用意しろ」
「え?」
「近くにでけえ公園がある。すこし奥に入ったら出来るだろ」
「で、でも──通報されへんかなぁ」
「バカ騒ぎしなきゃいいんだよ。打ち上げとかロケットとかやるわけじゃねーんだから。……だいぶ冷えてきたから、羽織り持ってけよ」
といって、大神はさっさと玄関へ向かう。
ずいぶんやる気のようだ。伊織はあわててダウンジャケットと水、小さなアルミバケツを手にそのあとを追った。
────。
氷上公園に来た。
オフィス街を緑で彩る稀少な公園は、すこし奥に入ると通行人はまばらになる。ぽつねんと置かれたベンチを拠点に、バケツに水を入れ、ビニール袋をゴミ入れとしてセットすれば、手持ち花火の準備はバッチリだ。
「大神、火ィ持ってる?」
「ライターがある」
「タバコ吸わんのになんで持っとんねん」
「貰いものだ」
大神はポケットから銀製ライターを取り出した。
「おら、好きな花火えらべ。つけてやる」
「えへへ!」
と、伊織は無邪気に袋をあさる。
スタンダードな花火を取りだし、これにする、と意気揚々に振りあげた。
「下げろ。火ィつけるから」
「大神もえらびや」
「俺はいい。あとでテキトーなのを──」
「だめ、大神が好きなのえらんでほしいの!」
「あァ?」
顔をあげた大神の目に動揺がはしる。
なぜなら伊織の顔が、すこし泣きそうだったからだ。必死な顔で複数の手持ち花火を大神の前に広げている。
「だれかが満足すれば、とか、自分はなんでもええ、とかそんなんちゃうやんか。大神の『してやりたがり』で進むんやのうて、大神がえらんで満足してほしいのに」
「…………」
「ほんで、いっしょに火ィつけんねん。ほらはよえらびや!」
急かすように地面を叩く。
大神はちいさくわらって、そのうちのひとつを手にとった。べつにどれも似たようなものだから、それを選んだことに特別な理由はなかった。が、しいていうなら──自分の愛用するラケットと色合いが似ていたからだろうか。
よし、と満足そうに伊織がわらう。
オイルライターの火が揺れる。火は伊織の手持ち花火の点火先に近づく。やがて花火から、弾けるように火花がとんだ。
「うわっ。わははキレー! ほら大神もこっから火もらってええで!」
「ああ」
ふたりの手元で花火が舞う。
火薬の燃える匂い。爆ぜる音。華やかに夕闇を彩る色──。
伊織はたのしそうにふりまわす。
それを見る大神の頬もゆるむ。
それからおよそ二十分、互いにたいした会話こそなかったが、ふたり分の花火を目で、耳で、鼻で、じっくりと堪能した。
「なぜ人は最後に線香花火を残すのか──」
袋に残された線香花火。
それを手に、神妙な顔で伊織は言った。
そんな顔して言うことか、と大神は内心でわらいながら「そうだな」と付き合ってやる。
「人の一生と重ねてるからじゃねーのか」
「どういう意味?」
「何事も終焉をむかえるときは、せつなさを含むものだ」
「ふむ。……」
「火、つけるぞ」
「うん」
ふしぎな花火だ、とおもう。
はげしい音もなく、派手に吹き出すでもなく、その一色で闇を照らして、最後は玉をふるわせて地面に落ちるか、息を引き取るようにその火を萎ませ消えてゆく。
玉が落ちなければ願い事が叶う、というジンクスは、いったいだれが初めに言い出したのだろうか。
大神は日本に来るまで、線香花火の存在を知らなかった。才徳テニス部の夏合宿で初めて見た。あのころは夏真っ盛りだったゆえ、夏の終わりを感じられたものだが。
なんというか、と大神がつぶやく。
「線香花火ってのは、秋も深まったころにやるといっそう悲壮感が出るな」
「ホンマや。めっちゃさびしいわ」
「遊びの旬ってのも大事だな……」
「でもたのしいよ」
伊織はいった。
「秋の花火も、これはこれで趣あるやん。ワビサビってやつ」
「そういうもんか」
「うん」
顔をほころばせる彼女を、線香花火越しに見る。その笑顔はむかしとちっとも変わらない。
だから大神は、こちらもまた無邪気にわらっていった。
「フ、ほんとに──十年前とまったく変わってねえのなおまえ。一度は婚約までいったくらいには、おとなになったはずなのによ」
と。
すると伊織は、閉口した。
したけれどまたすぐに口をひらき、緊張したように吐く息をふるわせる。
「うん。変わってへんかも」
「自分でいうか」
「だって十年前もいまも結局アンタが好きやもん──」
「…………」
「この十年間かてたぶん、わすれたことなかったんや。ほかのだれを好きになっても結局」
大神だけはずっと特別やったんや、と。
しゃがむ膝に顔をうずめた伊織に大神は手を伸ばす。
それから、ベンチの陰でキスをした。
とっくに火の消えた線香花火の持ち手を提げながら、ふたりはしばらく互いのくちびるを慈しむように食みあった。溶けるほどくちびるを合わせてから、額をくっつけたまま、熱のこもった瞳で見つめ合う。
これはなんのキス、と伊織が問うた。
もう聞くな、と大神は照れたようにわらった。
────。
朝日が目に沁みる。
窓の位置がちがうことに気づいた伊織が、ごろりと寝返りを打つ。瞬間、心臓が止まるほどおどろいた。
視界いっぱいにひろがる猫っ毛。パジャマ越しの胸元からじんわり伝わる人肌の熱。からだに残る心地よい重だるさ。
(あ。……)
おもいだした。
どころか、忘れていない。いや忘れられるわけもない。なにせ昨日は、家へ帰ってからすぐ、夕食を摂ることもわすれて深夜まで事に及んでいたのだから。昨夜の、おもい返すのも憚られるほど乱れた自身の恥態をおもって、伊織は顔を撫で下ろした。
冗談抜きに。
(ころされるかとおもった)
と、危機をおぼえるほどすさまじかった彼の熱量。全身で受け止めたからだはいま、起き上がる気力もない。
途中から記憶があいまいだが、パジャマの着用ふくめてからだがきれいにととのえられたところを見るかぎり、気を失ったあと大神が甲斐甲斐しく世話してくれたらしい。
時刻は午前八時。
二時ごろまで励んだゆえか、家主はまだねむっている。からだを引きずって伊織が身を起こす。と、腕をとられてふたたびからだはベッドに沈んだ。
大神が、腰に腕を絡めてくる。
「…………」
伊織の胸元に顔をうずめたまま、手を躊躇なくパジャマの下に侵入させてきた。すかさず彼の頭をしばくと、大神はもぞりと身じろぎ、ねむそうに片目をあけた。
どうやら無意識の手だったらしい。
「……あ?」
「────おはよ」
と、返す伊織の声はか細くなった。
当たり前だ。いったいどんな顔をしてあいさつすればいいというのだ。あれほどの恥態、元婚約者にだって見せたことはないのに。
頬を赤らめる伊織を見て、大神は、
「あァ……」
という色っぽいため息とともに、首を伸ばして伊織の首すじにキスをした。ちゅ、ちゅ、とついばむような口づけが、徐々に下へむかって、鎖骨へ滑る。
「ちょっと!」
「ん」
「やらへんよ」
「やるよ」
迷いなきまなこである。
アホ、と伊織はふたたび大神の頭をしばく。しかしいやらしく伊織のからだをさわる彼の手は止まらない。
「こ、この絶倫野郎──!」
「なんとでもいえ」
と大神が、伊織のパジャマの裾に手をかけたときだった。枕元に置かれた伊織の携帯がアラームを告げる。そう、今日は日曜日。
桜爛テニス部午前練の日──。
「やばい!」
伊織がいきおいよく身を起こし、布団を蹴ってベッドを飛び出した。ともに蹴られた大神は大の字にベッド上へころがる。
「…………」
なぜいつもこうなる。
と、言いたげなやるせない表情でハァーッと、深く、深くため息をついた。
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